サラエヴォの銃声 / ダニス・タノヴィッチ
85 min France | Bosnia and Herzegovina
Smrt u Sarajevu (2016) aka. Death in Sarajevo
Directed by Danis Tanovic. Screenplay by Danis Tanovic based on a play "Hotel Europe" by Bernard-Henri Levy. Cinematography by Erol Zubcevic. Film Editing by Redzinald Simek Music by Mirza Tahirovic. Performed by Snezana Vidovic (Lamija as Snezana Markovic), Izudin Bajrovic (Omer), Muhamed Hadzovic (Gavrilo), Rijad Gvozden (Rijad).
http://www.filmneweurope.com/media/k2/items/cache/dd3090393623d0954a2996d4c2bd51ac_XL.jpg
いまボスニア・ヘルツェゴヴィナでは――と、なにも考えずにボスニアとヘルツェゴヴィナを連名で記してしまうわたし自身の無神経をこの作品は指摘してくれる。その連合体制そのものに苦しみ、どなり合う人びとがそこにいるのだ。ボシュニク、セルビア、クロアチア、民のあいだにはいまもなまなましい怨恨が漂い、かつて殺しあった人びとがおなじ都で呼吸している。勝手にひとつにくくるなよ。スクリーンの奥から誰かがそうささやく。
ある日のサラエヴォのホテルのできごとをいくつかの角度からざっくりえがくこの映画はフィクションだけれど、そこには歴史的対立にくわえて雇用者と労働者の階層的対立も持ち込まれている。ホテルの従業員はストライキを企画しているのだ。給料が未払いなのである。ところが今日はホテルでEUの重要な式典があって、それもあの1914年のサラエヴォ事件から百年がたつ記念だというのだから、そういう、歴史の遺恨と現代資本主義社会の憤怒という二つの軸が物語をなしていく。
ホテルの地下では従業員たちが決起集会を開いている。ホテルの屋上ではサラエヴォの歴史がインタビューされている。インタビュイーとインタビュアーは民族抗争の加害者・被害者の当事者で、激しい口論になっていく。
https://www.tiff.net/films/death-in-sarajevo/
フィクションがもつべきそれらの凝縮性をよく認識したうえで、結論は(ほぼ)知らん顔。ばっさりと切り捨てて終わってしまう。話の落としまえだって? そんなものは知らないね。この話がなにを示唆していたのかは、おまえ自身が決めるんだ。ひとつところに落とせる話にほんとの話なんかないんだよ。と、またしてもスクリーンの奥から誰かがささやく。そう、この声がダニス・タノヴィッチの真骨頂に違いない。気骨のある作り手だ――サラエヴォ育ちの。
終盤、もののはずみで狙撃が起こる。そのあっけなさが、百年前の「もののはずみ」を思わせる――もちろん意図的に。つまり、偶発的に撃たれてしまう青年は、あの1914年のサラエヴォで皇太子夫妻を狙撃した青年とおなじ名をもっているのだ。あの歴史的な狙撃さえ、事故というほうがふさわしいようなものだったかもしれないと告げてくる。
観終わって心に残るのは、カツカツと急ぎ足のパンプスを響かせて広いホテルを歩き回るコンシェルジュの女性の後ろ姿だ。それがヒロインである。彼女はけんめいに働いているに過ぎない。けれど二者抗争の板ばさみにされてしまう。それもまたもののはずみに近いのだ。「そんなつもりじゃなかった」。それがこの作品のメッセージかもしれない。2016年ベルリン映画祭審査員大賞(銀熊賞)。審査員長はメリル・ストリープ、金熊章はジャンフランコ・ロッシのノンフィクション『海は燃えている』だった。
サラエヴォ。いくつ映画が作られてきただろう、あの民を主題にしたさまざまな齟齬と悲劇と告発の系譜はすでに長い。二〇世紀の紛争はバルカンに始まり、バルカンに終わる? そう、ソンタグのその表現はまことに巧みだけれど、わたしたちがありありと思い浮かべることができるのは、むしろたった一人のサッカー人――イビチャ・オシムの表情かもしれない。
サッカーで「国の代表チーム」を編成するという発案ですでにもめ、どの民族から選手を選ぶかでまた紛糾する。ようやく選んだメンバーのうち、PKを失敗したのがどの民族の選手だったかで、もはや関係者の命があやういところまで紛糾する。そのような世界でひとつのチームをかつてまとめ上げた一人のフットボール指導者の、鋭い知性と思いがけないユーモア、それはわたしたちの知るサラエヴォの最高の顔でもある。日本サッカーを率いたアジアカップの最後のPKで、彼はロッカールームに隠れてしまったっけ。
あらゆるアナロジーは暴力的だが、たとえば1960年代頃に、極東四国から「代表選手」を選んでひとつのサッカーチームを作らなければならないとしたら、いったいどういうことになるだろう? 政治性を取り除くことなど不可能だ。誰かがPKを失敗したらと考えるだけでげっそりしてくるそのむちゃくちゃな妄想も、多民族間抗争を理解するには(ほんのすこし)助けになるような気がする。慰安婦と拉致と独立闘争、創氏改名と南京と38度線とあらゆる殺戮、阿鼻叫喚の傷がまだばっくりと口を開け、血を流しているひとつの場所で暮らす人びとが、いまも世界の各地にいる。そしてもちろんその経済はあやうい。この映画はその一日を、さくさくとした素描で見せた。もとになっているのはベルナール‐アンリ・レヴィの戯曲だそう。
途中、なかなかの冗談が出てくる。蛆虫の子供が父親に尋ねるのだ。「あの蛆は林檎のなかに住んでるし、あの蛆はお肉のなかに住んでるのに。ねえお父さん、どうしてぼくたちは糞のなかにいるの?」「ここで生まれたからだ」
聞いて思わず、わたしも自分に尋ねてしまった。「わたしたちは政治家の糞や原発の糞のなかに住んでいる。どうして?」「それしか知らないからだ」
するとタノヴィッチの声がこうささやいた――それは変えられることじゃないのか?
俺の笛を聞け / フロリン・セルバン aka. サーバン
94 min. Romania | Sweden | Germany
Eu cand vreau sa fluier, fluier (2010)
aka. When I want to whistle, I whistle.
Directed by Florin Serban (1975, Romania). Written by Catalin Mitulescu, Florin Serban, play by Andreea Valean. Cinematography by Marius Panduru. Film Editing by Sorin Baican and Catalin Cristutiu. Performed by George Pistereanu (Silviu). Ada Condeescu (Ana). Mihai Constantin (Penitenciary Director). Clara Voda (Mother).
(手前にピントがあります。逆光の輪郭とみずみずしい若草、土の質感が美しい)
https://www.imdb.com/title/tt1590024/mediaviewer/rm2228402432
おお。ひさびさに、よかったです。
ひなびた官舎の少年院で、青少年たちは服役している。手持ちのカメラで揺れながらとらえられる風景には自然な寂しさがにじんで、エンディングクレジットの田舎道(ここは固定)も寡黙だった。ちいさな子供の目で見たような、はるかな夏の夕暮れだった。
この感性はなにかを思い出させる。うわあ、そうだ。『大人は判ってくれない』です。
けっして、くらべたいわけではない。とても違うから。でも通じるものがあるといえばたしかにそうで、この作家がえらぶ孤独の表現はこのひとのもので、このひとの鋭さで細部まで生きている。そのくらべようのなさが共通している。優れた作り手はかならずそうだ。それぞれに、みつめる細部がまったく異なる。それなのに深い普遍をうったえてくる。
監督したフロリン・セルバンはルーマニア出身。執筆には彼と、あと二人が記されていた。もとになった戯曲があるのかもしれない。くわしいことはわからない。撮影はマリウス・パンドゥル。
主人公のシルヴィウ、十八歳の青年は、絨毯のように人びとからごく自然に踏みつけられている。周囲の誰もがあたりまえに彼の上を歩いていく。絨毯をかばおうとは誰も思わないだろう。彼は忍耐強い。でも忍耐しきれないこともある。その破砕の瞬間を準備していくちいさな素材のつみかさなりが、驚くほどの繊細さをたたえていた。物語としての優れた囲碁をみているようだった。あちらの隅と、こちらの隅と、ただそれぞれに石が置かれる。ばらばらの時空がすこしずつ共鳴しはじめる。
青年は服役している。模範囚だという。もうすぐ出所できるという。
面会にきた母親は、なつかしそうに青年と話す。途中ですっと顔色をかえ、あたりまえのように彼の顔をぶつ。
青年が守ってきたちいさな弟は、結局のところその母親と引越したがっている。兄をおいて。
出所直前に問題を起こしたくはないだろうと青年を脅しながら、ほかの入所者が彼の顔をぶつ。夜になにが起こるかはわかりきっている。
青年はすてきな女性を脅して、はがいじめにして、喉にガラスをつきつけた。相手はただ静かにおびえている。彼は彼女と話をしようとする。彼女はなにも話してはくれない。にぎりしめたガラスの破片で血がにじむのは彼自身の手のほうだ。
彼は看守を殴り倒した。でも時間がたって、彼は黙って看守のひたいを手当てする。彼の目が赤い。
説明はなにもない。表現は抑制されている。だからここに言葉で書いたことは、すべて少年院のなかで彼のかたわらに立ちながら、透明なままのわたしたちが透明な目で眺めて知る以外にはない。
世界は彼をこばんでいる。世界は彼を愛していない。彼はそれを受け入れている。生まれてからずっと。
メモリータグ■彼は彼女とコーヒーを飲みたかっただけなのだ。でも彼女はコーヒーに手をつけない。たださりげなく、そっと断る。うっかりすると見逃しそうな細部だ。でも彼は知っている。彼女はそこに座って、ただがまんしているだけだと。俳優もカメラもすばらしい一体感だった。2010年ベルリン映画祭審査員グランプリ。あわせてアルフレッド・バウアー賞を受賞している。新しい視点を提示した作品にあたえられる。審査員長はヴェルナー・ヘルツォーク、さすが。金熊賞はカプランオールの『蜂蜜』が得た。この年の出品者はおそろしく豪華な顔ぶれで、やはり観客動員数も史上最多だったという。そのなかでも、きっと文句なしの二本だったろうと思います。
鉄くず拾いの物語 / ダニス・タノヴィッチ
74 min Bosnia and Herzegovina | France | Slovenia | Italy
Epizoda u zivotu beraca zeljeza (2013)
Directed by Danis Tanovic. Screenplay by Danis Tanovic. Cinematography by Erol Zubcevic. Film Editing by Timur Makarevic. Performed by Nazif Mujic, Senada Alimanovic. Semsa Mujic, Sandra Mujic.
http://www.sdd-fanatico.org/epizoda-u-zivotu-beraca-zeljeza-2013/
ひとつの実話をつうじて、紛争後のボスニア・ヘルツェゴヴィナの社会をえがく。美しさをかたくなに拒んだようなその映像のなかに、ありのままの光景をさし出そうとする無言の覚悟が浮かび上がる。主人公を演じるのも俳優ではない。鉄くず――あるいは屑鉄――を売って家族をやしなっている一人の男性で、かれはロマ族の妻をもつ夫として実際に自分たちの身に起きたことを再現していく。
冒頭からしばらく、まるで素人がカメラを回しているような「演出のなさ」の記号を見極めるために時間が必要だった。そのあとはこちらも腹がすわった。いま眼前で現実が語りなおされていく。現実のなかに演出はない。
冒頭で映しだされる季節は冬だ。雪まじりの凍てついた村で、夫は仲間と廃車を壊し、屑鉄をよりわけて売りにいく。100マルクほどを仲間と分けて持ち帰り、妻と幼い娘たちと食卓を囲む。
なにもかもが貧しい。ほぼすべてが醜い。大きな谷いっぱいに廃品が積み上がるごみ捨て場、汚れた廃車を手斧だけで解体していく苛酷な労働、街なかに近づくとみえてくる巨大なコンビナート、不吉に空をおおっていく煙。この国のボスニア紛争後の生活は、戦時中よりもさらにひどいという。
そのなかでロマ族という少数者であることが、さらに妻の状況を厳しいものにした。ある日、体の中で胎児が死んでいて、ただちに手術をしないと死が待つことを宣告される。だが保険に入っていない。980マルクの手術代がない。これは約500ユーロだという。いわば5万円がないために死んでいくことになる。夫はごみ捨て場に鉄を拾いに行く。廃品の鉄は94マルクにしかならない。民間の支援団体を頼るものの、打開できない。時間が迫る。
街の病院では産婦人科の待合室なのに椅子がない。え? 驚いて画面をみつめるうち、鉄くず拾いがわたしの中でささやく。これが事実なんだ。こんな国があるんだ、知っていたか? 病人が壁によりかかって立っているだろう? 文句さえ言わない。なぜだと思う? 考えてくれ。おれたちがなくしたのは金だけじゃないんだ。考えてくれ。
社会的告発をなす多くのりっぱな作品を、わたしたちはある意味で見慣れている。見慣れないスタイルが、ここではとられている。やがて一流の映像作家たちの手がけた告発作品が、どこか美しすぎ、どこか整いすぎたもののようにさえ思えてくる。ここで語りなおされる現実は、曖昧で、不明瞭なままの日常だ。大量殺戮が起きるわけではない、地球の破滅があるわけではない。かれらは叫ばない。ただ出られないと知っているのだ。この閉塞から、この不透明な死から。
夫はなんとか親戚から保険証を借りることができた。他人の保険証を手にして診察室に入っていったきりの妻を、夫は廊下で待ちつづける。ちいさな娘たちは退屈し、遊び、騒ぎ、やがて静まる。大きな瞳が記憶に残る。時間の長さ。薄暗い光。疲れ果てた夫の、激しく不安な横顔が、この作品の静かなクライマックスだった。優れた場面だった。
エンディングにさえ、雪に埋もれた冬の村の美しさが映されることはない。薪をかかえ、無言で家に戻る主人公を見送って、じっと古い壁を映して終わる。この映画は腹をたてているのだ。涙も、議論も、叫び声もつき抜けて、もうなにも残らないほど深いところから。
ベルリン映画祭はこの作品に審査員グランプリをあたえた。さらにエキュメニカル特別賞があたえられ、主演男優賞があたえられた。もしその立場にいたら、きっとわたしもそうした。この家族に対して、この国に対して、ほかになにができるだろう? だがそれはけっしてあわれみではない。かれらはひとつの現実の手ざわりを世界に伝えたのだ。
メモリータグ■ごみ捨て場をあさる夫のそばに、一頭の犬がまつわる。ここは犬の動きで、みちがえるように画面が生きた。うれしかった。
グランド・ブダペスト・ホテル / ウェス・アンダーソン
99 min USA | Germany
The Grand Budapest Hotel (2014)
Directed by Wes Anderson. Written by Wes anderson et al, inspired by the writings of Stefan Zweig. Cinematography by Robert D. Yeoman. Film Editing by Barney Pilling. Music by Alexandre Desplat. Production Design by Adam Stockhausen. Costume Design by Milena Canonero. Performed by Ralph Fiennes (M. Gustave), F. Murray Abraham (Mr. Moustafa), Mathieu Amalric (Serge X.), Adrien Brody (Dmitri), Willem Dafoe (Jopling), Jeff Goldblum (Deputy Kovacs), Harvey Keitel (Ludwig), Jude Law (Young Writer), Edward Norton (Henckels), Lea Seydoux (Clotilde), Tilda Swinton), Tom Wilkinson (Author).
https://www.imdb.com/title/tt2278388/mediaviewer/rm3606513664
うわ、まれにみる才能。現代で五本の指に入りそうなコメディー作家です。からりと軽快なリズムに加えて構図の過剰な様式性で誇張を作り出すスタイルで、しばしば絵が映った瞬間、もうおかしい。王道です。この完成度に達した作品は例外かもしれないけれど、ほかの作品もみてみたいですね。
音楽も成功した。チンバロンなどいわゆる民族楽器をとりいれて、中欧から東欧の古風な空気を鮮やかに醸していく。担当したアレクサンドル・デスプラは同じ2014年にヴェネチア映画祭で審査員長をつとめている。
全体はすこし複雑な外枠をおいた大パノラマの脚本で、監督したウェス・アンダーソン自身が手がけている。枠内の世界は東欧、時代は20世紀前半、それも本質的には19世紀の文化が、心からの愛情をこめて扱われていた。アンダーソン自身はテキサスの出身だそうで、そのことじたいに小さな驚きがあるほどだったけれど、最後にツヴァイクへの賛が掲げられて、とどめを刺された。ああ、これはまさに『昨日の世界』でした。ひたひたと戦争が迫るあの動乱のなかで、無数の人びとが逝った。エンディングのちいさな辞にこめられた遠い遠い惜別に、やられました。
そういえば『ライフ・イズ・ビューティフル』もそうだったなあ。およそ異なる作風のコメディーだけれど、最後の最後にただ一度本音を語り、その瞬間にすっぱりと終わる。どちらも最高のコメディーです。
もう一つ驚いたのはキャスト。誰が後ろだてなのか、ここまで華やかに演技派をそろえたこともめずらしい。主役は名門ホテルのエレガントで軽薄なコンシェルジュで、レイフ・ファインズが演じた。完璧にこなしていて、これもちょっと予想外。おみそれしました。ほかにジュード・ロウ、エイドリアン・ブロディ、ウィレム・デフォー、ハーヴィー・カイテル、エドワード・ノートン、トム・ウィルキンソン、ティルダ・スウィントン、レア・セドゥなど。なお2015年の米国アカデミー賞を4部門で受賞している。音楽、美術、衣装デザイン、ヘアメーク。こちらは映画としての総合的な充実を物語る評価になった。
本命だったであろう2014年ベルリン映画祭では、審査員グランプリを得ている。いわゆる第二席です。ふつうなら問題なく第一席のできばえなので、よほど例外的な当たり年だったのかと思うと、金獅子賞はディアオ・イーナンの『薄氷の殺人』だという。これはさすがに絶句してしまった。出演者の顔ぶれなどは無視したうえで、ごく公平に言って、ここまでできばえに差があるとかばいようがない。審査員長はジェーズム・シェイマス。この年の一席と二席はいれかわることが妥当だったと思います。なんであれ、のちのち残るのはこちらの作品で、それがすべて。
メモリータグ■ひとつだけ。それでも、ねこをごみ箱に捨てないで。たとえもう死んでいても、たとえコメディーでも、たとえその10分後に捨てた本人が指をなくしても、たとえその数秒後には本人が惨殺されても。絶対に・捨てないで。だいたいこの殺害場面はカットがきちんとつながっていない。視点が混乱している。コンテが不十分では?(←場面を思い出すと動揺するため、制作上の些細な傷を羅列している)。
ニーチェの馬 / ベラ・タル aka. タル・ベーラ
146 min Hungary | France | Germany | Switzerland | USA
A torinoi lo (2011)
Directed by Bela Tarr, 1955-. Co-directed by Agnes Hranitzky. Screenplay by Laszlo Krasznahorkai and Bela Tarr. Cinematography by Fred Kelemen. Film Editing by Agnes Hranitzky. Music by Mihaly Vig. Performed by Janos Derzsi (Ohlsdorfer), Erika Bok (Ohlsdorfer's daughter), Mihaly Raday (Narrator).
禁欲的で偏屈でエクセントリックな才能。むしろ観終えたあとになって、自分のなかで少しずつ光景がほどけて深く広がっていく。画面のなかの時代は1900年ごろだったのだろうけれど、それがまるで来たるべき終末の光景だったようにおもえてくるのだ。すべてを支配して猛然と吹きつける風、荒涼とした野の一軒家、極限のくらし。食べることを拒む馬、枯れていく井戸、消える炎、閉塞。あの親子は人間の過去そのものなのかもしれない。そしてじつは現在であり、じつは未来なのかもしれないと。
撮影設計はみごとで、最小限にきりつめた表現素材を厳格に構成している。寡黙な日々のおなじ動作を、もはや様式として執拗にくり返していくのだ。長い呼吸のカット割りに、さらにおそろしい長回しをはさみながら、観客は父と娘の生活の証人になる。観るがわにぎりぎりまで忍耐をしいる編集も強烈だけれど、描写は変奏されていくので飛ばすことができない。音楽もそう。いらだたせるために使われている。通奏音としての風の音と入り混じり、映画全体が長い変奏曲のよう。
1つずつのカットをもっと短くすることはできるし、そうしても主題は成立する。でもこの作品をつらぬく決定的な気難しさが、理性的に中和されてしまうだろう。ふだん多くの映画で使われているカットのリズムは、「手みじかに状況を知らせる長さ」なのだと気づく。この作品は1カットずつが「いやおうなく状況に立ち会わせる長さ」であって、呼吸じたいがそのように定められている。対人目線の距離とアングルが多用され、カットを割らない。
スタイルはけっして写実ではない。隔絶した時空を映しつづける映像がモノクロであるのも、様式性と乖離をあらわすためだろう。特定の時代をこえる「普遍の遠さ」のために無彩が選ばれていると思う。そしてほとんどすべてのカットが、写真集として成立するくらいの濃密な光をもっている。この優れた撮影はフレッド・ケレメン。遅い呼吸にささえられたカメラワークは重く、構図の完成度が高い。
作品として完全であるということではない。これはもうこのままでいいと敬意をこめて思う。2011年ベルリン映画祭銀熊賞(Jury Grand Prix, 審査員長イザベラ・ロッセリーニ)。国際批評家連盟賞。監督はベラ・タル、ハンガリー。脚本はタル自身とラズロ・クラズナホルカイによる。「タル・ベーラ」と姓・名の順で記されているサイトも多かった。ここではImdbの表記にそっている。
原題は『トリノの馬』だという。これは和訳『ニーチェの馬』がしっくりくる。死期の近づいたニーチェが、トリノで虐げられる馬にすがりついて錯乱した有名な逸話を発端にしている――わたしはその逸話のためだけにでも、ニーチェが好きです。かわいそうなひと。でもこの作品にニーチェの姿はない。モチーフは「そのあと馬はどうなったのか」。すなわち馬の持ち主はどうなったのか。あるいは人間はどうなるものなのか、である。ひとは他なるものを虐げて、ほどなく滅びていくのだろうか? それはわからない。ただ、わたしたちが向かうものは死ではない。閉ざされていく、ひとつの終わりの夜である。それがこの作品の主題だとわたしは思う。
ペシミスティック? もちろん。ほとんどショーペンハウアーです。
メモリータグ■脱出を決意して親子が家を離れていく。荷車が丘のむこうに消える。カメラは動かない。まもなく荷車が引き返してくる。ワンカット。みごと。
メモリータグ■疲れはてた毎日の夕食は、ゆでたじゃがいも一つと塩。熱くてやけどをしながら餓えたようにそれを食べつくす。朝は少量の焼酎。きっと芋焼酎だろう。おそろしく痩せた土地なのだという示唆を読みとることができる。