Howl's Moving Castle / Hayao Miyazaki
ハウルの動く城 (2004) 宮崎駿
画像は一流。冒頭、ハウルの城が霧のなかを歩いてくるシーンがすでにその水準を証明している。あのシーンで、もうあとはすべて不問にすべきかも(笑)。銀色の地に夕焼けが複雑に反映したような虹色の機体はすばらしいし、アンバランスな幼児性そのままのハウルの自室もおもしろかった。あの部屋の設定はほとんど大友さんの世界だった。
徹底的に甘く砂糖をまぶしたラヴストーリーの演出さえやめてくれれば、ほかの傷はいくらでも我慢する作品なのに、そこは残念。計算されているものがほとんどすべて少しずつずれている印象で、実際の上映時間119分より、かなり長く感じる。なにより、主人公のソフィーが最後近くになるまでおもしろくない。衣装も顔もかわいくない。原作を処理した人物像だからということはないだろうに、宮崎作品のキャラクターとして感情を込められ、いきいきと「動く」ようになるのはほとんどクライマックスまできて、三つ編みをばっさり切ったあとからでは。
「三つ編みを切る」という行為は宮崎さんの作品ではくりかえしあらわれる。実際、この作品のコンテでも、あの箇所で「ヒロイン登場!」と自覚的な書き込みがあった記憶がある。
セリフはところどころ削りすぎて説明が足りない。これは他の作品でも見られる、宮崎さんの癖。たしかに限界まで削ることは映像に語らせる原則であるし、ナウシカなどにはまだ削れると思うところが数箇所あった。ただしその後はときおり、抑制しすぎる。たとえばソフィーにかけられた魔法がどこで解けたかは最小限の確認のことばをいれてもよかった。おそらく花畑でソフィーがまた老女に戻り、それを愕然として眺めるハウルのカットに一言いれれば伝わる。「魔女の呪いは解けてるのに」。コンテには正確に入っている。この潔癖な画家が言語を拒絶した例のひとつ。
声優として、木村拓哉さんは当たっている。声の質は『千と千尋の神隠し』のハクに近く、おそらくその感覚で選んだろう(そしてハクよりうまかった)。魔女を演じた三輪明弘さんもふさわしい。主役の倍賞千恵子さんは残念ながら声が老けすぎていて、娘時代の「ヒロイン」としての部分が演じられなかった。仏語版も英語版も、若いソフィーと老婆のソフィーは別の声優が担当している。日本語版もそうできれば、倍賞さんのためにも作品のためにもよかったろう。
最後の城を壊す展開はもちろん破綻があるけれど、あれは内的な必然から勝負に出た結果なのでわたしは気にならない。やりたくてやったものはいいです。いくらでもつきあいます。
メモリータグ■王宮の魔法使いの攻撃で魔方陣に取り囲まれる映像。みじかい場面だけれど幻想的で、出色だった。
▼追記1:
作品を再見。ハウルの呪いが解けることと並行して、この物語のなかに設定された複数の呪いのうち最も深い呪いが解ける。ソフィーが自分にかけていた「劣等感」という呪縛である。花畑ですっかり少女になっていたソフィーが、自分の殻に閉じこもったとたん、ふたたび老婆の姿に変わる。防御の鎧をまとってこれ以上傷つくまいとする。老婆の姿は、はからずも「醜い自分」への鎧をこの娘に与えていたことが視覚的によく伝わるカット。
この花畑の場面でハウルは彼女の傷の深さを一瞬で悟ると同時に、なにも言わない。相手の「呪い」がどれほど強いかを理解した瞬間でもある。愕然とした表情のなかに、洞察が浮かぶこの絵の力は卓越している。相手の傷を、とっさに口にしない思いやりの深さも伝えている。小児的でナルシスティックで破壊的なこの少年に、じつは非常に聡明な配慮があるという「王の資質」を示唆する考え抜かれた表現の一つ。
空中を歩くシーンは三拍子。たしかに。
▼追記2:
数年後に再再見。アニメーションや演出のみごとさ、造形の力強さにあらためて驚く。城の破壊はやはり最高のクライマックスになっていた。あそこはソフィーがとつぜん「引っ越す」と言い出して行動論理がわからないのが弱点になっていると公開当時も耳にしたけれど、ハウルとカルシファーの契約を揺るがして呪縛を解くという説明をみじかく入れておけば、意味が伝わる。台詞の微調整ですむと思う。
■現行バージョン
カルシファー 引越し? むちゃだよ。あっちはからっぽだよ。
ソフィー だめ。あたしたちがここにいるかぎり、ハウルは戦うわ。あのひとは弱虫がいいの。
カルシファー だってサリマンにすぐ見つかっちゃうよ。
ソフィー もう見つかってる。こんなことしてたら、あのひと戻れなくなっちゃう。
(ソフィー、みんなで城を出るしたくを始める)
ソフィー (カルシファーを運ぼうとして)あなたも行くの。乗って。
カルシファー うわわ、むりだよ。おいらは契約で暖炉から出られないんだ。
ソフィー あなたたちにできないんなら、あたしがやってあげる。
(ソフィー、カルシファーをスコップに乗せて歩き出す)
カルシファー うわ、あぶない。やめろ、やめてってば。やめて。おいらが出たら、この家崩れちゃうよ。
ソフィー いい。(戸口へ歩く)
カルシファー おいらを最後にしたほうがいいぜ。なにが起こるか、おいらにもわからないんだ。
(ソフィー、後ろ向きになって慎重にカルシファーを運び出す。外に出た瞬間、大音響と共に城が崩れる。)
このあとソフィーは結局また城のなかに戻り、カルシファーに城を動かしてくれと依頼する。引っ越しは一見不成立なままなので、この言動が二重の矛盾にみえて理解しにいかもしれない。以下は微修正案。太字が修正箇所です。
■微修正案
カルシファー 契約をこわす? むちゃだよ。そしたらいまの魔法が全部崩れるぜ。
ソフィー 強い魔法であたしたちを守ってるかぎり、ハウルは戦うわ。あのひとは弱虫がいいの。
カルシファー だってサリマンにすぐ見つかっちゃうよ。
ソフィー もう見つかってる。こんなことしてたら、あのひと戻れなくなっちゃう。
(ソフィー、みんなで城を出るしたくを始める)
ソフィー (カルシファーを運ぼうとして)あなたも出るの。乗って。
カルシファー うわわ、むりだよ。おいらは契約で暖炉から出られないんだ。
ソフィー だからよ。あなたたちにできないんなら、あたしがやってあげる。
あとはそのまま。
これだってソフィーの行動が荒療治であることには変わりないんですが(笑)ここはもともと、ハウルとカルシファーの間に結ばれている魔法の契約の主幹部分が外的な介入によって揺さぶられ崩れるために、城全体の魔法があらかた力を失う場面だろう(だから廃墟になる)。それまで一見快適でもじつはあやうくのしかかっていた重苦しいものが消える。このあとは残ったわずかな魔法とカルシファーの力でぎりぎり動かせる、城の最小部分だけが自立して猛然と疾走し始めることになる。このダイナミックな造形の肯定感や解放感を、わかってほしい~~っと荒れ野で一人叫ぶうさこなのでした。
とはいえ、結局はちいさなことですね(笑)。
そもそもハウルの城は本体の巨大さに対して、脚部がものすごく細い。最初からいかにもアンバランスだった。それがここで一気に解消され、ごてごてした鎧を脱ぎ落とした「ほんらいの身の丈」があらわになるという爽快感もあります。物語の論理と視覚的な論理が、あいかわらずよく一致して設計されている。うーん、いい作品でした。