深キ眠リニ現ヲミル

放浪の凡人、中庸の雑記です。
SSなど綴る事アリ。

猛る想い、静穏な心

2007年02月15日 | 小説/SS
「馬鹿野郎、何度言ったらわかるようになるんだ。能無しが!」
 若い青年工員はシュンとして何も言わずにじっと耐えていた。すぐに終わってしまう。こんな説教。そうだと分かっていても、精神的に辛い。畜生。
「わかったのか!」
 身の丈180cmを超える大柄な監督は腰痛で体が軋むのをこらえていた。少し言い過ぎちまったか。しかし、こいつはなんて悲壮な目をするのだ。こんなんでよく生きてこれたもんだ。 思わず監督の口からため息が漏れる。いくら言っても無駄なのか。少しは意地を見せはせんのか。どうしたものか。
「ええ?」
 答えを促すように監督が首をくいとあげると、若い方は一層萎縮したが、やがて頷いた。またどうせ、上とうまくいかないから、俺に八つ当たりしてんだろ。そろそろよしてくれ。もううんざりだ。
 監督は死んだような若い工員の目を見て、更に暗澹とした。何にも分かっていない。それどころか拒絶しているんじゃないか。どうしたものか。もう駄目なのか。こいつは。このままじゃまた同じ間違いをする。
「・・・」
 若い工員はまだ、この説教が長引くのかと思い。気を重くしていた。
「なぁ、今日一杯飲みにいかないか?」
 監督の口から思わぬ言葉が漏れていた。どうしてこんなことを言ったのか。自分が声を張り上げる度にどこかで昔の自分の姿が思い浮かんでいた。それもある。顔も覚えていない誰かにそう言われてとても救われた思い。それが突き動かしたのかもしれない。
 辛いとき、誰でもいい。少しでも息を抜いて話ができたら、それは束の間だけれど、救われた気持ちになれる。暖かい酒と、静穏な心。若い工員は知らぬ間に小さな声で、賛同していた。
 二人の心にふと、硬いワイヤーがカチリと切れるように、猛る思いがふわとほんの少しだけ軽くなった。

うたかたという永遠(辞書お題小説1)

2007年01月21日 | 小説/SS
みなさまこんばんは。どうにも最近文章のネタを考えるのに一苦労するので、辞書を適当に引いてキーワードを作って文章を考えていこう、という企画を思いついたので、開始したいと思います。
・使用辞書 『新明解国語辞典』第五版、三省堂、1998年。
・本日の行 ア行(不均衡パラパラ方式で選別)
・キーは以下の通り
<うたかた><宴><打ち明け話><内ゲバ>

 
 僕たちが学生運動に参加したのも、ただ時代の一つの潮流だったように、今となっては、僕は普通の会社員、あの時の仲間も会社をもったり、実家の稼業を継いだり、それぞれの生活を持っている。今となってはあの頃熱く語った、政治論やマルクス主義経済学の事も、すっかり抜けてしまって、僕の書斎の片隅にはもう十年以上も手を付けていない政治書や新書が整然と並んでいる。
 僕はある日曜、それを一冊手に取った。レーニンの『カール・マルクス』である。マルクス主義について様々な角度からかかれた論文を集めたものである。鼻がつんとするような感覚とともに、過ぎ去りし時代の事が蘇った。鮮やかだった。永遠に続くかに思えたあの大学時代、皆とともに日々を生きた時代。あれほどに、それは百億年生きると言われている太陽のように輝いていた私たちの青春は、今やうたかたのような一瞬にも思われた。急に胸が苦しくなった。
 僕はその運動の中で、人生で一番大切に思っていた人を失った。彼女はまるで自由の女神だった。いや、僕を含めて仲間全員がそう思っていたに違いない。僕にいたっては、彼女がいるからこそ運動をしていたのかもしれない、と思えるくらい僕にとって大切な人だった。高潔で、誰に対しても優しく、不正を許さない精神と、強大な力にひるまない勇気、全てを持っていた――僕も皆も、そう思っていたのだけれど・・・。
 ある時、運動を巡って内ゲバがあった。組織というものは必ずといっていいほど、一枚岩ではない。よく、三人いれば政治が出来るし、派閥もできるというが、まさに僕たちもそうだったのである。運動を巡って首脳部と、武闘路線を主張する一派のによる、論争が起きた。普段はそこでどちらかが折れるのであるが、その時は違った。彼女以外殆ど腰巾着に過ぎない首脳部はついに、強硬派を抑えられなくなって、大会中に怪我人が出る始末だった。結局大会は、強硬派を中心に進んめられた。
 僕は大会のあと、事務室(僕らの運動為のこじんまりとした大学の文科系サークルをそう呼んでいた)に向かった。僕は総務として仕事をしていたので、その日の大会の記録を製本するために、いろいろと仕事があったのだった。書記から、記録を受け取った僕は、ひとり事務室で、誤字のチェックをしていた。
 そこに、彼女が入ってきた。僕は気まずくて言葉を掛けられなかった。彼女の方も別に僕の方に何にもいわず、じっと代表の席に座っていた。
「ねぇ、今日の大会の打ち上げどこにしよっか」
 僕は耳を疑った。今日は彼女にとって最悪な日のはずだった。それなのに、彼女の声はあっけらかんとして、落ち込んでいる様子なんてちっともなかった。言いよどむ、僕をよそに、彼女は事務所の電話で親しい仲間を誘った。僕はそんな彼女をずっと見つめていた。

「今日は宴です。みんなとりあえず、今日はお疲れ様でした。では、乾杯!!」 彼女の掛け声で、幾つかものグラスが高い音を上げてぶつかった。グラスの表面の雫が滴る。それまでは、無機質だった事務所が急に活気付いたみたいな気がして、みんな笑っていた。彼女も。外では、雨が降りだした。
 ビンやカンが散らばるムッとする事務室には、僕と彼女の二人だけだった。彼女は、水割りの焼酎を入れたグラスをにらみつけるようにして、座っていた。 どうやら、だいぶ酒が回っているみたいだった。頬が仄かに赤い。僕は、散らばったゴミを片付けながら、彼女に悪態をついた。
「まだ、飲むのかい。面白くない一日だったてのに」
 僕は、内心苛立っていた。今日あんなにやりこめられたのに、変わらずに笑っている彼女を。
「悪い?」
 彼女はまた微笑んだ。僕は宴会が始まってから積もっていた苛立ちに、ついに憤りを隠せなくなった。カンをゴミ袋に放り込む手付きが、ついきつくなった。
「君は悔しくないのか?」
「何が?」
「朝、あんなに皆の前でやり込められたってのに!」
 彼女は焼酎から目を背けずに沈黙を保った。
「僕はつらいよ。君があんな事になって、あいつらがでかい面して。悔しいよ」
 尚も、彼女はグラスを見つめていた。
「なんとか言えよ」
「ごめんね」
 静かな声だった。消え入るような、誰にも聞こえまいとするような、小さな声。
彼女は事務所を出て行った。僕は、一人事務所に立ち尽くした。未だ収まらない憤りを抱えたまま、外の闇をねめつけた。これは世界だ。僕らが変えなきゃいけない世界だ、と僕は真剣に思っていた。雨は音をたてて降っている。空が光った時、僕はふと思った。彼女は傘を持ったっけ、そういえば持っていなかった。急に、憤りが吹き消され、心配ばかりが頭を駆け巡った。風邪を引くといけない。そういえば、彼女はあまり丈夫な方じゃない。それに酔っているし・・・何より彼女が出て行く前のあの言葉・・・。
 僕は傘を二本手にとって、事務所を飛び出した。大学を出て、街灯を追うように僕は走った。大学から暫くは一本道だ。まだ、彼女はそんなに遠くまではいっていない筈だ。傘をかいくぐって来る雨粒が、容赦なく、僕を叩き付けた。僕は、心に渦巻く一つの気持ちで走り続けた。
 途中、寂れた石橋の上で、彼女を見つけた。しゃがみこんで、震えていた。傘を持たせて、僕の上着を掛けてやった。
 終電を逃したので、僕のバイト先のガソリンスタンドで、雨を避けることにした。コーヒーを渡し、身体を拭いてやった。彼女はずっと震えていた。少しして、僕は漸く落ち着いた。
「さっきは、言い過ぎたよ」
 彼女はしたを向いたまま黙っていた。微かに嗚咽を洩らすのが聞こえてきた。暫くして、彼女はゆっくりと顔を上げた。と、思う間もなく、僕の胸に顔を押し付けた。
「ごめん、ちょっとだけでいいから、このまま・・・」
 左手で、ギュッと彼女を抱きしめて、右手で彼女のまだ濡れている髪をゆっくりと撫でた。
「私、本当は文芸部に入るつもりだったの」
 夜明け近くに彼女が喋り始めた。
「恋愛小説が書きたかったなんて・・・おかしいよね」
 全然、そんなことないよ。
「それでね。締め切りを乗り切って、皆で楽しく打ち上げしたり、お互いの小説を語り合ったりしてさ」
 彼女は明けかかった空の光で瞳を輝かせていた。とても綺麗だった。
「それで、ある日、部室でちょっと冴えない同級生とお茶をしながら、話してたら・・・」
 彼女は次の句を接がなかった。あまりに本当の笑顔だった。僕は思わず見とれたまま呆然とした。僕は気づいた。僕は英雄だった彼女が好きなんじゃない事に――確かにそれは一つの要素ではあったけど――僕は彼女という人間が好きだったのだった。高潔に立派に振舞う彼女ではない。いつか壊れてしまいそうな脆さも、誰にも負けない気持ちを持つ強い気持ちもその全てを愛していた。
「急に変な事言って、ごめん」
 彼女は笑って誤魔化すようにした。
「好きだ」
「え?」
 彼女は呆気にとられて急に立ち上がって、暴走し始めた僕を見上げた。
「あ、いや、もし僕がその冴えない同級生なら、告白していると思うんだ。うん」
 僕は慌てて訳の分からない事を言った。
 クスリ、と彼女は笑いを洩らした。
「私も」
 今度は僕が困惑する番だった。
「……好き」
「え?」
「って言うと思う。冴えない同級生に」
 冴えないは余計だ。といえなかったのは、僕が本当に一杯一杯だったからだろう。愛しい気持ちで。

 そのお互いの打ち明け話の数日後に彼女は風邪が悪化して、肺炎で亡くなってしまった。僕の学生生活はそこで終わった。
 もはや取り戻せない、時間を仕事のうちに忘れて――それしかなかった。彼女の死を信じることなんて出来なかった。――今まで生きてきた。僕は本を手に取ったことを後悔し始めた。どうしてこんなことを思い出してしまったのだろう。こんなの辛いだけだ。
 本を投げ出す。すると、その弾みで、本の中から一枚の紙が落ちた。手にとってみる。便箋?
 僕はゆっくりそれを開いた。手紙の下書きのようだった。僕宛であった。思わず胸が詰まる思いがして、最後の署名を見た。彼女の名前だった。文章は所々黒く塗りつぶしたり、二重線で消した後があった。それがどういう手紙かは、すぐに分かった。そこには彼女の夢が、思いが、笑顔が、何もかも詰まっていた。凝縮されていた。
 僕は手紙を抱きしめるようにして、また自分の間違いに気づいた。彼女を本当に殺してしまったのは、他でもない僕だった。逃げるように、面白くもない生活をしてきた僕だった。悲しむことをせずに、立ち直ったように、自分に思わせていた僕だ。
 ちくしょう。なんてバカなんだろう、僕は。愚かなんだろう。自分を騙し続けていた事に今更気づくなんて。僕は、狂ったように泣いた。
 僕はいつも彼女に教えられる。いなくなって尚、僕を救ってくれた。僕は、忘れない。全てが色あせたものとなったとしても、それでも君とともに生きよう。
 

SANTA

2006年12月24日 | 小説/SS
 諸君に集まってもらったのは、他でもない。この日がやってきたのだからな。
 クリスマス特別法、及び非常公務員特例法第四条の二に基づいて、公式の任務を全うすべく集合せしめたのだ。つまり、君たちは国民の名の下にここに存するのだ。わかるかね、この重大さが、非常徴収公務員の君たちに。
 だから!一切の私語はつつしんでくれたまえ。本日はクリスマス特別法第二条第一項で定義するところの「聖夜」に該当する。ゆえに非常徴収公務員たる君たちは、非常公務員特例法服務規則を遵守する義務が生じる。諸君がこれ以上態度を改めないのならば、同法第六条の監督者規定によって、君たちへの処分を申請する。
 ふむ、よかろう。私とてこの非常時に貴重な人員を失うのは甚だ辛い。
 さて、ではこれより、クリスマス特別法第九条に基づいて、各自裁量範囲を逸脱せぬよう注意し、贈物を執行せよ。尚、開始時刻は服務規則第十条に従い、本日の午後七時三十分とする。各自徹底せよ。以上。
 では、私も向かうとするか。
 ・・・本部、こちら神奈川第六ブロック担当園崎です。ただいま執行を開始いたしました。これより非常公務員特例法服務規定第十六条によって、監督者の直接行為を開始します。
 ・・・了解。


 服務規定第十条一号、執行人は処分庁の指導により、受益者の情報を文書とする。文書は二種類で正副を作成し、副を第九条二項の規定に従い保管する。
――受益者情報第0603421‐32‐0321。

 同条第二号、執行人は受益者に、執行日に顕名し同時に前号で作成した正の文書で以ってそれを証明する。――執行人名、園崎 亨。

 同条第三号、執行人は受益者本人と面会し、受益者の住所を確認及び、本人確認を行う。
――受益者住所、神奈川県川崎市×××21‐3 リバーサイド・TAMA 506号。
――受益者氏名、園崎 みちる。


 同条第四号、執行人は、贈物を執行す――。
――贈物名、パパ(園崎亨)。


 メリークリスマス、みちる。


 それは、国民の、国民による、国民のための願い(瑞(最終回

秋の夕暮れ

2006年09月13日 | 小説/SS
 夏休みが明けて、前期末のテストが迫っている。そんな時期。僕は普段から真面目に授業を受けている珍しい部類だったので、それほどに切迫して勉強漬けになることもなかった。けれども、部活が休みの期間に入ってしまった為に、放課後の消費に頭を悩ませた。
 できれば、家にはあまり早く帰りたくない。何にもないから。だからといって友人と遊びに行くという状況でもない。みんな普段置いている教科書を一斉に持ち帰って、勉強している。
 僕は放課後の校内をふらふらと歩いた。みんなの帰った廊下はやたらとしんとしていて、居心地が悪かった。いつもは教室いっぱいに声が反響し、猥雑なくらいなのだが、今日はまだ日が明るいのにとてもしんと静まり返っていて、まるでパラレルワールドにでも飛び込んでしまったかのような不思議な好奇心が芽生えた。
 現実を映し出した鏡の世界・・・。もし、そこにもう一人の僕が存在しているとしたら、一体どんなやつなんだろうか・・・。ちょっと気になるところだ。
 数学の小林先生が向かいから歩いてきた。
「おや、まだいたのか」
「はい」
「テスト勉強は・・・って君の場合はそんなに困らないのか」
 先生は気づいたように言って、少し笑った。
「暇だったら、ちょっと教材を運ぶのを手伝ってくれないか」
 僕はやっと退屈から、開放された。

「お疲れさん」
 30分後に仕事は全部終わってしまった。僕はまた暇な放課後のパラレルワールドへと溶け込んでいった。このまま消えちまいそうだな、と思った。
 僕の身体が半分くらい空気に溶けそうに退屈が充満してきたとき、廊下に陽光が斜めに差し込んでいる様に僕は目を覚ました。
 夕方になると校舎の教室側に光が射してくる。けれど、閉じられたドアのため、今までどの教室の前でもこんなにきれいに陽光が斜めに差し込んでいるところはなかったのだ。影と教室の隙間から漏れる美しい陽光に誘われ、僕はその教室に入っていった。
 だけど、そこは教室じゃなかった。図書室。人影のない図書室だった。
 隅っこの方に一人だけいた。陽光を後に背負っているから、どんな人かはわからない。髪もオレンジ色に見える。一心に本を読んでいる。自然そっちの方に歩いていく。どうせ、本棚もそっち側のほうが充実していたし、この校舎に残っていた物好きなのが誰なのか見ておきたくもあった。
 僕はいきなり顔を覗き込むなんて変に思えたから、まずはわざと足音を上げて、本棚の方に歩いていった。本を手に取る。はじめて手に取る冒険小説。そうか、たまには読書もいいな。漠然と思った。
 僕はいきなり本棚をでて、どっかと先客の目の前に座った。最初はずっと直接に相手を見なかった。目が合うと気まずいからだ。
 本を開いて目を落とす。読み始める。なかなか面白そうだ。プロローグで僕は決め込んだ。
 そして、そろそろいい頃かなと思って、先客の方に顔を向けた。
 びっくりした。向こうもこっちを向いている。女の子だ。平凡だけど、とても目が可愛い。女の子は、僕が目を向けたまま何も言わないためか、不思議そうにじっとこちらを見ている。
 何か言わなくちゃ。
「やあ、勉強?」
 彼女は首を振って、彼女の手元にある本を示した。装丁がとてもしゃれた本だ。今時のではなくて、昔風のシンプルでしゃれたのだ。
「それ、面白い?」
 彼女の方も言葉を生成したみたいだ。短くそういったのには、すごく暖かさがあった。
「うん。はじめて読んだけれどなかなか」
 彼女は笑った。何かおかしいことをいったっけ。
 二、三言かわして僕たちはまた僕たちの世界に戻っていった。窓から涼しい風が入ってきた。
 ちらと彼女を見る。まだ本に目を落としたまま。緩やかな風が、彼女の肩口の少し纏まったかみをわずかに揺らした。なんだか僕には勿体無い光景みたいだ。
 また、本に目を落とした。面白い内容の続きが楽しみでしょうがない。いよいよ主人公が、やる気を出して盗賊たちをやっつけようとするところだ。
「あの」
 不意に控えめな声が降ってきた。
 僕は顔を上げた。彼女は何かを言いたいような微妙な表情を繰り返してから、ゆっくりと口を開いた。
「ダイヤモンドってなんで輝いているんでしょう」
「どうしてだろう」
「どう思う?」
「わからない」
 けどきっとずっと輝いているわけではないでしょう。僕は言えなかった。
「そう」
「うん」
 今度は勢いのある風が、彼女の肩にかかる髪を殆ど全部揺らした。翻る時にちかちかと、つやのある髪はきれいに反射していた。
「太陽は?」
「うん」
「どうでしょう?」
「頑張っているよね」
 僕は良くわからない事を言っていた。どうしたのだろう。透き通る真空みたいな彼女の声は、僕を不思議な気分にさせていった。
「うん」
 彼女は少し笑って、また視線を本に向けた。
 僕もそれに倣った。本の白地がさっきよりうこんぽくなっている。主人公の活躍も夕日の中の出来事みたいに感じた。今日はもうおしまいにしようかな。
 僕はその一節を読み終えると、本を戻しに行った。
 席に戻ってくると、女の子は帰り支度を整えていた。
「また、くる?」
「うん」
 彼女は小さく頷いた。
 斜めの光も段々群青色に近づいてきた。
 もう今日はゆっくりと。ゆっくりと。
 僕は彼女と少し距離を置きながら図書室を出た。
 校門でまた明日、と彼女と別れた。
 もう今日はゆっくりと。ゆっくりと。
 日常のパラレルワールド、ゆっくりと。また明日。

鏡の中

2006年09月02日 | 小説/SS
 悪魔がいる。
 私がその悪魔と対峙することになったのは、何年前のことだっただろうか。少なくとも高校生の頃に無精髭の生えた顔で、洗面所の歯磨き粉で汚れた銀色の古めかしい鏡を覗き込んだ時にはそいつは、既に口の裂けるみたいな顔で、私のことを見下しているみたいだった。
 私はすくなくとも、世の中の半分以上の人間よりは十分に優れた人間であると思っていた。もっと昔のことをいえば、本当に幼い頃は、私だけが特別な存在だと思っていた。いつの間にかすこし、落ちぶれてしまったみたいだ。
 私は順調に成長していた。成長と一口にいうではあるが、これは人さまざまな所もあるだろう。具体的にいえば、一流の私立大学を良好の成績で卒業し、一流の企業に就職した。人並み以上の恋愛劇場で、大学でも指折りの彼女を得た。
 月並みの表現をするならば、私の人生はまさに順風満帆だった。

 ところが、鏡の中の悪魔だけは消えることはなかった。それどころか、日々その姿を怪物じみたものに変容させていった。引きつる目、それに虹彩もどす黒くよどんでいく。
 奴が話すようになったのが、ちょうど私が結婚する数日前のことだった。
「お前は幸せになれない」
 なんだ貴様は。一体いつまでそこでそうしている。
「お前は幸せにはなれない」
 これは幻想だ。こんなことがあるわけはない。寝よう。
「おいおい、ちゃんと俺を見てくれよ」
 突然強い力が、私の顔をグイッと鏡に向けさせた。強い力が私の体を強く固定して、ぶるぶると震えた。
「逃げるなよ」
 何から。私は何も恐れるものがないと言っても過言ではない。
「まだ分からないのか?」
 わからない。貴様は悪魔だ。
 私の姿をした醜いくず野郎だ。消えちまえ!!
 消えちまえ。
「お望みのままに」
 人の心を逆なでするような、上ずった声・・・。私は遂にこぶしを振り上げて、鏡にぶつけた。ひびが入る。鏡の中の怪物もこっちに拳を突き出だしている。

 血!?

 血・・・だ。
 私の血?やつの血?
 うわぁぁぁあ。
 壊してやる。こんな鏡、壊してやる。粉々に砕いてやる。悪魔め!!
 
 血!
 血!!血!!!血ッ!!
 私は、徐に台所へ向かった。なんて緩慢な生なんだ。なんて・・・。一体私は・・・なんの為に。いや、もう考えるまい。
 私はもう、さようならのだから。鏡よ。鏡よ・・・。私は全てを変えるよ。この世を全てね。変えてやるよ。こんな意味のない世界。

 そうして、私は悪魔に身を委ねた。この無価値の世界をコワシテやる為にネ。


素晴らしき夏の魔法

2006年08月11日 | 小説/SS
 もともと、私は「魔法」が使えるなんてこと知らなかった。

 私はこの世の中には、とても多くの迷信があると思っていた。「魔法」もその一つだった。授業かなんかでは、昔の人が何かを正当化するために使うものだと言っていたような気がする。
 私はその説に感銘を受けたわけでもなかったが、それ以上に日常に魔法がある事のほうが信じられなかったので、抵抗せずに受け入れた。ほとんどの人間がそうであるように、私もそうやって、魔法を迷信として全く相手にしなくなった。
 時々、神頼みに似た感覚で魔法を渇望したことはあるにしても、その時に何かが変るなんて思わなかった。
 私が「魔法」を知るきっかけとなったのは、とある午後に駅前のカフェの白いパラソルの下で、キンキンに冷えたカフェ・ラテをひたすら吸い込んでいた時だった。


 全く暑い事この上ない。頼んだばかりのカフェ・ラテの氷がもう半分解けてしまっている。ノースリーブにしたところで、この暑さから逃れる事が出来ずに、逆に日焼け対策に追われる羽目になっただけだった。
 こう暑いとムシャクシャしてくる。目の前に数学の遠藤がいたら、もはや氷も解けて温くなったお冷をかけてやりたい。よくも、追試にしやがって、断罪に値する。この私を追試にするなんて。NASAが許しても、この私が許さない。
 ん?何故、NASAなんだ?
 暑さで頭がおかしくなってきたみたいだ。このお冷は、寧ろ自分の頭にかけるべきかもしれない。
 ふぅ。
 頭の体にたまった湯気を吐き出そうと、私が上を向くと……。
「む」
 ☆▲■○▽□◎★
「む……し?」
 血の気が一気に引いていくのをこの身体に感じた。
「ぎゃぁぁぁあああ」
 あろうことか、私は夏の昼間っから、かわいそうなホラークイーンが斧に頭をかち割られる寸前のような声を出してしまった。

 次に私に襲い掛かったのは、蝉の合唱つきの深い沈黙。ありがとうセミたち。あなたたちの事は、忘れないから。
 自嘲気味にセミたちに賛辞を送っていると、近くに人の気配を感じた。
「大丈夫ですか?君」
 安定感のある中低音が、蝉の大合唱の中から飛び出してきた。
 というか、丁寧語を使っているくせに、「君」なんて代名詞使うか?どこの気障野郎だ。
「へ、平気でーす」
 とぶりっ子で答える。これで、きっと私は劇画調で雄たけびを上げた若いくせにやたら顔の濃い女じゃなくて、さながら可愛い悲鳴を上げた萌えな女子高生に見えるはずだ。多分。
「そう、ならいいんだけど」
 男は長身でストライプの入った青めのYシャツを着ていた。私が見上げると、長細い縁なし眼鏡を、中央のブリッジでくいと上げた。気障な……。でも、結構タイプかもしれない。
 ここはちょっと弱みを見せて、なんとかかんとかでメアドでもゲットしといたほうがいいかもしれない。
 よし、作戦変更といこうか参謀長。
「あの」
 と、私が口を開く前に男はちょっと間の抜けた声を上げた。
「え?」
 私もとっさに素に近い声で答えてしまった。
 と、男は言葉を続けることなく、急に身を屈めて私に身体を接近させた。ゆっくりと光のようにまぶしい右手をゆっくりと私の方に伸ばした。
 ちょ、ちょっと待った。それは急すぎる。まだ心の準備が……。
 男の体が私のパーソナルスペースの奥に進むほどに、私の鼓動は早くなる。
 いや、やっぱりだめだ。こんなところで……。それにまだ出会って間もない。もうちょっと、あなたの事を知る時間が欲しい。
 この際私の心臓の音に驚いて、彼が後に飛び去ってくれたらいいのに。
 いや、待て待て。こんなチャンスものにしなくてどうする。私にもついに来たんだチャンスが。
 男はゆっくりと、手を私の後頭部のほうに回していく。目を瞑ろう。
 ああ、なんか夢を見ているみたい。さっきまでの苛立ちが嘘のようだ。私が私じゃないみたいだ。研ぎ澄まされて、なんだか何でもできそうな気がする。
 唇に僅かに力を加える。
 そして、私は高鳴る鼓動を喉の奥に押しとどめながら、まだ触れぬ彼の唇の豊かな感触を待った。

  ……
  …………
  ………………
 まだ!?
 私は目をかっと開いた。
 枝豆?いやそれにしては毛が深い。
 それにうねうね、うねうね………
「これで一安心です」
 男は生きた毛虫を私の前でつまみながら、笑顔を送った。
「きぃゃぁぁぁぁぁ」
 私は夢中で叫んだ。叫びまくった。他になにも覚えていないくらい叫んだ。
 だから、私が目の前の眼鏡男の眼鏡が5メートル吹っ飛ぶほどの平手打ちをしていた事も覚えていない。

     ○       ○     ○     ○     ○     ○

「ごめんなさい」
 心から謝った。本当に反省しています。ああ、殴り返されるかな……。
 怖くて頭をあげられないよ。
「……」
 ぽん、と頭の上に手を置かれた。何だろう。
「これでおあいこってことで」
 顔を上げる。目の前には柔らかな笑顔をたたえる青年。この笑顔のどこが気障なのだろうか。私は間違っていた。後悔が押し寄せる。勝手に妄想して、勝手に彼という人間を曲解して……。
「ごめんなさい」
 気づいたら、私はもう一度頭を下げていた。どうしてもこうしなければ、私は駄目な気がした。どうしてだろう、こんなに苦しいのは。
「だいじょうぶだから」
 髪がゆっくりとなでられている。眼鏡の向こうの目には複雑な色が混じっていて、彼が何を考えているかは分からなかった。同情、慈悲、偽善、それとも別の何か。いや、それらが絡まりあっているような気がする。
 
 夏の太陽に照らされた深い茶色の虹彩は、確かにありふれた「魔法」を放っていた。それは、私が今まで信じる事のなかった、ささやかな真実。たしかなる理由もないのに人を好きになる事、それは確かに素晴らしき夏の「魔法」だった。
 ああ、なんかすごく照れくさいこと言ってない、私。もう今日はどうかしている。
 今、私は何をすればいいのか。
 目の前にいる「気障」な眼鏡のせいで、何にも出来ないかもしれないけど、とりあえず、まずはメアドから知っていこうと思う……。

 

ひなたの日常⑥(後)

2006年08月10日 | 小説/SS
八月十日晴。

 今日は、この夏始まって以来の猛暑になった。僕はいつものように、朝飯をまだ涼しいうちにほおばり、まだ日が浅いのに、げんき一杯のおひさまは、すでに恐ろしくらいの直射日光を放っていた。
 そのはた迷惑な光から逃げるようにして、影伝いで僕は東光寺に急いだ。
 まだ、誰も来ていなかった。お陰でゆっくり昼寝が出来る……

 おっと、そうだった。昨日の話の続きをするのだったか。ひかるの話は、前後不覚だった。いろいろ整理してみたが、やっぱりわからないことが多い。

 はじまりはこうだ。

「海に行かないか」
 例のテスト勉強会の時にコウスケがキョウコに言った。丁度、キョウコの差し入れのシュークリィムを平らげた後だ。
「え?」
 キョウコはほどほどに熱い紅茶を飲みかけて動きを止めた。
 結構な長い事時間が止まったらしい。ツクツク法師が一フレーズ鳴き終わるくらいの間だろうか。紅茶が冷めてしまうくらい長い事ではなかった筈だ。
「海?」
 キョウコは普段滅多に見せないような表情をして聞き返した。まぁ、それがどんなもんか僕にはわからない。ひかるによれば珍しいものだったらしい。僕は日本足の連中に興味なんてないので、その表情を説明されても分かったかどうかはわからない。
「ああ」
 コウスケはややあって、頷いた。キョウコの反応を変に思ったのだろう。
 キョウコは色んなことが頭にあったのかもしれない、というのはひかるの言葉だ。それがどんな事なのかは、詳しくわからない。
「あ、んーそんな時期だね」
「そうそう、テスト明けだしさっぱり泳ぎたいじゃん」
 コウスケはクリームがついた口の端っこを拭きながら、テストのことなんて忘れて、太陽の光で一杯の海岸を想像してたような顔つきをしてた、……ってよくわかるよなぁ。
「ふーん」
「トオルにマサシ、それにカオリも行くってさ」
「ま、コウスケがちゃんとテストを乗り切れたらの事だけど。補習でもあったら、そんな暇ないでしょ」
 キョウコは立ち上がって、カップを片付けに勉強部屋の裏手にある台所に向かった。
「大丈夫だって、その為に優秀な家庭教師もいるし」
「それなら、それなりの時給をちょうだい」
 キョウコはさあ続きをはじめよう、といわんばかりに戻ってくるなり、参考書を手に取った。
「だから、その代わりにってことでさ」
 コウスケもキョウコに促されるようにして、カップを片付けに行った。
「なんにせよ、期待は禁物な気がする。なにせ前期は赤手前だったコウスケのことだし」
 そう答えたキョウコは、視線を下に落とし、聞こえないくらいの小さな溜息を漏らした。この日は、そんな風にして、結局その話は立ち消えになった。

 その後、丁度テストの終わった頃の話だ。僕は、避暑地めぐりで、放蕩を続けていたし、もともとコウスケの行動の十分の一も知らない程度の付き合いなので、その話も全てひかるに聞いたものだ。
 その頃、改めてコウスケはキョウコを海に誘う事を考えていたらしい。その日、昼を過ぎた頃にやってきた。
「なんとか赤点は免れたよ」
 コウスケはキョウコに会うなり挨拶代わりに、自慢げにそういった。自慢にならない気もするが。
「優秀な家庭教師のお陰でね」
「そうそう、だからそのお礼も兼ねて海水浴&BBQ大会なんてどうかな」
 コウスケは長く暖めてきた卵から生まれたひよこでも、見せるような嬉しそうな声だった。
「メンバーはこの前の連中とかな。費用は俺が持つ事になったんだよ」
 コウスケは相変わらず嬉しそうに喋り続けた。
「ふうーん」
 キョウコの声は変らなかった。コウスケも少しするとその様子に気づいて、自分の期待していた反応を見せないキョウコを不思議に思った風に首を捻った。
「なんか興味なさそー」
「ん、いや、そんなことないよ」
 キョウコはいつもの明るい表情で返した。でも、それはどこか不自然だった、とひかるは言う。
「そっか。じゃあ……」
 それでも、キョウコは曖昧に返した。コウスケはどうも納得がいかなかった。
「あ、ひょっとして都合がわるかったか」
「ごめん」
 キョウコは短く答えた。このとき既にキョウコは夏風邪だった。僕は知っていた。コウスケは知らなかった。ひかるが主張するには二足の連中のオスも、我々のオスも自分ばかりしか見ていないということだ。なんのことか分からない。たまにひかるの言う事は意図をつかめない。誰か丁寧に解説して欲しい。

 ここまでの話は、単なる日常ありうることなのだが、僕を不安にさせるにはまだまだだ。そうなると、ここから先が一番「不安」にさせるもので、僕にとって一番不明な点が多い話の流れになる。
 予定では海に行く事になっていた日のことだ。この日は昼から雨になり、キョウコは相変わらず風邪だった。
 その朝はキョウコはまだだいぶ体調が悪く、くしゃみを繰り返したり、鼻を気にしたりしていた。かと思えば、ベッドに寝転がって、お腹が痛いのか、何度も繰り返しさすっていた。そのたびに小さく溜息をついていた。
 ひかるは気の毒に思って、キョウコのお腹の上に乗って暖めてやった。
 僕から言わせれば、そっちのがよっぽど気の毒だろうな。
 二足歩行類はどういうわけか、嘘が嫌いらしい。それが必要なものであろうと、どうしようもないものだろうと嫌いらしい。僕らにはその点は、賛同しない。結局、僕たちはどうあっても誰かと騙しあいをして、生き抜いていかなきゃならない。その為には騙す事も正しい。だけれども、彼らは彼らだ。でも、薬と毒の区別くらいはもうちょっとした方がよいと思う。
 キョウコはその日、一人きりだった。昼に料理する気力も起きず、冷蔵庫にも何もなかったため、コンビニに行った。それが、まずかった。いや体調が悪くなったとかではなく、気持ちが。
 コンビニの帰り道でキョウコは、コウスケに出くわした。
 キョウコは薄ピンク色のカーデ重風のカットソーに深い色のジーンズといった格好だった。髪の毛も普段と変らず、おしゃれに梳かしてあった。
 それが、逆に災いした。
「キョウコ?」
 コウスケの声は強張っていた。
 振り向いたキョウコはとっさに反応できなかった。
「今日って」
 キョウコは答えを持っていなかった。生まれつき正直だったから。
「あ、今日はね」
 そのまま、何も言えずに目を泳がせていた。
「……」
 今度はコウスケの方が黙ってしまった。一体どうしたのだ。
「ごめん」
 キョウコは溜めていたものを、吐き出すみたいに言った。
「どうして」
 コウスケは真っ直ぐにキョウコを見た。ひかるは目を細めてそれを見ていた。そのひかるにも痛いほど真っ直ぐな目だった。
「ごめん」
 キョウコはやはり短く言った。キョウコの中にどういうものがあったかは、僕にはまるで想像できないが、その場から逃げ出したいと思っていたと思う。
「やっぱさ」
 とコウスケ。今度はコウスケの方も目を背けていた。キョウコを真っ直ぐ見ることは出来なかった。
「俺、嫌われてんのかぁ」
 コウスケはあっけらかんと言った。でも、これはコウスケらしくないな、と僕は思う。
「そうじゃない」
 キョウコは、強く否定した。
「いいよ。別に」
 コウスケはいつもは無条件で受け入れるキョウコの言葉を、遠ざけた。なるほど、二足歩行類は厄介だ。本当にそう思う。
「コウスケ……」
 キョウコはそれ以上何も言わなかった。
 コウスケもキョウコに何も聞こうとはしなかった。
「俺、帰るよ」
 コウスケは足早に去った。ひかるはやはり細い目で、見送った。

 僕がひかるの家にいったのが、次の日だ。コウスケが、妙な嘘をついた日で、僕が初めて「不安」を尻尾に感じた日だった。
 僕はこの話を聞いて、ほとんどが不明のことだけど、「不安」がどういうものかは薄っすらと感じた。
 何れにしてもあまり気持ちのいいものではない。

 ここまで整理したら、あの日の「不安」は大体説明がついたように思う。けれど、その後は、どうなったのか。ひかるはその事は喋らなかった。お陰で、一時忘れていた「不安」が俄かに僕の喉に引っかかって気持ち悪い。

「ひなた、お前は気楽だな」
 コウスケは嘘をつく前の晩にそんな風にいいながら、僕の毛並みを手でなでた。はっきりいって余計なお世話だ。どうしてそんなことを言われなきゃならないんだ。いくらコウスケが命の恩人だとしても、僕をまるでその辺の白猫のやつと一緒にされるのはなんだか、嫌だ。
「あーあ。なにやってんだ俺」
 知るか。
「お前もキョウコの猫も仲いいよな。全くいいよな」
 ひかるという名だ。それに仲がいいというのは、お前の目は節穴か?
 ああ、確かにひかるがいっていたように、二足の連中のオスはどうやら自分の事しか見えていないらしいな。
「にゃー」
 僕はとりあえず鳴いてやった。これが二足の大半が僕に求める答えである。それ以上は何も求めない。僕も答えるつもりはない。
「気楽なやつめ」
 僕は目いっぱいコウスケの胸板に殴りかかる。さほど利いていない。くすぐったがっている程度だろうか。
 しばらく、コウスケは僕と徹底的に遊んだ。何も言わずにひたすらに。
「なぁ、ひなた」
 なんだよ。
「キョウコのシュークリームまた食べたいよな」
 コウスケは一言一言ゆっくりと言った。
「にゃー」
 どんな問いだろうと僕はこう答える。それが、僕に求められている答えだから。
 この言葉には、嘘も本当もない。肯定でも否定でもない。
 もちろん、僕はシュークリームは食べたいわけだが。
 コウスケはわずかに笑った。
 おい、ハクに似たか?だいぶ気障にみえるぞ、やめとけ、似合わない。
「そうか」
 何を納得したか知らないが、とりあえずシュークリームがもらえればいい。
 今思えば、このやりとりも今回聞いた一件のなかで、何か一つの部分なのかもしれない。今更僕は思い出した。あのときは別に気にならなかったが、今になるとなんとなく分かる。
 コウスケは答えを見つけたんだ。

 その後どうなったかは、まだ判明しないがそろそろ東光寺も暗くなってきた。夕飯を食べに帰ろう。
 僕は砂利の坂道を下っていった。いい香りがした。動物の肉の香だ。僕の大好物である。特にあの皮のついた棒状のやつはなかなかいける。
 匂いに誘われて垣根の隙間を抜けていくと、いつの間にかひかるの家にたどり着いた。僕はお構いもなく、家にお邪魔した。たまにはここでご馳走になってもいいだろう。
 板張りの廊下を曲がって、奥の土間に降りると、声が聞こえた。
「……ああ……も変ら……これじゃ……」
 声が反響して聞き取りづらい。近づいてみる。
「はぁ、あと500グラム落ちないかなぁ……ふぅ」
 なんの話だ?隙間から覗いてみる。キョウコだ。四角い板状のものに乗っている。確か、体の重量をはかるものだったか。
 キョウコは、近くの棚においてある何かを手に取った。
 貝殻だ。きれいに白だけの貝殻だ。ギザギザも規則的できれいだ。
 キョウコはそれをじっと眺めている。
「コウスケ」
 どうして、そこであいつの名前が?
「あーあ。なに意地張ってんだろ私」
 なんのことかさっぱりわからない。
「にゃー」
 ちなみにこれは僕の声ではない。
 ひかるがのっそりと背後から現れた。
「あれは、コウスケが持ってきた貝殻よ」
 とひかるはキョウコの近くに進み出ながら言った。
「コウスケが?」
「よっぽど仲直りしたかったんのね」
「……」
「コウスケがもっとキョウコをちゃんと見ていれば、こんないざこざもなかったのに、つくづくオスってば……」
 おいおい、それは僕も含まれているような気がするのは、僕の考えすぎなのだろうか。
「キョウコもキョウコね。なんでも意地を張ったりするから……体重なんて気にしないが一番いいわ」
 ひかるは悟り切ったような顔つきだ。……というかひかるは気にした方がいいだろ。というのはあまりに僕にとって不利益になる言葉なので腹の中に収めておこう。
 それはともかく、正直に言おう。僕にはこの一件はどうにもさっぱりだ。これが二足歩行類の複雑なところなのか。嬉しがったり、不安だったり、恥ずかしがったり、誇らしかったり、信じたり、疑ったり、全く忙しいことこの上ない。

ひなたの日常⑥(前)

2006年08月09日 | 小説/SS
八月九日雨。

 コウスケが戻ってきたのは、学校に行くという意味不明の嘘をついてから三日たった日だった。
 それから今の間までどういうことがあったかは知らないが、僕の尻尾に届いていた不穏な気配ももうなくなっていて、どうやらもう、その嫌な感じは過ぎ去ったのかもしれない。
 僕はそんなことお構いなしに、いつものように、一家の一員として、飯にありつき、散歩ばかりして日々を過ごしていた。その間僕の尻尾が感知した、不安というのはすっかり飛んでいた。それが彼ら二足類と僕らとの知恵の違いじゃないだろうか。
 それに、どんな事があろうと僕は決して、僕のスタイルは変えないことにしている。ただ一つ食料の確保という問題以外は僕らは、「気まま」というスタイルを保つ。よくわからない不安に付き合う程、僕も暇じゃあない。
 あくまでも気ままに生きるんだ。

 僕はふとしたことから、例の不安の元を聞くことになった。
 僕は夏本番になってからというもの、毎日のように東光寺に出向いていた。確かに、ヒカルとハクの、テレビのなんたらという芝居みたいな、大袈裟で繊細な会話を聞いているのは、苦痛でなかったことはなかった。けれども、そこには、この町の他のどこでも得られないくらいの、素晴らしい涼しさがある。差し引きして、なんとか会話の苦痛に耐える方がましだった。そのくらい、暑い毎日だ。
 だから、その苦痛な会話が、僕が前に気に掛かっていた出来事を解決するものだと知ったとき、東光寺は夏一番の一日へと変った。
 そう、それこそまさに今日なのだ。

「あなた本当に何にも知らないんだわね」
 ヒカルはいつもの嫌味っぽさを、上手く笑顔のオブラートに包んで僕に投げかけた。それでも、全然いつもと変わりなく感じたのは僕だけだろうか。
「キョウコが苦しかったのは夏風邪だけじゃないわ」
 ヒカルはハクに目で何か語りかけ、そんな風に切り出した。
 ハクは気障な仕草で、とことこと寺の奥の方へ行ってしまった。ふん。

 今日は眠いのでこれくらいにしよう。ヒカルがハクに対しての外面を捨てて喋った事は、少しばかり整理する時間が必要だ。あいつの話はバラバラだから、今ここにそのまま話すには幾らか僕が配慮に欠いたように思われてしまうだろう。
 そういうことで、続きは明日。

冬×株式会社×指輪

2006年08月01日 | 小説/SS
 社長をよろしくね。

 それが彼女の最期の言葉だった。私にとってその言葉が、ずっと全てを支えていたような気がする。
 うむ。そうだ。それがなければ、私はとうに、このなれたこげ茶色のミズナラでできた机の前からいなくなっていただろう。
 彼女は純粋無垢な笑顔でそう言ったのだ。私が彼女の言葉を受け入れぬ事など不可能だった。昔からそうだった。大学時代、講義の終わった午後の頃から何にも変っていない。憮然とする四郎と、その傍で小鳥のような可愛らしい声で彼をからかう彼女、そして私……。
「栄治くんは本当に優しいものね」
 何をした時だか忘れたが、彼女はそう言った。
 でも、これは私への賞賛ではなく、四郎に対する当て付けだった。私はそうだとわかっていても、嬉しかった。また二人の為に何かしたいと思った。
 そうだ。ずっと私は彼女の言葉には弱かったのだ。

 私は久しぶりに自室に戻って、全面ガラス張りの窓から外を眺めた。街行く人の足はいつになく早い。空は曇天で、風が冬の尖兵として、街の人々の熱気を吸い込んでいった。
 部屋には暖房が効いていて、とても暖かい。上着を着ていると暑くさえ感じる。でもどうしてか、落ち着けず私は上着を羽織ったままつい手を温めるように、手に暖かい息を吐いた。
 私たちは20年前にこの会社を創立した。主にファーストフードのチェーンを手掛けている。それも私たち三人だからこそできたのだった。彼女のいつもの料理がヒントになり、彼の閃きを私が具体的に検討していった。その結果がこの都心にそびえたつ本社ビルであり、銀色の専務のプレートである。
 後悔はしていない。私たちはずっと前をみて走ってきたのだから、後ろなど見なかった。今からすれば懐かしい日々だった。
 今はこうして立ち止まって前にも進まずに、ただ迷っている。
 私を支えたのはただ一つ彼女の言葉だった。
 
 私はついに念願の指輪を買った。学生時代に入った宝石店で、彼女が不意に足を止めたディスプレイの中にある、小さなダイヤの埋め込まれたシンプルなリング。私はついに手にしていた。彼女は、あの頃さんざん指のサイズを言って、僕らを困らせていたな、と思ってつい微笑が零れた。
 私は彼女を愛していた。運命とはこのことだろうと、不信心な私も信じたのは彼女の存在だった。そして、その私と同じように運命を信じたのが四郎だった。私たちは互いに競って、彼女を愛した。彼にはそういう自覚はなかったかもしれない。でも、確かに彼は舞台に上がっていた。私と同じように彼女を求めていた。
 指輪を渡す時、私はついにこのときが来たのだと思った。長年追い求めていた時がついに来たのだと思った。
 
 結婚します。

 そういった内容の葉書が届いたのは彼女の誕生日の前日だった。
 気づいていた。私は知っていた。いつかこうして、私は選ばれないことを。しかし、認めたくはなかった。認めたら私はもう、いられなかったから。
 分かっていたのだ。彼女が彼をずっと見つめているのを。

 会社が軋みだしたのは、彼女が亡くなってから三年の後だった。経営が停滞し、外因によって私たちの会社は、砂の城のようにあっという間に崩れ去った。
 もうこの景色も見納めか。そう思うと色々な出来事が頭を占有する。三人で駆け抜けた素晴らしい日々が。振り返る事も迷う事もなく進んだ純粋な日々。私たちはいつからかなくしていたのかもしれない。後ばかりを振り返り、過去にしがみつき、昔思い描いていた明日はすっかり色あせていた。
 
 社長室をノックする。返事はない。ゆっっくりとその扉を開く。背中を向けて立っている四郎をみると白髪がだいぶ増えている印象があった。
 私も彼の方に歩いていく。外は夕暮れ。風はまだ止まない。
 私たちはお互いに目を交わさずに外を見続けた。
 彼はゆっくりと指輪を外し、ポケットに入れた。
 
 私たちに残された時間はまだある。
 

プール×老人×刑事

2006年07月29日 | 小説/SS
 彼が市営プール第二にやってきたのは、暇潰しだからでもなく、泳ぎたいという純粋理由からでもなかった。ただ、彼は逃げていたのだ。
 何から逃げていた?
 言い表しづらい。もともと彼は大変臆病だった。自分の意見を常に押し込めて、人との調和を図っていた。それは彼が優しいからではなく、彼が臆病な故であった。
 そうして衝突をさけ、人を避け今まで歩いてきたのだった。
 ぼんやりとぐちゃぐちゃ考えながら、彼はハーフパンツ系の左右に白と赤のラインがシンプルに入った黒い海パンを穿いて、プールサイドへと出た。
 市営プール第二は山の中にある。そのお陰か何か、人影は極端に少ない。近くに崖があって、周辺から生える木や草がフェンスを歪めてプールサイドまで侵食していた。プールサイドのコンクリートもあちこち崩れて、歩きづらい。プールの中も中で、普通完全に透き通って見えるプールが、底までみえず、白くにごっている。
 彼は大きく伸びをしてから、プールサイドにすえつけてあるコカコーラ社のロゴの入った風化したプラスティックのベンチに腰掛けた。
 別に泳ぐ気にはならない。そもそも、泳ぐのはそんなに好きではない。
 風がそよぐ。今度は凪ぐ。太陽は翳ったり出たりを繰り返している。セミも時折鳴いたり鳴かなかったりを繰り返している。
 彼は数日前からのことを考えていた。
 どうしてあんな事になってしまったのだろう。これが臆病な自分の顛末なのだろうか。彼の口の中に苦い味が広がる。


 柿本権左衛門は七十を越える高齢だった。この日も彼は自宅から三分ほどの市営プール第二にやってきていた。このプールは彼にとっては自分の家の一部のようなものであった。だから、彼がこのプールにいつもは見かけない青年の顔を認めるまでに時間は掛からなかった。
 おやどうしたもんか。最初は別段気に留めずに、これまたいつものように乾布摩擦をはじめた。
 このとき、彼は違和感を感じた。しかし、それは柿本にとって重要視するようなものではなく、彼はすぐにそれを忘却の穴に捨てた。


 彼は学生だった。芸術を志すために美大に入った。しかし、そこでも彼は、彼のその性格のために多くを失った。片思いの女性、鬼才と呼ばれた先輩、自分の志……。全てを裏切りなくした。
 彼はそれでもまだ変らなかった。逃げていた。しかし、逃げる先々も必ず、彼に決断を迫った。そして、また逃げた。
 女性は煙のようにうっすら、うっすら消えていった。彼は先輩を止めたかった。けれど何にも出来なかった。自分にはいいたい言葉が沢山あったのに、いつまでも言えなかった。
 そして、自分の志をもたやすく捨てようとした。
 それは、弾みだった。ほんの一瞬の修羅が宿った。気がついたときには、目の前で呻く心理カウンセラー、右手には逆手に持った血に赤く染まった太いペン。
 たまらず飛び出した。もう終わりだそんな風に思ったけれども、迫り来る裁きを前に彼はまた逃げ出した。
 青年は右手を、久々に登場した太陽にすかしてみた。
 まだ嫌な匂いが漂っている気がする。
 彼は気が滅入って、貧血患者のようにベンチで寝転んだ。

 
 
 柿本はゆっくりと水につかり、やがてクロールで泳ぎ始めた。手を回すこと三回に一回呼吸するため顔を上げる。ゆっくり左、右、左、右・・・と続けた。
 25メートルで折り返す。勿論全中するのは高齢にこたえるので、手をついて、身をこごめて足で壁を蹴って、折り返す。
 同じペースで戻っていく。心地よい水温。右、左、右、左……。
 ん?
 彼はプールサイドのベンチで寝転んだ青年を目に留めた。
 どうしたんじゃろか……。
 一瞬間そう考えたのが、泳ぎのリズムを崩した。
 っ……!!
 呼吸のリズムが狂って、間違えて水を飲んでしまう。手と足も滅茶苦茶に動き始める。脳はパニックを起こし、何かにつかまれという指示を出したり、空気を吸えという命令をあちこちに出しては取り消したりしている。


 風が何度目か凪いだとき、彼の耳に不規則なリズムの水音が入ってきた。
 ようやく平静を取り戻しかけた彼は、目を開けて再び平平静を失った。
 彼のいるサイドから三つ目のコースのど真ん中で、波しぶきが上がっていた。
 すぐに直感した。
 「誰か、おぼれている!!」
 頭が真っ白になっていく。
 まただ、また……。どうして決めなければならない事が起こるんだ。どうして放って置いてくれないのだ。
 彼は頭をふるって再び目を瞑った。
 
 バシャバシャバシャ……

 僕に助けられるはずがない。

 バシャバシャバシャ……

 どうして自分なんだ。他に誰かいないのか。

 バシャバシャバシャ……

 このままじゃ、死んでしまう。

 バシャバシャ……

 ……あの人を救えば、もしかしたら僕は許されるのか。

 バシャバシャ……

 いや、そんな事はない。許されることなんてないんだ。

 バシャ……

 ……僕はどうしたいんだ?なぁ。

 バシャ……

 ……

 バシャ……

 ……助ける!!

 
 次の瞬間彼の目の前には死神がやってきていた。死神なんてものは初めて見るが、結構気持ちのいい青年だな、と彼は思った。願わくは巨乳の黒髪少女が良かったのだが、彼はそう思ったが、一人で行くよりはこの青年がいるほうが幾分かましだと思った。手を差し伸べる青年。
 もう苦しい時間は終わった。そろそろ、いくべき時がきたのか。
 そう思った。
 同じく彼に手を伸ばす。

「……っ」

「……いっ」

「……おいっ」

「しっかりしろ。大丈夫か!!」
 逞しい男の声が響く。

 がっちりした大男は久しぶりに、市営プール第二にやってきていた。大昔父親に連れてきてもらって以来だった。海パンを穿いている時、突然プールで激しい水音がした。
 彼は職業上のクセで、大きな音に反応してすぐにプールサイドに駆け込んでいった。そこにはおぼれる老人と、浮いている一人の男がいた。 
 
 というのが刑事、柿本潤一郎による話のあらましだった。
「まったく心配させないでくださいよ父さん」
 大男は顔に似合わないヘタレ声で言った。
「お前こそ、いいときに邪魔しやがって」
「邪魔?」
「せっかく別嬪さんの死神さんとパフパフしようとしていたところだったのに」
 老人は本当に不機嫌そうに言う。
「父さん……」
 その声には半ば呆れと、半ば安堵がこもっていた。
 青年はぼうっとその光景を見ていた。結局自分は、何もできなかったか。
 心に深い溜息を落として、彼は立ち上がる。
「君、依田誠一郎くんだね」
 柿本(子)が青年の背中に声を投げかける。
 ビクリとして立ち止まる青年。ゆっくりと振り向く。その顔は悲壮に満ちていた。
「俺は刑事をやっているんだが」
 柿本(子)は鋭い目つきを利かせる。
「……」
 依田青年は無言で自身の行動を肯定した。自分の犯したことを。
「君は……」
「ありがとうな。青年」
 緊張感のない声で割り込んだのは、老柿本。
「え?」
「これで、今日はこいつのおごりで『サキちゃん』に会えるだろうて」
 柿本(息子)はぽかんとして父親を見た。
「父さん」
「いやいや、あの巨乳死神ちゃんもよかったがの。やっぱりわしは、『サキちゃん』の太ももが捨てきれんからに」
 二人が唖然としていると、老人は元気よく立ち上がり、出口の方へ向かった。
 どうやら、老人の方の死神は巨乳美人だったのだなと、青年は軽く羨ましく思って次は自分の方にその死神を派遣して欲しいという願いを天国に祈ろうとして、すぐに正気に戻った。
「でも、僕はあなたを助けられなかった。この刑事さんが来たから」
 青年は感謝されるのが不思議でならなかった。どうして、何にも出来なかった自分をかばおうとするのか。
「おんしが飛び込まんかったら、このアホウはわしが危ない事に気づかなかったんじゃ。実の息子だというのに胸騒ぎの一つもせんとは……」
 老柿本は息子に向かって嘆息して見せた。
「っ父さん。これとは話が別なんです」
 息子は大きな声で主張するが、老人は無視して、更衣室に向かう。
「帰るぞ」
「でも……」
「親の言う事は聞くもんじゃて、それにおんしにはさっきの邪魔をした埋め合わせをしてもらわにゃならん」
 老人の強引な矛盾した理論でも彼は離れようとしない。
「とにかく、彼を署に同行させないと」
 気を取り直したように息子は依田青年に向き直った。
 鋭い目に彼はもう逃げようとは思えなかった。ただ、頷いた。

「バカタレ!!」
 息子以上の大声がプールサイドで寛いでいた鳥たちの肝を抜いた。
「その子は、お前がどうこうせんでも逃げも隠れもせんよ」
 老人は静かに、しかし重く言った。
「のう?」
 さっきまでの惚けたような声にもどる。
「……はい」
 気づいた時には答えていた。
 もう、逃げる事はやめた。もう、失う事に恐れて、結局なにもかも失くしてしまうようなことはしたくない。
 彼は深く頷いた。