昭和61年。私が大手消費者金融会社の支店長へ昇進して、まだ数ヶ月の頃でした。いつものように妻の手料理を食べ終え、ふっとオーディオラックを見ると小さめの使い捨てライターが置いてあったのです。当時は夫婦ともにタバコを吸っていたので私も一服と思いライターに手を伸ばすと??なにやら文字が。見てみると、それは大阪外環状線沿いにあるラブホテルの名前が書いてあったのです!勿論、私は行った覚えもなくM紀に聞くと『あ、それ?会社にあったから貰ってきた。』ヌケヌケと嘯く妻。妻の会社は大阪市内にある不動産会社。なんで?柏原や八尾の幹線道路にあるラブホテルのライター?私は追求しましたが妻はあくまでも知らぬ存ぜぬを通していましたが、ひつこい私の追求に対して、諦めて白状したのです。浮気相手は同じ会社の営業部長のM岡氏。相手まで聞き出した後、少し前に別居していたときの男の事がふっと頭をよぎりました。(あの時も。)その事は済んだこと。私は触れずに心の中で結論を出したのです。(離婚や。)その日は、もう何も言わず、とにかく裏切られた思い、悔しさもありましたが(俺にも浮気をさせてしまった何かがあったのかもしれへん。)しかし、裏切られた思い、相手の男への怒り、悔しさ、複雑な気持ちは収まらず妻には不動産会社を辞めさせ、その後日、私は相手の男が勤める不動産会社へ連絡したのです。
小学校2、3年まで母に連れられ銭湯に行ってました。当時は家に風呂の無い家庭も多く無いのが庶民。幼稚園くらいまでは意識してませんでしたが小学校に上がるころから女湯に入ることに少し抵抗が出始めたのです。でも?やっぱり男の子。裸の女の人がいっぱい(o^^o)何度か近所のお姉さんと会うことも。自然と女性の裸にも興味を持つのですが銭湯では『いやらしい』とかエッチな気持ちにはならなかったのが不思議でした。で?やっぱり?オバちゃんより若いお姉さんの裸に自然と目が行くところが男の子(o^^o)私も小さなチンチンを丸出しのままなのは当たり前ですが、目の前に近所のお姉さんが裸のまま近寄ってきて『お母さんと?』とか聞かれた時は顔が赤くなったのは今でも覚えています。時々、父親とも銭湯には行きましたが、やっぱり?男湯は、ツマラナイ(・・;)中には背中に刺青を入れたオッちゃんもいて、なにも知らない私は近寄って『オッちゃん!綺麗な絵、描いてもらったん?』子供には優しいイカツイ、オッちゃんが『ボン!綺麗か!そうか!』と言って頭を撫でてくれたのも覚えています。銭湯は庶民の憩いの場でもあって、風呂上がりにテーブルで将棋をしてるオッちゃんやマッサージ機に座ってるオッちゃん。マッサージ機と言っても今のような高性能なマッサージをしてくれません。10円を投入すると3分くらい揉んでくれるのです。コリのキツイところは袖の下にクルマのハンドルのような物があって、それをクルクル回すと揉み玉を上下に移動させてコリのあるとところにもっていきます。夕方ともなると銭湯はワイワイと賑やかに。ご近所さんが結構たくさん来ていて会話をしたり。憩いの場、社交の場でもありました。
私の脳出血は私の人生のシナリオに組み込まれているような気がします(^^;;この世に生まれてくる前。あちらの世界で人生の脚本作りを私自身が行い、神様へ『こんな人生で頑張ります!』提出さした脚本を神様が『いいでしょう。しっかり魂の修行をしてきなさい。』そして人生の大きな岐路を幾つか導入したうちのテーマが『脳出血』そして脳出血で死ぬのではなく生きて学ぶこと。生きていくためのシナリオが余りに出来すぎているのように思えてなりません。47歳で転職した会社も20年以上、増収増益、無借金経営の会社。労災損害賠償請求が、どれだけ高額であっても決して倒産することはありません。私の損害賠償請求は会社代表者親子にとって、それも魂の修行なのかな?社員から訴えられることによって何かに気づけば親子にとって訴えられたことの不幸な出来事が、会社を、より強く発展させることになるかも?気づかず訴えた私に恨みツラミを持てば会社は、また新たな不幸な出来事が訪れるのかな?会社がどうなろうが私にはもう関係ないことと言えばそれまでです。でも?強くなって欲しいのです。それは、そこで働く社員と、その家族が本当に幸せと感じながら仕事をすること。会社は反対に書けば社会となります(^^)社員が幸せになりキチンと法人税を支払い、お客様に喜ばれる会社。そんな会社になって欲しいなぁ。
幸せとは一体何でしょう?脳出血で倒れたことは不幸な出来事でした。そして半年の入院生活も『なんでやねん!』と思うばかりでした。病気になったことへの嘆き、苦しみ、悔しさ(・・;)そして、これからの人生への不安や恐怖。それは計り知れない心の重圧。鉛のように重くなった左手足、全く動かない足の指。無意識に握り拳を作る左手、滑舌が悪くなった言葉、味覚障害、嚥下障害、鏡を見ると顔面左側が落ち込み垂れ下がった目、視界は物が二重に見える複視(・・;)それは、それは、生きていくことへの気力は一気になくなります。たとえ退院しても重い後遺障害を残して生きていかなければならない。働く事も出来ない。家族を守る事が出来ない男として(・・;)半年の入院中、多くの看護師さん、理学療法士さん、作業療法士さん、言語療法士さんに関わって頂き、その言葉、笑顔に、どれだけ勇気、希望を貰えたかわかりません。いつまでも不幸を嘆いていても決して後遺障害が完治することはないのです。むしろ私が嘆き愚痴をこぼせば、零すほど家族が悲しみ更に不幸を招くことに気づいたのです。今、自分に出来ることから始めよう!一生懸命リハビリを頑張る!それが家族の安心にも繋がると。『お金のことは心配しないでね!』妻の言葉は私の不安を軽くしてくれました。家族の誰かが重い病になると、本人は勿論、家族全員で病気を治すこと。それは医師が投薬する薬以上に効果があるのかも知れません。私の脳出血は私達家族に与えられた神様からの試練なのかな?と。思う今日この頃です。