うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0410. 風立ちぬ (2013)

2013年07月26日 | 2010s

風立ちぬ / 宮崎駿
126 min Japan

原作・脚本・監督:宮崎駿、色彩設計:保田道世、作画監督:高坂希太郎、美術監督:武重洋二、動画検査:館野仁美、アフレコ演出:木村絵里子、編集:瀬山武司、音楽:久石譲、声:庵野秀明・瀧本美織


 

初の「リアリズム」を断行して、一人の天才エンジニアリング・デザイナーの半生をゆっくりした呼吸で語っていく。異性愛もふつうに描写されていた。

スタイルは晩年というしかない。このさき生きていく時間より、これまで生きてきた時間のほうがはるかに長い作り手だけが、こうした慎重な息づかいをするようになる。

ファンタジーとしての要素はほぼ主人公の内的な幻想におさめられている。あるのは明治生まれの少年が取り憑かれた夢、つまりひたすら・ひたすら・飛行機である。最終場面はあやうく演出者の理性が蒸発しかかっていたけれど――たぶん本人が感動の波に流されてしまったのだ――それでも、自己充足的なマニエリスムに偏向した『崖の上のポニョ』の誤謬はこの作品にはない。

作画はどれもこれもおそろしく難しそうで、しかも膨大な作業量にみえる。すくなくともアニメーションの技術や発想にかんするかぎり、もはや伝えのこしたことは何もないのではとさえ思えてきて、「遺言」と口にした監督の気持ちがすこしだけわかる気がした。この作家はアニメーション映像史上のバッハなのだと思う。史上のあらゆる要素を学びつくしてみずからのうちに集成し、さらにさきへと大きく切り拓いた。冒頭ほどなくあらわれる関東大震災の描写は圧巻で、これだけでも見る価値がある。

ヨーロッパなどの文献では、第一次世界大戦後から第二次世界大戦勃発までの時代を「戦間期」という概念でとらえていることが多い――それは第一次大戦という大規模な近代戦がもたらした未曾有の荒廃から、復興をへて、ふたたび戦争の予感が濃くなっていき、ついにその不吉な気配が絶望的に実現してしまうまでの不穏な20年をさす。いっぽう日本に第一次大戦による破壊はなかったとだけ、これまでわたしは思ってきた。けれどこの映画で、いきなり目がさめた。関東大震災(1923)の破壊と衝撃は、大戦渦にもひとしかったのではないか。そこから復興し、それなのに戦争へとつき進んでいったこの国の、まさしく「戦間期」をおしえる作品だった。その示唆に御礼をもうしあげたい。

それはフランスでいえば、ちょうどサンテグジュペリやシャネルやジロドゥが仕事をしていた時代にあたる。とりわけサンテグジュペリ(1900-)と堀越二郎(1903-)は、飛行人としても同世代なのだと気づいた。乗り手と設計者というちがいはあるものの、どちらも戦間期に活動をきわめ、第二次大戦でずたずたになっていった(シャネルやジロドゥもそうですが)。

宮崎さんはかつて『紅の豚』でサンテグジュペリをしのび、こんどは堀越二郎にとりくんだことになる。そこに堀辰雄をはめこんだのは、抜群におもしろい直観であると同時に、なんともロマンティックな象嵌細工にみえる。理屈でいえば、たった一行のヴェルレーヌを引くために白樺派の青年文学を経由する必要はかならずしもない。宮崎さんは、どうやらロリコンは卒業してもロマンティストであることは卒業しない予定らしい。

あらためて――というか、公言されているかはしらないのだけれど、『紅の豚』の主人公ポルコにはサンテグジュペリの姿が濃厚に透けていたことを思い出す。あるいは七割サンテグジュペリ、三割くらい宮崎さん。豚とサンテグジュペリをかさねる傍証をあげるなら、戦間期の商業飛行機乗り、たいこ腹の中年、上をむいた鼻、やせがまんに近いダンディズム、航空機のメカニズムに対する徹底した追究心、合理的な美への強い憧憬。かつ親友を空で喪くした経験と、なにより根本的な時代錯誤性がつきまとう。あえていうなら、滅びていくがわの人間だった点である。

では堀越二郎は? これはもう美意識と錯誤の高度なアンビヴァレンス、そのきわめつけにみえる。この作品にえがかれていたようにみずからの夢に憑かれ、その思いが呼び込んでくるまがまがしい滅びまで飲みくだすしかなかったのだとすれば、宮崎駿がとらえたその核心において、堀越はサンテグジュペリと深く激しくかさなりあう――そして堀辰雄とのちいさな共通項もおなじ座標にもとめることができるだろう。死んでいく相手を愛すことで生きたのが堀辰雄だからだ。アンビヴァレンス。

極言するなら宮崎さんは豚であり、豚はサンテグジュペリであり、サンテグジュペリは堀越二郎でもある。そしてこの全員におそろしい共通項がある。それは「憑かれびと」であることだ。

かれらが全力を尽くせば尽くすほど、おぞましいものまでも引き寄せてしまうのはなぜなのか――すばらしいものはおぞましいものと切り離すことができないからなのか――憑かれた者のその呪いを宮崎さんは身にしみて知っているに違いない。過去数十年、自己の夢を追うなかでこの映像作家がどれほど周囲に犠牲者を出してきたかと想像するべきではないけれど、憑かれびとたちの手は洗っても白くはならない。しかも、かれらは生きやめることができない。それはファウストの呪いにひとしいからだ。あえて「生きて」などと甘い救済命令を女性性のがわから唱えさせるまでもなかった。

「憑かれびと」に近づいてはいけない。それが平穏な人生の鉄則である。呪いを引き受けるのは本人だけでいい。そう、これはファウストの物語なのである。



メモリータグ■静かに懇願すると、フランス語の発音だけはなんとかしていただきたかった。あれでは何語かさえわからない。全編をささえるモチーフを再起不能なまでにずっこけさせるよりは、いさぎよく原文を削るほうがまだよかったろう。声優演出家の責任は重い。Le vent se lève, il faut tenter de vivreのところです(The wind rises, you must try to live. 風が立つ、生きようとしなければならない)。






0409. コンボイ (1978)

2013年07月20日 | 1970s

コンボイ / サム・ペキンパー
110 min USA | UK

Convoy (1978)
Directed by Sam Peckinpah. Screen story and screenplay Bill L. Norton. Cinematography by Harry Stradling Jr. Performed by Kris Kristofferson (Martin 'Rubber Duck' Penwald). Ali MacGraw (Melissa). Ernest Borgnine (Sheriff Lyle 'Cottonmouth' Wallace).

大型トラックがつらなる光景で有名だけれど、田舎の安食堂を粉砕する大げんかの場面は、スローモーションをおりまぜた編集でペキンパーのリズムと独創性がよく出ている。拷問された仲間を救出しに建物をトラックでぶち破る場面も爽快に撮れていた。『わらの犬』や『ワイルドバンチ』ほどの評価は得ていないかもしれないが、この作品の暴力は風通しがいい。

意外なことに興行上も、生涯最大の成功なのだという。社会の弱者が一点だけの強みで事態を切り抜けていくという展開に、藤沢周平の剣豪小説につうじるような娯楽性があったのだろう。

ペキンパー自身は1984年に59歳で亡くなるので、この時点で残された時間はあと5年ほど。本質的に60年代から70年代初期の映像作家だったと思う――あの、すなおな「行儀の悪さ」においても。



メモリータグ■エンディングクレジットのカット集には、本編に使われていないものが入っている。楽しい。





0408. ココ・アヴァン・シャネル (2009)

2013年07月12日 | 2000s

ココ・アヴァン・シャネル / アンヌ・フォンテーヌ
105 min France Belgium

Coco avant Chanel (2009)
Directed by Anne Fontaine. Written by Anne Fontaine and Camille Fontaine based on a book "L'Irreguliere ou mon itineraire Chanel" by Edmonde Charles-Roux. Cinematography by Christophe Beaucarne. Costume Design by Catherine Leterrier. Music by Alexandre Desplat. Performed by Audrey Tautou (Gabrielle 'Coco' Chanel), Benoît Poelvoorde (Étienne Balsan), Alessandro Nivola (Arthur 'Boy' Capel).



監督はアンヌ・フォンテーヌ。クリストフ・ボカルヌの映像もきれいで楽しめた。なによりオドレイ・トトゥが最高にぴったり。このひとでなかったらたぶん手に取らなかった。やや夢のような恋愛物語に傾きすぎるけれど、そういう方針なのだと思います。脚本はしっかりしていて品があり、時代とシャネルの美的感覚との間にあった巨大な乖離を視覚的によく表現していた。

しいていえば、その乖離がどう埋まっていったのかをもう少し知りたかった。彼女は19世紀を20世紀に変換した、ひとにぎりの天才の一人だからだ。その奇蹟のような経緯がえがかれず、結末で突然完成されたデザイナーになってしまうのは惜しい。でもまあ、題も「シャネル以前のココ」ですから。音楽も繊細で、映画としてきれいな仕上がりです。

恋人の事故現場の演出だけは二つのミスで、表現が甘くなっている。まず、最初に事故車をちらりと見せてしまったためにインパクトが薄れた。それは場面全体を決定づける映像なので、主人公の視線にそった正面からのショットまで伏せておいたほうがよかった。それから主人公は、すなおに嗚咽が予想される箇所ですなおに嗚咽してはいけない。愛や死の場面は普遍的なだけに描写がむずかしいですね。全体に編集はもうすこし詰める余地があったようにみえる。

追記:作曲を担当したのはアレクサンドル・デプラ。売れっ子なので耳に残っている作品も多いのだろうけれど、これはとくにこなれていた。場面の意味を読解する 力が優れている書き手だと思う。最近の作品に『真珠の耳飾りの少女』『ラスト、コーション』『ハリー・ポッターと死の秘宝』『英国王のスピーチ』など。



メモリータグ■冒頭まもなく、少女は孤児院の通路を入る。逆光の、追憶的な中庭の緑陰に目を奪われる。その遠さ、古びた石積みの階段。






0407. カラヴァッジオ (1986)

2013年07月05日 | 1980s

カラヴァッジオ / デレク・ジャーマン
93 min UK

Caravaggio (1986)
Written and directed by Derek Jarman. Story by Nicholas Ward Jackson. Cinematography by Gabriel Beristain. Costume Design by Sandy Powell. Performed by Nigel Terry (Caravaggio), Spencer Leigh (Jerusaleme), Sean Bean (Ranuccio), and Tilda Swinton (Lena).


デレク・ジャーマンの第二作。動画としての演出判断が弱いためか、絵画的な平面構成のセンスはあるのに、語りがもたない。『テンペスト』のときもそうだった。師匠筋にあたるケン・ラッセルには――少なくともうまくいった作品には――リズムとモーションの抜群のおもしろさがあるのに、そこは大きな違いにみえる。重要な登場人物をきちんと見分けさせるという基本もときにあやうい。冒頭は助手の視点なのに、そのあとの主体は画家に切り替わってしまい、観る者を混乱させる。

作中では脱リアリズムの方針がとられている。カラヴァッジオは17世紀の人間だったり20世紀初頭ごろの人間だったりする(らしい)――ただ、その設定でなければ語れないものがあったかどうか。

とはいえ制作上の困難はいろいろあったに違いない。たとえばカラヴァッジオの絵の模写が概して貧しい。これはつらい。映画『マーラー』を制作するにあたって、ひどい演奏しか手に入らないのに似ている。

撮影班はよくやっている。なにより、この作品でデビューしたティルダ・スウィントンが大収穫。思わず目がいく透明感と集中力で、ジャーマンの常連になっていく(この時点で20代なかば。スクリーン上では少女のようにみえる)。初期のサンディ・パウエルも華やかさを出していた。

全体に、ジャーマン自身の脚本がもう少し練りこまれていればよかったのかもしれない。主な筋はカラヴァッジオの成長と恋らしいが、その恋が創作者としての深まりとつながっていかない。画家であることがただの飾りになっている。歴史上のカラヴァッジオは現実に存在する無数の光をもとに、自分の光をつくり出した。彼はあの光をどう探し出したのだろう? それは画家としての決定的な核ではなかったかしら。惜しい。



メモリータグ■20世紀の場面では、カラヴァッジオの模写とは異なる絵が使われる。習作期のセザンヌと田舎にいたころのゴッホを足して、フランシス・ベーコンの甥が仕上げたようなスバラシイ絵だった。