うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0334. 借りぐらしのアリエッティ (2010)

2010年07月28日 | 2010s

借りぐらしのアリエッティ / 米林宏昌
94分 日本

監督:米林宏昌、脚本:宮崎駿・丹羽圭子、原作:メアリー・ノートン『床下の小人たち』(The Borrowers)、音楽:セシル・コルベル、作画監督:賀川愛・山下明彦、美術監督:武重洋二・吉田昇、色指定:森奈緒美、映像演出:奥井敦、声:志田未来・神木隆之介・大竹しのぶ・竹下景子・三浦友和・樹木希林


小粒ながら、まじめな佳作。冒頭しばらくは既視感を出ない「宮崎的世界」の切り貼りだったため、これは『借りづくりのアリエッティ』なのねと覚悟した。劇場もがらがら。けれどジブリの工房作品としては、これまでに見た七作ほどのなかで最も水準が高かった。

なによりヒロインが視覚的にちゃんとかわいい。これはありがたい。背景美術もさすがにジブリ、もしかすると宮崎さん自身「介入のさじ加減」が巧みになったのかもしれない(笑)。脚本やセットなど、かなめの要素を設計してしまったうえで現場に委ねたのがよかったのでは。アニメーション制作という課題に対して、現場は十全の回答を示した。身長15センチほどの小人が人間用の巨大なキッチンを岩登りのような技術で行き来する。その身体感、距離感がしっかりでている。みごとである。この水準の動画を工房として制作できるスタジオは他にないだろう。

課題をあげると、演出に愉しさ、喜び、躍動感がない。気分を切り替える明るさがないまま、ひたすら半歩ずつ地味に進行していく。まじめすぎてしんどい。主人公は、住居を失う恐怖をかかえた小人の少女と、病気の少年。描かれる感情は、後悔、不安、孤独、悲観的な母親、その金切り声……ただでさえ閉塞的な状況なのだから、母親くらいは魅力的な人物に設定するべきだった。終結部にかけてのドラマトゥルギーもあと一歩。猫にのって走ったってよかったのに。

たとえば『隣りのトトロ』はけっして明るい設定ではない。母親は結核で入院している。それなのに愉しい。なぜだろう? たとえば知らない家を探検する。なにか変なものが隠れている。お弁当をもって冒険にいく。月夜に種が芽を出す。それだけで、もうおもしろい。今回は反転したトトロの世界であったはずなのだ。それなら自然や屋内の描写を、小人の視点でみた驚きや感動と共に、もっともっと前面で表現してもよかった。雨粒の巨大さ、透明で広大な森のような庭、見知らぬ相手の魅力。絵として描かれていないわけではないのに、台所を探検しても、最初から光景の全貌がみえてしまっている。わくわくした視線を通じてすこしずつ見えてくるような驚き、小さな演出の山が足りない。だから進行が平板にみえる。とはいえ「愉しさ」まで醸成する余裕はなかったろう、今後に期待したい。つぎは『スケリグ』をやりませんか? あの見知らぬ汚い男に接近していくプロセスをどれだけ魅力的に演出できるかを最大の課題として。



メモリータグ■ポットから注がれるお湯が表面張力でぽた、ぽた、と落ちる。なるほど。





0333. Der letzte Zug (2006)

2010年07月21日 | 2000s
アウシュビッツ行 最終列車 / ダナ・ヴァフロヴァー, ヨゼフ・フィルスマイヤー
123 min Germany | Czech Republic

Der letzte Zug (2006)
Directed by Dana Vavrova and Joseph Vilsmaier. Written by Artur Brauner and Stephen Glantz. Cinematography by Helmfried Kober and Joseph Vilsmaier. Music by Christian Heyne. Performed by Gedeon Burkhard (Henry Neumann), Lena Beyerling (Nina Neumann), Sibel Kekilli (Ruth Zilbermann).


第二次世界大戦末期のベルリン。アウシュヴィッツへ送られる最後の列車を題材に、この輸送のありさまをえがく。暴力的に連行された六〇〇人あまりのユダヤの人びとの、車内での限界状況を伝えながら、点描的に各人の過去をふり返る。

水も食べ物もない家畜輸送車のなかで、わずかな水をもとめて人びとが争うありさま、蒸し暑い車内で正気を失う女性、座ったまま息絶える男性、逃走しかけて射殺される人びと、餓死する乳児などが映される。なんとか脱出しようと窓の鉄格子をやすりで削り、床に穴をあける作業がつづく。すくなくともこのひとたちはあきらめないし、水をくれと叫ぶことを知っている。わたしにはそのことが印象的だった。もし自分だったら、あきらめて黙っていた気がする。

列車はアウシュヴィッツに着く。その手前にある最後の停車駅で、夜の闇にまぎれて少女と女性が小さな穴から脱出に成功する。外では支援する人びとが毎夜待機していて、二人を保護する。作品はそこで終わっている。

全体にほぼ列車のなかだけで進行する脚本のため、演出はやや苦しいが、一種の再現映像として説得力がある。上映時間は約120分。これを90分ほどの短さまで縮め、さらに細部の困難をひとつずつ起伏をもって描くとさらに密度を濃くすることが可能だったかもしれない。ほんの数時間前までは思いもよらなかった基本的なことがらが突然あらわになる異常空間だからである。たとえば排泄の欲求の切実さ、生理の手当てができない羞恥、こらえきれない嘔吐、強烈な臭気、激しく泣きつづける赤ちゃん、その赤ちゃんが必死で吸いつづける、お乳の出ない乳首が次第にちぎれるように痛んでくることなど。ここでは車内の一隅に衣服を吊るして排泄空間のプライヴァシーを確保したといった解決策が映像でわかる。だがみるみる日常が剥奪されて置き換わっていくそれらのプロセスと内心の懊悩、その変化そのものを、もっと見せてもよかった。

映像は、澄んだ自然光で美しい。クレジットによれば、撮影には監督のフィルスマイヤー自身が参加している。


メモリータグ■巻末のクレジットにかけて、あのベルリンの有名な記念碑の地上部分が映し出される。わたしははじめて見た。すこしずつ高さの違うおおきな長方形の立体物が、ゆるやかな傾斜をなしてどこまでも並んでいる。これらの無言の碑は無限の碑であるのだろう。息苦しく重苦しい、けれど優れた作品だった。