「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『帰ってきたファーブル』

2008年07月04日 | Science
『帰ってきたファーブル』(日高敏隆 著、講談社学術文庫)
  昨年秋の深まった頃にSCつながりの友人と上野の国立科学博物館へ「ファーブルに学ぶ」展を見に行ってきた。多数の昆虫の標本が見事だった。その手のマニアや子どもたちにはたまらないだろう。展示はファーブルに始まって、日本の博物誌の伝統へとつなげられていたように思う。そのとき思い出したのが、日高敏隆さんのこの本だった。日高さんはかつて自分のいまの母校の教授を勤められた方であり(その当時は、いまの母校に入学するとは思ってもいなかったが)、自分に「エソロジー」(動物行動学や比較行動学を指す言葉で、「エコロジー」とは異なる)への興味をいわば植えつけてくれた方でもある。一時期、日高さんの著書や訳書を立て続けに読んだものだ。そのためか、実際にお会いしたことはないが、どこか親近感をいだいている。もちろんそれは、日高さんの考えにうなずかされる点が多いからでもある。
  ところで、『ファーブル昆虫記』が好きだったという人は多いにちがいない。自分も例外ではなく、子どもの頃それなりにはまった記憶がある。しかし、『ファーブル昆虫記』は科学書というよりは、文学書的な扱いを受けることが多いように思われる。著者のファーブル自身も生物学者というよりは、博物学者(この言葉には、科学者である生物学者よりは一段下といったニュアンスが込められているように思われる)だといわれることが多い。だからといって『ファーブル昆虫記』に科学的な価値がなく、博物学(者)が生物学(者)よりも一段下であるというわけではない。むしろ近年、博物学が見直されようとしている。自然科学としての生物学が志向している方法論は、主体を捨象しての一般化である。その一方で、博物学は主体にとっての意味を問い直し、そのストーリー性を追求しようとしている。ものすごく大雑把にいえば、虫のDNAを解析して進化史のなかに位置づけるのが生物学ならば、その虫の生態を観察し記述することでその虫なりのストーリー性を組み立てていこうするのが博物学のイメージになるだろうか。
  そういえば、欧米流の生態学が生物学的な志向をするのに対して、たとえば今西錦司に代表されるように、日本の生態学は博物学的な志向が強いように思う。日本独自の個体識別法などはその表れではないだろうか。だからといって、日本の学界に「ファーブルは帰ってきたか」というと、まだまだという感じがしてくる。その萌芽はたしかにあると思うのだが・・・。結局のところ、いま博物学的アプローチの復権が望まれているのかもしれない。分析的かつ三人称的な分子生物学的な研究手法への反省から、総合的かつ一人称的な博物学的生物学への期待となって現れているように思う。それがいま「ファーブルにまなぶ」べきことでもあるように思う。

『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』、『ファーブルにまなぶ』、『大ロボット博』と重複する部分があります。

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