図書館で最近になって珍しい「論争」の本を見かけました。
「学術論争」と云うものは聞いただけでも、頭が痛くなる私にとっては無縁のもの…のはずでしたが、著者名を見てとても興味をそそられました。
家永三郎氏と云えばすでに4年前に他界されていますが、歴史学者として高名な方で教科書検定の是非についての裁判等でも知られた方です。
また一方の古田武彦氏も「親鸞研究」や「邪馬台国」については、独自の論理を展開して古くから有名な方ですが、近年は一般の学者との論争は絶えていたように思われました。
が、家永氏が在世中に書簡の形で古田氏の説に、疑問を投げかけていられたことが判り、俄然 私のごとき外野席の「野次馬」の興味を引くようになりました。
家永氏が提起していられた裁判は「教科書検定」が、憲法に定める「検閲」にあたり違憲であるという趣旨でした。
古田氏は1970代から現在に至るまで一貫して、古代日本を支配していたのは「大和朝廷」ではなく「九州王朝」だった…と云う理論を展開していられます。
この二人の学者の思想の根幹は云うまでもなく「反体制」であり「反権力」であったように思われ、このあたりに共通の認識であったような思いが致します。
この二人の学者の「法隆寺論争」の要点は
かの有名な法隆寺金堂本尊の「釈迦三尊像」は、聖徳太子に拘わるものではなく、かっては存在したと古田氏が主張する「九州王朝」のものだ…と古田氏は述べていられます。
この説に対し先輩の家永三郎氏が考古学的な見地から、反論を加えていられますが家永氏の逝去により、当然のことながら論争は中断しました。
論争の中身は専門的なものですから勿論、私ごとき無学な者が簡単に理解出来るものではありません。
しかし「まぼろしの九州王朝」説に代表される、ややロマン味を帯びたあの独特の文体と説得力で、一時期には「古田史学」の「隠れフアン」だった私にとって興味を引く論争のようで、結論が永久にお預けになったことは残念なことでした。 (発行 新泉社)
「学術論争」と云うものは聞いただけでも、頭が痛くなる私にとっては無縁のもの…のはずでしたが、著者名を見てとても興味をそそられました。
家永三郎氏と云えばすでに4年前に他界されていますが、歴史学者として高名な方で教科書検定の是非についての裁判等でも知られた方です。
また一方の古田武彦氏も「親鸞研究」や「邪馬台国」については、独自の論理を展開して古くから有名な方ですが、近年は一般の学者との論争は絶えていたように思われました。
が、家永氏が在世中に書簡の形で古田氏の説に、疑問を投げかけていられたことが判り、俄然 私のごとき外野席の「野次馬」の興味を引くようになりました。
家永氏が提起していられた裁判は「教科書検定」が、憲法に定める「検閲」にあたり違憲であるという趣旨でした。
古田氏は1970代から現在に至るまで一貫して、古代日本を支配していたのは「大和朝廷」ではなく「九州王朝」だった…と云う理論を展開していられます。
この二人の学者の思想の根幹は云うまでもなく「反体制」であり「反権力」であったように思われ、このあたりに共通の認識であったような思いが致します。
この二人の学者の「法隆寺論争」の要点は
かの有名な法隆寺金堂本尊の「釈迦三尊像」は、聖徳太子に拘わるものではなく、かっては存在したと古田氏が主張する「九州王朝」のものだ…と古田氏は述べていられます。
この説に対し先輩の家永三郎氏が考古学的な見地から、反論を加えていられますが家永氏の逝去により、当然のことながら論争は中断しました。
論争の中身は専門的なものですから勿論、私ごとき無学な者が簡単に理解出来るものではありません。
しかし「まぼろしの九州王朝」説に代表される、ややロマン味を帯びたあの独特の文体と説得力で、一時期には「古田史学」の「隠れフアン」だった私にとって興味を引く論争のようで、結論が永久にお預けになったことは残念なことでした。 (発行 新泉社)