白い恐怖 / アルフレッド・ヒッチコック
111min | USA
Spellbound (1945)
Directed by Alfred Hitchcock. Screen play by Ben Hecht and Frances Beeding suggested by novel "The House of Dr. Edwardes" by Hilary St George Saunders and John Palmer. Adaptation by Angus MacPhail. Art of dream sequence is based on designs by Salvador Dali. Performed by Ingrid Bergman (1915-1982) as Dr. Constance Petersen, Gregory Peck as John Ballantyne. Michael Chekhov as Dr. Alexander Brulov.
http://www.potsdam.de/event/mit-hitchcock-im-kino-spellbound
主役のイングリッド・バーグマンは精神科医という設定で、めがねをかけて白衣をひるがえし、煙草をふかして登場する。そのステレオタイプな造形や、頻出する女性蔑視の表現、なにより徹底的に論理性を度外視した展開が気になって、ヒッチコックを好きだったわたしでも十代のころは集中できなかった作品だった。でもいまは、その荒唐無稽をねじふせて場面ごとの起伏を作り上げようとこころみる映像語法の気迫のほうに引きつけられる。いまも変わらず目に飛び込んでくるのは、怖い場面の光と影とカット割り、アングル、カメラワークの強烈な演出力です。
たとえばニューヨークの中央駅の場面が出てくる。医師役のバーグマンが、記憶喪失の患者(兼恋人)を切符売場の列にならばせてこう命じる。あなたはまえにここで切符を買ったはず。あのブースまで行き、切符を買ったときの行き先を思い出しなさい。この患者が中央駅から自分で切符を買って列車に乗ったという証拠はなく、その主張には根拠がない。でも表情の演出やカット割りで、緊迫した瞬間に高めていく。思わずコンテを見たくなる。
「プロットの弱点をどう乗り越えるか」は、物語制作における最大のチャレンジのひとつではないかと思う。弱みのない脚本などない。「ここがどうしてもだめ」と作り手が思ったら、その作品はかたちにならない。このまえ『プレステージ』を観直してみて、つくづくそう思った。あのプロットには、ほぼ致命的な弱点がある。でも時間軸を行き来する複雑な語り口で観客の気をそらし、ぎりぎりで見せ切ってしまう。あれは手品をえがいた作品で、作品じたいが手品になっている。その頭脳的な戦略設計と、底知れない執念にうなった。すべての創作は手品なのです、きっと。
ヒッチコックの作品群という流れのなかに『白い恐怖』をおいてみると、ヒロインが自立して専門職をもち、自分の意志で事態をリードしていくのはこの作品が最初かもしれない。女性役に対するあの作家の嗜虐性に対しても、このあたりから男性役の自虐性の比率が高まっていく傾向を感じる。原題はスペルバウンド(呪縛)で、呪われた王子の呪いを賢女が解いてくれるおとぎ話の変形として理解できることに気づく。魔法の国で修行をしてきた善き魔女の、愛と魔法で呪いが解けるこのお話は、ディズニーの世界と変わらない。20世紀のある人びとにとって、フロイトはまさしく大魔法使いだったのだろう。だから学術の論理性にとらわれる必要はありませんわ。ビビディバビディブー。
メモリータグ■卵入りのコーヒーを淹れる coffee with an egg in it という台詞を主役が口にするところがある。なんだか気になっていたら、IMDBに説明があった。ポットに生卵を割って殻ごといれてしまい、コーヒーの粉とまぜて、お湯をそそいで火にかける。沸騰したらかきまぜて、また十分に沸騰させてから火をとめて、一杯だけ水を注いで、しばらく待つ。ポットの底で卵が粉と固着しているので、そのまま静かにカップにつげば濾さなくてすむという。だいたいコーヒー10杯くらいまでで卵1つという割合のようです。パーコレーターなどが登場するまえの工夫で、雑味も取れるのだとか。ううむ。たしかにネットをみると類似のご紹介がさまざまにみつかる。ただ、物質的利便性が世界最高度に追究されていたあの20世紀なかばのアメリカで、その淹れ方が一般的だったかどうか。作中で主役がコーヒーを淹れる相手は東欧系らしい老教授なので、彼の習慣に合わせたという記号かな? この淹れ方は北欧や東欧が由来とされているとも書かれていたので、そうかもしれません。いろいろ愉快に想像しました。