うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0438. モネ・ゲーム (2012)

2014年09月16日 | 2010s

モネ・ゲーム / マイケル・ホフマン
89 min USA

Gambit (2012)
Directed by Michael Hoffman. Screenplay by Joel Coen and Ethan Coen. Short story by Sidney Carroll. Cinematography by Florian Ballhaus. Film editing by Paul Tothill. Performed by Colin Firth (Harry Deane), Cameron Diaz (PJ Puznowski), Tom Courtenay (the Major), Alan Rickman (Lionel Shahbandar),     



www.maltingsberwick.co.uk


ずいぶん笑った。結末など、ぶれはある。でも88点くらいはさしあげたい――もちろん100点満点で。ネットで評価をみるかぎり、驚くほど辛いものが多い。ひとはしばしばコメディーに厳しい。ひとつの理由は、仕上がったものが「軽い」からかもしれない。軽いものは軽んじられる。けれど軽く仕上げることがどれほど難しいかは――笑ってほしいスピーチの原稿をお書きになってみてください。きっと泣けてきて気づきます(笑)。

コメディーは優れた脚本に加えて、演出にも俳優にも特有のセンスがもとめられる。名優といわれるひとでも、できないひとはできない。よく喜劇俳優や喜劇作家がみずから監督をかねるのは、そのセンスを人任せにできないからだろう。この作品の監督マイケル・ホフマンはしっかりこなしていた。役者もじょうずで、明るいテキサス女性をキャメロン・ディアス、自尊心の高いイギリスの学芸員をコリン・ファース、ロンドンの富豪実業家をアラン・リックマンが演じている(最初に予定されていた配役はサンドラ・ブロック、ヒュー・グラント、ベン・キングズリーだそう(Imdb))。

脚本はコーエン兄弟、原題は『Gambit』――「計略」というのでしょうか。モネの贋作をしたてて巨額で売ろうとするお話です。もとになった1966年の『Gambit』は仏像を盗み出すのがおもな筋だったらしい。このときの訳題は『泥棒貴族』でした。

今回、日本で受容されにくかった背景のうち、ひとつはむりもないと思う。「日本人ビジネスマン」一行が、絵画蒐集の競争相手として設定されていて、徹底的に戯画化されている。でもわたしは笑ってしまいました。かつて一枚のゴッホに100億円を支払った国は、すこしばかりちゃかされることも覚悟しなければなりません。



追記:結末をよりすっきり仕上げるには、微調整ですむと思う。うさこの素朴な案でいえば「主人公の学芸員は私欲を捨てて、テキサス女性に自分の秘蔵作を譲って潔く無一文で別れる。だがそのあとで、相棒の贋作画家が「裏方仕事」を披露してくれる。本物のモネをひそかに贋作とすりかえてきていたのだ――」といったものです。うさこ語で「敗者の恩寵勝ち」。

詐欺や盗みは悪いことなので、むしろ主人公に失敗させるという終りかたがある。悪事ではなにひとつ利益を得ないまま敗者になるプロセスをつうじて、彼は自己を知り、あるいは愛や友情を勝ち得る。「奪わなかった者は与えられる」という「恩寵勝ち」は、気持ちのいい終りかたになる。この作品は、山場でそのかたちをめざしたと思う。とてもよかった。最後でほんのすこしぶれただけです。

たとえばアルセーヌ・ルパンはいつも泥棒以外の望みを得られなくて失恋している。唯一の例外は『八点鐘』で、あの作品ではなにも盗んでいないからだという堀口大學さんの名解説を思い出します。




メモリータグ■サヴォイホテルの受付。一人ではなく二人配したことで、おかしみの気配を増幅させている。基本に忠実。



 

 


番外:村上春樹『女のいない男たち』文藝春秋(二〇一四)

2014年09月04日 | 番外

 

夏の終りに村上春樹さんの最近の短編集を読んだ。『女のいない男たち』。最後から二つ目の「木野」という作品がよかった。集中しきった強靭な想像力が伝わってきた。

世の中には、冥界のように広く深い無意識を自己の内部にかかえた書き手がいる。それでも、長い歳月をかけてその冥界の隅々までを探索しつくして、ついにすべての扉を開いてしまったら、そのあと書き手のうちにはなにが残るのだろう? なにもかも意識の白い光に照らされたその世界から、ほんとうの意味で新しい物語はもう生まれてこないのではというひそかな不安を、読み手としてずっと抱いてきた。

青鬚が最後の部屋を開け放ったとき、物語は終わる。すべては語りつくされてしまったからだ。消え去った女性を探して冥界をめぐるオルフェウスの長い旅の円環は、『海辺のカフカ』でひとたび完結していた。あれは旅の終り、完璧な円環はしっかりと閉じてしまった――まちがいなく。

けれどこの短編「木野」を読むと、無意識の冥界はひとりでに変容していくものだという衝撃的な証言に遭遇した気がする。かつて隅々まで探索しつくした部屋であっても、十年後に再訪すると姿が変わっているのだ。そこにあるのは、巨大な世界樹の地下茎が鬱蒼とからまりあった集合的無意識の生命空間なのかもしれない。無意識の闇は生きている。そこからはまた新しい物語が生まれてくる。