映画と音楽そして旅

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(タマには本も)「家永三郎/古田武彦 法隆寺論争」

2006-08-25 00:11:54 | 読書
 図書館で最近になって珍しい「論争」の本を見かけました。
 「学術論争」と云うものは聞いただけでも、頭が痛くなる私にとっては無縁のもの…のはずでしたが、著者名を見てとても興味をそそられました。
 家永三郎氏と云えばすでに4年前に他界されていますが、歴史学者として高名な方で教科書検定の是非についての裁判等でも知られた方です。
 また一方の古田武彦氏も「親鸞研究」や「邪馬台国」については、独自の論理を展開して古くから有名な方ですが、近年は一般の学者との論争は絶えていたように思われました。
 が、家永氏が在世中に書簡の形で古田氏の説に、疑問を投げかけていられたことが判り、俄然 私のごとき外野席の「野次馬」の興味を引くようになりました。
 
 家永氏が提起していられた裁判は「教科書検定」が、憲法に定める「検閲」にあたり違憲であるという趣旨でした。
 古田氏は1970代から現在に至るまで一貫して、古代日本を支配していたのは「大和朝廷」ではなく「九州王朝」だった…と云う理論を展開していられます。
 この二人の学者の思想の根幹は云うまでもなく「反体制」であり「反権力」であったように思われ、このあたりに共通の認識であったような思いが致します。
 この二人の学者の「法隆寺論争」の要点は
  かの有名な法隆寺金堂本尊の「釈迦三尊像」は、聖徳太子に拘わるものではなく、かっては存在したと古田氏が主張する「九州王朝」のものだ…と古田氏は述べていられます。
 この説に対し先輩の家永三郎氏が考古学的な見地から、反論を加えていられますが家永氏の逝去により、当然のことながら論争は中断しました。
 論争の中身は専門的なものですから勿論、私ごとき無学な者が簡単に理解出来るものではありません。
 しかし「まぼろしの九州王朝」説に代表される、ややロマン味を帯びたあの独特の文体と説得力で、一時期には「古田史学」の「隠れフアン」だった私にとって興味を引く論争のようで、結論が永久にお預けになったことは残念なことでした。                                                                 (発行 新泉社)

  

(バーチャル・ツアー)(最終章)「上高地と文学」

2006-08-25 00:11:11 | 旅 おでかけ
上高地が最初に文学的の上で登場したのはいつ頃でしょうか?
 前回の「バーチャル・ツアー…あずさ2号」で触れたこともありますが、宇野浩二「山恋ひ」の冒頭に小島鳥水の著書「日本アルプス」よりとして
  「北に遠ざかりて 雪白き山あり」
と云う詩句が掲げられています。
 この小島氏はこの日本アルプスを主題とした評論集で、明治35年に踏破した時の上高地は、「寂寥無人の地」だった…と表現しています。それが数年のうちに上高地の温泉に泊まるお客が千数百人に増えた…と述べています。
 そして開発による森林の乱伐で、自然が荒廃しつつある現状を嘆いて将来に向かって警告を発しています。
 芥川龍之介の「河童」が上高地を、一躍有名にしたことはよく知られています。
 深田久弥氏は有名な著書の「日本百名山」で穂高連峰について…
 (穂高で)「永遠に眠った人も多かった。大島亮吉も茨木猪之吉も穂高を墓にした。中略)小坂乙彦も死んだ(中略)それでも穂高はその厳しい美しさで誘惑し続けるだろう」
と記しています。                 
(注)大島亮吉 1927年に前穂高で遭難死 28歳 遺稿「山・紀行と随想」
   茨木猪之吉 1944年に消息を絶つ 61歳 山岳画家として知られる。

 この記事を読んで下さっている友人が、次のようなコメントを下さいましたが、今回の記事に重要な関連がありますので、本文記事にて改めて紹介されて戴きます。
 
 <8月14日に「たそがれさん」のブログで再スタートしました、(バーチャル・ツアー)(2)「氷壁のふるさと」に関係します井上靖、小説「氷壁」のモデルとなった登山家、石岡繁雄氏が亡くなられた記事が出ておりました。
 何か、不思議な巡り合わせの様なものを感じました。

石岡繁雄氏(いしおか・しげお=元鈴鹿高専教授)
 8月15日午前9時7分、大動脈りゅう破裂で死去。88歳。告別式は17日午後0時30分、三重県鈴鹿市三日市町957鈴鹿中央斎奉閣。自宅は同市神戸2の6の25。喪主は女婿、穣(ゆたか)氏。
 登山家で、1955年1月、北アルプスで起きたナイロンザイル切断の遭難で弟を亡くし、当時、最も強固と言われたナイロンザイルが鋭利な岩角に弱いことを実証した。この遭難と真相解明は、ザイルの安全基準制定のきっかけとなり、井上靖さんの小説「氷壁」のモデルにもなった。
                 (2006年8月16日10時53分 読売新聞)
 謹んでご冥福を、お祈り申し上げます。

 石岡繁雄氏につきまして
 敗戦後まもない昭和22年の夏、10代の少年とともに北アルプス穂高屏風岩正面岸壁初登攀をなしとげ、その後も三重県鈴鹿市に本拠をおく岩稜会をひきいて数々の岩壁を踏破、名著といわれる写真集『穂高の岩場』上下巻を完成させた登山家で応用物理学者の石岡繁雄は、『屏風岩登攀記』に次のように記している。
「山は、その美しさと厳しさが織りなす綾錦を形成し、無数の美徳と教訓を提供してくれているはずであり、・・・・・・それが私の山への期待でもありました。
 しかしながら私の歩いた道には、そういうものよりはむしろ、暗くて悲しい人間の葛藤や、ナイロンザイル事件のように、社会との闘いといった全く異質のものが、大きな位置をしめております」
 いったい何ゆえに、彼の山体験はかくも人間社会の葛藤の影を負うことになったのか。それは「高度成長のためには犠牲もやむなし」という風潮にたいし、真実をつきつけ続けた者の宿命でもあったのだろうか。
 石岡の一生を決定づける事件が昭和30年に発生した。同年正月2日、彼の実弟・若山五朗が、岩稜会の三人のパ-ティで厳冬期のアルプス前穂高岳東壁を登攀中に数十センチ滑落、麻ザイルより数倍強いとされて登山界に急速に普及しつつあったナイロンザイルの、予想だにせぬ切断により墜死したのである。
                      (石岡繁雄氏のHPより)>
 
 全文を引用させて戴きましたが本稿の「連載中」にモデルとされる方が他界されたことに、偶然とはいえなにか不思議なものを感じます。
 「山へ何故登るのか?」と云う疑問に対し「山がそこにあるからだ…」と答えたという、世界最高峰に挑戦したイギリスの登山家マロリーの言葉を待つまでもなく、ヤマは永遠にその神秘的な魅力をもって山男たちを惹き付けて止まないことでしょう。
 志なかばにして犠牲になられた多くの方々に、深い哀悼と尊敬の念を捧げると共に、その霊の安からんことをお祈りして本稿を終わりたく思います。

 最後になりましたが資料提供下さった友人の方に心から感謝申し上げます。                                     (終)