「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『世界でもっとも美しい10の科学実験』

2008年07月09日 | Science
『世界でもっとも美しい10の科学実験』(ロバート・P・クリース・著、青木薫・訳、日経BP社)
  この本に出てくる10の実験のうち、ガリレオの斜面の実験とヤングの光の干渉の実験は、実際に学生にやらせた経験がある。学生実験のアシスタントとしての関わりだが、学生が実験をスムーズに遂行させるために腐心するという意味では、実験の原理を説明する教員よりも実験そのものを身近に感じる立場にあったといえるだろう。しかし、この二つの実験が「美しかったか」と問われれば、それを素直に肯定することはできない。アシスタントとして見る限り、学生たちも実験に「美」を感じているとは思われない。それはやはり、学生実験がデモンストレーションとしての要素が大きいからではないかと思う。
  著者によれば、実験とは上演者と観客とが同一であるようなパフォーマンスであり、それを用意した当人と、その人物が所属する集団に対して何事かを明らかにするようにデザインされている。それに対してデモンストレーションとは規格化されたパフォーマンスであり、上演者と観客とは異なるという。実際には学生実験では上演者と観客とが同一なのだが、規格化されたパフォーマンスの再現が最終的に目的とされているという意味では、明らかにデモンストレーションといえるだろう。学生も「上演者かつ観客」というよりも「上演者」と「観客」との両方の立場に代わる代わる立つことが要求されているように思う。著者は「美しい実験」の基準として「基本的であること」・「効率的であること」・「決定的であること」の三つを挙げている。さらに、その実験がわれわれを十分に納得させ、あとに疑問が残ったとしても、それは実験に関する疑問ではなく、この世界に関する疑問であると付け加えている。
  実験を担当する教員は「美しい実験」とは表現しなくとも、この三つの基準を学生たちに体験させ、さらにあわよくば「世界に関する疑問」をも引き出せたらと思っているのではないか。しかし、そのためには学生の側にそれなりの「構え」が必要なように思われる。あまり使いたくない言葉だが、やはりそれなりの知識の「レベル」が求められているともいえるだろう。例えば、訳者の青木薫さんも書いているように、「一個の電子の量子干渉」実験はある程度量子力学に馴染んでいなければ、その「美しさ」は理解できないにちがいない。この点では芸術も同じではないだろうか。たとえばピカソの絵に「美」を感じるためには、芸術一般に関する馴染みやピカソを見るための目(知識)が必要にちがいない。それをもたない者にとっては、ピカソの絵は支離滅裂か、自分の理解を超えた難解な代物にすぎない。
  「美しさ」と「科学」との関係についていえば、科学は美を損なうものであるという思い込みがあることだ。これはほとんど古典的といっていい問いかけだろう。著者はホイットマンの詩(学識ある天文学者が星の美しさを壊しているかのように詠じている)をあげてこの問いかけを論じているが、その答えを“あの”ファインマンの「科学の知識は、花を見て楽しくなる気持ちや、なぜだろうという思う気持ち、そして畏怖の念を強めてくれるものなのだ」という言葉に集約している。そして、「ホイットマンが描いた学識ある天文学者への対抗策は、良い天文学者に登場してもらうことだ―世界の不思議に驚嘆する気持ちを、いつまでも人々に伝えられる人物に」と結んでいる。この本を読んでいたとき、ほぼ時を同じくしてSCの仲間の一人もこの本を仲間内のメーリングリストで紹介していた。そのことを知って、彼が「学識のある天文学者」的な人物であるだけでなく、同時に「良い天文学者」的な人物であることがよくわかった。実際、彼は今日もある地方都市で「世界の不思議に驚嘆する気持ち」を子どもたちや人々に伝えている。

2008年7月18日(金)加筆&修正

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