うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0088. ハウルの動く城 (2004)

2005年11月21日 | 2000s

Howl's Moving Castle / Hayao Miyazaki  
ハウルの動く城 (2004) 宮崎駿


画像は一流。冒頭、ハウルの城が霧のなかを歩いてくるシーンがすでにその水準を証明している。あのシーンで、もうあとはすべて不問にすべきかも(笑)。銀色の地に夕焼けが複雑に反映したような虹色の機体はすばらしいし、アンバランスな幼児性そのままのハウルの自室もおもしろかった。あの部屋の設定はほとんど大友さんの世界だった。

徹底的に甘く砂糖をまぶしたラヴストーリーの演出さえやめてくれれば、ほかの傷はいくらでも我慢する作品なのに、そこは残念。計算されているものがほとんどすべて少しずつずれている印象で、実際の上映時間119分より、かなり長く感じる。なにより、主人公のソフィーが最後近くになるまでおもしろくない。衣装も顔もかわいくない。原作を処理した人物像だからということはないだろうに、宮崎作品のキャラクターとして感情を込められ、いきいきと「動く」ようになるのはほとんどクライマックスまできて、三つ編みをばっさり切ったあとからでは。

「三つ編みを切る」という行為は宮崎さんの作品ではくりかえしあらわれる。実際、この作品のコンテでも、あの箇所で「ヒロイン登場!」と自覚的な書き込みがあった記憶がある。

セリフはところどころ削りすぎて説明が足りない。これは他の作品でも見られる、宮崎さんの癖。たしかに限界まで削ることは映像に語らせる原則であるし、ナウシカなどにはまだ削れると思うところが数箇所あった。ただしその後はときおり、抑制しすぎる。たとえばソフィーにかけられた魔法がどこで解けたかは最小限の確認のことばをいれてもよかった。おそらく花畑でソフィーがまた老女に戻り、それを愕然として眺めるハウルのカットに一言いれれば伝わる。「魔女の呪いは解けてるのに」。コンテには正確に入っている。この潔癖な画家が言語を拒絶した例のひとつ。

声優として、木村拓哉さんは当たっている。声の質は『千と千尋の神隠し』のハクに近く、おそらくその感覚で選んだろう(そしてハクよりうまかった)。魔女を演じた三輪明弘さんもふさわしい。主役の倍賞千恵子さんは残念ながら声が老けすぎていて、娘時代の「ヒロイン」としての部分が演じられなかった。仏語版も英語版も、若いソフィーと老婆のソフィーは別の声優が担当している。日本語版もそうできれば、倍賞さんのためにも作品のためにもよかったろう。

最後の城を壊す展開はもちろん破綻があるけれど、あれは内的な必然から勝負に出た結果なのでわたしは気にならない。やりたくてやったものはいいです。いくらでもつきあいます。

 

メモリータグ■王宮の魔法使いの攻撃で魔方陣に取り囲まれる映像。みじかい場面だけれど幻想的で、出色だった。

 

▼追記1:
作品を再見。ハウルの呪いが解けることと並行して、この物語のなかに設定された複数の呪いのうち最も深い呪いが解ける。ソフィーが自分にかけていた「劣等感」という呪縛である。花畑ですっかり少女になっていたソフィーが、自分の殻に閉じこもったとたん、ふたたび老婆の姿に変わる。防御の鎧をまとってこれ以上傷つくまいとする。老婆の姿は、はからずも「醜い自分」への鎧をこの娘に与えていたことが視覚的によく伝わるカット。

この花畑の場面でハウルは彼女の傷の深さを一瞬で悟ると同時に、なにも言わない。相手の「呪い」がどれほど強いかを理解した瞬間でもある。愕然とした表情のなかに、洞察が浮かぶこの絵の力は卓越している。相手の傷を、とっさに口にしない思いやりの深さも伝えている。小児的でナルシスティックで破壊的なこの少年に、じつは非常に聡明な配慮があるという「王の資質」を示唆する考え抜かれた表現の一つ。

空中を歩くシーンは三拍子。たしかに。

 

▼追記2:
数年後に再再見。アニメーションや演出のみごとさ、造形の力強さにあらためて驚く。城の破壊はやはり最高のクライマックスになっていた。あそこはソフィーがとつぜん「引っ越す」と言い出して行動論理がわからないのが弱点になっていると公開当時も耳にしたけれど、ハウルとカルシファーの契約を揺るがして呪縛を解くという説明をみじかく入れておけば、意味が伝わる。台詞の微調整ですむと思う。

■現行バージョン
カルシファー 引越し? むちゃだよ。あっちはからっぽだよ。
ソフィー   だめ。あたしたちがここにいるかぎり、ハウルは戦うわ。あのひとは弱虫がいいの。
カルシファー だってサリマンにすぐ見つかっちゃうよ。
ソフィー   もう見つかってる。こんなことしてたら、あのひと戻れなくなっちゃう。
(ソフィー、みんなで城を出るしたくを始める)
ソフィー   (カルシファーを運ぼうとして)あなたも行くの。乗って。
カルシファー うわわ、むりだよ。おいらは契約で暖炉から出られないんだ。
ソフィー   あなたたちにできないんなら、あたしがやってあげる。
(ソフィー、カルシファーをスコップに乗せて歩き出す)
カルシファー うわ、あぶない。やめろ、やめてってば。やめて。おいらが出たら、この家崩れちゃうよ。
ソフィー   いい。(戸口へ歩く)
カルシファー おいらを最後にしたほうがいいぜ。なにが起こるか、おいらにもわからないんだ。
(ソフィー、後ろ向きになって慎重にカルシファーを運び出す。外に出た瞬間、大音響と共に城が崩れる。)
このあとソフィーは結局また城のなかに戻り、カルシファーに城を動かしてくれと依頼する。引っ越しは一見不成立なままなので、この言動が二重の矛盾にみえて理解しにいかもしれない。以下は微修正案。太字が修正箇所です。

■微修正案
カルシファー 契約をこわす? むちゃだよ。そしたらいまの魔法が全部崩れるぜ。
ソフィー   強い魔法であたしたちを守ってるかぎり、ハウルは戦うわ。あのひとは弱虫がいいの。
カルシファー だってサリマンにすぐ見つかっちゃうよ。
ソフィー   もう見つかってる。こんなことしてたら、あのひと戻れなくなっちゃう。
(ソフィー、みんなで城を出るしたくを始める)
ソフィー   (カルシファーを運ぼうとして)あなたも出るの。乗って。
カルシファー うわわ、むりだよ。おいらは契約で暖炉から出られないんだ。
ソフィー   だからよ。あなたたちにできないんなら、あたしがやってあげる。
あとはそのまま。
これだってソフィーの行動が荒療治であることには変わりないんですが(笑)ここはもともと、ハウルとカルシファーの間に結ばれている魔法の契約の主幹部分が外的な介入によって揺さぶられ崩れるために、城全体の魔法があらかた力を失う場面だろう(だから廃墟になる)。それまで一見快適でもじつはあやうくのしかかっていた重苦しいものが消える。このあとは残ったわずかな魔法とカルシファーの力でぎりぎり動かせる、城の最小部分だけが自立して猛然と疾走し始めることになる。このダイナミックな造形の肯定感や解放感を、わかってほしい~~っと荒れ野で一人叫ぶうさこなのでした。
とはいえ、結局はちいさなことですね(笑)。

そもそもハウルの城は本体の巨大さに対して、脚部がものすごく細い。最初からいかにもアンバランスだった。それがここで一気に解消され、ごてごてした鎧を脱ぎ落とした「ほんらいの身の丈」があらわになるという爽快感もあります。物語の論理と視覚的な論理が、あいかわらずよく一致して設計されている。うーん、いい作品でした。

 

 


0087. The Interpreter (2005)

2005年11月19日 | 2000s
インタープリター/シドニー・ポラック

The Interpreter (2005)
Directed by Sydney Pollack. Story by Martin Stellman and Brian Ward.
Nicole Kidman as Silvia Broome, Sean Penn as Tobin Keller.


脚本はもうすこし整理できたろうし、演出も詰めの甘い箇所が目につく。ポラックはこんなに現場の判断が甘いの。ただ、アフリカの民族的対立による大量虐殺の問題を本気でとりあげた脚本が、よく通ったと思う。狙いは高いし、評価したい。それに、複雑な背景をえがきこもうと真剣に努力している。ブルックリンを走る路線バスの爆破シーンは、日常的な問題としてのテロという現実味が出ていた。あそこが一番よかった。

虐殺派の政治家については、へたに暗殺すればその当人が英雄になってしまうという読みが、筋を両義的にしている。評価がわれるところだろう。個人的には、政治に理解があるといいたい。

キャストは成立ぎりぎりで、ニコル・キッドマンがこの役にむいていたとは思えない。クライマックスの、暗殺未遂のシーンの演技は緊迫感ゼロでもたなかった。ショーン・ペンとの組み合わせも親子のようで苦しい。でもいわゆる地味な「演技派」より、いっそキッドマンくらいポピュラーな女優のほうがよかったろう。政治的なテーマに興味のない観客も、身近な思いで観てくれそう。



メモリータグ■殺された人間の氏名をリストしたノートの読み上げと、ナレーションが重なる音声。





0086. 24 (2004)

2005年11月14日 | 2000s
"24" シーズンIV/ジョン・カサー 他

"24" (2004)
Directed by Jon Cassar et al. Created by Joel Surnow, Robert Cochran, Kiefer Sutherland as Agent Jack Bauer, Dennis Haysbert as David Palmer, Carlos Bernard as Tony Almeida, Reiko Aylesworth as Michelle Dessler, Kim Raver as Audrey Heller Raines.


#下のコメントは全面的に「ねたばれ」です。

米国のテロ対策機関、CTUを舞台にしたテレビシリーズもこれで四作目。2001年の一作目以来、多くの脚本家、監督がかかわって制作されてきている。

前回、化学攻撃と核のテロまで扱われていて、想定されているテロの型はだいたい使いおえた観があった。新しい脅威を設定するのがむずかしいのではと思ったけれど、いくつも組み合わせてきた。要人の誘拐、原子力発電所のコントローラーの盗難、炉心溶融、ステルス機の盗難、エアフォース1の撃墜、核のフットボールの盗難、ロケットに核弾頭を搭載して発射、とめまぐるしくつづく。対応する側もこれにつれて、捜査や追跡や暗号解読、潜入や突入や逃走や拷問や迎撃、と動いていくことになる。これが全て「一日で起こる」(笑)。

この24時間のできごとを全24回の連続ドラマで一時間分ずつみせていく演出を今回も踏まえ(実際の放映時間は一回あたり45分)、顔ぶれは新旧入り混じりながら進行する。登場人物たちは異常性格さながらにつぎつぎと心変わりをつづけるのだけれど、その異様さに慣れてしまうこちらもおそろしい。主人公の捜査官は衛星画像が届くのを待つあいだにコンビニ強盗までやってのける。もちろん荒唐無稽、でもここまでされると唖然としつつもみてしまう。

たとえば十九世紀後半のイタリアオペラの展開がしばしば奇想天外であったことを連想する。テレビのドラマは爛熟期にはいっているのかもしれない。ながらく蓄積されてきた「省略の記号」「展開の記号」をほとんど限界まで使いきって極端な展開を詰め込んでおり、よかれあしかれ、ドラマとして一時代を劃すことになった。これを五十年前の観客がみたら、ほとんど理解できないのではないかしら。

これほどめまぐるしい「事件型」の脚本だと、登場人物たちはゲーム理論で集約されたような人格設定になる。つまり、こういう立場にある人間がこういう状況におかれたら、こう反応するだろうという原型をパズルのように羅列したものになる。そこに、筋を展開させるための作為がはいってくるので、上にあげたような不思議な世界が広がる。

人物として多少なりとも個性が設定されているのは暗号解読官のクロエくらいかもしれない。相手の感情を読むのがへたで、場ちがいな発言をくりかえす。不美人で要領が悪く、上目づかいのふくれっつらが愛嬌がある(笑)。タイプとしてはきっとブリジット・ジョーンズの系統では。

俳優としては統合失調症の娘を演じた若い役者が印象にのこる。予測を裏切る表情をみせてくれた。ほかにシリーズ初期の敵役、ニーナ・マイヤース(Nina Myers, played by Sarah Clarke)に代わりそうな女性の暗殺者が最後のほうで登場している。こちらはまったくの「戦闘美女」で、型どおりですが。



メモリータグ■朝日に消えるジャック・バウアー




0085. ミリオンダラー・ベイビー (2004)

2005年11月12日 | 米アカデミー作品賞and/or監督賞

ミリオンダラー・ベイビー/クリント・イーストウッド

Million Dollar Baby (2004)
Directed by Clint Eastwood. Based on stories by F.X. Toole, screenplay by Paul Haggis. Clint Eastwood as Frankie Dunn, Hilary Swank as Maggie Fitzgerald, Morgan Freeman as Eddie Scrap-Iron Dupris.


人生をゆっくり攪拌していって、きっちりと濃縮すると、きっとこうなる。
大半の実人生は、これを水で薄めたものだろう。人生の全てを賭ける瞬間をくぐり抜けるひとはそれほど多くない。最もクリティカルなその瞬間をとらえるには、ボクシングはふさわしいトポスだった。世界を手に入れる可能性と、自分の全人生を失う可能性がおなじモーメントに重なっている。

だからこの作品の価値は、その賭けの後をしっかり問いつめたことにある。脚本は成功していて、モーガン・フリーマンが担当したナレーションと、そこに重なるエンディングの映像はみごとな効果をあげていた。2005年米国アカデミー賞を4部門で受賞。作品賞・監督賞・主演女優賞・助演男優賞(モーガン・フリーマン)。ヒラリー・スワンクの主演賞は妥当だった。



メモリータグ■おそらくレモンパイを焼いている娘。知らずに食べた父。「ホームメイド」というひとことが隠し味になっている。


補足:あらためて思うけれど、劇場公開当時に新聞に出ていた、計算しすぎといった批評は不要に思える。一つの作品のなかに、描けるものと描けないものがあるのは当然で、描けないものをほじくり返せばなんでもいえる。そういうのを下司というのです。このウェルメードな作品としての限界をどう超えるかはもっと別の課題になる。

あえて確認しておくと、この作品の臨界は、透明な相互理解にある。ここには、わかりあえる人間とわかりあえない人間の二通りしかない。でも、そんなことはわかりきっている。そのさきを求めるなら、最初からハリウッド映画はすべてパスするほうがはやい。この臨界内で、この弱点を克服する術はとりあえず一つある。それは、最終的に全員がわかりあえない状態を設定すること。でもそれでは興業的に成立しない。だからこの課題は別の領域で追究されてきた。たとえば最良のオニール、フォークナー、あるいはカポーティーの作品では達成されていた。つまり文学である。

でも、この作品はこれでいいと思います。



0084. Man on Fire (2004)

2005年11月10日 | 2000s
マイ・ボディーガード/トニー・スコット

Man on Fire (2004)
Directed by Tony Scott, screenplay by Brian Helgeland based on the novel by A.J. Quinnell. Denzel Washington as Creasy, Dakota Fanning as Pita, Marc Anthony as Samuel, Radha Mitchell as Lisa, Christopher Walken as Rayburn.


あまり評判にならなかったようだけれど、悪くない。邦題が情けないことを別として、多少の傷はある。原作を未確認ながら、途中で脚本をかなり変えたかもしれない。シーンに矛盾が出ていた。

メキシコの誘拐はかなりシビアらしい。身代金が支払わなければ人質は残虐に殺される。これが前提。実際の誘拐の成り行きについては観客もすでに慣れているという判断だろう、冒頭からフラッシュバックに近い演出を採用、ぶれた画像を断片的につなぐ激しい「コマおとし」で処理している。酒びたりの主人公の持つ「精神的外傷」も、もはや具体的な場面としては見せない。そうした約束事はぎりぎりまでスリムにおさえて、幼い少女と「古傷もち」のボディガードの心の接近を描くほうに時間を割いた。そして彼は立ち直る……。やや展開はありきたりだけれど、デンゼル・ワシントンがハードボイルドな殺人者を演じたのは初めてでは。なかなか風格のある、いい殺し屋だった。少女を演じたダコタ・ファニングはとにかく達者。水泳のハードな訓練もみごとにこなしたよう。ブライアン・ヒルゲランドはL.A. ConfidentialやMystic Riverを手がけた脚本家。


で、脚本の傷だけれど(以下ねたばれです)。

少女は殺され、ボディーガードは復讐に入る。後半はもっぱらそのシーケンスになるけれど、この展開だと物語の緊張感を保つのがつらい。つまり、人質が生きていれば助けるための焦燥や緊迫が出るのだが、その「時限爆弾」という切り札が使えない。これが一つ(ただ、それにしてはよく見せている)。

もう一つ、じつは少女は生きていて最後に救出できる。ところがその手前で、どうみても亡霊としての演出がされていて、復讐のシーンを彼女がみていたカットが入っている。これは苦しい。なぜ? ひとつ考えられるのは、制作途中まで少女はほんとうに死んだという筋立てで進行していて、粗つなぎの段階でプロデューサー側などから強い修正意見が出た可能性。ここでは、子供が殺されるのは陰惨で共感をえられないという理由から、助かることに変更された、というのがありそうな展開にみえる。それにしても、その場合は最終編集であのカットを落とすべきだった。わたしが記号を読みちがえていなければ、ですが。

そういえばジュマンジのときがそうだったといわれている。前半までが仕上がった段階で、暗すぎるという意見が出て後半が妙に明るくなった。あれはあのまま暗くてよかったと思う(笑)。



メモリータグ■車が右手へ走り去る。舞台奥、座っている少女。





0083. Butch Cassidy and the Sundance Kid (1969)

2005年11月06日 | 1960s
明日に向かって撃て!/ジョージ・ロイ・ヒル

Butch Cassidy and the Sundance Kid (1969)
Directed by George Roy Hill, written by William Goldman. Original music by Burt Bacharach. Paul Newman as Butch Cassidy, Robert Redford as The Sundance Kid, Katharine Ross as Etta Place.


シーンごとに完成度のたかい絵を撮るために、見えないところでずいぶん手をかけている。たとえばサンダンス・キッドのガールフレンドの家の周辺を映すシーケンスの中で、放り出された自転車が走っていって小川で横倒しに停まるカットがある。おそらくあの2カットのために別のロケーションを探し、水を引いて光景を整えたろうと思う。おなじ現場で撮れないことはないカットだろうに、細部まで真剣にやった。コンテがしっかりしている証拠である。

アウトサイダーが英雄になるのは当時の傾向のひとつとしても、脚本、ことにダイアローグのセンスはいかにもアメリカ文学。リアリズムに接しない、地面から三十センチくらい浮いた距離を保っている。たとえば、本音を言わない。死にかけているときには次の旅行の話をする、あの種のダンディズムである。

オールドムーヴィーズをパラフレーズする演出はヒルの引き出しの一つ。予測がつく反復シーケンスの切り上げ方は2つ。

1 静止画を重ねて古いアルバムをひらくような見せ方で凝縮する。
2 アップテンポな同じBGMを重ねて様式化し、断片的に展開をみせる。

どちらも観客に、部分的な情報を頭のなかでつないで完成させる。一種のコマおとし。結果的に、情報量をかなり入れながら全体を110分でおさめている。