うさこさんと映画

観た映画についてのかんたんなノートです。
やっと490本を通過しました。
あらすじや結末を記していることがあります。

0493. 立ち去った女 (2016)

2018年07月14日 | ヴェネチア映画祭金獅子賞

立ち去った女 / ラヴ・ディアス
3h 46min Philippines

Ang babaeng humayo (2016) aka. The Woman who Left.
Written, directed, cinematography and editing by Lav Diaz. Philippines, 1958-. Inspired Tolstoy's short story "God Sees the Truth, But Waits". Performed by Charo Santos-Concio (Renata), John Lloyd Cruz (Hollanda), Michael De Mesa (Rodrigo Trinidad), Shamaine Buencamino (Petra).


自我肥大と、現代映像制作の常識を踏まえない作風は注目を集めやすいだろう――といってもカメラを固定したままカットを割らず、えんえんと長時間作品にするという「作風」にすぎない。あいにくそこに説得力はないものの、ラヴ・ディアスの主張の強さは、非欧米圏の映像作家を支援する国際的な流れと結びつきやすい条件をもっているようにみえる。いいかえれば、そうみるしかない水準だった。この支援の潮流からはすばらしい作品も生まれているのに、残念です。

上映時間は四時間近い。モノクロの画像で語られる「お話」は緩慢でリアリティーに欠け、見始めてほどなく、ここまでにいくつかの受賞作があってこの制作費を得たのだろうと想像することになった。映画祭と名のつく催しが世界にどれほど膨大にあるかをを考えれば不思議でもなんでもない。トルストイの短編から着想を得たというけれど、その主人公の内的動機がとらえられていない。トルストイやドストエフスキーが短い文章のなかで書き上げる万華鏡のような内的起伏を視覚的に表現することの至難さに気づかず、はねかえされる映像作家は多いのです。

フィリピンの牧歌的な刑務所で三十年を過ごした女性主人公は冤罪が証明されて出所し、弱者に善行をほどこしながら心のなかでは復讐を考えているらしい。しかし、なんて慈愛に満ちた人だろうとくり返し賞賛される設定にしては、行方不明の長男を探すことに関心を示さず放置している。そこまでして復讐を優先する執念の出どころがえがけていない。心情をいちいち対話で説明するやりとりはアマチュア芝居のようだった。

映像表現そのものの美しさが積極的に追求されていたわけではない。長く回すなら長回しでなければ語れないものがなければならないのだ。ただ、それでもいくつかの風景には魅力があった。

多くの国際映画祭は非商業作品を積極的にサポートしている。そのぶん観る側に批評力がもとめられる。2016年ヴェネチア映画祭金獅子賞。やれやれ。第二席はトム・フォードの『ノクターナル・アニマルズ』、審査員長はサム・メンデスだった。ほかにジョシュア・オッペンハイマーなどが入っている。おそらくは不作の年だったのだろうという仮説をもちつつ、それを否定できるかどうかは第二席の作品を見てみるしかなさそうです。

ディアスの経歴をみるとヴェネチア映画祭で2007年、2008年にメインコンペティションとは別の部門で小さな賞を得ている。ヴェネチアが育ててきた作家の一人なのかもしれない。自信家ぶりはおもしろいけれど、この種の「おれは天才アーティスト」は商業映像の世界ではむしろめずらしくない。海千山千の人びとの集合体で自分語りを通す資質は十分だろう、どうぞそちらに行ってください。



メモリータグ■主人公が刑務所から戻っていく自宅の朽ち滅びたありさまは、過ぎ去った歳月を感じさせてよかった。大道の脇にあるひなびた民家の薄暗い室内には井戸がある。






0492. 海を飛ぶ夢 (2004)

2018年07月07日 | ヴェネチア映画祭審査員大賞

海を飛ぶ夢 / アレハンドロ・アメナーバル (aka. アメナバル)
125 min Spain | France | Italy

Mar Adentro (2004) aka. Sea Inside.
Direction, Film Editing and Music by Alejandro Amenabar, 1972-. Screenplay by Alejandro Amenabar and Mateo Gil. Cinematography by Javier Aguirresarobe. Performed by Javier Bardem (Ramon Sampedro).
Celso Bugallo (Ramon's Brother, Jose). Mabel Rivera (Hose's wife Manuela), Clara Segura (Gene, Coordinator of an organization for euthanasia), Belen Rueda (Julia, advocate), Lola Duenas (Rosa, neighbor), Joan Dalmau (Joaquin),


https://www.imdb.com/title/tt0369702/mediaviewer/rm2035563776

深く魂をつかんでいる。一人ずつの登場人物が現実そのもののような存在感をもって響き合い、調和していた。弁護士役の俳優だけは映画界から借りてきた美しいスターがていねいに演技をしているようにみえたが、彼女は映画に出演したのが初めてなのだという。その逆説が新鮮なほどだった。スペインの農家の家族を演じた五人の役者、かれらと接する数人の訪問者たち、それぞれの表情、演出、メーク、衣装選び、ほとんどドキュメンタリーのようにみえるほど成功している。アメナーバルが脚本を書いて監督し、編集、音楽まで手がけた。脚本ごと書き下ろした『アザーズ』(2001)で注目されてから、その三年後にあたる。今回の作品の公開時点でまだ32歳。海のように老成している。

原題は Mar Adentro(うちなる海)。もとになった手記があり、四肢が麻痺して寝たきりになった男性が、それでも満ち潮のように心にあふれるイマジネーションを失うことなく生きているさまを示唆した題だと思う。日本の公開タイトル「海を飛ぶ夢」もすてきでしたね。動けない主人公は強く死を望み、安楽死協会と連絡をとり、弁護士と会う。彼の人生の目標は、引き伸ばされた死を実現させることなのだ。知的なユーモアをたたえたこの主人公を、色気と品をもってバルデムが演じ切った。圧巻です。

この作品を、主題で区分することをしたくない。ああ、あの系列だね、とどうぞお思いにならないでください。それほど独自の小宇宙がここにはあって、一者の生は、ほかのいかなる生ともくらべることができないのだと思い起こさせてくれる。そしてそれこそが尊厳とよばれるものではないだろうか。そのことを確信して現場に臨んだにちがいないアメナーバルの人となりが伝わってきた。原案の手記に映像という身体をあたえていったひとつひとつの判断ににじむ品位と洞察力に、感銘をいだかずにいられません。数年後の『アレクサンドリア』も、まさに尊厳というものを譲らなかった人間の物語だった。

2004年ヴェネチア映画祭審査員特別賞、主演男優賞。審査員長はイギリスの監督ジョン・ボアマン(aka. ブアマン)で、パネルにはスパイク・リー、ヘレン・ミレンなどが入っている。第一席はなんだったのだろうと思わずデータを見直すと、マイク・リーの『ヴェラ・ドレイク』だった。ううむ、なるほど。これはもう伯仲というか、第一席の二作受賞でもおかしくない。ともに精緻な室内楽で、どちらが優れているという観点をこえて、それぞれに非凡な演出力と演技力を刻んだ出品作にめぐまれた年です。なお『海を飛ぶ夢』は「青年制作部門」でも賞を得て三重受賞になった。ほかに2005年米アカデミー外国語映画賞など。なんでもどうぞ。



メモリータグ■海まで飛んでいく主観映像。緩急のあるリズムに、飛翔の開放感が宿る。







0491. ローマ環状線、めぐりゆく人生たち

2018年06月30日 | ヴェネチア映画祭金獅子賞

ローマ環状線、めぐりゆく人生たち / ジャンフランコ・ロッシ
95 min Italy | France

Sacro GRA (2013)
Direction and cinematography by Gianfranco Rosi. Written by Niccolo Bassetti and Gianfranco Rosi.


https://www.imdb.com/title/tt3172520/mediaviewer/rm654688768

金獅子賞にはやや弱いかなと思いながら観ていたが、観終わったあと心のなかでゆっくりと光景が育って、もの寂しい味わいがつのっていく。ローマ市内を環状に走る自動車道の周囲に生きる人びとを群像としてとらえたドキュメンタリーで、まるで演出された芝居のような豊かな起伏をもって表情が切り取られている。ロッシはいい作家だ。見えているものの奥になにがあるかを見失わない。その成熟した洞察力は普遍的にみても創作者のかなめなのだろう。この作品は、三年後の『海は燃えている』のような劇的な核をもつ記録ではない。でもなんというか、トーンがあり、スタイルがある。淡々と日常が発掘されていく。画面に現れるのは特別な人たちではない。ただ、生きていることの寂しさがにじんでくる。


https://www.imdb.com/title/tt3172520/mediaviewer/rm604357120

ヤシの木の内部に巣くう虫を発見するために、一本ずつ木の内部の音を聴診しつづけている老研究者が出てくる。気の遠くなるようなそのいとなみは、ほとんど詩的な哲学性を帯びてくる。虫たちは木の内部に社会をつくって繁殖し、一本の木を食べつくすまでそこで暮らすのだという。ヤシは人間の姿であり、虫たちもまた人間の社会に似ていると彼は語る。彼は薬品で虫を殺そうとはいわない。虫たちの使う警告音を逆用して追い払えないかと考える。命のうちのどちらかが正しく、どちらかが悪であると彼は区分しないのだろう。その静かな姿は古代の修道者を思わせる。あるいは幼児を背負ったクリストフォリの、果てしない重さを黙って担う歩みのようにみえてくる。


https://www.imdb.com/title/tt3172520/mediaviewer/rm3624190464

風景はさまざまだ。空虚でわびしい高層住宅もあれば、野原で羊が群れていたりもする。フォーカスをゆるめた夕暮れの高速道路の、にじんだ風景が美しい。涙でぼやけた光景はきっとこんなふうにみえるだろう。日が暮れていくのに帰る家がないような気持ち、道に迷った子供、行き暮れた旅人の心ぼそさが自分のなかにわいてくる。でも不思議になつかしい。

ウナギを獲る漁師は夜、新聞を読んで腹立たしい記事に怒る。だが家族は無言で自分の作業をつづけている。救急隊員は認知症の母に静かに話しかける。母はわかっているのかいないのか。道路脇の車のなかで暮らす年老いた男娼。バーで無気力に踊る疲れたダンサー。狭い集合住宅の親子。環状道路を行く膨大な車のように、すれ違う雑音のなかで生きている。すれ違いながらふと手をさしのべあい、一瞬指がふれたあと、やはりなにかが届かないまま眠りに落ちる。どこにもこたえはない。バビロンなのだ――すべての言葉は。2013年ヴェネチア映画祭金獅子賞。審査員長はベルナルド・ベルトルッチ。第一席としてはいかにも淡い受賞作だが、手ざわりがよかった。第二席はツァイ・ミンリャンの『郊遊〈ピクニック〉』。

そしてこの年のヴェネチアには『風立ちぬ』が出品されていた。あの作中で反戦性が楔のように明示されていたら結果は違ったかもしれない。あるいは主人公に対する批判が明確に表現されていたら違ったかもしれない。でもそれはできないことだったのだ。だからしかたがない。宮崎さんは、作品のなかで反戦のメッセージは伝えたと発言していたが、それはきわめて内省的な表現でなされ、かならずしも明示されていたとはいえない(彼の作品をずっとみてきたわれわれには自明であっても)。

おそらく宮崎さん自身のなかにディレンマがあったと思う。戦闘機という兵器を作った堀越二郎にわかりやすい言いわけをさせて免罪させるつもりは初めからなかったろう。航空機はそれじたいとしては兵器ではない。だが兵器としてしか成立させることができなかった悲劇をヒロイズムとして免罪符にするつもりもなかったろう。宮崎駿は堀越二郎の美しい飛行機を心から愛した。だがそれが兵器であるという自己矛盾にはこたえがない。それをえがく責任は引き受けるというあまりにもややこしい潔さが、深い慎みとともに作家を寡黙にした。ただ、その矛盾のなかには、じつは根源的な芸術性がひそんでいたと思う。こたえがないということがこたえになることはできたのだ。いえ、あの作り手はそれもわかっていたに違いない。ただ『風立ちぬ』はそれを主題として客観的に表現しきることができたろうか? そこは微妙だ。作中では誰も罪を口にしない。罪と矛盾をつきつめる思いはあまりに深く内向したいっぽうで、主人公をゆるす言葉だけは明示されてしまったからである。「生きて。生きて」とくり返される、愛と感動におし流されたあの終結部の台詞はやはり弱点だった。あの台詞だけはいらない。ないほうが深い。

あの主題に潜在していた原初の矛盾を虚空に問いかけて終わりたかったと、観ている者は願う。「君は永遠の地獄に行くだろう」とイタリア人に語らせることはできた――たとえば。「だが、あそこに、君がくるのをずっと待っている人がいる。だからわたしにはわからない」。そして主人公を愛した妻は風の吹く草原で待っている。妻はなにかを口にするかもしれない、だがそれはきこえないのだ。

2013年のヴェネチアで、賞を得なかった作品は天才の物語だった。賞を得た作品は無名の市民の物語だった。でもどちらも心から誠実な作品だと思います。





0490. ユリシーズの瞳 (1995)

2018年06月23日 | カンヌ映画祭審査員大賞

ユリシーズの瞳 / テオ・アンゲロプロス
176 min.  Greece | France | Italy | Germany | UK | Federal Republic of Yugoslavia | Romania | Albania | Bosnia and Herzegovina

To vlemma tou Odyssea (1995)
Directed by Theodoros Angelopoulos (aka. Theo, Thodoros. 1935-2012). Screenplay by Theodoros Angelopoulos, Tonino Guerra, Petros Markaris, Giorgio Silvagni. Cinematography by Giorgos Arvanitis and Andreas Sinanos. Film Editing by Takis Koumoundouros and Yannis Tsitsopoulos. Music by Eleni Karaindrou. Performed by Harvey Keitel (A). Erland Josephson (Library Curator), Maia Morgenstern (Kali),  Mania Papadimitriou (Mother),


https://www.imdb.com/title/tt0114863/mediaviewer/rm3272280064

円環の旅をとおして自己を完成に導いたオデュッセウスの古代叙事詩は、20世紀においては破綻に終わる不完全性へと反転される以外に継承法はなかったろう。この作品の帰結もその必然を了解していたのに違いない。それならここで、くり返し現れる妻であり少女であり庇護者であり魔女であろう女性は、これほど予定的に調和してはならなかった。それはこの作品の傷ではあるのだ。ゆるされることばかりを約束された主人公は生き延びて、つまるところ事態を傍観する者になる。自己を愛し、自己を憐れむ者の気配がヒロイズムの弛緩と五衰を呼び込む。このアンゲロプロスは疲れている。

それでもいま、あらためてこの作家を数本見直してみて思うのは、やはりこんな作品はもう撮れないだろうということだった。20世紀の巨匠たちがとらえた時空の、ほとんど不可思議な広大さをあえて確かめようと思ったわけではないのに、アンゲロプロスの長回しがつくる非現実感はそれじたいのなかにまごうかたない神話性が立ち現れていて、冒頭でギリシアの広場を一巡したこの作家らしい周回性が、ここではすでにオデュッセウスの旅を凝縮するものになっている。この周回において主人公はほぼなにも得ることがないのだ。ただ過去がかすめ、情熱の記憶がかたわらを横切る。そこに未来はない。あるのは喪失と追憶である。

この喪失を出発点として始まる長い旅は、それでも次第に20世紀の闘争とその破砕の記憶をわたしたちに思い起こさせていく。物語は主人公が幻のフィルムを探す旅で、それはギリシア映画の黎明期に名を残したマナキス兄弟の手になる未現像のフィルムだという。いまだ姿をなさない記録――未現像の過去――を探すという、いかにも挫折の匂う彷徨が、それじたい幻のような架空の記録映像としてわたしたちの眼前につむぎ出される。ギリシア、マケドニア、ブカレスト、ベオグラード、とくにサラエヴォ。破壊された街の風景をすべて消し去る霧が深くたちこめるときだけは、サラエヴォもふつうの街に戻るのだという。なにも見えないために狙撃兵が手を休めるからだ。そして人びとは濃霧のなかでしばらく広場に集い、川べりを歩く。そのあいだも、遠くの銃弾はやまない。旅人としてのオデュッセウスは、そこで死を迎えることがふさわしかったのではないだろうか。

主演のハーヴェイ・カイテルがハーヴェイ・カイテルにみえないところはよかった。彼はここで無名の誰かだった。そうでなければならないのだ。1995年カンヌ映画祭審査員大賞。審査員長はジャンヌ・モロー、パルムドールはエミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』で、一席、二席ともバルカンにかかわる作品だった。アンゲロプロス自身はこの3年後の1998年に『永遠と一日』でパルムドールを得ることになる。



メモリータグ■船で運ばれていく、壊された石像のモチーフはさすがにいい。終焉したイデオロギーの残像が、滅びたものの巨大さとともにみごとに視覚化されている。エイゼンシュタインのまなざしに映っていたのも、こんな風景だったのかしら。

 

 

 


0489. 永遠と一日 (1998)

2018年06月16日 | カンヌ映画祭パルムドール

永遠と一日 / テオ・アンゲロプロス
137 min France | Italy | Greece | Germany

Mia aioniotita kai mia mera (1998)  aka. Eternity and a Day
Directed by Theodoros Angelopoulos. Written by Theodoros Angelopoulos, Tonino Guerra, Petros Markaris, Giorgio Silvagni. Cinematography by Giorgos Arvanitis (as Yorgos Arvanitis), Andreas Sinanos. Film Editing by Yannis Tsitsopoulos. Music by Eleni Karaindrou. Performed by Bruno Ganz (Alexandros), Achileas Skevis (The Child), Isabelle Renauld (Anna).


http://www.cinemas-online.co.uk/pictures/eternity-and-a-day-mia-eoniottia-ke-ma-mera-picture25657.html


「明日の時の長さは?」
「――永遠と一日」

ワンシーンワンカットの手法は、アンゲロプロスの場合、きわだって舞台的な効果を帯びる。人物の配置にも、その芝居のとりあわせにも、舞台をこえて時空を旅する遥かな演劇の気配が漂う。かれ自身がそのなかで生きている。だから長回しは技巧の顕示や遊戯的な模倣としてではなく、この作家の心性の奥深くから出てきたものだと、いつもわかる。アンゲロプロスのえがく現実は「リアリズム」ではない。現実は、そのまま異時空にすべりこんでいく始まりをなす。だから切ることができない。その原則はここでも変わらない。

アンゲロプロスの時空はどこかでポール・クローデルと似ている。かつてクローデルはあの長大な『繻子の靴』を戯曲として書いた。あれは最初から破砕された内なる時空の演劇、いわば不能の演劇だったと思う。現実社会に確固とした居場所をもちながら、なお果てしない異時間と不和を胸にかかえこんで生きていた。そういう、じつは異形の不適応者としてのかれらのこころみは、いまみると丘の上で風に吹かれた旅人の姿をかたどった、遠い遺跡のようにみえてくる。かれらはヘテロトピアのパスポートをもって生まれてきた。捕囚された魂の解放をめざして、もがきつつ内破をくり返して生きていくしかない人びとの一人だった。

この作品は後期のアンゲロプロスのなかでは完成度が高く――完成度という概念がこの人の場合は無効であるにせよ――すくなくとも、彼のスタイルがよく凝縮されていた。脚本に参加しているトニーノ・グェッラはアンゲロプロスとながく仕事をしてきた人で、かつてタルコフスキーの『ノスタルジア』にも加わっていた。『永遠と一日』は、タルコフスキーの主題であってもおかしくなかった。

ここでは主人公にブルーノ・ガンツを得ていて幸福だった。老いた詩人の寂しさは、動物たちが逃げてしまった動物園の孤独だ。がらんとした空虚な動物園としての詩人は、捨て猫のような少年を懐にいれて一日をさまよう。死病の入院をまえにした一日を過ごす「今日」のなかに設定されたこの物語の時間も、失われた過去と喪失の記憶に遡行する入り口として置かれている。いたるところで想起の扉がひらく。最後にようやく、明日という日のことがみじかく語られる。冒頭に引いた台詞はここに出てきたものだ。「明日の時の長さは?」「永遠と一日」。その淡い帰結に、時をこえた時の可能性のなかにまだ残る未来が示唆されて終わる。1998年カンヌ映画祭パルムドール。審査員長はマーティン・スコセッシ、ほかにマイケル・ウィンターボトムなどがパネルに入っている。審査員グランプリはベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』だった。

アンゲロプロスが三部作の完成をまえに交通事故で亡くなったことは知られている。でもその死のありかたさえ、どこかこの人の世界にあまりにも深く接していて、まるで果てしない物語があの人を召喚していったようにみえるのだ。その死は永遠と一日のなかにあるのだと、いまもわたしは思っている。




メモリータグ■この作品でも、水にまつわる場面は強く目をひきつける。水辺の人びと、海に面した古風なあずまや。人は無意識に沈むとき、水を呼ぶのだとユングは語っていた。



https://gltsry21.deviantart.com/art/Eternity-And-A-Day-301858602


0488. アレクサンダー大王 (1980)

2018年06月09日 | ヴェネチア映画祭審査員大賞

アレクサンダー大王 / テオ・アンゲロプロス
3h 55min. Greece | Italy | West Germany

O Megalexandros (1980) aka. Alexander the Great
Directed by Theodoros Angelopoulos (1935-2012). Written by Theodoros Angelopoulos and Petros Markaris. Cinematography by Giorgos Arvanitis. Film Editing by Giorgos Triandafyllou. Music by Chris Hallaris. Performed by Omero Antonutti (Alexandros), Eva Kotamanidou (Alexandros' Daughter), Mihalis Giannatos (Dragoumanos), Grigoris Evangelatos (Alexandros' Schoolteacher).


http://www.altcine.com/movie.php?id=235

強い求心力、美しい映像、高度の凝縮性、そして雄大さを通りこしてしまうその異様な確信。まさにアンゲロプロス。全編は四時間近い。設定は冒頭からかなり長いあいだ、ほとんど狂気に近くみえる。次第に焦点が現実に接近してすこしずつ収斂を始め、開始からおよそ二時間をへて、ほぼ理性的認識の範囲におさまる――あくまで、ほぼ、ですが。

時代は20世紀が明けた時点におかれている。けれどギリシアの小村ではアレクサンダー大王が白馬に乗っている。遠景で人びとがたたずむ川べりでは東方教会風の祝福と洗礼がおこなわれ、洗礼を受けた者たちはアレクサンダー大王になるという。この水辺の遠景にもあらわれている構図の様式性はどれも強烈な集中力を保ったまま、息をのむような光とコントラストをとりこんで動く。けっして演劇的な型のなかで生命を失ってはいない。

観客は、撹乱され幻惑されながらすこしずつ、20世紀という〈近代〉がある特異点に至る状況を体験していく。それは、さまざまな大きな物語それじたいを神話として警告した同時代のリオタールの妥当な指摘とつながる光景でもある。奇妙な設定は深い現実性を帯びてもいるのだ。けれどおぼろに煙る朝もやの光のなかでは、なにもかもがまだ定まらずに浮遊してみえる。

原始共産制を採用したギリシアの村人たちのもとには無政府主義者のイタリア人たちが庇護をねがって到来する。アレクサンダー大王とその兵たちは、脱獄したのちイギリスの貴族を人質にとって、土地の返還、自治の回復、脱獄行為の恩赦をもとめる。それぞれの論理と欲望は、資本家の権力と国家の権力の係争までをその背景に透かしている。舞台的な象徴性をうしなうことなく表現される四つどもえの拮抗は、それぞれの思想と支配体制が独裁に転落する必然をあらわにしながら、世界近代史の荒唐無稽と不条理の、ねじれたミクロコスモスをなしていく。

異教者に襲われる危機の時代に、アレクサンダー大王はかならずギリシアに到来するという。そんなむちゃな笑い話がいつどこで信じられていたのか、いまここに書いてみてもボルヘスかなにかを書き写しているようなあやしい錯覚が起きてくる。ともあれそれが神話なら、事態が鎮まればその大王は消滅するのに違いない。王でなくなった王は民から襲われ消尽されるのが神話の帰結でもあるだろう。あとからいちおうデータを読むとオスマン帝国時代にギリシアの独立戦争を主導したテオドロス・コロコトロニスを重ねているともあるものの、それだって時代は違うので、つまるところ大真面目で破天荒な語り口のなかで、人類の巨大な神話と共同体の小さな神話がおそらくいくつもかさなっている。ときどき笑い出してしまうほど過激で不透明なこの展開が、またとなく透明で詩的な映像をつうじて断片的に投げ出される。

たしかにアンゲロプロスの世界では、隔絶しているはずの異者同士がぱったりと邂逅し、するすると一つに重なってしまうときがある。そのありえなさが成就する瞬間までわたしたちを迷いこませるためにも、カットを割らないあのスタイルが完璧な必然をもつことになる。人物の動きを追ってゆっくりと周回する長い長いパンのなかで世界という舞台は回り、カメラが一周しおえたときにはひとつながりの異次元がそこにあらわれているのだ。

『予告された殺人の記録』や『万延元年のフットボール』がノーベル賞だというのなら、これはまちがいなくおなじ水準にある――とはいえ映像界に、あそこまで騒がしい賞がなくてつくづくよかったとも思うけれど。

この作家の映像をちいさな画面で観ることに、わたしはほとんど罪悪感に近い抵抗があって、ながらく遠ざかっていた。それなのにいま、なにか一作観てみようかという物好きなかたには、あえてこれをおすすめしたいとひそかに思ったりするのです。殴り込みのような凄まじい美しさ、ある種の狂気、そのスケール、強大な自我、

すごいです。


http://www.theoangelopoulos.gr/showPhoto.php?mv=bWVnYWxla3NhbnRyb3M=&pht=ZnQwMjQ4LmpwZw==&lng=ZW5nbGlzaA==


メモリータグ■水辺。アンゲロプロスの映像は静止画として切り取られても、はっとするような荘厳さがある。とくに水が映りこむ場面はひときわすばらしい。淡い黎明の曙光に濡れた川面。雪の寒村に集まる民はブリューゲルのようだし、あのギリシアの小村の起伏の多いロケーションはすばらしかった。

なお『アレクサンダー大王』は1980年のヴェネチア映画祭で静かに審査員特別賞を得ている。第一席の金獅子賞は二作受賞で、ルイ・マルの『アトランティック・シティ』とジョン・カサヴェテスの『グロリア』だった。あはは。これはこれで噴き出しそうになる配置で、あきらかに商業性を最優先した選択だとわかる。いわゆる "芸術性の強い作品" は審査員賞に回すという傾向が強かった時期があって、ひところカンヌなどもそうだった。それにしてもこの年の結果は極端というか、映えある審査員長はスーゾ・チェッキ・ダミーコ、ヴィスコンティなどとよく仕事をしていたイタリアの脚本家です。審査員にはウンベルト・エーコやマルガレーテ・フォン・トロッタが入っていた。でもいったいエーコはどんな顔で『グロリア』を一位にしたのかしら。ひそひそ。





0487. ルック・オブ・サイレンス (2014)

2018年06月02日 | ヴェネチア映画祭審査員大賞

ルック・オブ・サイレンス / ジョシュア・オッペンハイマー
103 min. Denmark | Indonesia | Finland | Norway | UK | Israel | France | USA | Germany | Netherlands | Taiwan

The Look of Silence (2014)
Directed by Joshua Oppenheimer. Cinematography by Lars Skree. Film Editing by Nils Pagh Andersen. Performed by Adi Rukun (Himself, brother of murdered Ramli Rukun). M.Y. Basrun (Himself, former commander of a civilian militia). Amir Hasan (Himself, former leader of death squad). Inong (Himself, former leader the village death squad). Amir Siahaan (Himself, former commander of Snake River death squads).


http://collider.com/the-look-of-silence-review/

ドキュメンタリー作品。インドネシアで1965年9月30日に起きた大虐殺の実行犯にインタヴューをおこなっていく。話題になった『アクト・オブ・キリング』の連作にあたる。

今回の作品では惨殺されたラムリの弟、アディが殺害者たちを訪問する。それをスタッフがかたわらで撮影している。アディの母は長男ラムリの死後に生まれてきたこの次男アディを、亡くした長男の生まれ変わりと信じている。この言及をつうじて「殺された者」がいま生き返ってきて「かつて自分を殺した者たち」を訪問していくひそかな気配が漂うことになる。死者のまなざしは無言だ。

制作したジョシュア・オッペンハイマーはアメリカ人で、そのような「外」の視点が介入したことで可能になった記録だろうと感じる。随所にはさまれるさりげないカットが目にしみるように美しく、作品に奥行きをあたえていた。虫、埃、足の裏。長男を殺されたことをもう思い出せなくなった高齢の父親の姿。ちいさく縮んだその肉体。

なにがあったかという「事実」を、第三者の立場からおぎなうことをこの作品はしていない。当事者の言葉と表情を、黙って写している。それで伝わるのだ。プロデュースにはヘルツォークが入っている。2014年ヴェネチア映画祭審査員大賞。第一席はロイ・アンダーソンの『さよなら、人類』で、審査員長は作曲家のブライアン・デスプラだった。

当時の大虐殺は、作中で死者100万人と語られている。軍が民間人を使って虐殺を実行させた現代史上でもめずらしい例とされ、ちいさな村の民たちも、自分の身近な隣人や親族を連行してはナイフでずたずたに切り裂き、めった刺しにしては、つぎつぎに河に投げ込んだという。殺した理由は「共産主義者の粛清」だったとされている。だがじっさいに共産主義者だったかは問題ではない。まったく無実だった者が多い。だがいま現在、なお小学校で教師がその粛清を正しいこととして子供たちに力説する場面がある。おかげでデモクラシーが可能になったという。子供たちはそれを信じる。

殺した当事者たちは嬉々として殺害行為を手まねで再現し、こんなふうに殺したと証言する。縛り上げた相手を殴り、蹴り、生きている相手の乳房やペニスを切り取り、全身を切りつけて殺していった。なたやナイフで喉を切り裂いたあとは血を飲んだという。そうすれば気が狂わないという言い伝えがあり、かれらはいまもそれを信じている。演じ終えた殺害者2人は、最後にVサインを作って笑顔で記念写真におさまる。

かれらはじつに陽気で愉しげだ。自分たちを賞賛するインタヴューだと思いこんでいたのかもしれない。その家族も、かつて自分の家族が共産主義者をたくさん殺したのは誇らしいと胸をはる。眼前にいるのが被害者の遺族だと知ると困惑したように表情を変え、よくおぼえていないとか、言われてやっただけだとか、本人はもう認知症なのだ、と証言を変え始める。「自分に責任はない」「もう終わったことだ」「蒸し返すのはよくない」。しかしその表情にはありありと動揺がみえる。遺族の顔とまなざしが、その動揺を引き起こしている。

かれらを訪問していくアディは静かな姿勢を崩さない。かれは眼鏡技師らしい。加害者である老人たちにめがねを作るために視力検査をしていく。これで見えますか? 変わらない? ではこれでは? みえますか、ではこれでいいめがねを作りましょう。その他意のない台詞が作品を象徴するものになっている。


http://basementrejects.com/review/the-look-of-silence-2014/

みているこちらは加害者たちの自己正当化と満足そうな姿勢に驚愕するのだが、もし日本でおなじようなこころみをしたら、じつはきわめて近い反応が帰ってくるのではないかと思えてきた。「悪い敵を殺す英雄」としての自己認識を植えつける過程は、国家的な集団殺戮に不可避の操作なのだろう。その本質につきまとう不条理を避けるには「戦争」そのものを避けることしかわたしには思いつかない。

二次大戦の敗戦当時、日本の多数者は加害者としての責任を実感してはいなかった――おそらくひとにぎりの人びと以外は。いまでも戦争における日本の「被害」という角度から語る視点が圧倒的多数を占めていることはそれを示唆している。自分たちが殺害した事実は忘れるか、正当化する。そして取材してくる相手には不機嫌になる。他者を責め、言いくるめる。ただ、そのありさまが、ここではそのまま写しとられて記録されている。かれらの主張は反転して理解される。日本でもこの作品のようなこころみがなされるべきだったのだろう――多くの加害者たちがありありと記憶し、生存しているうちに。



メモリータグ■ちいさく左右に動く、虫の、蛹?――おそらく。それが不可思議な未来の可能性のように思えてくる。インタヴュイーの両親の家は、けっしてゆたかな家庭にはみえない。それでも美しい日射しのそそぐ、やすらかな庭だった。






0486. 俺の笛を聞け (2010)

2018年05月26日 | ベルリン映画祭審査員大賞

俺の笛を聞け / フロリン・セルバン aka. サーバン
94 min. Romania | Sweden | Germany

Eu cand vreau sa fluier, fluier (2010)
aka. When I want to whistle, I whistle.
Directed by Florin Serban (1975, Romania). Written by Catalin Mitulescu, Florin Serban, play by Andreea Valean. Cinematography by Marius Panduru. Film Editing by Sorin Baican and Catalin Cristutiu. Performed by George Pistereanu (Silviu). Ada Condeescu (Ana). Mihai Constantin (Penitenciary Director). Clara Voda (Mother).

(手前にピントがあります。逆光の輪郭とみずみずしい若草、土の質感が美しい)

https://www.imdb.com/title/tt1590024/mediaviewer/rm2228402432


おお。ひさびさに、よかったです。
ひなびた官舎の少年院で、青少年たちは服役している。手持ちのカメラで揺れながらとらえられる風景には自然な寂しさがにじんで、エンディングクレジットの田舎道(ここは固定)も寡黙だった。ちいさな子供の目で見たような、はるかな夏の夕暮れだった。

この感性はなにかを思い出させる。うわあ、そうだ。『大人は判ってくれない』です。
けっして、くらべたいわけではない。とても違うから。でも通じるものがあるといえばたしかにそうで、この作家がえらぶ孤独の表現はこのひとのもので、このひとの鋭さで細部まで生きている。そのくらべようのなさが共通している。優れた作り手はかならずそうだ。それぞれに、みつめる細部がまったく異なる。それなのに深い普遍をうったえてくる。

監督したフロリン・セルバンはルーマニア出身。執筆には彼と、あと二人が記されていた。もとになった戯曲があるのかもしれない。くわしいことはわからない。撮影はマリウス・パンドゥル。

主人公のシルヴィウ、十八歳の青年は、絨毯のように人びとからごく自然に踏みつけられている。周囲の誰もがあたりまえに彼の上を歩いていく。絨毯をかばおうとは誰も思わないだろう。彼は忍耐強い。でも忍耐しきれないこともある。その破砕の瞬間を準備していくちいさな素材のつみかさなりが、驚くほどの繊細さをたたえていた。物語としての優れた囲碁をみているようだった。あちらの隅と、こちらの隅と、ただそれぞれに石が置かれる。ばらばらの時空がすこしずつ共鳴しはじめる。

青年は服役している。模範囚だという。もうすぐ出所できるという。
面会にきた母親は、なつかしそうに青年と話す。途中ですっと顔色をかえ、あたりまえのように彼の顔をぶつ。
青年が守ってきたちいさな弟は、結局のところその母親と引越したがっている。兄をおいて。
出所直前に問題を起こしたくはないだろうと青年を脅しながら、ほかの入所者が彼の顔をぶつ。夜になにが起こるかはわかりきっている。
青年はすてきな女性を脅して、はがいじめにして、喉にガラスをつきつけた。相手はただ静かにおびえている。彼は彼女と話をしようとする。彼女はなにも話してはくれない。にぎりしめたガラスの破片で血がにじむのは彼自身の手のほうだ。
彼は看守を殴り倒した。でも時間がたって、彼は黙って看守のひたいを手当てする。彼の目が赤い。

説明はなにもない。表現は抑制されている。だからここに言葉で書いたことは、すべて少年院のなかで彼のかたわらに立ちながら、透明なままのわたしたちが透明な目で眺めて知る以外にはない。

世界は彼をこばんでいる。世界は彼を愛していない。彼はそれを受け入れている。生まれてからずっと。



メモリータグ■彼は彼女とコーヒーを飲みたかっただけなのだ。でも彼女はコーヒーに手をつけない。たださりげなく、そっと断る。うっかりすると見逃しそうな細部だ。でも彼は知っている。彼女はそこに座って、ただがまんしているだけだと。俳優もカメラもすばらしい一体感だった。2010年ベルリン映画祭審査員グランプリ。あわせてアルフレッド・バウアー賞を受賞している。新しい視点を提示した作品にあたえられる。審査員長はヴェルナー・ヘルツォーク、さすが。金熊賞はカプランオールの『蜂蜜』が得た。この年の出品者はおそろしく豪華な顔ぶれで、やはり観客動員数も史上最多だったという。そのなかでも、きっと文句なしの二本だったろうと思います。


0485. 別離 (2011)

2018年05月19日 | ベルリン映画祭金熊賞

別離 / アスガー・ファルハディ
123 min Iran | France 

Jodaeiye Nader az Simin (2011) aka. A Separation. Language: Persian
Written and directed by Asghar Farhadi, 1972-, Iran. Cinematography by Mahmoud Kalari. Film Editing by Hayedeh Safiyari. Music by Sattar Oraki. Performed by Payman Maadi aka. Peyman Moadi (Nader), Leila Hatami (Simin), Sareh Bayat (Razieh), Shahab Hosseini (Hojjat). Sarina Farhadi (Termeh), Ali-Asghar Shahbazi (Nader's Father), Babak Karimi (Interrogator).  


https://www.imdb.com/title/tt1832382/mediaviewer/rm2618998016

この作品も脚本が秀逸だった。登場する誰もがすこしずつ弱みをかかえている。興味深いのは誰もがその弱みの責任を他人に転嫁しようと叫びあう主張の強さで、これは文化的な慣例の影響が濃いのか、この作家の手法なのか、それを見分けることができないほど、わたしはイスラムに無知だと自覚した。ともあれ作中ではこの全員の弱みと嘘が状況をつなぎ、そして悪化させていく。問題群の論点を整理して切断することをなかなかゆるさない、その連鎖の構造提示がたくみだった。

おかげで物語はかんたんに要約できない。針の穴のようにこちらの虚をつきながら螺旋状に問題が深まる。そして各人の人生がすこしずつ損なわれる。どうしてそういう言動に展開するのか、それぞれの論理にあぜんとする瞬間が何度もあるのだが、それは計算されている。2011年ベルリン映画祭金熊賞。2012年米国アカデミー外国語映画賞。ベルリンでは銀熊賞として最優秀女優賞・最優秀男優賞をあわせて得ている。主要な役を演じた俳優たちがほぼ全員で受賞しているのが印象的で、たしかによくエネルギーが拮抗し、かつ調和していた。11歳の少女テルメを演じたサリナ・ファハルディは監督のファハルディの娘さんだという。彼女もみごとだった。

えがかれるのは現代イランのふた組の家族。ひと家族は、離婚するかしないか不安定な距離にある夫と妻とかれらの娘、そこに認知証の老親が同居している。もうひと組は、この家庭で介護を担当する女性とその家族。全員が家族的な不穏をかかえ、それらのインシデントがつながってアクシデントにいたる。介護者の女性は流産する。胎児は19週に入っているため、流産の原因がもし雇用者の暴力にあるなら殺人罪になるという。

どちらの家庭にも娘がいて、この子供たちの存在感が作品を深めていた。11歳の少女の理知的なまなざし、おさない少女の無心の大きな瞳。子供の表情にはすべての問題を切断不能にする力がある。エンディングは娘の結論を待つ夫婦の横顔で終わっていた。優れた時間の使いかただった。


メモリータグ■介護者の女性は、認知症の高齢男性の体を洗って宗教上問題がないかを電話であらかじめ確認する。許可をえたあとまだ不安そうな女性にむかって、彼女の幼い娘がいう。「パパには言わないから」。彼女はとくに信心深い女性で、全員がここまでするわけではないことは観る側にも次第にわかってくる。





0484. ノー・マンズ・ランド (2001)

2018年05月12日 | 2000s

ノー・マンズ・ランド / ダニス・タノヴィッチ

No Man's Land (2001)
Written and Directed by Danis Tanovic. Cinematography by Walther van den Ende. Film Editing by Francesca Calvelli. Music by Danis Tanovic. Performed by Branko Djuric (Ciki), Rene Bitorajac (Nino), Georges Siatidis (Marchand), Filip Sovagovic (Cera).


https://crashburndotcom.files.wordpress.com/2012/02/no-mans-land-1.jpg

2013年に『鉄くず拾いの物語』でベルリンの審査員グランプリを得たダニス・タノヴィッチのデビュー作。カメラワークもカット構成もみごとに手なれていて、おそらくテレビなどでじゅうぶんに経験をつんだ人だろう。のちの『鉄くず拾い』のいかにもおぼつかない手ざわりが、徹底した反演出志向によるものだったことをあらためて確認できた*。

注*『鉄くず拾いの物語』はEOS 5D Mark IIで撮られていて――つまりデジタル一眼レフの動画機能で――予算は17万ユーロ(200万円弱)だったという。その姿勢は理性的な選択だったと感じる。内容の本質に合っているのだ。

『ノー・マンズ・ランド』はボスニア・ヘルツェゴヴィナの紛争が深刻だった1993年当時の戦場を題材にしている。双方の兵士が二人ずつ、中間地帯の塹壕に取りのこされる。閉ざされた小空間で対峙する敵兵どうしの残忍で奇妙な半日がえがかれていく。一人はすぐに殺され、一人は体の下に地雷をしかけられて身動きできないまま横たわることになる(助け起こせばその瞬間に地雷が爆発する)。あとの二人はたがいに友情と憎悪のあいだを不穏に行き来する。敵兵どうしはときに助け合い、一瞬のちには殺しあうのだ。

タノヴィッチ自身が手がけた脚本がいい。暗い冗談と皮肉を使いながら、ぞっとするほどばかげた悲劇的な状況をコンパクトに凝縮していた。舞台劇としてもじゅうぶんに成立するだろう。そういえばこのタッチは誰かを連想させる。誰だろう? たぶんブレヒト。無頼と風刺とかなしさと、永遠に終わらない戦争が目のまえに差し出される。

諷刺される対象は四者ある。まずたがいに敵を罵倒しつつ慌てふためく両軍二者が皮肉られる。ついで国連という組織のほとんど存在論的な欺瞞が思いきりあてこすられる。ここで国連上層部はひたすら世評をおそれていて、メディア対策のために中間地帯への救助出動を許可し、またそれを恣意的に取り消す。最後にニュースメディアが嘲笑される。かれらも視聴者の反応と局内での評価に隷従し、取材後はもはやニュース価値がないと考えて塹壕のなかを確認しないまま引き上げてしまう。

人びとが戦場から去ったあと、塹壕では兵士がたった一人、除去不能の地雷を背に敷いて横たわったまま取り残されている。もはや誰も彼を助けることはない。世界の愚かしさに向けて叩きつけたメッセージは明確だった。2001年カンヌ映画祭脚本賞、2002年米国アカデミー外国語映画賞。

わかったようにこんなことを書いているわたしも「世界の愚かしさ」のなかにふくまれている――もちろん。でもとても混乱してはいるのだ。自分のなかのどこかで。



メモリータグ■「悲観的なやつと楽観的なやつの違いはなんだと思う? 悲観的なやつはいまが最悪だと思う。楽観的なやつはこのあとが最悪だと思う」






0483. 愛より強く

2018年05月05日 | ベルリン映画祭金熊賞

愛より強く / ファティ・アキン
121 min Germany | Turkey

Gegen die Wand (2004)
Directed by Fatih Akin. Written by Fatih Akin (book). Cinematography by Rainer Klausmann. Film Editing by Andrew Bird. Performed by Birol Unel (Cahit). Sibel Kekilli (Sibel). Guven Kirac (Seref).   


https://www.dvdtalk.com/reviews/16327/gegen-die-wand-head-on/

注目を集めるトルコ系映像作家たちのなかで、ほぼ最後にファティ・アキンを観たことになるかもしれない。ヴァイオレント・ラヴストーリーといえばいいのか、ひと組の男女の無計画な人生選択をなかなかの破壊力でえがいていた。

個性はしっかりしている。情動性の濃い作風で、エネルギーのある作り手だと思う。編集も、すくなくとも途中までは場面内の展開をさくさくとみじかく切って重ねることでコミカルな自己批判性を出していた。ああなってこうなって、どうせそうなんだけどさ、という要約性がもたらす笑いです。これは編集を手がけたアンドリュー・バードのセンスやリズム感が貢献しているのだろう。

この作品の前半は、とつぜん自傷行為や他傷行為に展開する衝動性をつうじてある種の進行感がもちこまれていた。たとえば会話の途中で、ヒロインはいきなりビール瓶を叩き割って破片を自分の手首に突き刺す。高く噴出する血液、みるみる赤くなる衣服、騒然とする周囲。ただ、この種の刺激はエスカレートしていかなければならないという宿命がある。スペクタクルの一種だからかもしれない。

後半はすこし退屈していた。破滅が行きつくと、まじめになるしかない。まじめになると勢いも皮肉も消えてしまう。前半は男性主人公を軸にしたシニカルなファンタジーで始まるものの、後半は女性主人公によりそって同情的なリアリズムに滑り落ちそうになる。ともあれ、逃げずに最後まで取り組んで2004年ベルリン映画祭金熊賞。10年後の金熊賞『薄氷の殺人』との共通性もあるけれど、あれよりは体力があります。演技の指示はしっかりしていそう。ざんねんながら映像に傑出した点は感じない。

かいつまんだあらすじ:現代のハンブルクに暮らすトルコ系社会の人びとがえがかれる。荒れた生活のはてに自殺未遂をした清掃人の中年男性は、やはり自殺未遂をした若い女性から初対面で結婚を申し込まれる。彼女は抑圧的な家族の結束から逃れる唯一の手段として結婚を望んでいるのだという。偽装結婚に応じたのちは、たがいに薬物とディスコと酒類と、べつべつの相手との刹那的な性生活がつづく。やがて「夫」は「妻」に恋をして、彼女の交際相手を衝動的に殺してしまう。彼女は自立を模索して、歳月をへて再会するけれど、といった展開です。かなめになる内的動機は台詞で説明されていて、よかれあしかれわかりやすい。「Gegen die Wand(壁に向かって)」という素朴な原題じたい、そうかもしれない。

と、あらためて書いてみると、やはり恋に落ちる展開そのものは想定内で、これは後半をもてあます要因にもなっている。編集でこの弱点を消せるだろうか? 清掃人が衝動的な殺人を犯したところでしっかり切って、あとはエピローグに近い点描処理で、ばさばさと刈り込んでシニカルに進めて、帰結の場面だけしっかり。そのほうがむしろ余韻をのこせたかもしれない――監督が受けいれさえすれば(むりをいわないで)。

でもラヴストーリーのかなめは文体。傷があってもいいから、挑まないと。むかし『カルメンという名の女』というゴダールの名作があったことを思い出す。しっかり突き放すことで詩的に昇華した破滅的なあの表現を、もう一度観たくなりました。



メモリータグ■節目ごとに歌手とバンドが現れて、できごとの象徴性を歌ってくれる。





0482. レヴェナント 蘇えりし者 (2015)

2018年04月28日 | 米アカデミー作品賞and/or監督賞

レヴェナント 蘇えりし者 / アレハンドロ・イニャリトゥ
2h36 min USA | Hong Kong | Taiwan

The Revenant (2015)
Directed by Alejandro G. Inarritu. Screenplay by Mark L. Smith and Alejandro G. Inarritu. Besed in part on the novel by Michael Punke. Cinematography by Emmanuel Lubezki. Film Editing by Stephen Mirrione. Costume Design by Jacqueline West. Music by Alva Noto and Ryuichi Sakamoto. Performed by Leonardo DiCaprio (Hugh Glass). Tom Hardy (John Fitzgerald). Domhnall Gleeson (Captain Andrew Henry). Forrest Goodluck (Hawk). Budget:$135,000,000 (estimated)


https://www.imdb.com/title/tt1663202/mediaviewer/rm1058922496

自然をとらえた映像の詩的な美しさを追求するという、決意を感じた。場面の多くは冬の山河で、多彩な陰影をとらえるために効果的とされる時間帯や色彩設計の絵がいくども出てくる。夜明け、日没、逆光、冬の風、雪に映る炎、それらを映す透明な光は冒頭からテレンス・マリックを連想した。とくに『ツリー・オブ・ライフ』を。あとでデータをみるとおなじ撮影家――エマニュエル・ルベツキ――でした。マリックの優れた影響と同時に、タルコフスキーの参照があると思う(参照しないひとはいないかもしれませんが)。

主題を乱暴に要約すると、生還と復讐。アメリカ開拓期の毛皮狩猟者と先住民族の抗争のなかで、息子を殺された父親が死の際から帰還して復讐をはたす。実話がもとだという。真冬の山中を300キロ踏破したというこの設定を、すこしずつ西部劇の定型からはずして表現していく。ハリウッド作品としては限界といえそうなところまで血肉のしたたる描写をもちこんでいた。人間も生の獣肉にかぶりつき、殺し合いでは体の肉がちぎり取られ、えぐられる。内臓ごとぶちまけられる赤い色が、白い雪のうえに広がる。自然の風景にかさねられる、なまなましい暴力と限界生存の描写がこの作品のスタイルになっていた。「美しい自然、血まみれの殺戮」。それが制作方針だったのだと思う。

多くの主演をこなしてきたレオナルド・ディカプリオにとっても、今回はまれにみる苛酷な撮影だったかもしれない。真冬の河に浸かり、死んだ馬の内臓を引き抜いてその腹にこもる。撮影時間の調整も長かったろう。もともと「努力賞」のような演技が多いこのまじめな俳優に、今度ばかりはハリウッドも譲歩して(?)アカデミーの主演男優賞をあたえた。たしかにここまで努力してみとめられなかったら、必死に演じた『キャバレー』で主演賞をとれなかったライザ・ミネリのようです。

ルベツキは『ライフ・オブ・ツリー』(2011)で撮影賞にノミネートされたあと*、『ゼロ・グラヴィティ』(2013)、『バードマン、あるいは』(2014)、『レヴェナント』(2015)と三年連続で米国アカデミー撮影賞を得た。驚きはない(そもそもライフ・オブ・ツリーで撮らなかったことのほうにむしろ驚く)。でも数年にわたってそれぞれ完全に技術方針の異なる作品を選びつづけたことには尊敬をこめて驚く。
*この年の受賞は『ヒューゴの不思議な発明』のロバート・リチャードソン。

演出はアレハンドロ・イニャリトゥで、きわめて戦略が明確な点は『バードマン、あるいは』と共通している。今回はA「マリックの自然映像表現」にB「スピルバーグが『プライベート・ライアン』で達成したなまなましい対人殺戮表現」をかさね、さらにC「人間と動物との格闘」を導入している。徹底している。この三点をつうじて「西部開拓時代の殺し合い」というハリウッドの伝統領域でリアリズムを半歩拡張してみせた。2016年米国アカデミー監督賞。

と、またしても妙にイニャリトゥに冷たいものいいになってしまうのはどうしてかしら。随所のカメラワークは秀逸だったし、力量はまちがいない。たぶん、あまりにも冷徹な計算が感じられるためかもしれない。それは監督として必須の資質なのに、それ以上にこのひとは、つくづくこの業界でどこまでやればいいか完璧にこころえているようにみえる。すくなくとも既存の表現をすこしずつ拡張して「独自性」を演出する手法において、イニャリトゥはわかりやすい監督です。制作全体の推定予算は約150億円。

衣装では、熊の頭部がついた毛皮をまるごとかぶる防寒着に息をのんだ。たった一点で物語の世界観をみごとに表象していた。ほんとうの意味で主役の衣装です。担当はジャクリーン・ウェスト。



メモリータグ■『ノスタルジア』風のあの廃墟はセットを組んだのだろうか。あそこはできればほんとうにロケにいったほうがよかった。






0481. イヴ・サンローラン (2010)

2018年04月21日 | 2010s

イヴ・サンローラン / ピエール・トレトン
98min

L'amour fou (2010) : Documentary
Directed by Pierre Thoretton. Written by Eve Guillou and Pierre Thoretton. Cinematography by Leo Hinstin. Film Editing by Dominique Auvray. Music by Come Aguiar and Laurent Levesque. Persons: Yves Saint-Laurent, Pierre Berge, Catherine Deneuve.


Yves Saint Laurent, 1936 - 2008.

サンローランを主題にした映像は2014年に公開された2本のフィクショナルな作品が広く知られているのかもしれない。あえてここで書いているのは2010年に公開されたドキュメンタリーのほうで、サンローランという人物像から放たれる強烈なインパクトを味わうことができる。実物の凄みがあります。

かなめのひとつはサンローランの死後、競売にかけるために梱包されて運び出されていく美術品の壮麗なコレクションで、終盤におかれたクリスティーズの競売場面も感銘があります。かつて一人の内向的な青年がモードにおいて圧倒的な成功をおさめ、世界の頂点に立った。その富と名声と重圧に満ちた生活が、おびただしい遺品という「物」をつうじて示唆される。絵画、彫刻、陶器、家具。それらはあくまでひとつの人生が残した影のようなものであるにせよ、やがてサンローランの時代は過ぎ、自身が土に還り、遺された豪奢な家財という最後の影が、いま離散して消えていく。そのさまがえがかれて映画は終わる。

そしてもちろんデザインされた服と、なにより本人の姿をみることができる。サンローランというひとはふつうの意味でフォトジェニックだったと思うけれど、そんな平凡な表現をつき抜けた特異な迫力がその姿にはある。とくに青年期です。極度に凝縮された集中力、過敏さと知性は、みじかいインタヴューやモノクロのポートレートからも伝わる。その「ただならぬ気配」が歳月をへて柔らかくほどけていき、さらに痛ましく崩れ、やがてしっかりと自己を取り戻した老年にいたる。知的で簡潔な、みごとな引退スピーチを冒頭で聴くことができる。


Pierre Berge, 1930 – 2017.

このドキュメンタリーでは、サンローランの配偶者だったピエール・ベルジェが語り手として主役に近い位置をしめている。毀誉褒貶のある人生だったことは指摘されてきたし、その批判的な観点についてはほかの史料で知ることができるだろう。でもこのひとも、べつの意味でそうとうな迫力です。老練の政治家のような鋭い視線が印象に残る。サンローラン自身がいかにも芸術家肌でビジネスのかけひきをほとんど嫌悪していたのに対して、企業を采配していたのはベルジェだったことは作中でも語られる。本質的に相補的だったのだろう。

サンローランは掛け値なしに天才だった。20世紀なかばに人びとの世界観に衝撃をあたえたフランスの思想としても、わたしのなかではフーコーと並ぶ人です。それぞれ知性の核に深いエレガンスと品と過激さがあった――モードと哲学というおそろしく違う表現領域にもかかわらず。

フーコーの最高の文章のなかにある燦然とした気配は、時代の水底にある元型を大きくつかんで揺すぶるような深みから流れ出てきたものだったと思う。社会の無意識までをすくいとった声のもつ迫力がそこにはあって、川の流れを透かしてとつぜん光をあてられた黄金をみるようだった。初期のサンローランのいくつかのラインもそうだった。求めていたのはこれだったのだと世界に思わせるような、巨大な無意識がかたちになった瞬間だけに生まれる驚愕があった。

いっぽうで、モードの世界は酷い。最高の才能をぼろぼろになるまで吸い尽くして、みるみる走り去っていく。サンローランも最後のころのコレクションは、たしかに一目みて古い。でも生活が荒廃していたといわれる時期の作品にさえ、病んだ時代を病むほどの感性が命を削ってかたちにした爆発的な偏向力と過激さがあった。強い嫌悪を呼び起こす作品には、呼び起こすだけのエネルギーがこもっていた。

プレタポルテを打ち出した時期は女性が声を上げて社会に出ていった時期だった。あのマニッシュなプレタポルテは商業をこえて思想だった。同時にパリのオトクチュールもまだ高みにあった。分岐していく二つの流れをサンローランはどちらも中心で担っていた。だからかれは正しく創り、正しく滅びたのだ。二〇世紀の女性の衣服習慣を変革したといえるほどのデザイナーは、シャネルとサンローランただ二人である。



メモリータグ■コレクションを紹介するためにかかげられた大きな幕。グランパレで展示され、5巻組のカタログが用意された。出品は700点あまりだそうで、個人の遺品としてはまれにみる規模だったことがうかがえる。






0480. ジキル&ハイド (1996)

2018年04月14日 | 1990s

ジキル&ハイド / スティーヴン・フリアーズ
1h 48min USA | UK

Mary Reilly (1996)
Directed by Stephen Frears. Screenplay by Christopher Hampton based on a novel by Valerie Martin. Cinematography by Philippe Rousselot. Film Editing by Lesley Walker. Production Design by Stuart Craig. Art Direction by John King. Set Decoration by Stephenie McMillan. Music by George Fenton. Costume Design by Consolata Boyle. Performed by Julia Roberts, 1967 - (Mary Reilly). John Malkovich (Dr. Henry Jekyll / Mr. Edward Hyde). Glenn Close (Mrs. Farraday). Budget:$47,000,000 (estimated).


https://www.welt.de/kultur/gallery1305987/Julia-Roberts-immer-hinreissend.html

この作品はフィリップ・ルスロの映像が美しい。『王妃マルゴ』(1994)や『インタヴュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994)などを手がけたフランスの撮影家で、光に柔らかい奥行きをふくませる感覚をもっている。いいかえれば、それを美しいと思う感覚をもっている。意外な作品にも参加していて、『ブレイブワン』(2007)もこの人だった。あれも翳りのある陰影が印象的だった。

役者:原題は「メアリー・ライリー」。ジキル博士の家のメイドが主役で、ジュリア・ロバーツが優れた表情をみせている。ジキルとハイドの二役をマルコヴィッチ、娼館の経営者をグレン・クローズが担当して、それぞれ実力者らしい造型を実現していた。Imdbによればジキル役はダニエル・デイ・ルイスが断ってきて、マルコヴィッチになったらしい。マルコヴィッチもクローズもルスロも、この数年前に『危険な関係』(1988)でフリアーズと仕事をしているし、デイ・ルイスはフリアーズの『マイ・ビューティフル・ランドレット』でよく知られているだろう。常連たちといえそうです。

脚本と編集:脚本の展開力は弱い。ジキルとハイドはいい素材だと思うのに、二極の二役をしっかりみせるという要をわざと避けたようにきわめて抑制している。それなら観客を待たせることに工夫がほしかった。編集はゆっくりしている。尺を短めにして進行感を優先してもよかったと思うけれど、役者はいいので、じっくりと表情を切り取る編集方針そのものは気にならなかった。

演出:監督はスティーヴン・フリアーズ。独創性はないものの、品のある手堅さの中におさめてはいた。おどろおどろしい怪奇作品にしたくないという方針は伝わる。主の寝室にメイドが朝食を運び込むカットがリズムモチーフになっているので、ここを基調に毎回明確に異なる素材を持ち込んで展開したりすれば、もうすこし進行感が出た気がする。

装置:ジキル博士の研究室は空中に板を渡したオリジナルな空間に設計されていた。そのおもしろい立体性をもっと生かしたかった気がするけれど、カメラを据えられる位置などに制約があったのかもしれない。おなじアングルで撮っていた。石畳の中庭にもロンドンの怪奇ものらしい陰鬱な不健康さが出ていた。

衣装:最後に。衣装は残念きわまりない。これほど地味な少人数の芝居で、これほど地味な女中服を何度着せ替えても視覚効果はおなじ。せっかくのコスチュームドラマなのに、これは脇役の衣装です。かわいそうなヒロインを、それでもとても美しく撮ったのは撮影の恩恵といえそう。それにしてもヴィクトリア朝ロンドンの労働者階層の女性服という、抑圧の象徴のような醜さを考証してどうしたかったのだろう? それにしてはジキル博士の衣装考証ははんぱだし、対照的な二役を打ち出すにしてはヘアメイクも衣装も変化に欠けた。



メモリータグ■巨大な海蛇を鉤に吊るして生きたまま皮を剥ぐ。皮を剥がれてもまだ動いている。ここはよく雰囲気がでていた。






0479. 鉄くず拾いの物語(2013)

2018年04月07日 | ベルリン映画祭審査員大賞

鉄くず拾いの物語 / ダニス・タノヴィッチ
74 min Bosnia and Herzegovina | France | Slovenia | Italy

Epizoda u zivotu beraca zeljeza (2013)
Directed by Danis Tanovic. Screenplay by Danis Tanovic. Cinematography by Erol Zubcevic. Film Editing by Timur Makarevic. Performed by Nazif Mujic, Senada Alimanovic. Semsa Mujic, Sandra Mujic.


http://www.sdd-fanatico.org/epizoda-u-zivotu-beraca-zeljeza-2013/

ひとつの実話をつうじて、紛争後のボスニア・ヘルツェゴヴィナの社会をえがく。美しさをかたくなに拒んだようなその映像のなかに、ありのままの光景をさし出そうとする無言の覚悟が浮かび上がる。主人公を演じるのも俳優ではない。鉄くず――あるいは屑鉄――を売って家族をやしなっている一人の男性で、かれはロマ族の妻をもつ夫として実際に自分たちの身に起きたことを再現していく。

冒頭からしばらく、まるで素人がカメラを回しているような「演出のなさ」の記号を見極めるために時間が必要だった。そのあとはこちらも腹がすわった。いま眼前で現実が語りなおされていく。現実のなかに演出はない。

冒頭で映しだされる季節は冬だ。雪まじりの凍てついた村で、夫は仲間と廃車を壊し、屑鉄をよりわけて売りにいく。100マルクほどを仲間と分けて持ち帰り、妻と幼い娘たちと食卓を囲む。

なにもかもが貧しい。ほぼすべてが醜い。大きな谷いっぱいに廃品が積み上がるごみ捨て場、汚れた廃車を手斧だけで解体していく苛酷な労働、街なかに近づくとみえてくる巨大なコンビナート、不吉に空をおおっていく煙。この国のボスニア紛争後の生活は、戦時中よりもさらにひどいという。

そのなかでロマ族という少数者であることが、さらに妻の状況を厳しいものにした。ある日、体の中で胎児が死んでいて、ただちに手術をしないと死が待つことを宣告される。だが保険に入っていない。980マルクの手術代がない。これは約500ユーロだという。いわば5万円がないために死んでいくことになる。夫はごみ捨て場に鉄を拾いに行く。廃品の鉄は94マルクにしかならない。民間の支援団体を頼るものの、打開できない。時間が迫る。

街の病院では産婦人科の待合室なのに椅子がない。え? 驚いて画面をみつめるうち、鉄くず拾いがわたしの中でささやく。これが事実なんだ。こんな国があるんだ、知っていたか? 病人が壁によりかかって立っているだろう? 文句さえ言わない。なぜだと思う? 考えてくれ。おれたちがなくしたのは金だけじゃないんだ。考えてくれ。

社会的告発をなす多くのりっぱな作品を、わたしたちはある意味で見慣れている。見慣れないスタイルが、ここではとられている。やがて一流の映像作家たちの手がけた告発作品が、どこか美しすぎ、どこか整いすぎたもののようにさえ思えてくる。ここで語りなおされる現実は、曖昧で、不明瞭なままの日常だ。大量殺戮が起きるわけではない、地球の破滅があるわけではない。かれらは叫ばない。ただ出られないと知っているのだ。この閉塞から、この不透明な死から。

夫はなんとか親戚から保険証を借りることができた。他人の保険証を手にして診察室に入っていったきりの妻を、夫は廊下で待ちつづける。ちいさな娘たちは退屈し、遊び、騒ぎ、やがて静まる。大きな瞳が記憶に残る。時間の長さ。薄暗い光。疲れ果てた夫の、激しく不安な横顔が、この作品の静かなクライマックスだった。優れた場面だった。

エンディングにさえ、雪に埋もれた冬の村の美しさが映されることはない。薪をかかえ、無言で家に戻る主人公を見送って、じっと古い壁を映して終わる。この映画は腹をたてているのだ。涙も、議論も、叫び声もつき抜けて、もうなにも残らないほど深いところから。

ベルリン映画祭はこの作品に審査員グランプリをあたえた。さらにエキュメニカル特別賞があたえられ、主演男優賞があたえられた。もしその立場にいたら、きっとわたしもそうした。この家族に対して、この国に対して、ほかになにができるだろう? だがそれはけっしてあわれみではない。かれらはひとつの現実の手ざわりを世界に伝えたのだ。



メモリータグ■ごみ捨て場をあさる夫のそばに、一頭の犬がまつわる。ここは犬の動きで、みちがえるように画面が生きた。うれしかった。