「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『花の寝床』

2008年07月10日 | Yuko Matsumoto, Ms.
『花の寝床』(松本侑子・著、集英社)
  ヘテロな男が女を見るとき、そこに何を見て、何を考えているのか。ヘテロな男である自分にとっては、多少のバリエーションはあるにしても、男の視線の先や、男の頭の中はだいたい想像がつくというものだ。とくに性愛を描いたものでなくても、男が女を描いたものを読むと、きっとどこかで心当たりのある描写に出くわしてニヤリとするのがふつうだろう。しかし、ヘテロな女が男を見るとき、そこに何を見て、何を考えているのか。たいていの男は自分(男)にとって都合のよい枠をつくり、その中で女は男をこのように見ているにちがいないと考える。ナマの女が男の何を見ているのか、本当のところを男は知りたくないのかもしれない。
  この『花の寝床』をはじめて読んだとき、松本侑子さんのいわゆるフェミニズム系列の小説を読み継いできたこともあって、とくにショックを受けるというようなことはなかったが、それでも男として気恥ずかしいような、自分という男が見透かされているような、どこか居心地の悪さを感じたものだった。「花の寝床」で年上の女性を思慕する少年は、高校生だった頃の自分が何を考えていたのかを思いださせてくれた。逆に「オールド・ボーイ」の六十代の潤吉さんは、そう遠くない将来の自分の心の底が予言されているような気がした。もっとも、そんな気恥ずかしさや居心地の悪さが倒錯して、この小説を読む快感へと結びついたのも事実だ。男が本当の女を知らず、本当の女を知ったとしても、そこに倒錯した快感や思いしか持てないとすれば、男と女の関係はやはり非対称であることが思い知らされる。
  文庫本のほうの解説で藤本由香里さんも書いているが、かつてフェミニズムは「敵とベッドを共にする」とか「ベッドは戦場である」とか言っていた。男にとってベッドが戦場であるとは、男による女の抑圧を再確認する場であると曲解するくらいが関の山だが、多くの敵(女)はお互いの非対称性に気づき、意識的あるいは無意識的に、男の幼い戦略をベッドで見抜いているにちがいない。少なくとも自分という男から見ると、男女の勝敗は明らかなように思える。誤解を恐れずに言えば、近年、一部フェミニズムのいわゆる過激な発言(あるいは的外れと解されるような発言)に焦点が当てられるなどして、反フェミニズム的な揺り戻しが大きくなっているようにも思われる。しかし、本来フェミニズムは―とりわけ「第2波」と呼ばれる現代のフェミニズムは―男女間の制度的・表面的な自由や平等を求めることで終わるものではなく、ましてや男女関係を敵対させることが目的ではなかったはずである。男と女がお互いの差異を知り、認め合うことこそがフェミニズムの本質だったのではないか。その意味でも、男は「男が描いた女」を読んで溜飲を下げるだけではなく、むしろ「女が描いた男」を読むことで敵を積極的に知る必要があるように思う。そこに反発や羞恥や違和感や、さらには倒錯した思いしか抱けなかったとしても、お互いの差異を認め合う契機にはなるにちがいない。藤本さんによれば、松本侑子さんは男の中の「揺らぎ」を愛でるのだそうである。男はその「揺らぎ」をどのように扱うのか。男はまた、女からそのことを問われているような気がする。
  もうひとつ、これは性差を超えてのことだが、松本侑子さんの小説を読むと、その風景描写にいつも懐かしさに似たものを感じる。たとえば「花の寝床」の明石の天文台と須磨の砂浜の描写だが、そこへ行ったことがないにもかかわらず、人影のない雨の砂浜は、すでに自分の記憶の中に収められていたような気持ちがしてくる。あるいは「防波堤」の冒頭に出てくる都会の夕景。「立ち並ぶビルの蛍光灯」などという描写は、人によっては読み流してしまうところだろうが、都会の喧騒と静寂が交わる一瞬を感じてしまう。勝手な思い込みというか、失礼を承知でいえば、松本さんとは感性的に似たところがあるのかもしれない。

2008年7月18日(金)加筆&修正

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