うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0407. カラヴァッジオ (1986)

2013年07月05日 | 1980s

カラヴァッジオ / デレク・ジャーマン
93 min UK

Caravaggio (1986)
Written and directed by Derek Jarman. Story by Nicholas Ward Jackson. Cinematography by Gabriel Beristain. Costume Design by Sandy Powell. Performed by Nigel Terry (Caravaggio), Spencer Leigh (Jerusaleme), Sean Bean (Ranuccio), and Tilda Swinton (Lena).


デレク・ジャーマンの第二作。動画としての演出判断が弱いためか、絵画的な平面構成のセンスはあるのに、語りがもたない。『テンペスト』のときもそうだった。師匠筋にあたるケン・ラッセルには――少なくともうまくいった作品には――リズムとモーションの抜群のおもしろさがあるのに、そこは大きな違いにみえる。重要な登場人物をきちんと見分けさせるという基本もときにあやうい。冒頭は助手の視点なのに、そのあとの主体は画家に切り替わってしまい、観る者を混乱させる。

作中では脱リアリズムの方針がとられている。カラヴァッジオは17世紀の人間だったり20世紀初頭ごろの人間だったりする(らしい)――ただ、その設定でなければ語れないものがあったかどうか。

とはいえ制作上の困難はいろいろあったに違いない。たとえばカラヴァッジオの絵の模写が概して貧しい。これはつらい。映画『マーラー』を制作するにあたって、ひどい演奏しか手に入らないのに似ている。

撮影班はよくやっている。なにより、この作品でデビューしたティルダ・スウィントンが大収穫。思わず目がいく透明感と集中力で、ジャーマンの常連になっていく(この時点で20代なかば。スクリーン上では少女のようにみえる)。初期のサンディ・パウエルも華やかさを出していた。

全体に、ジャーマン自身の脚本がもう少し練りこまれていればよかったのかもしれない。主な筋はカラヴァッジオの成長と恋らしいが、その恋が創作者としての深まりとつながっていかない。画家であることがただの飾りになっている。歴史上のカラヴァッジオは現実に存在する無数の光をもとに、自分の光をつくり出した。彼はあの光をどう探し出したのだろう? それは画家としての決定的な核ではなかったかしら。惜しい。



メモリータグ■20世紀の場面では、カラヴァッジオの模写とは異なる絵が使われる。習作期のセザンヌと田舎にいたころのゴッホを足して、フランシス・ベーコンの甥が仕上げたようなスバラシイ絵だった。






0403. エイリアン2 完全版 (1986, 1992)

2013年06月07日 | 1980s

エイリアン2 完全版 / ジェームズ・キャメロン
137 min, 154 min USA | UK

Aliens special edition (1986, 1992)
Screenplay and direction by James Cameron. Story by James Cameron, David Giler, Walter Hill. Characters by Dan O'Bannon and Ronald Shusett. Cinematography by Adrian Biddle. Music by James Horner. Performed by Sigourney Weaver (Ellen Ripley), Carrie Henn (Rebecca 'Newt' Jorden), Jenette Goldstein (Pvt. Vasquez), and Lance Henriksen, NYC, 1940- (Bishop). Estimated Budget: $18,500,000.


リドリー・スコットの『エイリアン』初編は、鋭利に研ぎ澄まされた理知の作品だった。いっぽうジェームズ・キャメロンによるこの続編は、体力勝負の物量戦といっていい。ひたすら獰猛なエイリアンの群れに、ひたすら大量の火器を使って、ばりばりどかんと応戦する。しかも「完全版」はなんと2時間半。ある種の泥くささや、べたな決め台詞をふくめてキャメロンらしさがよく出ていた。このひとは良くもわるくも屈指の大衆作家なのです。

当然ながら、スタイリッシュではない。上品なバーというよりは兵隊酒場のいきおいで、前作の精巧なモチーフをかたちだけ派手になぞったところも目につく。たとえば爆破カウントダウン。煙や炎や轟音でこれでもかと仕上げているのに、まったく切迫感がない(笑)。けれど「強い母としてのヒロイン像」を、男性偏重のハリウッド映画に導入した功績は大きいと思う。ご存じのクライマックスは、いわばエイリアン・対・女性ガンダムでした。ほほほ、これがほんとのGun-Dameですわね(あのぅ)。



メモリータグ■アンドロイドのビショップ。演じたのはランス・ヘンリクセン。この人が出ると、すっと画面がひき締まる。



余談■『エイリアン』初編の爆破カウントダウンでは、「ティー・マイナス・・・」と間があってから、「テン・ミニッツ」とようやく情報が告げられる。この「間」にとても意味があった。絶体絶命の状況であと何分残されているのか、主人公は即刻知りたい(観客も)。その瞬間に、わざと間をおく。初編のあちこちでスコットが自在にあやつっていたあの間合いは、演出家としての優れたセンスを証明していたと思う。いい監督は、リズムがいい。








0401. 汚れた血 (1986)

2013年05月24日 | 1980s

汚れた血 / レオス・カラックス
116 min France

Mauvais sang (1986)
Written and directed by Leos Carax, 1960-. Cinematography by Jean Yves Escoffier. Set Decoration by Bernard Léonard. Film Editing by Nelly Quettier. Performed by Denis Lavant (Alex), Juliette Binoche (Anna), Michel Piccoli (Marc), Hans Meyer (Hans), Julie Delpy (Lise), Carroll Brooks (The American woman).

若い作品はいい、勢いが違う――と感慨をいだいてしまった自分に愕然(笑)。デジタルリマスター版がヴィデオ店に出ていて借りたのですが、まだ20代のカラックスが『ボーイ・ミーツ・ガール Boy Meets Girl』1984、『汚れた血』1986、『ポン・ヌフの恋人 Les amants du Pont-Neuf』1991と駆け上がっていくなかの第二作。センスとエネルギーがほとばしっている。ジャン=ジャック・ベネックス『ディーヴァDiva』1981につづいて、フランス映画に新しい感覚を感じられた作品のひとつ――。と過去形でいいのかはわからないけれど。

キャストにも恵まれた。難役をこなしたドニ・ラヴァン、みずみずしいビノシュ。少女期のジュリー・デルピーもとてもよかった。脇のピコリはフランス映画を代表するヴェテランの一人だし、個性と粒がよく揃っている。ルイ・マルの代表作のジャンヌ・モローや、ジャン=ピエール・ジュネと組んだオドレイ・トトゥのように、カラックスのビノシュは輝いていた。

音楽は古典からロック、シャンソンまでを自由にちりばめている。デヴィッド・ボウイをこれだけセンスよく使った場面はめずらしい。

しいていえば最後の飛行場へむかうシークェンス以降はもっと刈り込んでもよかった。長さの問題というより、表現が平板になっている。とはいえこの作家のスタイルはいまみても新鮮です。陰影の深いライティング、おそれを知らないフォーカス操作(笑)、みごと映像にものをいわせていた。ベネックスの影響はかなり受けているようにみえる。でも本人に優れた才能がなければ、ここまで学びこなすことはできない。




メモリータグ■パラシュートの場面でビノシュはほんとに跳んだらしい。付属の映像集に撮影場面が入っていて驚きました。

 

 

 


0394. E.T. (1982)

2013年04月06日 | 1980s

E.T. / スティーヴン・スピルバーグ
115 or 120 min USA

E.T. the Extra-Terrestrial (1982)
Written by Melissa Mathison. Directed by Steven Spielberg. Cinematography by Allen Daviau. Film Editing by Carol Littleton. Production Design by James D. Bissell. Music by John Williams. Performed by Henry Thomas (Elliott), Robert MacNaughton (Michael), Drew Barrymore (Gertie). Estimated budget: $10,500,000. US Gross: $35,144,920 (10 May 2002)


http://www.fanpop.com/clubs/et-the-extra-terrestrial/images/

 

いくつかの場面をべつとして、ほぼきれいに忘れていた。いまからみると撮影手段は牧歌的、でも愉しかった記憶は裏切られない。ETという概念そのものが、この作品以降ファンタスティックなキャラクターの記号に変容してしまった。いまリーダーズ英和辞典で E.T. と引くと「Steven Spielberg監督のSFファンタジー映画 E.T., The Extra-Terrestrial (1982) に登場する地球外生物」と書かれている。すごい。

いまも観るひとがいるかなあ。物語を牽引していくアイデアと演出技術がぎっしり詰まった宝箱、まさにシュピールベルク。

しかしここに現れるETの人格設定には、じつは古典的な神性がおびただしく流入している。その超常性、未知性としての神秘、人智をこえた理性と不死性、復活性。完全な善性。そして生命をあたえ傷を癒す奇蹟。卓越した力をもつその相手が弱者として人間のまえに現れ、無償の主人公と友情を築き、人びとに愛を満たして天空に去る。異種聖性遭遇譚の定型そのものといっていい。これは神話なのだ。作者はそれをどこまで意識していたろう?

なんであれ、ファンタジーにはこの定型がいまも生きている。『デルフィニア戦記』だってそう。上の要素が全部共通している。



メモリータグ■最初は一人で月に飛び、つぎは五人で太陽に飛ぶ自転車の飛翔。






0382. 王と鳥 (1980)

2013年01月13日 | 1980s

王と鳥 / ポール・グリモー
81 min France

Le roi et l'oiseau (1980)
Directed by Paul Grimault (1905-1994), written by Hans Christian Andersen (fairy tale The Sheperdess and the Chimney Sweep), Jacques Prévert et Paul Grimault. Music by Wojciech Kilar. Cinematography by Gerard Soirant. Voice by Jean Martin (L'oiseau), Pascal Mazzotti (Le roi). 


音楽がいい。作品全体は20世紀なかばのアニメーションの感覚にみえる。1980年という公開年を考えるならとても古風で、物語りの運びもごくおっとりしていた。じっさい、脚本に参加したジャック・プレヴェールは『天井桟敷の人々』の脚本家。監督のグリモーもヴェネチア映画祭の受賞作『小さな兵士』は1947年なのだそう。でもおとぎ話の長篇をていねいに制作した真剣な愛情がよく伝わってくる。20世紀のフランスのアニメーション観を知るうえでは重要な古典かもしれない。

専横な王の城は極端な垂直仕様で、空中に部屋があるようなめくるめく高さ。貧しい市井の人びとは陽の射さない地下に住んでいる。機知にあふれた鳥の活躍で王は追い払われ、恋人たちは結ばれる。キャラクターデザインとモーションにはディズニーの影響が濃く感じられた。いっぽうで背景美術はいかにもヨーロッパのアニメ。城のデザインや、デューラーばりの犀の鐘が愉快(画像)。

キネマ旬報の映画データベース「KINENOTE」によれば「フランスで最も権威のある映画賞といわれるルイ・デリュック賞をアニメーション作品として初めて受賞した」とある。老巨匠の晩年の大作への敬意が感じられて、なごみます。

 

メモリータグ■しかけ罠に何度もつかまってしまう小鳥さん。悪い人間がいるのです。

 

 

 


0348. エレファント・マン (1980)

2011年09月01日 | 1980s

エレファント・マン / デヴィッド・リンチ

124 min USA

The Elephant Man (1980)
Directed by David Lynch 1946 -. Written by Christopher De Vore, Eric Bergren and David Lynch based on books by Frederick Trevesk "The Elephant Man and Other Reminiscences" and Ashley Montagu "The Elephant Man: A Study in Human Dignity". Cinematography by Freddie Francis. Performed by Anthony Hopkins 1937 - (Frederick Treves), John Hurt (John Merrick), Freddie Jones (Bytes), Anne Bancroft (Mrs. Kendal), John Gielgud (Carr Gomm), Wendy Hiller (Mothershead), Phoebe Nicholls (Merrick's Mother), Hannah Gordon (Mrs. Treves).

 

複雑な主題提示だった。映像も演出も配役も脚本も最高の水準をめざした制作体制で、その目標は達成されている。凝ったセットを組みながら、それを惜しげもなくモノクロフィルムで撮影した方針が成功していて、全体が「おぞましい過去のひとこま」であると見せかける妖しい遠さが出ていた。映画初期の素朴な白黒と違って二十世紀末の機材で撮られたこともあって、驚くほど美しい鮮明な白黒映像になっている。

それをふくめて、この映画は堅牢な描写で描かれるすべてが多重虚構の遊戯である。醜い畸形の象男を覗き見る十九世紀の観客が映像に描かれ、その人びとの背後から二十世紀の映画観客が覗き見をする構造になっている。そしてその観客をさらに背後から見つめる制作者の視線を感じるのだ。三重の窃視に宿るものは猟奇的な好奇心、憐憫、同情、優越感、それらの感情のぞっとするような醜さ、さらにその醜さに覆われた人びとを覗き見て愉しむという極めつけの醜さだろう。こうして主体ごとの内的な醜悪さは三重の同心円をかたちづくり、中心におかれた醜い異者の悲劇を全員で愉しむ構造が成立している。しかし中心の象男の外的な醜さと、彼に注がれる視線がはらむ内的な醜さの、はたしてどちらがより醜悪だろうか? ――その問いが、この作品の真髄だと思う。制作者の視線は、わたしたちに自己の醜さを覗かせるものなのだ。

実際、映像はそれを示唆している。冒頭で誘うように現れる見世物小屋の楽屋の扉。そこへ入っていく医師をわたしたちは見る。そして医師の後ろから、さまざまな畸形の異者をちらりちらりと眺めつつ、醜い象男の垂れ幕のまえでいやおうなく好奇心をそそられる。しかしその姿はすぐには観客に晒されない。期待を高めながら少しずつ、段階を追って巧妙に露出されていく。象男の醜さがくまなく晒されて窃視の好奇心が全的な満足を得たのちは、その姿に優れた知性と清純な人格が付与されて、観客の好奇心は同情と憐憫に変わる。そして人びとはその感情移入を糧として「醜い姿に宿る美しい人間性」という理想化された悲劇のなりゆきを、最後の一滴まで味わえるように作られている。

時代はおそらく十九世紀末、ロンドン。重度の畸形をもつ青年ジョン・メリックは象男(エレファント・マン)として見世物にされていたところを医師に救出されて訓練され、言語能力と高い知性があることがわかる。上流階層の偽善的な同情が集まって保護を得るいっぽう、病院の警備員は酒場の仲間から見世物料をとり、夜な夜な庶民たちが象男を眺めてなぶりに来る。つまるところ誰にとっても、恐怖のまざる好奇心を満たし、あるいは利益を得る素材でしかないのでは、という疑問を示唆しつつ物語は進行し、象男はついに人びとに受け入れられ充足して死んでいく。こうして観客の同情心という欲望も満たされたうえ、最後の死の場面の音楽はバーバーのアダージョ*で、さあ泣けという完璧な仕上がり(笑)。 
註*Platoon  (1986) より前です。あのウィレム・デフォーのバーバーも忘れがたいですが。

キャストでは、象男を虐待する粗野な見世物師を演じたフレディー・ジョーンズが非常にうまい。アンソニー・ホプキンスが若い外科医を演じていて事実上の主人公ながら、対峙する場面ではホプキンスが負けるほど迫力がある。象男をジョン・ハート、病院長をジョン・ギールグッド。

デヴィッド・リンチの演出は切れ味が鋭く、十全に知的な統制力を示している。この時点でまだ三十代前半、すえおそろしい。『ブルー・ベルベット』『ツインピークス』『マルホランド・ドライブ』など、のちの「リンチの世界」とは別種の古典的な演出家にここでは徹しているように見えるけれど、そうではない。一連の映像には充分な悪意と知的な策略、自己言及がひそんでいる。

たとえば憧れの劇場に象男が招待されるクライマックスの場面で、劇中劇にあたる舞台の演目が無邪気なおとぎ話であることに気づくべきである。象男は成人扱いされていない。見識ある人物の庇護のもとにある天真爛漫な子供、あるいは天使という、観客にとって最も快適な人格である。こうして象男は冒頭の怪物から人間になったのち、最後は清らかな天使や妖精として昇天する。ここまでこの作品が展開してきたその「おとぎ話」の時系列を、空間に配置したものがあの劇中劇なのではないかしら。いわば人間としての認証を得た瞬間、なんと象男自身も象男の見世物に感動するようになる。

つまるところ「エレファント・マンってほんとにかわいそうなの」と甘美に泣いて、けろりと満足して食事に行く観客を笑って見ているのがリンチである――とわたしは思います。映画館とは見世物小屋である。美談とは詐欺である。彼はそう告げているのだ。 それはリンチの詐欺師としての自覚でもある。

 

メモリータグ■物語の後半で象男はふたたび見世物師にさらわれて虐待され、見世物小屋の仲間に逃がしてもらう。夜の森を隠れ進む、派手な衣装の奇怪な人びと。こういう絵の抜群のおもしろさに、リンチならではの残酷な才能がしたたる。そう、やっぱりこれは畸形の畸譚を愉しませる倒錯物語なのだと気づいてぞっとした場面。見た目の古典的端正さにだまされてはいけません(笑)。

 

 

 


0345. Akira (1988)

2011年05月16日 | 1980s

AKIRA / Katsuhiro Otomo
124 min Japan

Akira (1988)  アキラ
原作・監督:大友克洋 、脚本:大友克洋・橋本以蔵、プロデューサー:鈴木良平・加藤俊三、アニメーション制作・東京ムービー新社、音楽監督:山城祥二


記憶とかなり印象が違っていて、別バージョンかもしれないとさえ思いながら観た。なんであれ、天才の代表作である。あのコミック版とこのフィルム版、これほど違ってこれほど同じというヴィジョンを共に成立させる透徹した客観性がすばらしい。横溢する生命力が注ぎ込まれる対象がどこまでもつづく破壊シーンなのはつらいけれど、これはもうしかたがない、この物語は『日本沈没』ならぬ『世界沈没』なのである。かたちにならなかった無数の場面がまだこの裏側にあることだろう。

このひとの新作をまた観たいなあ。



メモリータグ■ネオ東京都議会の会議。眼前の事態の緊急性を認識できない姑息な議員たちの姿が3.11後のいまは、ひときわリアル。長映しされる奇妙な彫像はいかにもブレカー風できわどい(政治的に)。そもそもAKIRAではオリンピック会場が重要な立地として使われ、ここが崩壊の中心点になる。オリンピックという20世紀的「人類の理想」のいかがわしさを示すメッセージは、このおかしな彫像でさらに明確になっている――アルノ・ブレカーといえば、第三帝国が催したベルリン・オリンピックの“国威発揚芸術家”のひとりなのだから。


by Arno Breker, 1900 - 91.
http://www.ancient-astronomy.dk/germa1.jpg


0328. Witness (1985)

2010年03月02日 | 1980s
刑事ジョン・ブック 目撃者 / ピーター・ウィアー
112 min USA

Witness (1985)
Directed by Peter Weir, 1944 - , Written by William Kelley, Pamela Wallace and Earl W. Wallace. Music by Maurice Jarre. Cinematography by John Seale. Performed by Harrison Ford, 1942 - (Det. Capt. John Book), Kelly McGillis, 1957 - (Rachel Lapp), Lukas Haas (Samuel Lapp) and Viggo Mortensen (Moses Hochleitner).


プロテスタントのメノナイト系宗派、アーミッシュの生活様式を映りこませた異色の刑事もの。ひさしぶりに見直したら、やはり秀逸だった。制作から四半世紀をへて、現在であれば、殺人現場を目撃した少年にたいする取りしらべは精神的な衝撃をより考慮したものであることが求められたろうし、アーミッシュのひとびとのえがきかたにも限界はあるかもしれない。けれど表情も演出も繊細で、えがくものへの愛情が感じられる。やっぱりピーター・ウィアーはいい。

アーミッシュの禁欲的な暮らし、ことに納屋を建造するシーンが見せ場のひとつになっていて、そのあとのクライマックスでもおおきな納屋の構造がたくみにいかされている。武器をつかわずに地の利で暗殺者を封じていく設定は、銃撃戦にたよりがちなアクション作品の定型をうまくはずしていた。ジョン・シールが撮影した戸外の映像は透明感がある。このひとはその後『イングリッシュ・ペイシェント』や『コールド・マウンテン』の撮影を手がけることになる。

生死への介入を否定するアーミッシュの共同体では、抗生物質の投与も手術も禁忌にあたる。テクノロジカルな工業製品も使用されない。当然、出産時の帝王切開も陣痛促進剤も消毒も緊急搬送もないだろう。死亡率はさぞ高いだろうに、なまじではない覚悟である。ヒロインを演じたケリー・マクギリスは意志と強さを表現していてよかった。

プロローグはアーミッシュの村。そこから母と列車で都市に出てくる少年の姿をえがき、周囲との違和感をむだなく示して、駅での殺人現場につなげる。このあと主人公の刑事が登場してから取り調べ、容疑者の浮上までが提示部。主人公が上司にみとおしを報告して裏切られるところから展開部と考えていいだろう。負傷した主人公はここでアーミッシュの村に潜伏する。主人公と、少年の母が微妙な軋轢をへて接近していく過程で、アーミッシュの生活様式をみせていく。この間、警察内では主人公の捜索がすすめられる。途中で主人公が上司に警告するという反撃をはさんだうえで――これは重要――上司が村にのりこんできて直接対決するクライマックスに入る。主人公が少年たちに別れを告げるエピローグの場面は、冒頭とおなじアーミッシュの村で揃えて様式感をつよめている。

ラヴシーンに入る直前、ヒロインは、かぶっていた頭巾をそっとテーブルに置いて、男のもとへ走っていく。この頭巾のカットはいいな、とまえにも思った。ことばでいうなら「共同体からの逸脱と解放」を表象している。走る途中で頭巾が脱げるという表現もできたろう。でも、ていねいに置いて出ていくところに、共同体にたいする演出者の敬意が感じられた。

そういえば「頭巾が脱げていく」という表現に似たカットが、『あ・うん』(1989)という映画の最後近くにあったように思う。マフラーがほどけるのである。第二次世界大戦下の日本という設定で、召集令状をうけた青年が、愛した少女の自宅に死出の別れを告げにくる。青年が玄関を出て帰っていったあと、少女の首にマフラーを巻いてやりながら、おとながうながす。「行きなさい、後悔するよ」。つづいて、少女が雪の夜道に青年を追って走ってくるカット。ここで彼女が走るうちにマフラーがほどけていく。――わたしの記憶がたしかなら、あれは「共同体の安全な庇護のもとから、いま意志をもって走り出ていく女性」の視覚的表現だった。やはり印象的なカットで、クライマックスで使われていた。監督は降旗康男さんだった。



メモリータグ■子供が手にしない場所に銃をしまっておくよう告げられたヒロインは、台所の、小麦粉かなにかの缶に弾丸をいれておく。缶をさかさにして弾を出すと、白い粉がとびちる。銃という暴力性が、小麦粉の缶という平和な日常性にのみこまれるギャップがたのしい。





0294. Another Country (1984)

2009年06月17日 | 1980s

アナザーカントリー / マレク・カニエフスカ
90 min UK

Another Country (1984)
Directed by Marek Kanievska, 1952- London, England, based on a play by Julian Mitchell. Cinematography by Peter Biziou. Performed by Rupert Everett (Guy Bennett) and Colin Firth (Tommy Judd).


冷戦期の亡命者、ガイ・バージェス(Guy Burgess)をモデルにした作品。とはいえかれの活動はいっさい描かれない。設定は1930年代のパブリックスクールで、バージェスの出身校とすればイートンなのだろう。たとえば尾崎秀実さんの一高時代を題材にしたような感じかもしれない。主人公は最上級生で構成される監督生選びの、政治的抗争に敗れる青年としてえがかれる。映画としては大学時代くらいまでカバーしたほうが充実したかもしれないが、閉塞感は出ている。

映像はBBC的、健全な自然光。マルクスに傾倒する学生を演じたコリン・ファースは適役だった。

冒頭からほどなくの戦没卒業生追悼式で生徒たちがホルストを歌う。And there's another country, I've heard of long ago, Most dear to them that love her, most great to them that know;(そしてもう一つの国がある、はるか昔から耳にしてきた国が。その国を愛する者には最も近しく、その国を知る者には最も偉大な国)という神の国を歌う歌詞が、無神の国ソヴィエトに反転して重ねられるモチーフが全体の核なのだろう。ジュリアン・ミッチェルの戯曲ではこの部分は最後におかれていた。

それにしてもあの歌詞を聖歌として受容することができるのは英国国教会ならではのような気がする。まず自国への絶対愛と全的な犠牲が誓われ、ついで神の国がたたえられる。No King, No bishop という政治家らしい本音かもしれない(笑)。なんであれ音楽的高揚にとらえられて愛国死するよりは、ひどい国歌がいい気もする。ホルストの美しい旋律には、なかなかものすごい詞がついているのだから。

知識層のノマディックな思考傾向がどのような現実的行動に帰着するかは時代の条件によるだろう。のちにバージェスが在学するケンブリッジのトリニティーカレッジの機能は、ピューリタン性やマルクス性の付与にあるのではなく、むしろ土着の社会的視野からの乖離をうながす傾向そのものにあるのかもしれない。その特権的乖離感が学内の精神風土を形成する。そこには帰属性の矛盾がはらまれる。一部のひとびとの脱イギリス的な旅人性は非常にイギリス的だと――あるいはすくなくともしばしばトリニティー的だと――解釈しうるからである。この映画や原作とはべつに、その屈折した帰属意識や傷をおった自己愛や下降指向が開拓する情景をあちこちで読んできた。もう充分に語られた領域でもあるだろう。そもそも特権は語ること、語られることそのもののなかにある。かれらが語りつづける間、そして語られつづけられる間、その特権は消滅することがない。グッドラック、ディア。男の子はたいへんね。



メモリータグ■キャンパスの、ずば抜けた巨木。横に張り出した一本ずつの枝が、なみの樹の幹よりも太い。シイ? 樹齢は何百年だろうか。あなたがたの人生は短いと示唆してくれる、荘厳な樹だった。

I vow to thee, my country, all earthly things above,
Entire and whole and perfect, the service of my love;
The love that asks no question, the love that stands the test,
That lays upon the altar the dearest and the best;
The love that never falters, the love that pays the price,
The love that makes undaunted the final sacrifice.

And there's another country, I've heard of long ago,
Most dear to them that love her, most great to them that know;
We may not count her armies, we may not see her King;
Her fortress is a faithful heart, her pride is suffering;
And soul by soul and silently her shining bounds increase,
And her ways are ways of gentleness, and all her paths are peace.

 

Words by Sir Cecil Spring-Rice, tune by Gustav Holst.

 





0274. Less Than Zero (1987)

2008年11月26日 | 1980s
レス・ザン・ゼロ / マレク・カニエフスカ
98 min USA

Less Than Zero (1987)
Directed by Marek Kanievska, screenplay by Harley Peyton based on Bret Easton Ellis. Cinematography by Edward Lachman. Music by Thomas Newman. Performed by Andrew McCarthy (Clay Easton), Jami Gertz (Blair), Robert Downey Jr.(Julian Wells).


あの自虐的な原作を、ジュニア小説級の青春物語に変えたのが誰なのかは訊ねてみたい気もする。まれな例である。上映時間は98分。140分くらいに感じた。



メモリータグ■パーティーで、ドラッグのために鼻血が出ているお嬢さん。





0263. The Shining (1980)

2008年07月29日 | 1980s
シャイニング / スタンリー・キューブリック
146 min (original version), 119 min (European version) UK, USA

The Shining (1980)
Directed by Stanley Kubrick, screenplay by Stanley Kubrick and Diane Johnson based on a novel by Stephen King. Music by Bela Bartok et al.. Cinematography by John Alcott. Performed by Jack Nicholson (Jack Torrance), Shelley Duvall (Wendy Torrance), Danny Lloyd (Danny Torrance), Joe Turkel (Lloyd the bartender), and Scatman Crothers (Dick Hallorann the cooker).



深い雪に閉ざされた山の中、異空間とつながるホテル、羊男、鏡に映る幽霊、双子、過去の人物と重なる自己、うちなる対話者、「もうすぐ電話がかかってくるよ」と告げる不思議な力、惨劇ののち封印された部屋、薄暗いバー。もの静かで上品なバーテンダー。

村上春樹さんの世界でしょうって? いいえ、これは『シャイニング』。すべて出てくる。スティーヴン・キングの手法や道具だてを村上さんは徹底的に研究したろうし、この映像からもすくなからぬ影響をうけていることはいやでも感じる。

でもそれはそれとして、何度みたかわからないこの伝説の名作を、また見返した。じっさい、誰だって心を揺すぶられるのでは。過去へとつながる物語のふくらみはすばらしいし、バーテンダーと会話をする幻想的なシーンは何度見ても魅了される。

ホテルの内部はすべてセット。あの有名な雪の迷路も、塩と発泡スチロールを使って室内につくられたものだそう。暑さのあまり、俳優たちは撮り終わるやいなや服を脱ぎ捨てたと読んだ。なんてすごいできばえ。キューブリックは封切りの後まで手を加えつづけ、エピソードにあたる部分をカットして、遠い夏の写真で終わる現在のかたちに直した。むだのない、みごとな結末と思う。

『シャイニング』をまだ見たことがないというかたは、人生にとてもこわい愉しみをのこしている(笑)。凝縮された映像に完全に集中できるよう、室内を暗くして静かな状態でご覧になることをおすすめします。作品の深さから考えると、ビデオの表紙やプロモーションに使われた静止画はすこし派手すぎたかも? はるかに奥行きのある「ホラー」です。



メモリータグ■「赤いラム」と警告を発しつづけるトニー。




0251. The Untouchables (1987)

2008年03月06日 | 1980s

アンタッチャブル / ブライアン・デ・パルマ
119 min USA

The Untouchables (1987)
Directed by Brian De Palma , written by David Mamet with suggestion through a book by Oscar Fraley and Eliot Ness. Original Music by Ennio Morricone. Cinematography by Stephen H. Burum. Performed by Kevin Costner (Eliot Ness), Sean Connery (Jim Malone), Charles Martin Smith (Agent Oscar Wallace), Andy Garcia (Agent George Stone / Giuseppe Petri) and Robert De Niro (Al Capone).


たしかスクリーンで一度見た。ヴィデオで再見、禁酒時代にカポネと対決する刑事をケヴィン・コスナーが主演している。途中から登場する巡査が、映った瞬間あまりに堂々としていてコスナーがくわれてしまう。変だと思ってよく見たら、ショーン・コネリー。

たんなる知名度をこえて、根本的に主役級でしか使えない俳優というカテゴリーがあると思うけれど、このひとはほんとうにそうなのね、と妙に感心したのをおぼえています。しかも、いっぽうでカポネを演じたロバート・デニーロが、これもまた周囲をくってしまう俳優の筆頭なので、コスナーまけっぱなしの一作だった。もちろん否定しているのではなくて、コスナーのことは尊敬している。役者としても、地味な持ち味をいかした、いい作品がいくつもある。ようするに、この映画は脇の二人がそれぞれのありかたで異例に派手なのです(笑)。さいわいヴィデオのサイズでみると、その「オーラの落差」はそれほど気にならなかった。うまれつきのスターは、大きいスクリーンであればあるほど本領を発揮するものらしい。



メモリータグ■駅の階段を乳母車がすべり落ちていく間に銃撃戦になるシーンは、もちろん古典作品へのオマージュ。もうすこし速めのつなぎかたで編集してもよかったかも? すこしリズムがそこなわれている気がする。でも、やりたいと考えたその発想が好きです。





0244. となりのトトロ (1988)

2008年01月10日 | 1980s
My Neighbour Totoro aka. Tonari no Totoro / Hayao Miyazaki
86 min Japan

となりのトトロ (1988) 東宝
原作・脚本・監督:宮崎駿、製作:徳間康快、プロデューサー:原徹、企画:山下辰巳・尾形英夫、作画監督:佐藤好春、音楽:久石譲、声:日高のり子(さつき)、坂本千夏(メイ)、糸井重里(父)、島本須美(母)、北林谷栄(ばあちゃん)、雨笠利幸(カンタ)、高木均(トトロ)


ふりかえると、この作品が受け入れられていくプロセスは、「アニメに対する日本社会の受容が根本的に変化していくプロセス」だったにちがいない。いまの、アニメーション作品についての国民的熱狂をつくった素地はここにある。

よく知られているように、『となりのトトロ』は当初、けっして興行的に成功しなかった。『風の谷のナウシカ』がつかんでいた観客層の多くがついてこなかったためであるといわれる。けれど、ほんとうにそう? むしろそれ以前に、プロモーションのありかたや、その規模などをふくめて、興行側の認識に根本的な限界があったと思う。おそらく、当時の執行部には迷いがあった。この作品が、おとなに対してもひとしく語られたものであることが、わからなかったのだ。

個人的な経験でいうと、わたし自身『ナウシカ』と『天空の城ラピュタ』は封切り当時に劇場で見ている。どちらにも共感したし、かといってアニメーションのコアなファンではけっしてなかった。わたしにとって宮崎駿さんは映像作家だった。いっぽうで『ラピュタ』の封切りのとき、観客層はあきらかに『ナウシカ』よりもひろがっていた。家族連れの多い場内の反応は充分に熱かったし、『ラピュタ』の観客層をさらにひろげたさきに、『トトロ』が受け入れられる素地はもうできていたはずなのである。

けれど『トトロ』の封切りは見逃した、というひとは多い。子供むきの映画と思いこんだからではない。はんぱな二本立てで、はんぱに封切られ、気づいたときはもう終わってしまっていた。興行の失敗――それを挽回したものはテレビ放映だったろう。

いっぽう、経営的においこまれたジブリは、苦心惨憺した『魔女の宅急便』をつうじて「女の子」という思いがけない観客層を発見していく。やれやれ。この発見がよかったのかどうか、ざんねんながらこの路線に傑作はないのだけれど、『宅急便』『ハウルの動く城』など、秀作は出ている。『トトロ』が最初から成功していたら、あの「サービス路線」という寄り道はなかったのかもしれない。

いずれにせよ、『トトロ』の家や子供の描写は、誰がみてもすごい。すごいでしょう? ね?(笑) 万博のためにあの家が模造されるといったアラレモナイ大衆化のありかたは、いかにもテレビの介入をへた展開におもえるけれど、それはそれ。心から愛情のこもった一作です。コンテはむしろシンプルなのですが……。

宮崎さんのマジックタッチはいくつもあると思うけれど、その一つはきっと「つくるものを慈しむこと」にある。ていねいに、ていねいに、心から作品をかわいがる。たしかにお料理だって、そのほうがおいしくなりますね(爆)。



メモリータグ■田舎の少年、カンタくん。全宮崎作品のなかで、もっともリアルな少年像にちがいない。




0241. 風の谷のナウシカ (1984)

2007年12月23日 | 1980s
Nausicaa of the Valley of the Winds / Hayao Miyazaki
116 min Japan

風の谷のナウシカ (1984)
原作・監督・脚本:宮崎駿、作画監督:小松原一男、音楽:久石譲、声:島本須美(ナウシカ)・納谷悟朗(ユパ)・家弓家正(クロトワ)・松田洋治(アスベル)


やはりすごい。独創的な光景の連続に、息をのむ。この独自の世界を「脳裡に見る」だけではなく、みずから克明に表現できる画力を併せもったひとがいたという稀な事実に、また唖然としてしまう。

構想と出力との間には、誰でもギャップがある。かりに実写映像の監督であれば、ここまですべてを独力で「吐き出す力」がなくても、作品をかたちにすることはひとまず可能だろう。けれど最終的なかたちが実写であれ、アニメーションであれ、あらかじめ「見る力」はもっていなければならない。見えたものを、血を吐くように吐き出していく。すると意識内で克明に見えていたヴィジョンを凌駕して、さらに奥からなにか思いがけないものが姿をあらわす瞬間が、宮崎さんのようなひとの場合はあるのだろう。自意識の地殻を割って噴出してくるその想定外の力が、才能とよばれる。

今回、あらためて質感に驚いた細部がいくつもあった(こんなに何度も見ていて、まだ驚くのです)。ひとつは "青き衣のひと" をえがいたタピストリー。暗い室内で炎に照らされた彩色の鮮やかさは、のちの『千と千尋』で駆使されたCGの華麗さに劣らなかった。結局、作るがわの脳裏に見えているものが豊饒であるからこそ、出力を強化するテクノロジーを導入することに意味があるとわかる。こちらの平凡な目は、実現度の高いものを目のまえにおかれてみて、はじめて、そこに内在していた意図に気づく。気づいてから戻ると、すでに原点から「見えていた」作り手のイデアに圧倒される。

けれど宮崎さんでさえ、この世界をかたちにするまでにはおそらく何十年もかかっている。つくづくためいきが出るのは、これほど才能のあるひとが、この時点まで膨大な修練をつんで力を蓄え、待ったという歳月のながさと忍耐力です。大きいヴィジョンを吐き出すにはそれなりの体力がいる。そのことを、知りつくしてのぞんだにちがいない。職業としてアニメーションに携わるようになってからでさえ、二十年はたっている。なまじな思いつきでかたちにできる水準ではない。おろそかに生きてはこなかったひとだとわかるのだ。

ようは、もてるものが法外に大きければ、それを外に出すにも法外な力がいる。天才はたいへんそう。人よりはるかに重荷にあえぎ、苦しむことになる。これほどの作品であっても、宮崎さんにとっては「見えていたもの」のごく一部にすぎなかったのだろう。苦しみながら、グラフィックノヴェルというかたちでさらに「出力」をつづけることになった……。

『アニメージュ』に連載された、あのノヴェルの表現濃度も並はずれて濃かった。通常のコミックと比較してけっして長くはないなかに、壮大な展開が凝縮されている。結果として『ナウシカ』に関してはアニメーション版よりノヴェル版のほうに高い評価をあたえる意見もでてくる。よくわかるけれど、くらべるのはもったいない。アニメはおおぜいを率いるオーケストラ、ノヴェルは一人でつむぐソロピアノ。そのちがいというか、レオナルドだって、大がかりな彩色画よりは素描のほうが、裸形の内省をなまなましく伝えている。けれど、聖母のデッサンがみごとすぎるという理由で『岩窟の聖母』を否定するひとはないだろう。媒体の性質が異なるのだと考えたい。



メモリータグ■キツネリスのテトにびっくり。小動物の動きがこんなにていねいに造形されていたなんて。ぱっと視線がいく位置ではないのに、全身の表情の豊かさに魅了される。クライマックスのシーン、荒れ狂うオウムの群れに対峙するナウシカの肩では、テトも果敢な表情で対峙している。ご主人といっしょに死を覚悟している、けなげで勇敢なリスなのです(笑)。




0240. Empire of the Sun (1987)

2007年12月20日 | 1980s
太陽の帝国 / スティーヴン・スピルバーグ
154 min USA

Empire of the Sun (1987)
Directed by Steven Spielberg. Written by Tom Stoppard, based on the novel by J.G. Ballard. Cinematography by Allen Daviau. Original Music by John Williams. Performed by Christian Bale, 1974- (Jim 'Jamie' Graham), John Malkovich (Basie), Miranda Richardson (Mrs. Victor), Nigel Havers (Dr. Rawlins) and Emily Richard (Mary Graham, Jim's mother).


物語が終わる最後のカットは、やすらかにまぶたを閉じる少年の瞳。ひさびさに再見、すばらしい映像だった。

戦火のもとで逃げ惑い、何年も離ればなれになった親子の再会を表現するとき、ふつうの監督が考えることは、たがいに駆け寄り、感極まって泣きながら抱き合うといった演出ではないかしら。

でも、スピルバーグはちがう。戦災孤児収容所のこの場面の演出は深く独創的で、ありふれた表現はひとつもなかった。世界大戦がようやく終結したのち、行方のわからないわが子を探しに施設を訪れた、不安そうな母親たちがまず映し出される。距離をおいてならび、対面する子供たち。ひと組の母と子がたがいを認めて抱き合い、これをきっかけに親と子たちは歩み寄り、家族を探しあう。混みあったホールのなかで、主人公の少年はもはや母親の顔を思い出すことができずに、ただ立っている。少年の父は気づかずに脇を通りすぎてしまう。息子のおもかげをどこかに認めて、ためらいながらつぶやく母親のよびかけだけが、ここで口にされる台詞のすべてになる。
「ジェイミー?」
少年はわずかにふりむく。ゆっくりと、まだ確信がもてないまま近寄る母親。
「ジェイミー?」
少年は、黙ってその婦人を見上げると、ごく遠いもののように細部をまさぐる。母の手を眺め、唇にふれ、ついで彼女がかぶっていた帽子をとる。はるかな記憶をたどるように、手をのばしてその髪にふれる。かつてこの母と子がどれほど近かったか、そしていま、どれほど遠いかが重ねあわされる。息づまる動作だった。この髪の手触りを知っている。母親というのは、もしかしてこういうものだったろうか? 

少年はうつろな表情のまま、母親を赦すように肩を抱き、ようやく母親は息子を抱きしめる。ここは少年が状況を認識し、うけいれることが重要なので、親から抱きしめられるのではなく、彼の動作がこの場を主導することがただしい。スピルバーグの理性と感性は緻密に一致している。

物語は、その母親の肩ごしに上向いた少年の、静かに閉じられた瞳で終わる。うつろな瞳が、ゆっくりと閉じる。長い過酷な時間を一人の生存者として生き抜くあいだに、自分が子供であることも忘れていたこの子の異様で果てしない状況が、いま終わったことを告げていた。

呼びかけられる少年の名前も、自然であると同時に斬新だった。ジェイミーという呼び方は、租界の広い邸宅でなに不自由なく育ったイギリスの少年ジェームズの、すこし気どった言葉づかいと共に、生存の厳しさのなかで捨て去られていったものだからである。少年は戦災孤児のジムとして自力で生きてきた。いたれりつくせりの血統書つきの家猫から、遺棄された外猫に変わっていくような少年の変化につれて、観客も、もとの呼び名を知らず知らず忘れている。そうして「ジェイミー?」というもとの呼びかけに、はっと胸をつかれる。この主人公が一人の子供であった過去を、ようやく思い出すのだ。


エピソードカットは租界の河口にうかぶ茶色の鞄。ジムが持ち歩いていた鞄である。なにもかもが終わったことを、ふたたび象徴する光景。すべてうますぎる。でもこんな作品をつくりたいと、心から思うすばらしいエンディングだった。

主演は当時12歳のクリスチャン・ベール。天才と騒がれたのはよくわかる。マルコヴィッチが負けていた(笑)。

少年が目を閉じるあのカットに近いシーンは、ひとつだけ思い浮かぶ。
ルイ・マルが『プリティーベイビー』(Pretty Baby, 1978) で撮ったラストシーン。ブルック・シールズが少女の服装で佇んでいる。この子はそれまで幼い娼婦として娼館で生きていた。保護者に引き取られて、年相応の身なりになった姿が映し出される。ただ、その結末が幸福といえるのかは、あの作品では深い問いのままにおかれている。少女の長い髪を、風がなぶる。時間はそこでとまる。こたえはない。



メモリータグ■南へむけて長い距離を歩きとおすにつれて、疲労がつのる人びと。手にしていた荷物を次第に投げ捨て、ただ、水がほしいと思うようになる。事態の経過につれて、欲望の優先順位が生存のための優先順位へと厳しく入れ替わっていくありさまが、説明なく語り抜かれていた。