goo blog サービス終了のお知らせ 

うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0138. Il portiere di notte (1974)

2006年07月15日 | 1970s
愛の嵐/リリアーナ・カヴァーニ
122 min Italy, USA

Il portiere di notte. aka. The Night Porter (1974)
Directed and screenplay by Liliana Cavani based on a story by Barbara Alberti. Cinematography by Alfio Contini, costume Design by Piero Tosi. Performed by Dirk Bogarde (Maximilian Theo Aldorfer), Charlotte Rampling (Lucia Atherton), Philippe Leroy (Klaus).



原題は「夜勤のボーイ」。字義どおり、主人公は質素なホテルの夜間勤務のフロント係であると同時に、「夜を持ち運んでいる者」という意味もひそかにとりだすことができる。かつてナチスの士官として勤務した強制収容所で、ユダヤの少女に倒錯した嗜虐的な性愛関係を強いたという過去が背景にある。

話は暗い。十数年をへて偶然再会した両者は、抵抗をこころみながらもそのいびつな欲望関係を再現してしまう。欧州にとって政治的にも倫理的にもはげしく嫌悪を催させる、禁忌の多い設定であったことはまちがいない。個人的にも、もう一度見ろといわれたらかなりためらう。ただ、あきらかに才能を感じさせる作品であることもたしかだった。その意味で、単純に切り捨てることはできない。

細部も確実に作りこまれている。たとえば、ひときわうらぶれた感じを出していたのが、主人公がフロント係の制服の下にいつも着ているヴェスト。一流のホテルであれば、制服のなかに私服を着込むことはないだろう。前をボタンでとめるようになっているいかにも中年じみた「チョッキ」で、それがこのホテルとこの男の貧相な現在を伝えてくる。ある種の職業的威厳に近いものをにじませる主人公の動作と、その衣服とが薄ら寒い、垢じみた対照をなすことになる。一連の陰の多い画面づくりは成功している。ボガートはたしかに名優だろう。誠実な名士の役をいくつもこなしてきた役者なのに、ここでは近寄りたくないほどの気持ちの悪さで、卑屈であると同時にサディストである。薄暗いホテルのフロントがゆっくりと映されるところからすでに、宿命的にしみついたかびの臭いが漂ってきそうだった。

世評にまつわる点を二つ指摘しておきたい。一つは俳優、ことにシャーロット・ランプリグングについて。この俳優はきちんと評価されるべきひとだったと思う。みごとな演技を達成している。この役を演じたことで、個人としてあたかも背徳的な人間性を帯びているかのような烙印を押した当時の世論には疑問を感じる。いまであればもうすこし違っていたかもしれないけれど、いずれにせよ政治的な禁忌のコードを承知したうえでなお演技として圧倒的で、役柄にもとめられる容姿ももうしぶんなかった。いっぽうでダーク・ボガートには、ランプリングに対するような非難はむけられなかったのでは。倒錯的という点で同程度の水準にある役、というよりさらに問題の多い役を演じたにもかかわらず、この俳優の社会的な評価がすでに確立されていたこと――あるいは服を脱がなかったこと――がランプリングへの集中的な非難につながるとすれば不当と思う。

もう一つは作品そのものの位置づけについて。この作品がこうまで際物として非難され、しばしばヴィスコンティはゆるされてきたのはなぜ? ヴィスコンティがひきおこした一種のスキャンダルは、「烙印」になってはいなかった。かれは芸術家としてまっとうに遇され、カヴァーニは必ずしもそうとはいえない。もちろんこの作品に問題は多い。プロモーションに使われた写真もあまりに扇情的すぎたし、ほかの作品での評価も影響しているだろう。いっぽうでヴィスコンティが複数の作品で達成した「芸術性」は揺らぐものではない。だがそれでもなお、個々の作品は、作家の社会的文脈から切り離して独自に評価される権利がある。



メモリータグ■衣装のセンスと判断力は一流だった。ひどいところは文句なくひどく、洗練されるべきところはみごとに洗練されていた。誰かと思ったらピエロ・トージ。さすが……。



0100. 仁義なき戦い (1973)

2006年02月02日 | 1970s
仁義なき戦い/深作欣二 (1973)

監督:深作欣二、脚本:笠原和夫、原作:飯干晃一
菅原文太(広能昌三)、松方弘樹(坂井鉄也)、金子信雄(山守義雄)、梅宮辰夫(若杉寛)、田中邦衛(槙原政吉)、三上真一郎(新開宗市)


東映やくざ映画の代表作。このシリーズの全作を観たなかでは、これが一番勢いがあり、脚本もまとまっている。原作のもとになったのが実在の組長の手記であることも強みなのだろう、刑務所内での狂言自殺や地元の組同士の抗争、「とったる」という叫びにつづく無計画な殺人など、リアリティーのある展開がつづく。また小心者の狡猾な親分、真にうけて体をはってしまう若い見習、若者たちを掌握していく兄貴分の凄みなど、人物がきちんとかけていた。続編は一作ずつ水準が落ちていくけれど、年間に何本も撮られていく慌しい公開日程を見ると無理もないと感じる。

この第一作の設定で印象的なのは、やくざが最初からやくざなのではなく、やくざになっていくというプロセスをえがいていること。やくざの人格形成物語(笑)として成立している。最終シーンで、元親分に引導をわたす言葉をたたきつけて立ち去る主人公は、いわば完成したやくざ。そこまで変化していく様子が、観る側をひきつける。

役者はそれぞれにおもしろい。背広に開襟シャツに腹巻という菅原さんをはじめ、どの俳優もよくこう組員が似合うものだと感心(笑)。日本の多くのスターがやくざ映画の出身であることに、あらためて驚く。

深作さんは大量のやくざ映画のあと、『人間の証明』や『柳生一族の陰謀』『復活の日』『蒲田行進曲』『バトル・ロワイアル』などさまざまなものを撮りつづけているけれど、もしかしたらこの作品がもっとも迫力があるのでは。観終わるとこちらもあやうい広島弁になり、話しかけられるとつい「ほうね」とあいづちをうってしまう。



メモリータグ■畳を裏返して包丁を持ち出し、みようみまねで小指を詰める組員たち。ほとんど誰も、やりかたを知らない。




0077. 砂の器 (1974)

2005年09月28日 | 1970s
Suna no Utsuwa / Yoshitaro Nomura

砂の器 (1974)
監督:野村芳太郎[よしたろう]、脚本:橋本忍・山田洋次、音楽:芥川也寸志
丹波哲郎(今西)、森田健作(吉村)、加藤剛(和賀英良)、加藤嘉(本浦千代吉)、島田陽子(高木理恵子)、佐分利信[さぶりしん](田所重喜)、山口果林(田所佐知子)、緒形拳(三木謙一)、笠智衆(桐原小十郎)、渥美清(ひかり座支配人)


原作の輻輳した筋をうまく刈り込んで、弱点を補った上でまとめている。松竹としても社を挙げての大作だったろう。芥川さんの書き下ろしの挿入曲『宿命』はラフマニノフを三倍くらい通俗化してさらにムード音楽を詰め込んだような代物でまいったけれど……(笑)。楽しめる作品ではないにせよ、きちんと作られており、日本映画の制作水準を知るにもいい。カメラワーク、ことに望遠の引きは硬い。がくがくと下がる感じがするが、技術的な限界なのだろう。

なお犯人の父親が村を離れた理由がハンセン病にあったことははっきり説明されており、現在では治療法が確立されていることも述べられている。



■メモリータグ:亀嵩。夏草に埋もれたちいさな田舎の駅。屋根のない短いホームで、入ってくるのは蒸気機関車として編集されている。




0073. Vanishing Point (1971)

2005年09月17日 | 1970s
バニシング・ポイント/リチャード・サラフィアン

Vanishing Point (1971)
Directed by Richard C. Sarafian. Malcolm Hart (story). Barry Newman as Kowalski, Cleavon Little as Super Soul.


1970年頃のしらけた空気を伝える、一種のロードムービー。デンバーからカリフォルニアにかけての砂漠を横切る荒涼とした田舎道、外的な必然性はまったくなくただ猛スピードでそこを走り抜けるドライバー。強いて動機を探すなら、友達と賭けたから。そして警察が設けたバリケードにみずから激突して死ぬ。途中の追想でこの男の過去が挿入される。死んだ恋人、べトナム、誠実ゆえに適応できなかった警官時代。やれやれ、ものすごい自己正当化である。

この時代、ヌードはしばしば自由に出てくるが、結局は男性に都合がいい描写の域を出ない。日本でもその構造は変わらなかったようにみえる。若い時代をあの空気の中ですごし、自分たちもその主体だと信じていた団塊世代の女性たちは、その後まったく世の中の流れから取り残されていくことになる。自分たちは誰からも認められてこなかったという意識があっても不思議ではない。

二〇〇三年頃からの「ヨンさま」ブームは彼女たちが初めて得た慰めなのだろうか。「自分たちに敬意をはらい、大切にしてくれる優しい男性」。しかしその夢が世間に「あたたかく」受容されているのは、それによって市場が創出されたからにすぎない。彼女たちが幻想を消費しつくすまで、「すてきなあの人」の像が否定されることはないだろう。演出をしているのは市場である。

バニシング・ポイントは「孤独な男の人生」を描いたつもりの映画かもしれない。その幼稚でマチョーな自己陶酔に、ガソリンをかけて燃やしてあげたい。



メモリータグ■ブロンドのヌードライダー




0070. Chinatown (1974)

2005年09月14日 | 1970s
チャイナタウン/ロマン・ポランスキー

Chinatown (1974)
Directed by Roman Polanski (1933-). Written by Robert Towne. Jack Nicholson (1937-) as Jake 'J.J.' Gittes, Faye Dunaway as Evelyn Cross Mulwray, John Huston as Noah Cross, Roman Polanski as Man with Knife.


まだ端正さの残る三十代のジャック・ニコルソン。きっと第二のショーン・コネリーとして売り出したにちがいない。フェイ・ダナウェイはいつ見ても不思議な役者さんだけれど、たしかに印象に残る。ポランスキーはたぶん、ナイフでニコルソンの鼻を切りつけるちんぴらで出演している。いりくんだ脚本はなんとオリジナル。小説ならまだわかるが、むずかしいことをやってのけたもの。

夫の浮気の調査を依頼されて現場をおさえたら、依頼主は虚偽。背景を調べていくと水の利権が動いているとわかる。この脚本に厚みをそえているのは、この部分だろう。ダムを作れば灌漑される地域が変わり、その土地をおさえておくことで莫大な利益があがる。ロサンジェルスは砂漠のとなり、海に都市をにじりよせればいいといった台詞にリアリティーがある。ダムに反対した旧友を殺害した黒幕をジョン・ヒューストン、その娘で近親相姦を強いられ、妹をもつことになった役をダナウェイが演じる。逃げきれずに射殺され、車のホーンが鳴ったままになるシーンはおそらく有名。ニコルソンのむなしい表情がよく出ていた。



■メモリータグ:水のない川。馬でやってくるラテン系の少年。




0057. Interiors (1978)

2005年07月23日 | 1970s
インテリア/ウッディ・アレン

Interiors (1978)
Directed by Woody Allen. Geraldine Page as mother, Eve. Diane Keaton as Renata, Mary Beth Hurt as Joey.


脚本として傷のえぐりかたが浅いという指摘は出るかもしれない。けれど、静かな海辺の家の室内にとてもひかれる。あの家そのものに人格が漂うほどで、映画全体のトーンとして、その基調色の青磁色が選ばれている。傷の中心に位置する母親のイメージが、おそらく青磁なのだ。アレンがベルイマンの世界に挑んだ作品。

容姿と室内装飾の才能にめぐまれ、冷静に一家を支配してきた完璧主義の母。疲れて別居を申し出る父。姉妹の近親憎悪。長女レナータは詩人として地位をえている。次女のジョーイは芸術を理解し創作を熱望するが、才能がない。三女フリンは二流の女優で、比較的無理なく適応しており、脇でところどころに登場するにとどまる。

父親は次女をかわいがり、長女はそれに不満。長女の夫は中途半端な作家で、妻に劣等感とフラストレーションをためこんでいる。夫に去られて精神的に不安定になった母を次女は気遣うが、感情表出が不器用。長女とも母とも言い争いに終始し、最後は不用意に母を追い込んで海で自殺させてしまう。

共依存とダブルバインドで緊縛された家族関係が母の死で解け、家族そのものも静かに解体するといったドラマトゥルギーを描きたかったのだと思う。ただその緊迫と寛解はそれほど伝わってこない。なぜだろう? この近親憎悪の設定を突き詰めるなら、長女は負い目がなさすぎる。三女は構造を薄めている。もっと劣等感と愛情を凝縮し、現実にも依存関係を深くすることで親兄弟の抜き差しならない関係まで掘り下げることができたかもしれない。でも、むしろ起伏をおさえて撮りたかったのだろう。そういう作品なのだと思う。



■メモリータグ:冬枯れたような草が庭にまばらに生え、砂浜につづく海辺の家。波は灰色で、居間の窓から草ごしにその海がみえる。室内は淡い青磁色。静謐で寂しく、冒頭のシーンからひどく執着を感じる。最後もその海を臨む窓辺で終わる。あの家をみつけてくることがおそらくとても重要だった作品。



0050. The Exorcist (1973)

2005年07月15日 | 1970s
エクソシスト/ウィリアム・フリードキン

The Exorcist (1973)
Directed by William Friedkin based on a novel and screenplay by William Peter Blatty. Max Von Sydow as Father Merrin, Jason Miller as Father Karras. Ellen Burstyn as Chris MacNeil and Linda Blair as Regan.


正統で正確な宗教作品。公開以来しばしば分類されてきたような、ホラームーヴィーなどではない。悪魔の認定基準を満たしていく現象とその評価も、エクソシズムも、カトリックの教義にのっとっている。新約聖書の記述を基として、神父の権能には悪魔祓いが含まれているが、ことにそれを専門とするスペシャリストがいる。二十年ほど前の時点では、フランス全土でまだ三人いた。おそらくいまでも世界で数名はいるはずである。悪魔とはなにか。ヨブ記では神と対話をし、神を挑発する。それほどの相手と対峙する人間として、マックス・フォン・シドーを演者としたのは最良だった。

映像も音楽も美しい。壮絶な、深い精神性が伝わる名作。原作はウィリアム・ピーター・ブラッティ。



■メモリータグ:自分に悪魔を憑かせて窓から転落し、最後に告解と赦しを得る神父。




0032. Days of Heaven (1978)

2005年06月26日 | 1970s
天国の日々/テレンス・マリック

Days of Heaven (1978)
Directed by Terrence Malick, cinematography by Nestor Almendros.


20年のブランクののち『シン・レッド・ライン』(1998)を撮ったテレンス・マリックの、20年前の作品『天国の日々』をみる。シン・レッド・ラインは途中でやめてしまった。展開が遅いし、南の島に感動する脱走兵の日々が、やらせのドキュメンタリーのようでうっとうしかった。ただ、戦艦のへさきが海の透明な水を切るカットなど、ゆるやかで官能的で、映像の才能があることはわかる。

天国の日々のほうが流れはいい。だが叙情的なカットにひたりすぎる傾向はここでもないわけではない。感動しやすい、善良な人間が陥る危険の一つかも。日頃は聡明で批評力のある人もやってしまう。

二〇世紀初め、兄と妹のふりをして厳しい季節労働に従事する貧しいカップル。女のほうは農場主に見初められて結婚、農場主の命は長くないという話を漏れきいていた男が女を言いくるめた背景がある。カップルは人目を偽って関係をつづける。みかけは幸福な生活がつづくが、いずれは破綻することがわかっている毎日。結局は農場主に悟られて殺してしまう。逃げきれはしない。


メモリータグ■農場主を殺したあと、川べりでとらえられるラストシーン。ロングショットに静かな諦観が漂う。



0028. The Duellists (1977)

2005年06月23日 | 1970s
デュエリスト 決闘者/リドリー・スコット 英

The Duellists (1977)
Directed by Ridley Scott with a story of Joseph Conrad. Keith Carradine as D'Hubert, Harvey Keitel as Feraud.


不思議な将来性を感じさせる、リドリー・スコットの第一作。武勲を土台にすこしずつ地位を得ていく主人公デュベールをキース・キャラダイン、なぜか何度も執拗に決闘を挑んでくる挑戦者をハーヴェイ・カイテルが演じている。原作はコンラッドの短篇で、どうしても奴に勝たなければ生きていけないと信じている男という、世の常識から軸がずれた価値観はコンラッドらしいところかもしれない。時代設定は1800年頃、武器はピストル。この当時、決闘はまだオンである。19世紀にはいっても「名誉ゲーム」になっていた。

ストーリーの骨子は現代に移しても面白いはず。実業家でも株式投資でもいい。しつこく挑んでくる男がいる、お前に勝たないと俺は男が立たない、と思い込んで、じつはそれを自分の人生の支えにしている男の話である。

なおスコットはこれでカンヌの新人監督賞を受賞。語りのうまさはこの当時からある。この二年後にアメリカで『エイリアン』を撮ることになる。


■メモリータグ:城の周囲の森、相手の居場所をさぐりあう木立。あれはイングランドの森だろうか、こんな美しい世界でなにをしつこく殺し合う必要があるの、というためいきが思わずもれそうな効果をあげている。



0025. Manhattan (1979)

2005年06月21日 | 1970s
マンハッタン/ウッディ・アレン
撮影 ゴードン・ウィリス

Manhattan (1979)
Directed by Woody Allen, cinematography by Gordon Willis. Played by Woody Allen, Diane Keaton, Meryl Streep and Mariel Hemingway (1961-) .


あらためて感心するけど、強烈に癖のあるこのキャスティング。ダイアン・キートン、メリル・ストリープ、それからアレンが自演する四十二歳のテレビ脚本家。その高校生のガールフレンドを演じるのは当時実際に十代だったマリエル・ヘミングウェイ(彼女はとてもよかった)。My middle name is "Trouble".というアレンの自己評価どおりの世界観だけれど、今思えばなんてのどかなのだろう。こういうニューヨークはもうない気がする。神経症的で身勝手な大人たちと、はるかにまともな十七歳の女の子。You have to have a little faith in people.(あなた、すこしは人を信じなきゃ)という彼女の最後のひとことは、このメッセージをおうちにもって帰ってね、という意図どおりの一撃効果をあげている。マンハッタンがまだ無傷の街だったころ。


■メモリータグ:すなおに夜の終わりのブルックリンブリッジのたもと。イルミネーションが濃霧の中でにじんでいる。



0017. A Clockwork Orange (1971)

2005年06月05日 | 1970s

時計じかけのオレンジ/スタンリー・キューブリック

A Clockwork Orange (1971)
Directed and screenplay by Stanley Kubrick (1928-99) based on a novel by Anthony Burgess. Malcolm McDowell played Alexander 'Alex' de Large.


様式化された暴力の描写は、むしろ美術的。キッチュでポップなのはいかにも70年初期の感覚でおもしろい。

グリーク、ベートーヴェンの九番など、音楽の使い方の巧みさはルイ・マルとこの人が抜きん出て印象に残る。ここでも、内務大臣が刑務所を訪問するシーンのエルガーなど、信じがたいほどぴったり合わせて編集していた。ぐっと情感をこめてリタルダンドする瞬間をシーンチェンジにもってきて、強烈なギャップを表現している。

時期的には『スパルタカス』(1960)のあと『ロリータ』(1962)『博士の異常な愛情』(1964)『2001年宇宙の旅』(1968)とつづいて、キューブリックのカリスマが最高になっていたころだろう。このあと『バリー・リンドン』(1975)をへて『シャイニング』(1980)になる。全体に寡作であることはまちがいない。あとは『フルメタルジャケット』(1987)、『アイズ・ワイド・シャット』(1997)のみである。こうしてみると、アイズ・ワイド・シャットは惜しかった。どうして原作どおりウィーンの古典期に時代設定をして、コスチュームドラマにしなかったのだろう。はるかにフロイト的な抑圧と窒息しそうな禁忌のなかでのエロスが出たろうに。現代のアメリカに設定するよりも、説得力は十倍強かった。なおキューブリックはニューヨーク生まれ。


■メモリータグ:田園の中に俯瞰した、ヒトデ型のパノプティコン系刑務所。



0015. Dog Day Afternoon (1975)

2005年06月02日 | 1970s
狼たちの午後/シドニー・ルメット

Dog Day Afternoon (1975)
Directed by Sidney Lumet(1924-). Al Pacino as Sonny Wortzik, John Cazale as Salvatore "Sal".


みじめで滑稽な犬の午後。銀行で人質をとってたてこもるパチーノ。同性の配偶者の性転換手術の金をつくろうと思ったらしい。銀行をとりまく群衆、母親や法的妻といった、犯人の家族のたまらない庶民性、妙に愉しみ、あるいはヒステリックに泣き笑いする銀行員の娘たち。同性愛の家族が背景を説明する後ろで、にやにやと笑いつづける警官の顔。犯人が路上でじかに刑事とどなりあう交渉現場。日常と非日常が入り混じる異様な状況が、ぞっとするリアリティーをもって描けている。スワットが突入して一撃でカタをつける21世紀の人質事件以前のぬるさに加え、70年代らしい風刺性としらけたスタイルが印象に残る。


■メモリータグ:銀行の玄関から出て話し合い、ピザとビールを頼む犯人、いやアルコールはやめろ、コーラにしろと応じる刑事。