うさこさんと映画

映画のノートです。
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ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0495. ノクターナル・アニマルズ (2016)

2018年07月28日 | ヴェネチア映画祭審査員大賞

ノクターナル・アニマルズ / トム・フォード
116 min USA

Nocturnal Animals (2016)
Directed and screenplay Tom Ford, 1961-, based on a novel by Austin Wright. Cinematography by Seamus McGarvey. Film Editing by Joan Sobel. Music by Abel Korzeniowski. Art Direction by Christopher Brown. Set Decoration by Meg Everist. Costume Design by Arianne Phillips. Performed by Amy Adams, 1974- (Susan Morrow), Jake Gyllenhaal (Tony Hastings / Edward Sheffield), Michael Shannon (Bobby Andes), Armie Hammer (Hutton Morrow), Aaron Taylor-Johnson (Ray Marcus), Laura Linney (Anne Sutton).



脚本も演出も巧みで、原作を読んでみたくなりました。監督と脚本にクレジットされているトム・フォードはあのデザイナーのトム・フォードで、2009年にコリン・ファースの主演で『シングルマン』を手がけたのが映像作家としての第一作にあたる。多角的な才能の持ち主で、今回、オープニングに使われた巨体の女性たちのダンスやキュレーションも集中力があった。

全体は枠構成で、美術館の館長をつとめる主人公スーザンの現在が外枠としておかれ、彼女が読む小説が枠の内側で進行する。この作中小説が進展するうち、さらにスーザンの過去の記憶が重なってくる。とくに小説部分の提示部がシンプルで力強く、一流の演出力を証明するものになっていた。田舎の自動車道を夜中に車で通っている夫婦と娘の三人一家が、無頼な男たちの車につきまとわれて脅され始める。この小説を書いて送ってきたのはスーザンが二十年前に捨てたかつての夫で、小説のなかで恐怖に震える妻と娘を、スーザンと酷似した容姿の俳優が演じることで重なり合いが表現される。



タイトルのノクターナル・アニマルズが無頼な男たちを指すと考えることはほとんど明示的だろう。けれど同時に、それは二十年前のスーザン自身の愛称でもあったという。自分の才能を信じる人生とそこに広がっていたはずの可能性を抹殺し、それをつうじて夫を孤独と絶望に陥れたのがかつてのスーザンだとすれば、届けられた同名の小説の顛末は復讐をかねることになる。

主役はエイミー・アダムズとジェイク・ギレンホールが担当し、大学院生当時と、その二十年後が描かれていた。最終場面の、いかにも老けた若作りが残酷でよかった。

この作品は2016年のヴェネチア映画祭で審査員大賞を得ている。これは理解できる。ただ、第一席がラヴ・ディアスの『立ち去った女』で、この組み合わせをどう評価するかはすこし解釈力がもとめられる。キャストや予算など制作体制の差を除外して脚本と演出だけで評価するとしても、『ノクターナル・アニマルズ』のほうがはるかに力量は高いからだ。作品じたいが秀作というだけでなく、映像作家としての知性や判断力にそうとうな差があると思う。

あえて『ノクターナル・アニマルズ』の弱点を挙げるなら、やや洗練されすぎてスマートにまとめてしまった面はある。もう一歩突き抜けた根源的な「自己という恐怖」という不透明な深さには達していない。後半、ステレオタイプに陥りそうなあやうい瞬間はたしかにあるし、結末も、うまいと同時にやや弱い。主人公の自己認識が揺らぐという内面の変化が、外界の認識の揺らぎに投影されていくところまで追究しきることができていたら、すばらしかったろう。シンクロニシティーといえるような内外の奇妙な一致が起きて、人としての変容を遂げるところまでもっていけたら文句なしの傑作になった。可能性はあったと思います。

それでも『立ち去った女』の「人間的洞察」表現が学芸会のように幼いという弱点は残る。ううむ。これが困る。あえてなお、そちらを一席に取ったとすれば、その動機は想像するしかない。“だってね、ハリウッドのリソースをぞんぶんに流用できる世界的な有名デザイナーにいまさら大きな賞はいらないよ、アジアの実験的映像作家を応援しようよ、そのほうが映画のためだろう?” オーケー、よろしいように。

審査員長はイギリスのサム・メンデス。『アメリカン・ビューティー』『ロード・トゥ・パーディション』のあの監督です。そう、資質としてはむしろトム・フォードに近い。メンデスは知的なことでは比類ない作家の一人だし、ハリウッドのスタイルは知り抜いている。パネルをみてもそちらの作品に有利な年になっておかしくないのに、よくこの選択をしたものだと思う。

第一席・第二席をどのように組み合わせたかは映画祭にまつわる興味深い主題のひとつで、近年の最極端事例が2014年のベルリン映画祭だということはいまのところ揺るがない。『薄氷の殺人』『グランド・ブダペスト・ホテル』という組み合わせだった(転倒感の凄さは今回の比ではない)。

あ・く・ま・で・一般論の仮説として提示するのだけれど――欧州有名映画祭はハリウッド系の男性映像作家に厳しくて、アジアの作家、女性の作家に寛大な傾向がある? ううむ。評価にあたって地域格差、文化的格差を補正する係数を掛けるという方針が(ときによって)導入されることがあるとしても、そこに一定の妥当性は感じます――たしかにハリウッドのリソースはメジャー過ぎる。



メモリータグ■大学院生当時のヒロインが、母親に結婚を宣言する場面。ワンシーンだけ登場するこのお母さんの造形が熟していて、衣装もヘアメークも演技もよく一致していた。保守的で共和党でカトリックで、ださくて大仰でお金のかかったアメリカの上流ママ。でも馬鹿ではない。「わたしはママと違うわ」と娘。「いいえ、あなたはわたしにそっくりよ」と母。

 


追記■オースティン・ライトの原作に目をとおしてみた。意欲的な長編文学だけれど文体の水準に波があって、うまくいっていない場所は説明的になっている。とくに結末の表現が映像版よりずっと弱くて通俗的に響いた。ところどころ内面をとおして外界がえがけている箇所は印象に残ります。でもこの長さを読ませるにはもう少しプロットか文体に迫力がほしいかなあ。作者のライトは文芸批評の大学教授で、1922年生まれ。この小説のクレジットは1993年だから70歳頃に発表したことになる。以前書いた作中作をもとに外枠をおいたのかもしれない。その執念につつしんで敬意を表します。

映像化したトム・フォードのほうは、この長大なまとまりにくい話から正確に本質をつかんでよく凝縮度を高めていることがわかった。原作者より、はるかにアーティスティックな切れ味が鋭い。主人公のスーザンを美術にかかわる人物と設定しなおして視覚表現の側面を強化したことで、映像作品としての美術的な水準の高さに貢献した。映像そのものも深みのあるダークな仕上がりで、オープニングはやはり秀逸です。




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