私の、息子 / カリン・ピーター・ネッツァー
Pozitia copilului (2013) aka. Child's Pose
Directed by Calin Peter Netzer. Screenplay by Razvan Radulescu andCalin Peter Netzer. Cinematography by Andrei Butica. Film Editing by Dana Bunescu. Performed by Luminita Gheorghiu (Cornelia Keneres), Bogdan Dumitrache (Barbu),
Natasa Raab (Olga Cerchez), Ilinca Goia (Carmen). Adrian Titieni (Child's father).
https://www.imdb.com/title/tt2187115/mediaviewer/
これ、コメディーにするほうがよかったかもしれない。富裕で支配的なママが、二十代の一人息子を溺愛してべったり私生活を侵襲しつづけるという基本設定で、このママが主役にすえられている。平凡な母子依存の描写がひとつひとつ重ねられるうち、息子が無謀な追い越し運転をして十四歳の貧しい少年をはねてしまい、悲惨な死亡事故を起こしたことが伝えられる。ママはお金と人脈を総動員してもみ消しに奔走する。それがプロットです。
あいにくこのママに、最初から最後まで人格的変化はない。社会的境遇にも変化がない。この一家の利己的な言動に対する倫理的批判もない。え、じゃいったい主題はなに? うーん、最後に息子がすこしだけ精神的自立への萌芽をみせること、でしょうか。やれやれ。
ね、どたばたコメディーにでもしないとつらそうでしょう? はい、つらいものがありました(涙)。だってこれをひたすらまじめにえがくんだもの。でも脚本のダイアローグは優れている。交通事故の概要は人びとの口から断片的に語られて少しずつみえてくるようになっていて、観客の想像にゆだねる構成をとっている。家族を主題にしたいかたには参考になるだろう。演出はふつう。映像はとくに印象に残るものはない。総合的にみれば人間性のリアリティーが出ていて悪い作品ではなかったけれど、独創性は感じなかった。
この場合は脚本に社会的な批判の視点を導入するという選択肢もあったろう(いいかえれば、めずらしくそれがないのです)。両親が必死で画策することは違法な行為ばかりで、たとえば警察の上層部から手を回して調書を閲覧したり、証拠を隠蔽したりする。息子は大幅なスピード違反をしていたという現場証言をお金で撤回させようとこころみたりする。それなら一連の画策が手のつけられない泥沼に落ちて一家が身動きできない社会的状況に追い込まれるという展開のほうが説得はしやすかった。なにしろ、ちぎれ飛んでしまったほど損傷の激しい少年の遺体を検視する医師が、なんと当のどら息子の父親だったりする。殺害者の親が検死医? ル、ルーマニアすごい。ここがいちばん斬新だった。ただし、それらに対する批判のメッセージはみえない。
学校終わった、いまから帰るね、とモバイルで家にメッセージを送った十四歳の少年が、遺体になって戻ってきた。明日が葬儀というその死者の親にむかって、うちの息子を助けてくださいと殺害者の母親が泣く。その姿をつうじて制作者が訴えたかったものはなんだったのだろう? 倫理性をこえた「愛情」かしら? たしかに現代の映像界はときに政治的妥当性という掟に過度に縛られてみえることがある。そして掟破りはアートの掟でもあります。でもわたしはあまり説得されなかった。
ひとつにはキャスティングやスタイリングがちぐはぐで、視覚的に共感を持ちにくかったためもあると思う。まず母親と息子の取り合わせがしっくりしない。息子のスタイリングはどちらかというと貧困層にみえてしまう (下の写真)。母親を熱演したルミニツァ・ゲオルギウは力のある俳優だと思うけれど、ここでは下品な金満家にみえて、知的な職業人という設定どおりにはみえない(ルーマニアの富裕層表現は、いまだに毛皮のコートなの? その時代錯誤ぶりまで計算されていたとは思えないのですが。とにかくこのママは建築家で、オペラの舞台装置も手がけたりしている著名な知識人という設定です。でもちょっとなじまなかった。上の写真の右の女性です)。
手がけたカリン・ピーター・ネッツァーはルーマニアの男性監督で、原題は「胎児姿勢」らしい。なるほど。胎児なみの息子のほうはいっしょに暮らす恋人がいるものの、経済的にも精神的にも共依存の母子関係から脱していないまま、両親には暴言を浴びせつつ広いマンションを与えられて大学院に在籍している。最終場面で訪れる彼の小さな「自立」は、自分が殺してしまった少年の父親に自分でわびるという行為で、これがクライマックスになる。バックミラーに映る二人のやりとりは車の中で待っている母親の視点に立っていて、このアングルは順当だった。ただ、ずいぶんあっさり和解できてしまう。最初はママが一人で遺族に訴えるあいだ、息子はママの車の後部座席という「子宮」に隠れていたのですが。
遺族とどら息子が和解しかけて母親が安堵した最後の瞬間、どら息子がすっと刺し殺されるというほうが帰結として本質的だった気がする。わたしならそうした。それが正義だからということではなく、深く哀れな何かが心に残った気がするのです。
家族の相克という主題は20世紀後半の一流作家たちが手がけたそうそうたる系譜のある領域で、あとからやってきたこの類似作品が少し古めかしくみえるのはしかたがない。それでも2013年のベルリン映画祭で金熊賞を得ている。審査員長はウォン・カーウァイ(王家衛)、『恋する惑星』『ブエノスアイレス』(カンヌ監督賞)などを発表している。
第二席は『鉄くず拾いの物語』だった。そちらはボスニア・ヘルツェゴヴィナの少数民族家族が陥る困難の実話で、すくなくとも「国際社会への訴求と歴史の証言」という点では価値に客観性があった。手法も一眼レフの動画機能だけ、俳優は素人という挑戦的なものだった。とても地味な作品ではあれ、いっそあちらを一席にするほうがむしろ映画祭の存在理由を鋭くアピールできたかもしれない。結果的にやや迷ったような平凡な選択になった。この第一席作品、あってもいいけど、なくても誰も困らないわよ――。有名映画祭の方針にはじつにきわどいものがある。
なんであれ、小さい出品作が多い年だったのだろう。ちょっとナンニ・モレッティの『息子の部屋』を思い出しました。2001年のカンヌの第一席で、あれもずいぶん幸運な受賞例だった(二席はハネケ『ピアニスト』)。
参考:この2013年、カンヌの一席は『アデル、ブルーは熱い色』、二席は『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』だった。ヴェネツィアの一席は『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』、二席が『郊遊 <ピクニック>』。(この『郊遊』だけは残念ながらいまのところヴィデオを入手できずにいます)。