ソロツーリストの旅ログ

あるいはライダーへのアンチテーゼ

振り返ってみるとオートバイがいちばん好きだった

ひと夏の恋に共感できても、あの夏のボクには共感できまい

2023年05月30日 | R100Trad (1990) クロ介


「ライダーの感情を可視化した地図アプリ」と題するネット記事を

たまたま目にしたが

またか、と

瞬間的に、嫌悪感と猜疑心を持った

アプリという名の金儲けは内容よりも

いかにキャッチーであるかが重要だから

こういう手法がほとんどだ

よく似たやつに健康食品や美容用品があるが

訳の分からないカタカナを並べて

庶民の代表みたいな人たちが口を揃えて「個人の感想」を述べる

青汁がどういいのかではなく

青汁だからいい、と連呼している

これについてはボク的に看過できない感じなので

気を悪くする話をまた今回もする



「仮想センサ」という、分かるようで分からないプログラムで

ボディセンサ(主に心電)などから集められたバイタルデータを解析し

そこにあるはずの「感情」をAIなどで可視化させ

地図上に反映させるアプリだ

つまり集めているデータは「快」「不快」の感情ということなのだろうが

その「快」イコール「ライダーの快」という前提にまずクエスチョンが付くし

いったいその「ライダー」とは誰のことなのだろうか、と端から胡散臭い



ボクは大学で心理学を専攻していたので

人の心とかいう問題には、当たり前だが、こだわりがある

心理学を学ぼうとする人は講義の冒頭で先生から執拗に

心理学とは占いの類とは別次元の科学であると刷り込まれる

クレッチマーとか古典的な類型論は心理学史として習うだけで

人には誰しもありとあらゆる感情や情動があるというのが基本だ

どんな人にも大なり小なり様々な感情が存在している

だけど世間にあふれるイメージだけの類型論は

非科学的であるにもかかわらず

人を引き付ける強力な力がある

それは掴みどころない他人を類型にはめて分かっているつもりになり

対人関係を安心なものにしたいという気持ちがその裏に強いのではないだろうか

実際、ボクはA型なんだけど「O型ですよね?」とよく聞かれる

類型論にするには血液型って4種類でちょうどいい数だ

血液型累計論なんて統計的には血液型の構成比にすべて集約される

よく目にする性格判断にある「休みに家にいることが多いか?」みたいな質問も

それだけで「内向的で神経質なタイプ」とか言われたりする

ボクは意図的にあの手の類型論なら自分で誘導する自信がある

心理学は実験を通して結論を導き出しているので必ず再現性がある

気の弱い人が暗闇で幽霊を見てしまう、のは「錯覚」だが

ミラーリエルの矢羽根のついた線分は

誰がいつ見ても線分の長さを見誤る「錯視」という現象だ

「AI」というマジックワードと

ひとの「こころ」という対象は単に非常にキャッチ―な組み合わせ

お金の匂いしかしない



悪い印象を持ちやすいものを考えればわかりやすい

「戦争」に対するイメージはほぼ100%の人が悪いと思うが

「穏やかに晴れた5月の休日」はどうだろう

好きだという人もいるだろう、いや案外多いかもしれない

でも大抵の人にとっては、どうでもいい話で

「穏やかに晴れた10月の休日」とあえて比べる気にもならない

何かが旨いとか

どこかが素晴らしい景観であるとか

人によって違うだろうし、また当然違っていていい

「みんな違って、みんないい」  by 金子みすゞ

生命や財産に直接かかわらない事柄などどうでもいいのだ

どうでもいい、つまり何でもいい

何でもいいから好みは人の数だけある

そして好みの種類も強さも人それぞれだ



なのになぜか「ベスト」を知りたがる

そこに病理がある気がする

大概、ベストは「多数」でしかない

「一番」売れている、食べられている、でしかない

まあ、なんとなく好きってことだろう

誰もそれを良いものだとは云っていない

クルマで2022年度に最も売れたのは「N-BOX」だ

だから日本の一番いいクルマが「N-BOX」だ、とはならない

ちなみに云えば2位は「アクア」

この2台で50万台を超えている、シェア11%

新車を買おうとする人の10人に1人がアクアかN-BOXを買っている

余計なお世話だけど、これ異常な数字だ

にもかかわらず、そんなにいいクルマでもない

悪くない価格相応のクルマ、って位だろう



多くのライダーが走っているときに

気持ちいいと感じたり、逆に緊張や不快を感じたりした

ルート、場所をデータ化し地図上に反映する

みんなが良いと感じているらしい場所を目指して走り

みんながここちょっと怖いと思う場所を避けたり注意したりするというなんだとさ

それがなんだというのだ

「君」の気持ちはいったいどこにある



自分の人生の主人公になろう

自分の行く道は自分の意思で選ぶ人になろう

自由に、積極的に人生を美しいものにしよう

既存のルートや常識に縛られない人になろう

自分の行く道は自分で決めたほうが楽しいに決まっている

人生のドライバーになろう

Be a driver



前にも書いたことがある

マツダのメッセージだ

マツダは世界シェア2%でも自分たちが作りたいクルマを作れる道を選んだ



他人に共感されないモノはダメで悪いモノなのか?

意見をぶつけ合うことがイヤみたいだけど

真の共感はその先にしかない

共感も反感もみんな丸ごと飲み込むこと

あなたはこういう理由でこれを望むんですね、と

分かることこそが共感だ

多くの人の好みをなぞりに行くことのどこに何があるというのだ



誰にも自分の持ち物の中に

取るに足らない下らないモノなのに

絶対に捨てられないモノがひとつやふたつあるはずだ

自分にしか持てない特別な感情や記憶が

そこには確かにあると誰もが知っている

それは他人には伝わらない、伝えきれない思いだったりする

でもそれを分かろうとすることこそが共感なのだ

何も持っていなくても

自分の選んだ生き方をしているほうがマシだ

他人から認められたくて自分を無くすくらいなら

いっそネコになりたい



大好きなオートバイに乗って

いつでも、どこへでも

自由に気ままに走ろうよ

そうやって辿り着いた場所が

素敵じゃない筈がないよ

自分の目で、耳で、鼻で、舌で、手で

感じたものこそが「自分」なのだから

ストレスによらない「鬱」と自己実現欲求

2023年05月15日 | R100Trad (1990) クロ介


鳥のさえずり忙しい5月の空

乾いた大陸の風が

この極東の島国だにも

一瞬ではあるが北欧の夏の情景をもたらす

実を結んだ草木は

絶え間なく吹き付けるその風に楽しげにその影を揺らす

梅雨が始まるまでのこの刹那

いちばん好きな季節かもしれぬ



勤めに出ていたころは

おおいに自律神経の不調に悩まされていたが

いわく、ストレスのせいだ、と

しかし、なーんにもしとらん今日この頃のはずなのに

ちっとも何かしようという気力が湧かず

「鬱」のような気分がしてモヤモヤするのだ



Siriに「ストレスがなくても鬱の症状って出ますか?」と問うたら

いつものような溌溂とした声ですぐさま

「こちらがみつかりました!」と見せてくれたのは

どれも鬱の原因はストレスだ、というものばかりだった

けれど鬱の原因が内因的である可能性は本当にないのだろうか



人間本来のストレスとは

多分、直接的に生存を脅かすようなものだろう

中でも食欲はダイレクトにそこに関係している

とはいえ現代において普通の社会人が

食欲を阻害されるなど、医師による食事制限位なもので

(それだって簡単に回避できるが)

ありとあらゆる食物が巷に溢れかえっているのを見れば

食欲に関しては今やストレスフリーだろう

ただし、金があれば

でもってその金だって2時間も働けば十分だ

じゃァ、あとは何だ?



心理学者のマズロー先生が説いた有名な五大欲求というものがある

生理的欲求

安全の欲求

社会的欲求

承認欲求

そして自己実現欲求

生存そのものに関わる欲求と

生存の質に関わる欲求の2段構えに見える

食べたいとか眠りたいという欲求より

認められたいとかこう成りたい、という欲求の方がタチが悪い

なぜならそれは人によって質が異なっているからだ

「○○ちゃんのおかあさん」と呼ばれている姿を見て

同世代の人は社会的な存在感を感じる人がいても

「私は母親になりたかった訳じゃない」と本人は思っているかもしれない

他人から見れば部長は十分な地位でも

当の部長は社長でなければ無意味だと思っているかもしれない

ひとからスーツ姿が凛々しいと云われても、ピンクのワンピを望んでいる人もいる



阿呆なことを云うけれど

ボクは子供の頃から放浪者になりたかった

もちろん子供の発想だ

レジスタントや革命家に憧れ

ヒッピーやルンペンに痺れた

社会的なモノには目もくれず

他人の承認なんてどうでもよかった気がする

60(歳)目前で会社が危うくなった時だって

今かよ?と感じながら半面ではやっとドロップアウトできるか?とも思っていた

ひねくれているように聞こえるかもしれないが

結果的に見事、自由人になった

このために我慢してここまで働いてきたといっても過言ではない

欲求の頂点

自己実現を果たした訳だ

ネコのように生きる、暮らす日々

やる気が湧いてこないのは「鬱」のせいではなく

そもそもやる気などハナから無かったのだ

晴れた空を眺め

乾いた風に吹かれながら

意味もなく「ハハハハ」と笑うしあわせ



気温15℃は、走るには寒いと

去年の晩秋に御嶽へ行って思い知ったが

このところの暖かさから

標高1000m辺りの気温を想像できず

来てみて「サッブー」とぼやきながら

横目で道路脇の気温計に「15℃」の表示を見つけ苦笑するのだ

ペラペラのパーカーの下はなんと半袖Tシャツ

クロ介のハイパー風防が無ければ

凍え死んでいたやも知れぬ



可能な限り国道を外して県道・農道・林道をつないで走る

県道10号線は久しぶりの登り側になった

バンクした時に路面が近いと感じる程の勾配

ずんずん上って途端に凍える寒さだ

津具・売木の町をブルブル震えながら通過

それでも天気だけは良いのがせめてもの救いで

国道153号線の気持ち良さは寒さをしのぐものだった



平谷の道の駅を通り過ぎ

治部坂へ続く峠を登り始めるところに

高峰への入口がある

前を行くトライアンフが道を譲ってくれた手前

勢いをつけてバビューンと先行するが

入口はすぐそこ

トライアンフがそこをバビューンだ



あーそうですか

冬季通行止めは時期的に終わっているはずなので

道路崩落による通行止めなのだろう

いや、調べてから来いよ、なんて突っ込みは無用

もちろん調べてきてるのよ

では、なぜ?

いや、だって自分の目で見てみなけりゃわからんでしょ

ちなみに平谷の道の駅の裏手から延びる登山道からは山頂へ行かれるようだが

登る気なんかもちろんない

とりあえず道の駅へ戻る



こんなに天気が良ければさぞかし南アルプスの眺めが良かろうと思っただけで

もともとそこまで高峰へ上りたかった訳ではないし

ここまで相当楽しい走りだったから本当にどっちでもよい

トイレを済ませて尿意から解放されたアタマで

帰りのルートについて思いを巡らす

県道にそれなくても153号線は空いていたので

そのまま伊勢神まで戻って

あとは大多賀へまわって加茂の農道をつなぐことにした



もう寒いなんて云うのもここまでだろう

そろそろ梅雨の気配が天気図から見えてきてるね