エレファント・マン / デヴィッド・リンチ
124 min USA
The Elephant Man (1980)
Directed by David Lynch 1946 -. Written by Christopher De Vore, Eric Bergren and David Lynch based on books by Frederick Trevesk "The Elephant Man and Other Reminiscences" and Ashley Montagu "The Elephant Man: A Study in Human Dignity". Cinematography by Freddie Francis. Performed by Anthony Hopkins 1937 - (Frederick Treves), John Hurt (John Merrick), Freddie Jones (Bytes), Anne Bancroft (Mrs. Kendal), John Gielgud (Carr Gomm), Wendy Hiller (Mothershead), Phoebe Nicholls (Merrick's Mother), Hannah Gordon (Mrs. Treves).
複雑な主題提示だった。映像も演出も配役も脚本も最高の水準をめざした制作体制で、その目標は達成されている。凝ったセットを組みながら、それを惜しげもなくモノクロフィルムで撮影した方針が成功していて、全体が「おぞましい過去のひとこま」であると見せかける妖しい遠さが出ていた。映画初期の素朴な白黒と違って二十世紀末の機材で撮られたこともあって、驚くほど美しい鮮明な白黒映像になっている。
それをふくめて、この映画は堅牢な描写で描かれるすべてが多重虚構の遊戯である。醜い畸形の象男を覗き見る十九世紀の観客が映像に描かれ、その人びとの背後から二十世紀の映画観客が覗き見をする構造になっている。そしてその観客をさらに背後から見つめる制作者の視線を感じるのだ。三重の窃視に宿るものは猟奇的な好奇心、憐憫、同情、優越感、それらの感情のぞっとするような醜さ、さらにその醜さに覆われた人びとを覗き見て愉しむという極めつけの醜さだろう。こうして主体ごとの内的な醜悪さは三重の同心円をかたちづくり、中心におかれた醜い異者の悲劇を全員で愉しむ構造が成立している。しかし中心の象男の外的な醜さと、彼に注がれる視線がはらむ内的な醜さの、はたしてどちらがより醜悪だろうか? ――その問いが、この作品の真髄だと思う。制作者の視線は、わたしたちに自己の醜さを覗かせるものなのだ。
実際、映像はそれを示唆している。冒頭で誘うように現れる見世物小屋の楽屋の扉。そこへ入っていく医師をわたしたちは見る。そして医師の後ろから、さまざまな畸形の異者をちらりちらりと眺めつつ、醜い象男の垂れ幕のまえでいやおうなく好奇心をそそられる。しかしその姿はすぐには観客に晒されない。期待を高めながら少しずつ、段階を追って巧妙に露出されていく。象男の醜さがくまなく晒されて窃視の好奇心が全的な満足を得たのちは、その姿に優れた知性と清純な人格が付与されて、観客の好奇心は同情と憐憫に変わる。そして人びとはその感情移入を糧として「醜い姿に宿る美しい人間性」という理想化された悲劇のなりゆきを、最後の一滴まで味わえるように作られている。
時代はおそらく十九世紀末、ロンドン。重度の畸形をもつ青年ジョン・メリックは象男(エレファント・マン)として見世物にされていたところを医師に救出されて訓練され、言語能力と高い知性があることがわかる。上流階層の偽善的な同情が集まって保護を得るいっぽう、病院の警備員は酒場の仲間から見世物料をとり、夜な夜な庶民たちが象男を眺めてなぶりに来る。つまるところ誰にとっても、恐怖のまざる好奇心を満たし、あるいは利益を得る素材でしかないのでは、という疑問を示唆しつつ物語は進行し、象男はついに人びとに受け入れられ充足して死んでいく。こうして観客の同情心という欲望も満たされたうえ、最後の死の場面の音楽はバーバーのアダージョ*で、さあ泣けという完璧な仕上がり(笑)。
註*Platoon (1986) より前です。あのウィレム・デフォーのバーバーも忘れがたいですが。
キャストでは、象男を虐待する粗野な見世物師を演じたフレディー・ジョーンズが非常にうまい。アンソニー・ホプキンスが若い外科医を演じていて事実上の主人公ながら、対峙する場面ではホプキンスが負けるほど迫力がある。象男をジョン・ハート、病院長をジョン・ギールグッド。
デヴィッド・リンチの演出は切れ味が鋭く、十全に知的な統制力を示している。この時点でまだ三十代前半、すえおそろしい。『ブルー・ベルベット』『ツインピークス』『マルホランド・ドライブ』など、のちの「リンチの世界」とは別種の古典的な演出家にここでは徹しているように見えるけれど、そうではない。一連の映像には充分な悪意と知的な策略、自己言及がひそんでいる。
たとえば憧れの劇場に象男が招待されるクライマックスの場面で、劇中劇にあたる舞台の演目が無邪気なおとぎ話であることに気づくべきである。象男は成人扱いされていない。見識ある人物の庇護のもとにある天真爛漫な子供、あるいは天使という、観客にとって最も快適な人格である。こうして象男は冒頭の怪物から人間になったのち、最後は清らかな天使や妖精として昇天する。ここまでこの作品が展開してきたその「おとぎ話」の時系列を、空間に配置したものがあの劇中劇なのではないかしら。いわば人間としての認証を得た瞬間、なんと象男自身も象男の見世物に感動するようになる。
つまるところ「エレファント・マンってほんとにかわいそうなの」と甘美に泣いて、けろりと満足して食事に行く観客を笑って見ているのがリンチである――とわたしは思います。映画館とは見世物小屋である。美談とは詐欺である。彼はそう告げているのだ。 それはリンチの詐欺師としての自覚でもある。
メモリータグ■物語の後半で象男はふたたび見世物師にさらわれて虐待され、見世物小屋の仲間に逃がしてもらう。夜の森を隠れ進む、派手な衣装の奇怪な人びと。こういう絵の抜群のおもしろさに、リンチならではの残酷な才能がしたたる。そう、やっぱりこれは畸形の畸譚を愉しませる倒錯物語なのだと気づいてぞっとした場面。見た目の古典的端正さにだまされてはいけません(笑)。