深キ眠リニ現ヲミル

放浪の凡人、中庸の雑記です。
SSなど綴る事アリ。

七夕

2006年07月07日 | 小説/SS

「さしずめ俺たちは年に一回しか会えない、織姫と彦星だな」

 七月七日、彼らは平塚駅の近くのコンビニで夜が明けるくらいに落ち合った。辺りには彼らのほかに人影は少なく、ただタクシーが時折いったり来たりしているくらいである。
「それほどロマンティックでもないじゃない」
 女の方は眠そうに長身の男を見上げた。顔一つ分くらいは差がある。
「眠そうだな。そっちは相変わらずきつそうだな」
「ふん、他人事だからそんなに笑ってられんのよ。はぁ、なんかだるい」
 男のほうは別に気を悪くした風でもなく、しゃがみこんだ女に合わせて、腰を落とした。
「そっちはのんびりやってんでしょ。いい気なもんよね」
「痛みの代償ってやつさ」
 二人はそれきりしばらく黙っていると、コンビニの店員が外のゴミ箱の袋を取替えに出てきた。
 女は欠伸を一つ。
「どれ、ちょっと街を回ってみようじゃないか」
 男はさわやかな笑顔で手を差し出した。女はただ流れ作業のようにその手をとる。
 二人は久しぶりにこの街を歩いた。商店街が左右にひしめく道には、あちこちに七夕の準備がなされていた。露天がこれでもか、というくらいに溢れて、夕方にはここに人の海ができるのが容易に想像できた。
「ちょっと煙草すうけど」
 女は口にくわえながら、左手で男に勧めた。男はそれを嬉しそうに口に運んで、火を待った。百円ライターで、二人は心の中に鬱積している嫌な事を振り払った。
 女はすぐに火を消した。よほど疲れているのか、いつもの煙草でもなかなか上機嫌になれなかった。
「どれくらい続くんだろう」
「ごめんな」
 先程まで表情に隙を見せなかった女が、急に寂しげな顔をすると男は慌てた。
 
 二人は十年前まで生きていた。
 今いる二人は紛れもなく、幽霊という言葉が当てはまる存在だった。一人は天国で一人は地獄で生活していた。年に一度だけ二人は面会する事ができた。昔であれば、そんなことも許されなかったが、最近では彼岸の方も近代化の波が押し寄せて、こうして面会する制度が出来たのだった。
 保険金殺人だった。金のために自分の伴侶を手にかけたのだ。それは当然地獄行きが決定された。そして偶然とは恐ろしいもので、一週間もしないうちに後を追って、この世を去ったのだった。

 二人は無言の中で、それぞれ思い出を振り返った。まだお互い気まずいのは仕方なかった。
 ただ、今年で二十歳になる息子の話だけは、何の気兼ねもなしにすることが出来た。
「あいつ、ちゃんとやってるかな」
 父親が、高卒で働き出した一年ぶりの息子を心配した。
「あんたよりは十分しっかりしてるわよ」
「……」
 男はむくれて妻を見やった。普段は格好良いといえる男がそういう表情をすると、やたら滑稽に見える。女は随分げらげらと笑った。
「それより、そろそろいい娘みつけたかしら」
「いるだろうよ。なんてたって、湘南随一の色男としてその名を轟かせた俺の息子だ」
 自慢げに言う夫を横目に、女はわざとらしくため息を吐く。
「こんなにお肉ついちゃって……よく言えるわね」
「お前、人のこと言えるのか」
「失礼ね。私は向こうじゃミスコンに入賞してんのよ」
「皺だらけのババアばっかなんだろ?」
 女の右膝が、見事に男の局部に食い込む。これは痛い。男は暫く声も出ずに、石畳の上でのた打ち回っていた。

 出勤することが嫌でたまらなかった。今日も同じ事の繰り返しだと思うと、ケンタロウは気分を暗澹とさせた。歯ブラシを口の中に放り込み、機械作業のように彼は動かした。
 彼は生きる目標なぞ持たなかった。
 高校で同級生と他愛もない話をしている時は、将来は夢に満ちたものだという事を幻想だと思いながらも、信じていた。
 けれど、今はもう。ただ闇しかなかった。一歩一歩確かめながら進む。
 つまらない。ケンタロウは強くそう感じていた。
 生きている意味なんてない。そうも思った。
 職場に行っても、ただ怒られているだけのような気がする。何にも未来は見えてこなかった。
 彼はスーツを羽織り、気を奮い立たせるように頬をパシパシと叩いた。

「よし、そろそろ行こう」
 男は時計を見て言った。二十になった息子を観察しに彼の会社まで行こうというのだった。女も別に二人でいても栓がないように感じていたので、承諾した。
 二人は、出勤中の息子を見つけた。どこか元気のない、という事はすぐに分かった。

 ケンタロウには気になる女性がいた。ケンタロウの勤める会社の斜向かいにある宝石店で働いている女性だ。サチコさんというらしい。
「ああ、サチコさん……」
 ケンタロウは思わず口に手を当てた。俺は何を口走ってるんだ、という思いが顔を赤らめさせた。
「ふんふん。なるほどサチコさんか……」
 男はメモをしながら、次なる情報を待ちわびた。残念ながら、ここでケンタロウが、都合よく独り言を言うというような展開は用意されていなかった。
 会社の近くまでやってきた時、ケンタロウは何かの気配を感じて振り向いた。思わず隠れる二人。隠れなくても姿を見られる事はないのだが。
「気のせいか」
 と、急にケンタロウは顔を紅くした。唇がわずかに震えている。目はくっきりと見開かれ、一人の人間を見ていた。
 鮮やかな色のブラウスに、清楚なタイトな黒いスカートを穿いた魅惑的な女がそこにいた。髪の毛は、大きく波を一つ描いて肩のあたりまで落ちている。艶っぽい唇に、スーと通った日本人離れした綺麗な鼻筋、見るものを虜にするパッチリ目。
「ははぁ、あの娘ね……にしてもどっかの誰かさんに似て、わかりやすいリアクション」
 女は横目で男を一瞥した。
「よし!」
 妻の視線は完璧に無視して、男は興奮して声を上げた。
「なによ。急に」
「思いついたんだよ。作戦を」
 別に普通に話しても聞こえはしないのに、わざわざ内緒話するように、耳元で作戦を語りかけた。
「あきれたもんね……」
 女は苦笑いにじとっとした眼で夫を見た。どこまで男は妄想たくましいのかしら、という具合である。
「俺たちからのささやかなプレゼントさ」
「あの子にはお金以外私たちからしてあげたことなんて何にもないものね」
 女は珍しくしおらしい様子で、夫の言葉に賛意を示した。

「さぁて、いっちょやったるか!」
 男のやる気満々の宣言に、女は織姫の一年ぶりの笑顔でこたえた。