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うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0496. 私の、息子 (2013)

2018年08月05日 | ベルリン映画祭金熊賞

私の、息子 / カリン・ピーター・ネッツァー

Pozitia copilului (2013)  aka. Child's Pose
Directed by Calin Peter Netzer. Screenplay by Razvan Radulescu andCalin Peter Netzer. Cinematography by Andrei Butica. Film Editing by Dana Bunescu. Performed by Luminita Gheorghiu (Cornelia Keneres), Bogdan Dumitrache (Barbu),
Natasa Raab (Olga Cerchez), Ilinca Goia (Carmen). Adrian Titieni (Child's father).


https://www.imdb.com/title/tt2187115/mediaviewer/

これ、コメディーにするほうがよかったかもしれない。富裕で支配的なママが、二十代の一人息子を溺愛してべったり私生活を侵襲しつづけるという基本設定で、このママが主役にすえられている。平凡な母子依存の描写がひとつひとつ重ねられるうち、息子が無謀な追い越し運転をして十四歳の貧しい少年をはねてしまい、悲惨な死亡事故を起こしたことが伝えられる。ママはお金と人脈を総動員してもみ消しに奔走する。それがプロットです。

あいにくこのママに、最初から最後まで人格的変化はない。社会的境遇にも変化がない。この一家の利己的な言動に対する倫理的批判もない。え、じゃいったい主題はなに? うーん、最後に息子がすこしだけ精神的自立への萌芽をみせること、でしょうか。やれやれ。

ね、どたばたコメディーにでもしないとつらそうでしょう? はい、つらいものがありました(涙)。だってこれをひたすらまじめにえがくんだもの。でも脚本のダイアローグは優れている。交通事故の概要は人びとの口から断片的に語られて少しずつみえてくるようになっていて、観客の想像にゆだねる構成をとっている。家族を主題にしたいかたには参考になるだろう。演出はふつう。映像はとくに印象に残るものはない。総合的にみれば人間性のリアリティーが出ていて悪い作品ではなかったけれど、独創性は感じなかった。

この場合は脚本に社会的な批判の視点を導入するという選択肢もあったろう(いいかえれば、めずらしくそれがないのです)。両親が必死で画策することは違法な行為ばかりで、たとえば警察の上層部から手を回して調書を閲覧したり、証拠を隠蔽したりする。息子は大幅なスピード違反をしていたという現場証言をお金で撤回させようとこころみたりする。それなら一連の画策が手のつけられない泥沼に落ちて一家が身動きできない社会的状況に追い込まれるという展開のほうが説得はしやすかった。なにしろ、ちぎれ飛んでしまったほど損傷の激しい少年の遺体を検視する医師が、なんと当のどら息子の父親だったりする。殺害者の親が検死医? ル、ルーマニアすごい。ここがいちばん斬新だった。ただし、それらに対する批判のメッセージはみえない。

学校終わった、いまから帰るね、とモバイルで家にメッセージを送った十四歳の少年が、遺体になって戻ってきた。明日が葬儀というその死者の親にむかって、うちの息子を助けてくださいと殺害者の母親が泣く。その姿をつうじて制作者が訴えたかったものはなんだったのだろう? 倫理性をこえた「愛情」かしら? たしかに現代の映像界はときに政治的妥当性という掟に過度に縛られてみえることがある。そして掟破りはアートの掟でもあります。でもわたしはあまり説得されなかった。

ひとつにはキャスティングやスタイリングがちぐはぐで、視覚的に共感を持ちにくかったためもあると思う。まず母親と息子の取り合わせがしっくりしない。息子のスタイリングはどちらかというと貧困層にみえてしまう (下の写真)。母親を熱演したルミニツァ・ゲオルギウは力のある俳優だと思うけれど、ここでは下品な金満家にみえて、知的な職業人という設定どおりにはみえない(ルーマニアの富裕層表現は、いまだに毛皮のコートなの? その時代錯誤ぶりまで計算されていたとは思えないのですが。とにかくこのママは建築家で、オペラの舞台装置も手がけたりしている著名な知識人という設定です。でもちょっとなじまなかった。上の写真の右の女性です)。



手がけたカリン・ピーター・ネッツァーはルーマニアの男性監督で、原題は「胎児姿勢」らしい。なるほど。胎児なみの息子のほうはいっしょに暮らす恋人がいるものの、経済的にも精神的にも共依存の母子関係から脱していないまま、両親には暴言を浴びせつつ広いマンションを与えられて大学院に在籍している。最終場面で訪れる彼の小さな「自立」は、自分が殺してしまった少年の父親に自分でわびるという行為で、これがクライマックスになる。バックミラーに映る二人のやりとりは車の中で待っている母親の視点に立っていて、このアングルは順当だった。ただ、ずいぶんあっさり和解できてしまう。最初はママが一人で遺族に訴えるあいだ、息子はママの車の後部座席という「子宮」に隠れていたのですが。

遺族とどら息子が和解しかけて母親が安堵した最後の瞬間、どら息子がすっと刺し殺されるというほうが帰結として本質的だった気がする。わたしならそうした。それが正義だからということではなく、深く哀れな何かが心に残った気がするのです。

家族の相克という主題は20世紀後半の一流作家たちが手がけたそうそうたる系譜のある領域で、あとからやってきたこの類似作品が少し古めかしくみえるのはしかたがない。それでも2013年のベルリン映画祭で金熊賞を得ている。審査員長はウォン・カーウァイ(王家衛)、『恋する惑星』『ブエノスアイレス』(カンヌ監督賞)などを発表している。

第二席は『鉄くず拾いの物語』だった。そちらはボスニア・ヘルツェゴヴィナの少数民族家族が陥る困難の実話で、すくなくとも「国際社会への訴求と歴史の証言」という点では価値に客観性があった。手法も一眼レフの動画機能だけ、俳優は素人という挑戦的なものだった。とても地味な作品ではあれ、いっそあちらを一席にするほうがむしろ映画祭の存在理由を鋭くアピールできたかもしれない。結果的にやや迷ったような平凡な選択になった。この第一席作品、あってもいいけど、なくても誰も困らないわよ――。有名映画祭の方針にはじつにきわどいものがある。

なんであれ、小さい出品作が多い年だったのだろう。ちょっとナンニ・モレッティの『息子の部屋』を思い出しました。2001年のカンヌの第一席で、あれもずいぶん幸運な受賞例だった(二席はハネケ『ピアニスト』)。

参考:この2013年、カンヌの一席は『アデル、ブルーは熱い色』、二席は『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』だった。ヴェネツィアの一席は『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』、二席が『郊遊 <ピクニック>』。(この『郊遊』だけは残念ながらいまのところヴィデオを入手できずにいます)。

 

 

 


0485. 別離 (2011)

2018年05月19日 | ベルリン映画祭金熊賞

別離 / アスガー・ファルハディ
123 min Iran | France 

Jodaeiye Nader az Simin (2011) aka. A Separation. Language: Persian
Written and directed by Asghar Farhadi, 1972-, Iran. Cinematography by Mahmoud Kalari. Film Editing by Hayedeh Safiyari. Music by Sattar Oraki. Performed by Payman Maadi aka. Peyman Moadi (Nader), Leila Hatami (Simin), Sareh Bayat (Razieh), Shahab Hosseini (Hojjat). Sarina Farhadi (Termeh), Ali-Asghar Shahbazi (Nader's Father), Babak Karimi (Interrogator).  


https://www.imdb.com/title/tt1832382/mediaviewer/rm2618998016

この作品も脚本が秀逸だった。登場する誰もがすこしずつ弱みをかかえている。興味深いのは誰もがその弱みの責任を他人に転嫁しようと叫びあう主張の強さで、これは文化的な慣例の影響が濃いのか、この作家の手法なのか、それを見分けることができないほど、わたしはイスラムに無知だと自覚した。ともあれ作中ではこの全員の弱みと嘘が状況をつなぎ、そして悪化させていく。問題群の論点を整理して切断することをなかなかゆるさない、その連鎖の構造提示がたくみだった。

おかげで物語はかんたんに要約できない。針の穴のようにこちらの虚をつきながら螺旋状に問題が深まる。そして各人の人生がすこしずつ損なわれる。どうしてそういう言動に展開するのか、それぞれの論理にあぜんとする瞬間が何度もあるのだが、それは計算されている。2011年ベルリン映画祭金熊賞。2012年米国アカデミー外国語映画賞。ベルリンでは銀熊賞として最優秀女優賞・最優秀男優賞をあわせて得ている。主要な役を演じた俳優たちがほぼ全員で受賞しているのが印象的で、たしかによくエネルギーが拮抗し、かつ調和していた。11歳の少女テルメを演じたサリナ・ファハルディは監督のファハルディの娘さんだという。彼女もみごとだった。

えがかれるのは現代イランのふた組の家族。ひと家族は、離婚するかしないか不安定な距離にある夫と妻とかれらの娘、そこに認知証の老親が同居している。もうひと組は、この家庭で介護を担当する女性とその家族。全員が家族的な不穏をかかえ、それらのインシデントがつながってアクシデントにいたる。介護者の女性は流産する。胎児は19週に入っているため、流産の原因がもし雇用者の暴力にあるなら殺人罪になるという。

どちらの家庭にも娘がいて、この子供たちの存在感が作品を深めていた。11歳の少女の理知的なまなざし、おさない少女の無心の大きな瞳。子供の表情にはすべての問題を切断不能にする力がある。エンディングは娘の結論を待つ夫婦の横顔で終わっていた。優れた時間の使いかただった。


メモリータグ■介護者の女性は、認知症の高齢男性の体を洗って宗教上問題がないかを電話であらかじめ確認する。許可をえたあとまだ不安そうな女性にむかって、彼女の幼い娘がいう。「パパには言わないから」。彼女はとくに信心深い女性で、全員がここまでするわけではないことは観る側にも次第にわかってくる。





0483. 愛より強く

2018年05月05日 | ベルリン映画祭金熊賞

愛より強く / ファティ・アキン
121 min Germany | Turkey

Gegen die Wand (2004)
Directed by Fatih Akin. Written by Fatih Akin (book). Cinematography by Rainer Klausmann. Film Editing by Andrew Bird. Performed by Birol Unel (Cahit). Sibel Kekilli (Sibel). Guven Kirac (Seref).   


https://www.dvdtalk.com/reviews/16327/gegen-die-wand-head-on/

注目を集めるトルコ系映像作家たちのなかで、ほぼ最後にファティ・アキンを観たことになるかもしれない。ヴァイオレント・ラヴストーリーといえばいいのか、ひと組の男女の無計画な人生選択をなかなかの破壊力でえがいていた。

個性はしっかりしている。情動性の濃い作風で、エネルギーのある作り手だと思う。編集も、すくなくとも途中までは場面内の展開をさくさくとみじかく切って重ねることでコミカルな自己批判性を出していた。ああなってこうなって、どうせそうなんだけどさ、という要約性がもたらす笑いです。これは編集を手がけたアンドリュー・バードのセンスやリズム感が貢献しているのだろう。

この作品の前半は、とつぜん自傷行為や他傷行為に展開する衝動性をつうじてある種の進行感がもちこまれていた。たとえば会話の途中で、ヒロインはいきなりビール瓶を叩き割って破片を自分の手首に突き刺す。高く噴出する血液、みるみる赤くなる衣服、騒然とする周囲。ただ、この種の刺激はエスカレートしていかなければならないという宿命がある。スペクタクルの一種だからかもしれない。

後半はすこし退屈していた。破滅が行きつくと、まじめになるしかない。まじめになると勢いも皮肉も消えてしまう。前半は男性主人公を軸にしたシニカルなファンタジーで始まるものの、後半は女性主人公によりそって同情的なリアリズムに滑り落ちそうになる。ともあれ、逃げずに最後まで取り組んで2004年ベルリン映画祭金熊賞。10年後の金熊賞『薄氷の殺人』との共通性もあるけれど、あれよりは体力があります。演技の指示はしっかりしていそう。ざんねんながら映像に傑出した点は感じない。

かいつまんだあらすじ:現代のハンブルクに暮らすトルコ系社会の人びとがえがかれる。荒れた生活のはてに自殺未遂をした清掃人の中年男性は、やはり自殺未遂をした若い女性から初対面で結婚を申し込まれる。彼女は抑圧的な家族の結束から逃れる唯一の手段として結婚を望んでいるのだという。偽装結婚に応じたのちは、たがいに薬物とディスコと酒類と、べつべつの相手との刹那的な性生活がつづく。やがて「夫」は「妻」に恋をして、彼女の交際相手を衝動的に殺してしまう。彼女は自立を模索して、歳月をへて再会するけれど、といった展開です。かなめになる内的動機は台詞で説明されていて、よかれあしかれわかりやすい。「Gegen die Wand(壁に向かって)」という素朴な原題じたい、そうかもしれない。

と、あらためて書いてみると、やはり恋に落ちる展開そのものは想定内で、これは後半をもてあます要因にもなっている。編集でこの弱点を消せるだろうか? 清掃人が衝動的な殺人を犯したところでしっかり切って、あとはエピローグに近い点描処理で、ばさばさと刈り込んでシニカルに進めて、帰結の場面だけしっかり。そのほうがむしろ余韻をのこせたかもしれない――監督が受けいれさえすれば(むりをいわないで)。

でもラヴストーリーのかなめは文体。傷があってもいいから、挑まないと。むかし『カルメンという名の女』というゴダールの名作があったことを思い出す。しっかり突き放すことで詩的に昇華した破滅的なあの表現を、もう一度観たくなりました。



メモリータグ■節目ごとに歌手とバンドが現れて、できごとの象徴性を歌ってくれる。





0465. 海は燃えている イタリア最南端の小さな島 (2016)

2017年12月30日 | ベルリン映画祭金熊賞

海は燃えている イタリア最南端の小さな島 / ジャンフランコ・ロージ
1h 54min. Italy | France

Fuocoammare (2016)  aka. Fire at Sea
Written and directed by Gianfranco Rosi. Idea by Carla Cattani. Cinematography by Gianfranco Rosi. Film Editing by Jacopo Quadri. Digital Composite by Luca Bellano. Performed by Giuseppe Fragapane, Samuele Pucillo, Pietro Bartolo, Maria Costa. Award: Berlinale 2016 Golden Bear. President of Jury: Meryl Streep (USA).


http://spindlemagazine.com/2016/10/documentary-film-fire-sea/

ランペドゥーサ島は、イタリア本州南端から200キロの距離にある。この地中海のちいさな島がいま欧州の入り口と化して、中東やアフリカからの巨大なエクソダスの流れを迎えつづけている。6000人あまりの住民よりも、難民の総数のほうが遥かに多い。

作品はドキュメンタリーとして制作されている。説明もナレーションもない。だがそれは演出を含まないということではない。どうやってここまで壮麗に自然界をとらえたのだろうと思わず目をこらす映像がつづく。透明な夕暮れ、救難信号が響く夜、逆光の海中、淡い青から濃紺まであらゆる青が世界を彩る。撮影は監督のジャンフランコ・ロージ自身が手がけ、デジタル合成にスタッフが配されていた。主題も映像も強い。島に住むひとつの家族と少年の平穏な日常を織りこみながら、いっぽうでおびただしい移民・難民がつぎつぎと船で着岸する非常事態が記録されていく。どちらも現実なのだ。でもなんという現実だろう。

目的地を前に、多くの船が遭難していく。転覆しかけている難民船との交信が響く。船からの怯えきった叫び声がマイクごしに届き、救助隊員がけんめいに問い返す。いまどこです、いま位置はどこなんです。ようやくたどりついたある船の船室が映される。何十人もの人びとが折り重なって倒れている。誰も動かない。死んでいるのだ。

渡航に際して、船の上部で甲板に出られる席には高い料金がもとめられるのだという。あがなうことのできなかった人びとは蒸れきった船底にぎっしりと詰めこまれ、脱水症状などで死に至った。カメラは無言でその場にたたずみ、遺体で埋まった床をゆっくりと映していく。この光景が、未来永劫忘れられることのないように。

島では救助隊、医師、支援者が手を差し伸べつづけるものの、かろうじて生きて上陸した人びとも、こののちの生の厳しさは想像をこえる。そして海も空も、これほどまでに美しいのだ。2016年ベルリン映画祭金熊賞。



メモリータグ■木の枝で作ったパチンコで小鳥を撃ち落としたがる12歳の少年は、ライフルを撃つまねも大好きらしい。母親の姿はない。彼はなぜこれほど「撃ち殺す」遊びが好きなのだろう? でも多くの少年はそういうものだったかもしれない。スマートフォンなど持たないぶん、その孤独な時間は幸福にみえる。いずれは家族のなりわいに加わって、彼も漁に出ていく日が来るのだろう。自分が育った島の果てしない美しさに、いつか気づくことがあるだろうか。






0459. 薄氷の殺人 (2014)

2017年11月18日 | ベルリン映画祭金熊賞

白日焔火 / ディアオ・イーナン
中国・香港 | 1h 50 min by Imdb (106 min by Kinenote)

薄氷の殺人 aka. Black Coal, Thin Ice. (2014)
Written and Directed by Yi'nan Diao:ディアオ・イーナン. Cinematography by Jingsong Dong:ドン・ジンソン. Film Editing by Hongyu Yang. Performed by Fan Liao:リャオ・ファン:廖凡(Zhang Zili). Lun-Mei Kwei:グイ・ルンメイ(Wu Zhizhen).


https://criticsroundup.com/film/black-coal-thin-ice/

粗削りな意欲作、だった。構成の破綻などはもはや度外視するとして、叙情性と無謀さをかねそなえた個性は伝わる。脚本は監督のディアオ・イーナン自身による。1969年に中国で生まれた映像作家で、これが三作目にあたる。2014年のベルリン映画祭はこの作品になんと金熊賞を与えたけれど、もう一、二作待ってもよかったのではと思う反面、待てば次第に完成度が上がっていくというタイプの創り手ではないだろうとも感じる。叙情性でトップに立つには映像がいまひとつ平凡で、破壊力をぶつけるにはパク・チャヌクの『オールド・ボーイ』などのほうがつき抜けていたのは確かなのだけれど、この作家にはむしろ黒い笑いを積極的にめざしてほしい。ところどころに芽はあった。

刑事を演じたリャオ・ファンがあわせて主演男優賞を得ている(主演女優賞は『小さいおうち』の黒木華さんだった)。この年のベルリンの審査員長はジェームズ・シェイマス James Schamus で、ながくアン・リーと仕事をしてきた中国通、アジア通の映画人だった。ほかにトニー・レオンが審査員に入っている。アジアシフトの構えだったかもしれない

中国各地の石炭工場で、死体の断片がばらばらにみつかって物語が始まる。容疑者が射殺されて解決したようにみえるものの、五年後にふたたび類似の事件が起こる。クリーニング店で働く一人の女性の周囲で人が死んでいることがわかり、刑事の任を解かれて荒れていた男性主人公ジャンは、すこしずつ彼女に接近していく。

この主人公は女性に対する粗暴な支配性がめだつ設定で、なかなか感情移入はしにくい。最初はこのキャストが、犯人役の俳優と見分けにくくてとまどった。字幕で追うしかない本編のわかりにくさもあったかもしれない。

観終えたあとでデータを読んでいて、『白日焔火』(白昼の花火)という原題に気づいて息をのんだ。なんだ、最後のクライマックスを作っていた決定的なモチーフ、「昼の花火」がそのままタイトルだったのだ。ストレートなこの情報がもっと前面に出ていれば、すこしは違ったと思う。それじたいをひとつの問いとして、画面の上に投影しつづけることができたろう。

ここで昼の花火はおそらく「場違い」を示唆している。主人公は場違いだらけの人間なのだ。刑事から降格されたのに捜査に鼻をつっこむ場違い。それなのに重要参考人の女性をくどいてしまう場違い。さらにその女性を逮捕させておきながら、手向けの花火を(真昼に)降らせるという場違い。それがこの作品の叙情性の核です。真剣に力を注ぐのに、いつも場違い、筋違いでしかない不器用な男――まるで昼の花火。この言語的理解については東アジア通の審査員の顔ぶれが幸いしたことだろう。

英訳題 Black Coal, Thin Ice も決してよくはないけれど、「薄氷の殺人」という平凡な邦題をわざわざ考案して、結果的に「昼の花火」という肝心かなめの象徴性を捨ててしまった日本語版の公開方針は、ちょっともったいないというか――昼の花火――だったかもしれません。



メモリータグ■殺人がおこなわれたアパートの現場検証の場面。知らずに部屋に住んでいた若い夫婦があっけにとられている。ユーモアのある、いいカットだった。むしろこういう方向に適性を感じる。






0455. 蜂蜜 (2010)

2017年04月02日 | ベルリン映画祭金熊賞

蜂蜜 / セミフ・カプランオール
トルコ 1h 43 min.

Bal (2010)
Directed by Semih Kaplanoglu. Written by Semih Kaplanoglu and Orçun Köksal. Cinematography by Baris Özbiçer. Performed by Bora Altas (Yusuf), Erdal Besikçioglu (Yakup), Tülin Özen (Zehra). 監督:セミフ・カプランオール、脚本:セミフ・カプランオール、オルチュン・コクサル、出演:ボラ・アルタシュ(ユスフ)、エルダル・ベシクチオール(Yakup)、トゥリン・オゼン(Zehra)。    


https://www.youtube.com/watch?v=LF7LcMdlNQs


自然音がすばらしい。森の木々を揺さぶる風の音、したたる雨の音、遠雷、虫の声、川の水音。翳りの深い映像と共に、一人の子供の心に積もっていく果てしない時間と遠い孤独を、世界の響きが表現していた。

光と音だけでどこまでものを語ることができるか、妥協なく賭けてくる映像作家は少ない。カプランオールはそれをする。映像の時空に融け込んだような、一種不思議な演劇性がそこに生まれていく。強靭な作風は変わらない。完全にカメラを固定した冒頭のカットは3分40秒を超えていた。被写体をとらえて微妙に調整するためのわずかなパンさえおこなわない。画面の奥行き軸を使ってゆっくり手前に移動してくる被写体はフレームアウトして、また戻る。このショットをふくめた冒頭場面が物語の核心をなすことは最後近くまであきらかにされないが、そのスタイルは三部構成の第一作『卵』を連想させて、詩的な様式性を醸している。

寡黙な挿話をつみ重ねてわずかずつ記号の織物を紡いでいく語りの速度は、けっして観客ににじり寄ってはこない。観る側は、最後の糸が中央に縫い込まれて図絵の意匠が全貌を現すその瞬間まで、ただ集中して光と音の新鮮な変化を追いつづけるのだ。いま、内なる勝負に立ち会っているという厳しい臨場感ののちに、静かな成就が訪れる。2010年ベルリン映画祭金熊賞。



メモリータグ■水に映る銀色の月。ここは強く舞台的な映像演出だけれど、行き過ぎてはいなかった。





0442. 悲しみのミルク (2009)

2015年01月10日 | ベルリン映画祭金熊賞

悲しみのミルク / クラウディア・リョサ
95 min

La teta asustada (2009)  aka. Milk of Sorrow
Written and directed by Claudia Llosa, 1976-. Cinematography by Natasha Braier. Film editing by Frank Gutiérrez. Music by Selma Mutal. Performed by Magaly Solier (Fausta).  


www.popscreen.com

質朴だけれど、映像構成にセンスを感じる。母親の孤独な死と、いとこの陽気な結婚式にはさまれた一人の娘の、世界に対する根源的な怖れを描くことができていた。ペルーの若手、クラウディア・リョサの長篇第二作。このひとはバルガス‐リョサの姪にあたるそう。誰であれ、切り取られた時空のなかに主題の象徴をきちんととらえていたので、落ち着いてみていられた。2009年ベルリン映画祭金熊賞。審査員長はティルダ・スウィントン。

主人公ファウスタは、叔父一家と共にペルーの貧困地域に暮らしている。母親が亡くなり、故郷に埋葬する費用を調達しようとして富裕な家のメイドになる。葬われることを待つ母の遺体はそのまま過去を表象する。それは作品の核をなすメインモチーフとして「親の過去に呪縛された娘」という主題に強い重力を形成していた。娘は毎夜、ベッドで母の遺体によりそって眠るのである。

原題は「恐れの乳首」。母の乳をつうじて子供に恐怖心が伝わるという民俗的な伝承があるのだという。心理的には妥当な解釈に思える。多くの子供が親の影を引き受けて生きていることを臨床家たちは指摘してきた。

創作上の記号としては『ギルバート・グレイプ』の巨体の母を想起することもできる。あの作品では最後に母の遺体が家ごと焼かれた。この作品では故郷に遺体が埋められ、そのとき初めて親の過去から子の未来が分離される。だが子供の世界観には社会的過去が大きく投影されているぶん、より重いともいえるだろう。

ファウスタの母親はかつて故郷の村のテロによって、残虐な集団強姦を妊娠中に受けた。娘はその破滅的な精神的外傷を深く継承している。性的恐怖、異性への恐怖、そして実存性そのものへの恐怖でその意識はぶ厚く塗りこめられ、みずからを生きることができない。強姦をおそれるあまり、性的な経験をもたないまま膣にじゃがいもや異物を詰めつづけている。この一種の性的自死を第二モチーフととらえることができるだろう。それは "閉ざされた現在" を表象している。母が強姦されたとき胎内にいたファウスタは、いまも母のなかにいるのだ。時がとまっている。こうして「死んでいるのに生きている母」と「生きているのに死んでいる娘」が重なりあう。二者を表象する二つのモチーフがともに身体的であることが、普遍的な強度につながった。

いっぽうで、いかにも南米らしい陽気な結婚式がえがかれる。その空間にこの孤絶した娘をおくことで、集合的苦悩の巨大な傷口からはいまもまだ血が流れつづけていることを伝える。騒がしい結婚式は第三モチーフなのである。それは主人公のかたわらを流れていく、ひらかれた肯定的な未来を示唆する。

過去・現在・未来をあらわすこれら三つのモチーフはいくどもくり返されてこの作品のリズムをなし、表現の象徴性とひそやかな様式性を高めている。一見地味なリアリズムの作品にみえるが、そうではない。

最後ちかく、海辺の場面の、くぐもった淡い朝の光が荘厳だった。世界の恩寵である。ここを最終場面にしてもよかった。水と潮流は生命の象徴であり、再生を示唆する――もちろん。この広大な慰藉の朝を撮れたことを、おめでとうと心から思った。



メモリータグ■ファウスタの雇い主である音楽家のコンサート。音に近づいていくファウスタは楽屋から自宅をとおり、舞台袖へと出る。この作品の映像表現を凝縮した編集個所。彼女を導くほそい糸は内的な音楽であって、現実ではない。





0441. 塀の中のジュリアス・シーザー (2012)

2014年12月30日 | ベルリン映画祭金熊賞

塀の中のシェイクスピア / パウロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ
76 min Italy

Cesare deve morire (2012)
Written and directed by Paolo Taviani and Vittorio Taviani. Cinematography by Simone Zampagni. Film Editing by Roberto Perpignani. Music by Giuliano Taviani and Carmelo Travia. Performed by Cosimo Rega (Cassio), Salvatore Striano (Bruto), Giovanni Arcuri (Cesare).


www.questionemaschile.org

イタリアのレビビア刑務所の重犯罪者棟で服役している人びとが所内のオーディションで選ばれて、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を演じる。ひとつの舞台を仕上げていくこのプロセスが、フィクションをともなう映像として構成されている。この刑務所では毎年じっさいに劇を上演して所外の人びとに公開しているのだそうで、タヴィアーニはそれを一種の劇中劇として演出していった。編集は教科書のように堅実になされている。2012年ベルリン映画祭金熊賞。審査委員長はマイク・リー。

撮影は刑務所内でおこなわれた。独房の室内、廊下、建物の屋上などが稽古場として映されていて、これを許可した刑務所側の柔軟さにも驚く。徹頭徹尾きまじめな作品で、社会的意義からみてもベルリンに出品したのは適切な判断だったろう。

たんなるドキュメンタリーではない。服役者たちが役に入っていくさまは明確な演出のもとに進められ、内面の独白も加えられていく。シーザーを暗殺する場面の稽古では窓からはやしたてる服役者たちが映されるが、かれらは劇中劇におけるローマの群集の役割をになう。濃い目の陰影をつけたモノクロの映像が、全体を引き締めていた。

スリリングな作品ではけっしてない。道徳的なまでに地味だけれど、できばえが悪いために退屈なのではない。腰をすえた反クライマックス指向なのである。だからこの作品を評価するには、タヴィアーニが「なにをしたか」ではなく、「なにをしなかったか」を考えるほうがいい。彼らは、それぞれの服役者の過去をえがき込んだりしない。上演時の舞台衣装も素人演劇そのままの簡素なものである。特別に予算を投じて迫真の舞台に仕上げれば多少はドラマティックになっただろうに、それをしない。そもそも冒頭ですでに本番の上演風景――アマチュアたちの素朴な到達点――をみせてしまう。この題材のいたるところに潜在する劇的因子を、周到にしりぞけて通っている。つまり登場しているのはふつうの人びとなのだ。服役者を利用してヒューマンドラマに仕立てることをしなかったその姿勢に気づくとき、鋼のように強靭な精神が伝わる。陰でさんざん演出をつけておきながら「感動のドキュメンタリー」と称してしまう弱さとは対極かもしれない。『グッドモーニング・バビロン!』の作り手はいまも、底鳴りするような静かな強さをもっている。



メモリータグ■独房のなかでもちゃんとエスプレッソを淹れられる。さすがはイタリアの刑務所(笑)。テーブルがあり、ベッドがあり、まともなスペースがある。「刑務所の居住水準」は、人の尊厳を考えるうえで重要な尺度におもえる。






0431. サラエボの花 (2006)

2014年04月20日 | ベルリン映画祭金熊賞

サラエボの花 / ヤスミラ・ジュバニッチ
90 min Bosnia and Herzegovina | Croatia | Austria | Germany
Language:Bosnian

Grbavica (2006)
Written and directed by Jasmila Zbanic, 1974-, Cinematography by Christine A. Maier, Film Editing by Niki Mossböck. Costume Design by Lejla Hodzic. Performed by Mirjana Karanovic (Esma) and Luna Mijovic (Sara).

 


記録をみるとボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は1992年の春から1995年の冬にかけて起こっている。敵対民族の女性を強姦して妊娠させ、自民族化させるため出産まで監禁するという悲惨きわまりない集団強姦が横行したことが伝えられている。この映画は、紛争から約20年のちのサラエボの人びとをえがいたもの。DVDのパッケージにはイビチャ・オシムさんがメッセージを寄せていた。あのようなことが二度とくり返されてはならないとあった。

けっして器用な作品ではないけれど、監督のヤスミラ・ジュバニッチはこれが長編第一作の若手作家なのだとあとから知った。脚本も彼女自身によるという。感服、よくがんばりました。むごい史実の社会的証言として、ドキュメンタリーでなくフィクションの形式をえらんだことも優しかったと思う。インタヴューなどで被害者の女性たちにつらい思いをさせなくてすむでしょう? 撮影はクリスティーネ・マイヤー。2006年ベルリン映画祭金熊賞。原題のGrbavicaは、サラエボの街区の名前のようです。

母と娘を演じた二人の俳優の表情がとても豊かで、こまやかな心の陰影をよくとらえていた。見終わったあとも、この手で街角のどこかにさわれそうな現実感がのこった。主演は太めの中年女性で、すぐそこの路上を歩いていそうなふつうの体型をしている。おかげで彼女の恋愛にも、不器用な迫力がにじんでいた。相手の男性も父親をあの紛争で亡くしたきり、いまだに遺体がみつからないのだと語る。そんなふうに共同体の誰もが、いまも引き裂かれたままであることが示唆されていく。街の内部にかくされている巨大な社会的苦痛の瘢痕を、わたしたちは見ることになる。

いちばんドキュメンタリーに近い効果を上げていたのは女性たちの素朴な服装。洗練されたドラマティックな装いの出演者は誰もいない。多くのひとは自分の普段着だったのかもしれない。それがよかった。流行歌などの音楽もたくさんでてきて、とても中東風で新鮮だった。アドリア海をはさんでイタリアのすぐ対岸の国なのに、大きく文化が違う。サッカーのことしか知らなかったうさこも、サラエボにいって帰ってきたような気持ちになりました。

結末をふくめたあらすじ:
母のエスマはローティーンの娘サラと二人で生活していて、ナイトクラブのウェートレスとして働きはじめる。かつてエスマは医学生だったのに、あの紛争で医師になる道を断たれ、暮らしはぎりぎりの貧しさにある。サラの父はいない。兵士として殉死したという。エスマはサラの修学旅行の費用200ユーロを工面できずに悩んでいる。

サラは同級生たちからいじめられる。もしサラの父がほんとうに殉死者(シャヒード)だったなら、サラは遺児として旅行費用が免除されるはず。なのに、戦死者のリストに父親の名前がないといわれる。サラは母を激しく問い詰める。わたしのお父さんは誰なの。

エスマは真相を語る。

あの紛争のとき、エスマは収容所で集団強姦された。妊娠してお腹が大きくなっても、連日数人に強姦されつづけた。出産したときは赤ちゃんを見たくもなかったけれど、遠ざけようとすると赤ちゃんは泣いた。翌日、母乳があふれた。一度だけお乳をあたえようと抱くと、赤ちゃんはとても弱よわしく、けれどこの世のものとも思えないほどきれいだったという。それがサラだった。

サラは自分の頭髪をバリカンで全部剃りおとして丸坊主にしてしまうほど深い衝撃を受ける。それでも、最後はエスマに見送られて修学旅行に出かけていく。旅行の費用はエスマの友人たちが少しずつお金を出し合ってくれた。

冒頭の写真は最終場面のサラとエスマです。修学旅行の朝。               

 


メモリータグ■学校で、男女いりまじってサッカーで遊ぶ。男子生徒とサラが取っ組み合いのけんかになる。サッカーは「男のスポーツなのに」と男子生徒が言い、サラは「あたしのほうがうまいのが気にいらないんだ」と言い返す。がんばれサラ。

(でもサラ。ねこに石を投げないで、お願いだから。監督は「反抗期の十代の娘」を表現したい場合、おとなの持ち物を窓の外に投げ捨てるような場面のほうを採用するほうがよかった。)

 

 


0420. いつか晴れた日に (1995)

2013年11月16日 | ベルリン映画祭金熊賞

いつか晴れた日に / アン・リー
136 min  USA | UK

Sense and Sensibility (1995)
Directed by Ang Lee. Screenplay by Emma Thompson. Music by Patrick Doyle. Cinematography by Michael Coulter. Film Editing by Tim Squyres. Costume Design by Jenny Beavan and John Bright. Performed by  Emma Thompson (Elinor Dashwood), Kate Winslet (Marianne Dashwood), Emilie Francois (Margaret Dashwood), Gemma Jones (Mrs. Dashwood), Tom Wilkinson (Mr. Dashwood), James Fleet (John Dashwood), Harriet Walter (Fanny Ferrars Dashwood), Hugh Grant (Edward Ferrars), Alan Rickman (Col. Christopher Brandon).



原作はオースティンなので、おさだまりの技巧と恋愛路線はしかたがない。それでも観たのはアン・リーの有名作だったから。演出も費用も堂々たる「大作」で、イングランドの古典的田園風景をどこまでもくり広げつつ、俳優のこまかな表情で内面が語られていく。あらためて、あの監督のうわばみのような能力にあきれました。なんでも丸ごと呑みこんで、みるみる消化してしまう。1996年ベルリン映画祭金熊賞。

アン・リー――台湾出身の李安――はベルリン映画祭、ヴェネチア映画祭、米国アカデミー賞をなんども制している。しかもその多くが、しばしばまったく傾向の異なる作品であることも知られている。不思議な作家だけれど、人の表情がかもし出す気配とその記号について、ほとんど構造的普遍性といいたい洞察力をどの作品でも発揮しているように思う。感情の駆け引きを台詞なしで語れるのだ。『色|戒』(Lust, Caution)の冒頭場面なども、ひときわ濃密だった。

主演したエマ・トンプソンは演じているようにみえないほど自然で、脚本を手がけていることにも驚く。脇のみなさんは独壇場というくらい達者にみえた。ヒュー・グラントだけは「聖職者志望の篤実で内気な青年」という役に違和感がのこる。ちゃんと演出されてはいたものの、どこかわざとらしさが目についた。妹娘を誘惑する、にやけた青年を演じたほうがしっくりしたかもしれない。もともとそういう風貌の持ち主なのだ。



メモリータグ■最終場面。花婿が空に投げ上げる金貨をスローモーションにして仕上げている。アン・リーの作品は意外にラストシーンで迷いを感じることがあるけれど、これは穏やかにまとまっていた。






0419. ブラディ・サンデー (2002)

2013年10月30日 | ベルリン映画祭金熊賞

ブラディ・サンデー / ポール・グリーングラス
107 min UK, Ireland

Bloody Sunday (2002)
Written and directed by Paul Greengrass. Cinematography by Ivan Strasburg. Performed by James Nesbitt (Ivan Cooper), Tim Pigott-Smith (Major General Ford).



『英国王のスピーチ』や『サッチャー』といった、事実上イギリス国家の宣伝物にあたる口あたりのいい作品を “ただ娯楽として愉しむ” ことはもちろんできる。でもそのときは、いっぽうで『麦の穂を揺らす風』や、この『ブラディ・サンデー』も思い出したい。歴史についての異質な報告をつうじて、わたしたちを(少しは)おとなにしてくれそうな気がする。

『ブラディ・サンデー』では、デモに参加したふつうの市民を軍が十数人も射殺したうえ、死者の罪状まで捏造していった実話が再現されていく。そんなことをしたのはポルポト政権だろうって? いいえ、イギリス政府です。当時の首相はエドワード・ヒース。

この「血の日曜日」事件は1972年1月30日に、北アイルランドのデリーで起きた。けれどそれを引き起こしたメカニズムそのものは、世界じゅうの政府と軍に共通しているように思う。彼らのうちに潜在する本質的な傲慢は、組織だった強力な殺戮手段と結びついているからだ。

起こるべくして起きた事件だったと、監督のポール・グリーングラスはいう。観た側にもそう思えてならない。言語道断の行為だけれど、最も言語道断なのは、これがどこであれ起こり得るということではないかと思うのだ――いま、このときも。その普遍的警告こそが、この作品の最終的な価値に違いない。2002年ベルリン映画祭金熊賞。『千と千尋の神隠し』との同時受賞だった。すばらしい選択に深く賛同します。

グリーングラスは、このあとアクション作品『ボーン』シリーズの第二作(2004)、第三作(2007)を手がけていく。揺れるハンディカメラと短いカット割りを速射のように重ねたあのスタイルは、ここですでに原型が完成されている。たとえば作中、記者会見の場面といった動きの少ない固定アングルのシーンでも、あえて出席者の頭ごしに撮影して「会場の一番うしろで撮ったビデオメモ」と感じさせるドキュメンタリー風の演出がとられていた。いっぽうで、ひとつの場面全体を通す長回しも使われて「特定の人物を背後から追いかけた記録映像」の臨場感を出している。撮影を担当したアイヴァン・ストラスバーグとグリーングラスは何度も仕事をしていて、おたがいにわかっているのだという。

現場らしい空気を伝えることに成功したもう一つの要素は、キャスティングにちがいない。登場する北アイルランドのひとびとはみごとな現地語で、そこにさらに若者言葉が加わる。なにを言っているのかほとんどわからないという、その臨場感に圧倒される。実際に土地の青年たちを起用することで一種の追体験を醸成し、いっぽうで軍の兵士を演じているのも軍出身者なのだという。たしかに動作が熟練していた。撮影はダブリン郊外の街。デモに参加した人びとの日常をえがき、恋人や家族とのやりとりを入れておくことで、喪失感は増した。最後に読み上げられていく死者の名前と年齢。その若さがいたましい。

映画が発表された8年後の2010年、事件そのものと軍の偽証についてイギリスのキャメロン首相が謝罪している。



メモリータグ■エンディングに流れる曲はU2, Sunday, Bloody Sunday.







0089. 千と千尋の神隠し (2001)

2005年12月14日 | ベルリン映画祭金熊賞

Spirited Away / Hayao Miyazaki


千と千尋の神隠し (2001) 宮崎駿


冒頭、車が山道にさしかかる手前で、はやくも奇妙な気配が漂いはじめる。右手に古い鳥居がみえるのに、鳥居のすぐ真後ろには大樹がはえている。くぐれない鳥居なのだ。ぞっとするうち、あやしい気配はどんどん濃くなる。この先すべり込んでいこうとしているのはどういう場所なのか。一瞬ごとに予測のつかない展開が用意されている、この作家の屈指の名作。シンプルに階段を下りることだけで、もう物語になっている(これは『ハウル』でもそうだった。あの作品の最高のシーンは階段を登るシーンかもしれない)。

この『千と千尋』で、奇妙な気配が漂うなかをつき進んださきの世界は、すべてが奇妙にできている。食べ物屋の軒先に下げられた「生あります」の看板。だがさりげなく添え描きされているのは目玉の絵。こわいなあ、いったいなんの「生」なのよ(笑)。そうかと思うと四季の花が同時に咲き誇る異様な庭。銭湯らしいのに、「ゆ」は「ゆ」でも「油」と書かれた油屋。その異様に巨大な煙突から立ち上る煙は黒い……なにを燃やしているのやら。夜の水のなかを船がすすんできて、降りてくる客の描写はもう圧巻である。透けた体に顔だけが浮いている。あれはチェシャ猫の逆。にやにや笑いだけが残る猫と、仮面から現われる神。

実際、この物語は宮崎版のアリスで、どのシーンもほんとうに独創的ですばらしい。またとなくおかしく、だがその奥に凄絶なこわさと孤独がひそむ。そこに生きているすべてのものは、この世のものではない。物語の底に、無数の死が透けてくる。それを深く象徴しているのはハクだろう。川をうしなった川の神は、死者にほかならない。かれは殺された神なのだ。どうやってもとの世界に戻っていくことができるのか、その見とおしは描かれていない。けっして描かれないもの、描かれてはならないものが、ここには膨大に隠されている。作り手はそのことを、徹底的に認識している。

エンディングのクレジット部分でつづくシーンは何度みても釘づけになる。うつくしくておそろしい。物語が展開された舞台が、静かに映し出され、そこには誰もいない。なにもかもが生き終えて、すべての人物が去ったあとの光景にみえる。通り過ぎられた時間がそこにある。みつめていると、かつて自分が生きていた場所をみているような気がする。いつのまにか、死者の目線になっているのだ。

2002年ベルリン映画祭金熊賞。ポール・グリーングラスの『ブラディ・サンデー』が同位受賞している。審査員長はインド出身の監督ミラ・ナイール(aka. ミーラー・ナイール)で、審査員特別賞(Special Jury Prize)はアンドレアス・ドレーゼン『階段の途中で』 Grill Point が得た。

メモリータグ■水のうえをすすむ電車。見知らぬ場所へむかいながら日が暮れていく、はげしいものがなしさ。



0056. アルファヴィル (1965)

2005年07月22日 | ベルリン映画祭金熊賞

アルファヴィル/ジャン‐リュック・ゴダール/フランス、イタリア

Alphaville (1965)
"Alphaville, une etrange aventure de Lemmy Caution" (1965)
Jean-Luc Godard. Cinematographie by Raoul Coutard. Eddie Constantine as Lemmy Caution, Anna Karina as Natacha.


とくに前半で演出される基本的に意味をなさない会話、そのずれかたは、おそらくのちに村上春樹さんなどが注意深く研究したものかもしれない。技術がうみだす奇妙なしかけ類よりも、むしろこの会話のタッチのほうが創作上は高度と思う。

「生まれなかった者は涙も流さず、後悔もしない。だから私があなたを処刑するのは論理的なことなのだ」とアルファ・ソワサントはいう。「私の判断は正しい。私は宇宙的な善のために稼動しているのだから」

アルファ・ソワサントは中央演算装置。「集合的階層社会」をめざすアルファヴィルの脳であり心臓である。フォン・ブラウン博士が開発したこのコンピューターについては、演算部分と記憶部分にわかれているといった「科学的説明」も添えられている。アルファヴィルではアルファ・ソワサントが真理を語り、人々はそれを書き取って学ぶ。『2001: A Space Odyssey(2001年宇宙の旅)』(1968)よりも3年早い、伝説の60年代SF作品である。

社会に適応できない者が隔離される郊外の棄民団地、椅子が自動的にうごいて死者を処分する処刑劇場、死刑執行場としてのプール、体に番号を書きこまれた女性たち、聖書とされる辞書、その辞書に「la conscience」自覚、良心、意識という語彙がないこと、泣くことの禁止、なぜと問うことの禁止、非論理的であることは死罪、などさまざまな工夫が登場する。アルファ・ソワサントが破壊されると人びとはまっすぐ歩けなくなり、多くは倒れて死んでしまう。

ブラウン博士の造形そのものは、フォン・ノイマンを思わせる。なおIMDbによれば"Godard originally wanted Roland Barthes for the role of Professor von Braun". http://us.imdb.com/title/tt0058898/

バルト、やればよかったのに(笑)。

1965年ベルリン映画祭金熊賞。『A bout de souffle(勝手にしやがれ)』(1959)から6年後にあたる。それにしてもアンナ・カリナのつけまつげには感心しました(笑)。



■メモリータグ:おそらく実際のコンピュータールームで撮影したアルファ・ソワサントの内部。ビルの一階全体を占めるくらいの巨大なコンピューター。壁一面でテープのリールが回り、中央の机に置かれた読み取り装置らしいものからはパンチカードが流れている。


0040. マグノリア (1999)

2005年07月05日 | ベルリン映画祭金熊賞

マグノリア / ポール・トーマス・アンダーソン

Magnolia (1999)
Written and directed by Paul Thomas Anderson. 


問題をかかえた人間たちの群像劇。並行して進む複数の筋が、次第につながっていき、最後はシャッフルされたあとのカードのようにぴたりとおさまる。監督をしたアンダーソンのオリジナル脚本で、かなり入り組んでいるけれど、わたしはおもしろかった。2000年ベルリン映画祭金熊賞。審査員長は俳優のコン・リーで、審査員賞(Special Jury Prize)はチャン・イーモウの『初恋のきた道』に授与されている。

トイレにいかせてもらえず、クイズ番組の途中で漏らしてしまう哀れな天才少年。かつての天才少年でいまはうらぶれた電器店の店員。この役はウィリアム・メーシーが演じた(『ファーゴ』の破滅的なセールスマン)。セックス指南のマチョーな男はじつは億万長者の捨てられた息子で、トム・クルーズがいつものように濃く演じている。ほかには警官に怯える薬物中毒の娘、かつてその娘に性的いたずらをした父親はクイズ番組の司会者で……。家族的なしこりが四組並行して描かれる。

アンチ・クライマックスとしてのクライマックスは、大量の蛙が空から降ってくるシーンだろう。そういえば村上春樹さんの『海辺のカフカ』では、空からイワシが降ってくる。



■メモリータグ:豪雨のように空から降ってきて道路中を埋め尽くす蛙。びしゃっと車のウィンドウにはりついて破裂したりと、ぬるぬるぐしゃぐしゃの一面を徹底的に映し出す。


0030. ラリー・フリント (1996)

2005年06月25日 | ベルリン映画祭金熊賞

ラリー・フリント / ミロシュ・フォアマン 米

The People vs. Larry Flynt (1996)
Directed by Milos Forman. Played by Woody Harrelson. 


ちょっと切れ味が鈍いものの、やりたいことはわかる。これは『カッコーの巣の上で』One Flew Over The Cuckoo's Nest (1975)、『アマデウス』Amadeus (1984) を発表したチェコ出身のフォアマンの作品のうち、まだ観ていなかったもの。ストリップクラブの経営を背景に、『ハスラー』を創刊するフォアマンの人生がテーマ。ポルノとゴシップと宗教とドラッグとスキャンダルに満ちた主人公の強烈な外部性がポイントかもしれない。1997年ベルリン映画祭金熊賞。

主演はウッディ・ハレルソン。記憶のなかでは、なぜか毎回ポール・ニューマンのような気がする。


■メモリータグ:裁判所で傍若無人にふるまうフリント。