うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0443. トラフィック (2000)

2015年01月20日 | 米アカデミー作品賞and/or監督賞

トラフィック / スティーヴン・ソダーバーグ
147 min USA

Traffic (2000)
Directed by Steven Soderbergh, 1963-. Written by Simon Moore (miniseries Traffik), Stephen Gaghan (screenplay). Cinematography by Steven Soderbergh (as Peter Andrews). Music by Cliff Martinez. Performed by Benicio Del Toro (Javier Rodriguez), Catherine Zeta-Jones (Helena Ayala), Michael Douglas (Robert Wakefield), Don Cheadle (Montel Gordon), Erika Christensen (Caroline Wakefield), Amy Irving (Barbara Wakefield), Dennis Quaid (Arnie Metzger).


hotflick.net

ソダーバーグたちがアメリカで賞をとろうと勝負した作品。脚本も撮影も編集も、それぞれ技術的な難度は高い。複数のストリームを並行させた設計で、演出や音楽は乾いた感じに仕上げようとこころみていた。とはいえ脚本の帰結は9割がた予定調和におさめてしまう。不和だった家族は和解し、犯罪者は失脚する。あと1割を多少宙吊りのまま残すことでそれなりの「芸術性」を確保しておくという計算まで、ハリウッドの手法の域内にある。2001年春の米国アカデミー監督賞(作品賞は『グラディエーター』)。ベニチオ・デル・トロに助演男優賞とベルリン映画祭男優賞、スティーヴン・ギャガンに脚本賞、スティーヴン・ミリオンに編集賞。どれもオスカーのストライクコースという感じだった。

ソダーバーグは同じ年に『エリン・ブロコヴィッチ』を撮っていて、二作品でノミネートされた。若いころの『セックスと嘘とヴィデオテープ』は僥倖の受賞といわれつつもそれなりに印象的なタッチをもっていたけれど、インディペンデント系の映像作家としてスタートしたあと、完全にハリウッドのプロフェッショナルな職人になったひとといえるかもしれない。

主題はメキシコからアメリカに流入している巨額の麻薬。メキシコ国内の利権抗争、アメリカ国内の抗争、全米麻薬対策局長の家族問題(娘が麻薬使用者)という三つの流れで描写されていく。メキシコ内の抗争には警察と軍部と二つの麻薬組織の対立がかかわっているので編集処理はさらに複雑になる。展開の刈り込みかたが大胆でうまかった。そう、あの種の卓越した技巧性を目にすることができる。クレジットをみるとイギリスのテレビシリーズ『Traffik』1989を先行作として参照している。高純度の麻薬を固めてつくったお人形という輸出入偽装には驚きました。樹脂を落として人形を溶かすと、すべて白い粉でできている。

ワンカットの撮影で印象にのこった場面がある。メキシコとアメリカの国境付近。十車線くらいの広いハイウェイは、往路も復路も混雑している。これをアメリカ側から俯瞰で映せる位置にカメラを据えて、まずメキシコへむかって遠ざかる右手の車を見送る。フレームアウトのなりゆきからそのまま左にパンして、逆にメキシコから入ってくる車列の一台にフォーカスしていく。運転しているのはヒロイン。カット。車線が空いているならまだしも、混雑した状態できれいにタイミングをあわせていた。「メキシコ・アメリカ間の麻薬取引のトラフィック」というメインモチーフを視覚的に表現した高度な一枚で、撮影はソダーバーグ自身(aka. ピーター・アンドリューズ)。このひとの強みがよく出ている。



メモリータグ■キャサリン・ゼタ・ジョーンズはたぶん、ほんとうにおめでただったのだろう。ずしりと落ち着いて印象的だった。






0442. 悲しみのミルク (2009)

2015年01月10日 | ベルリン映画祭金熊賞

悲しみのミルク / クラウディア・リョサ
95 min

La teta asustada (2009)  aka. Milk of Sorrow
Written and directed by Claudia Llosa, 1976-. Cinematography by Natasha Braier. Film editing by Frank Gutiérrez. Music by Selma Mutal. Performed by Magaly Solier (Fausta).  


www.popscreen.com

質朴だけれど、映像構成にセンスを感じる。母親の孤独な死と、いとこの陽気な結婚式にはさまれた一人の娘の、世界に対する根源的な怖れを描くことができていた。ペルーの若手、クラウディア・リョサの長篇第二作。このひとはバルガス‐リョサの姪にあたるそう。誰であれ、切り取られた時空のなかに主題の象徴をきちんととらえていたので、落ち着いてみていられた。2009年ベルリン映画祭金熊賞。審査員長はティルダ・スウィントン。

主人公ファウスタは、叔父一家と共にペルーの貧困地域に暮らしている。母親が亡くなり、故郷に埋葬する費用を調達しようとして富裕な家のメイドになる。葬われることを待つ母の遺体はそのまま過去を表象する。それは作品の核をなすメインモチーフとして「親の過去に呪縛された娘」という主題に強い重力を形成していた。娘は毎夜、ベッドで母の遺体によりそって眠るのである。

原題は「恐れの乳首」。母の乳をつうじて子供に恐怖心が伝わるという民俗的な伝承があるのだという。心理的には妥当な解釈に思える。多くの子供が親の影を引き受けて生きていることを臨床家たちは指摘してきた。

創作上の記号としては『ギルバート・グレイプ』の巨体の母を想起することもできる。あの作品では最後に母の遺体が家ごと焼かれた。この作品では故郷に遺体が埋められ、そのとき初めて親の過去から子の未来が分離される。だが子供の世界観には社会的過去が大きく投影されているぶん、より重いともいえるだろう。

ファウスタの母親はかつて故郷の村のテロによって、残虐な集団強姦を妊娠中に受けた。娘はその破滅的な精神的外傷を深く継承している。性的恐怖、異性への恐怖、そして実存性そのものへの恐怖でその意識はぶ厚く塗りこめられ、みずからを生きることができない。強姦をおそれるあまり、性的な経験をもたないまま膣にじゃがいもや異物を詰めつづけている。この一種の性的自死を第二モチーフととらえることができるだろう。それは "閉ざされた現在" を表象している。母が強姦されたとき胎内にいたファウスタは、いまも母のなかにいるのだ。時がとまっている。こうして「死んでいるのに生きている母」と「生きているのに死んでいる娘」が重なりあう。二者を表象する二つのモチーフがともに身体的であることが、普遍的な強度につながった。

いっぽうで、いかにも南米らしい陽気な結婚式がえがかれる。その空間にこの孤絶した娘をおくことで、集合的苦悩の巨大な傷口からはいまもまだ血が流れつづけていることを伝える。騒がしい結婚式は第三モチーフなのである。それは主人公のかたわらを流れていく、ひらかれた肯定的な未来を示唆する。

過去・現在・未来をあらわすこれら三つのモチーフはいくどもくり返されてこの作品のリズムをなし、表現の象徴性とひそやかな様式性を高めている。一見地味なリアリズムの作品にみえるが、そうではない。

最後ちかく、海辺の場面の、くぐもった淡い朝の光が荘厳だった。世界の恩寵である。ここを最終場面にしてもよかった。水と潮流は生命の象徴であり、再生を示唆する――もちろん。この広大な慰藉の朝を撮れたことを、おめでとうと心から思った。



メモリータグ■ファウスタの雇い主である音楽家のコンサート。音に近づいていくファウスタは楽屋から自宅をとおり、舞台袖へと出る。この作品の映像表現を凝縮した編集個所。彼女を導くほそい糸は内的な音楽であって、現実ではない。