岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

照明の意匠。

2006-10-04 22:43:00 | 建見楽学
近代和風建築の面白さは、こうした照明具のデザインの多様性でもある。

江戸時代の蝋燭(ろうそく)の時代から明治となってガス灯の明るさに人々は驚き、やがて程なく、電気の時代となってこうした近代の「明かり」が庶民にももたらされるようになる。
和の世界にいきなり入ってきた、洋の文明と技術。それを日本の職人は、うまくブレンドして、見事な和洋の折衷デザインを編み出した。その代表選手がこうした近代和風の照明具の数々。
元々の日本人の感性は、なかなかオシャレで、しかもセンスがいい。

戸袋。

2006-10-04 22:36:26 | 建見楽学
雨戸の数が半端ではないのだろう。戸袋の厚さも凄い。ここに十数枚の雨戸が収納されている。

ところで、今の子どもたちには、この「戸袋」が既に通じなくなっている。マンション住まいなんかだと、雨戸自体が無いのだから仕方がないが、雨の多い日本建築の特徴として、戸袋は風土が生んだある種のオリジナル様式なんだが。
それと、余談になるが、昔は、岡目八目が子どもの頃には、よく台風が来る前になると、近所の家々では、必ず備えとしてこうした板戸(雨戸)に板を打ち付けて、飛ばされないよう事前対策をよく行っている光景が、もっぱらにあった。
アレはいつから皆がそうはしなくなったのか、いまだに不思議な感覚である。
本当に、家が丈夫になったというだけのコトなのか、いつの間にか「備え」をしない国民(社会)になっているような。

二階の様子。

2006-10-04 22:22:16 | 建見楽学
二階部分は、高欄が廻され、当時の新聞では、琵琶湖と伊吹山が一望でき、「美麗壮観同地に冠たるものなり」と称されたらしい。

一枚のガラス戸の割付のうち、周りを刷りガラスとして、一階とは意匠に変化を持たせている。

一階の様子。

2006-10-04 22:11:04 | 建見楽学
明治20年代には、まだ板ガラスは国産化されてないので、輸入物と思われるが、
それにしても、ここまでの大きさの割付となっているガラスは、当時にすればどれ程貴重な存在のシロモノだったか。
障子でもフスマでもなく、こうしたガラス戸の連続空間に、生まれて初めて接したジモッチーも居たに違いない。
板ガラスは、やっと国産化するのが明治40年代だと言われる。電球やコップのように、やはり板ガラスも当初は吹きガラスで作られていた。しかし、その大きさには限度があり、切り開くにしても、均一な板ガラスは手づくりではムリがある。
従って、旭硝子(ガラス)という会社があるが、以前は、長らくその社名に「旭板硝子」とワザワザ板の字を入れていた。それが誇らしげなブランドの証明でもあったことが伺える。ウチは“板”ガラスが作れるんだゾ、と。

とにかく、現代において、生まれて初めてガラス戸を目にした時の感覚を想像するのはかなり難しいが、向こうが透けて見えるなんゾと言うのは、ナンダカ魔法にでもかかったような気分だったのではないか。“硝子(ガラス)”、モノとしては相当に不思議な物体ではある。

近代和風建築の傑作。

2006-10-04 21:58:03 | 建見楽学
長浜鉄道スクエアの丁度前に、「慶雲館」と呼ばれる見事な庭を持つ豪邸がある。

建物は、銀行設立や鉄道敷設など、長浜近代化の父と呼ばれる浅見又蔵翁の別邸として、明治20年に建築された。二階には玉座まで設(しつら)えてあり、明治天皇が京都行幸の帰途、立ち寄られる為に、三ヶ月余の突貫工事で完成を見た、というからオドロキ桃の木サンショの木。
一、二階ともに二方向は完全にガラス戸形式で、壁を無くして開放的な近代のモダニズム設計。