深キ眠リニ現ヲミル

放浪の凡人、中庸の雑記です。
SSなど綴る事アリ。

秒速Xセンチメートル

2008年02月06日 | 深キ眠リニ現ヲミル(自己哲学)

前にこれに似た・・・というかXが5であるタイトルの短編アニメーションを観た。
この作品の中には、いくつも僕がかつて抱いていた気持ちの欠片を拾って一つの結晶を僕にくれたような気がした。
と、小学校・中学校・高校そして大学を卒業して親元を離れこうして会社に通う毎日に慣れてくると、ふっと気づくんだ。いつの間にかかつて大切だったものが、昔のそれとは違うことに。
前、友人の学祭で全力少年という曲を聴いて、高校の時の自分がもういないのだなということに気づいた。いや、それは確かに僕のうちにあるのかもしれない。けれども、あのころのようにただ我武者羅に走ることを僕は忘れた。
そう。今の僕はきっと怯えているのだ。それは確かに大人になった自分には、警戒も必要なのかもしれない。けれども、ただ縮こまってしまっていたらこの先面白いことはなさそうだ。
それぞれ、離れて暮らし違う生活の中で自分を生きる。秒速Xセンチメートルで僕たちは、少しずつけれども確実に自らの生活を歩んでいく。
こんな時に「あの頃のまま」という曲を聴くと、なんとも言えない気持ちになる。
僕はどんな道を歩いていくのだろう?
そんなこともまだ迷っているけれど、6時のターミナルで友人と会う時に僕は幸せなのだよと言える道を歩きたい。
サムエル版「あの頃のまま」


改めて

2007年01月09日 | 深キ眠リニ現ヲミル(自己哲学)
昔、どこかで触れたことかもしれないが、私は余暇というものを有効に使えない。たいてい生活リズムを崩して、それだけで終わるような気さえする。まず、家に篭りだしそのうちには、飯を食べなくなり、体調は不全(飯が喉を通らなくなる)にして惰眠を貪る。こういう事態に陥って初めて人が引きこもってしまうのかを知る。
最初は自ら外に出ないという状況にしろ、そのうち飽きてくる。外に出たいと思う。しかし、生活リズムの悪化やらなんやらで出られなくなる。出る気もなくなってくる。消極的に引きこもることになる。

自分はやはり、拘束する何かがないと緊張感が保てず、まともに生きられなくなる。次第に外にいるときよりストレスもたまる。悪夢も増える。いつも休み明けには思うものだ、やっと地獄が終わったと。

自分を見つめなおす

2006年09月25日 | 深キ眠リニ現ヲミル(自己哲学)
なんだか、道徳の教科書みたいなタイトルを冠してしまったなぁ。しかし、自分をみつめると言う事は、当たり前のようで、なかなか難しいのかもしれません。
自分では自分を分かっているつもりでも、実は分かった気になって自分を自分の思うステレオタイプにはめて生きている事もしばしばあるものだ。
そんな事に気づいた時はだいぶショックである。なんだ誰だ貴様はとか思う。
自分はこういう人間だった筈なんだ。と、そんな事を引きずって、今でもそうあろうとしてしまう。自分でも気づかないうちに自分に嘘をつくと言うことがどういうことか、最近良くわかる。

「わかったよ」
 いや、わかってないんだ。私は。全くわかっていないんだ。心のどこかじゃ納得できないでいる。でも、忘れたフリをしているのだ。そんな忘れたものを、私は時々、夢を通じてみるのである。自分の本当の姿。臆病で病んで死んでしまいそうな自分を見るのだ。
 だから、またそいつと向き合わなきゃいけないんじゃないだろうか。最近良くそう思う。ただ、純朴青年を気取って生きていくのか、否そう生きていかなくてはならないルールなど、どこにもありはしない。だったら、今のマンネリした自分をもう少し見つめてみたらどうだろう。
 みつめてみたらどうだろう。
 もっと欲張りに。もっと堂々と。少しでもいいから、変ることを選んだらどうだろうか。そして、なによりその臆病な自分をなんとか楽しませてやらなきゃいけない。満足させてやらなきゃいけない。
 今、自分の求めているもの、それはきっと多くの人と変らない。言い方次第で陳腐にもなる言葉。私がずっと偽物だと思ってきた存在。それは「愛」なのだろうか。まだ、判然としない。
 今、私は、もう一度考えて見なくてはならない。身の回りのこと、友達のこと、家族のこと、趣味のこと、自分のこと。
 そして、実践せよ。
 実践せよ!!
 革命の日は近し。。。

 おやすみ。

忌むべき存在とその過ちに関する解釈及び一定の許容(草稿)

2006年07月19日 | 深キ眠リニ現ヲミル(自己哲学)

序.虚無の由来
人は忌むべき存在である
日々に増してそう思わしめるは
これ全て経験とその反復なり

一.血に関して
「血」である
その諸悪の根源はその長きに渡り我々の中に脈々と流れる「血」である
これがなくば、人が忌むべきものになる事はなし、とぞ思う。
「血」は我を規定し、我たらしめるのである。
如何にしても、それが為に我は生きるのである。生きさせるのである。
力を欲するのである。食するのである。性を欲するのである。
これ全て人が生きるため……否、はたしてさうであらうか。
我が生きるためであらうか?否「血」が流れる為である。常しえに「血」が
流れる事である。
それがため、人は食し、子を生ま(せ)んとす。
これなどは、過去の人間が言わんとする事とも合致する事少なからず。

「血」が何を生んだか。経験を回顧せよ。歴史を回顧せよ。
「血」は自らは決して絶えるなく、人の殺戮を楽しんでいるがごときではないか。
我らは踊らされているのだ。エリイトも百姓も奴隷も全てが踊らされているのだ。この「血」が主宰する一大歴史スペクタクルに。

二.道徳に関して
我らには意思がある。意思を生み出すのは何か?「生み出す」はいささか誇張過度にして、間違いなる。
作用したるもの、と換言いたすべし。
けだし、作用したる事実を挙ぐにこれいずこにもあり。理想へと邁進する人そのもの見れば、いと易し。かくあらんとす道徳また同様。
道徳というもの正しい人たる姿なり。この道に決して過ちなし。これ万人の盾なるものなり、信仰なり。人をして道徳を信仰させんとするは、前項の「血」なる。これがため、人の意思は作用されるのである。
奴隷が平等を得んするやうに――その陰には自らの存在をより高みに置こうとする意思がみえたり。
為政者がインクリメンタリズムによりて進みたるように――その陰には保守への憧れがある。
そして、これらが対立する際にそれらを、「血」に訴えて安んずるものは道徳なり。「血」は道徳を持っていない。だからこそ、求めるのである。
なれど、「血」が「血」である限り道徳になりきることはできず。「血」は道徳を悉く誤っているのである。背反している。決して交わらぬ線である。畢竟人が道徳を得んとすれば、「血」を捨てねばならぬ。忌むべきなる事を悩まぬやうにするには、「血」を捨てねばならぬ。

三.精神文化による虚無の発生
 哲学的思索によって先人が発見した真理は達するためには、それこそ血捨論を唱えなければなるまい。力への無欲。この無欲こそが真なれというならば、浮世は偽であるといわざるをえない。
 なるほど浮世は誤った存在なることは、偉大なる先人によりて提唱されている。
 正しい存在ならば、憂くことも恐らくはないのであらう。
 こういった精神文化の発展は錯誤を生み、ついに虚無が徐々に形を現すのだった。「血」を否定する精神が発生するのである。無関心の病である。
 近年の文化作品にみるに人類進化の閉塞状態を憂うこと大いに盛り上がりたる。前世紀からはじまった虚無の輪がじりじりと広がっている。
長きに渡る「血」への反動である。自身が忌むべきものと思わしめる精神文化の非情なる錯誤がもたらした「血」の病である。

四.過ちの一定許容
 さようにして、正しい世界への渇望への美しき錯誤が人をして浮世を過ちたらしめんとした。
 確かに虚無は浮世を「過ち」と認識させた。真理へ渇望する「血」を有する人は絶望するのである。そして、自らを捨て真理を得ようとした。かつてそうして幾人が死んだか。我は浮世を正当であると信じてきた。ああ、信じてきた。しかして、誠実に歩いてきたのである。それが「過ち」であると知った。
 しかし、問題はこれからである。正しい世界に我は存在できぬ。この「血」がある限り。なれば、この過ちに満ちた世界を一定量ながら、受け入れねばならぬ。

五.認識という活路
 現今、世界は――我の思う世界であるが――確実に無関心を育んでいる。――目下自分の視点の範囲。
 もはや、虚無が存在していることは厳然たる事実なり。我はこれと戦わなければならぬ。しかし、我は虚無の存在を認知したるによりて、これと戦わんとした。しかるに、ここに言いたい。諸君、いずれの人の中にすら、虚無は密かに牙を研いでいる。それは精神の合間を縫って首筋に噛み付いてくる。――警戒せよ。
 見据えるのだ、自らの虚無を。逃げては駄目だ。否定しても駄目だ。いくら厭っても「血」がある限り道徳への渇望は消えぬ。それと同じくして虚無も消えぬ。
 今はひたすら見つめよ。それが活路である。

>>私信
 たぶん此処に書いたような、私自身との対決が、このブログなのだと思う。
今日書いていて、改めて実感した。しかし、こんな駄文読む人いるかな。
別に書いてあることもそれほど目新しくないような気がする。
ただ、同じ戦いに臨もうとしている人への先人たちの意見の紹介しただけですかね。
 『力への意志』なんてのはNさんだしねぇ。ただ、今回は一般には否定される虚無との共存という拭い去れない事実を自分で書いていて発見した。

>>私信2
 前の私信があとがき化しているので、こっちに軽い内容を。
 Kさんからリクエストのシリーズ『昭和官僚』の台詞を考えてもらえたらなと思っています。昭和期の官僚もしくは政治家で、戦争をなんとかして勝とう、みたいな内容にしたい。もしくは斉藤隆夫的な反戦演説とかね。
 永井柳太郎とかもいいね。議事録なんかをひけばのってるか。めんどいな。


夏の夜

2006年07月13日 | 深キ眠リニ現ヲミル(自己哲学)

日が沈みまた夜がくる
焦りながらも何もできずに暑い暑いと言う
景色も音も僕には残酷で
次第に現れそして消えていく
見据える宇宙は今日も遠く遠く
魔法を使って飛んでいくことは出来ず
わかっているけれども
怖くてしょうがないのだ
ああ、夏の夜はかくも無慈悲だったのか


さあて、ついに夏がやってきました。ただ季節が夏ということだけ。日々足が重い私はいつもと変らず。ただ暑いだけ。いつもそうやって言って結局なにもせずにいたがために、今の体たらく。
新しい冒険をはじめなけや崩れてしまうのだろう。

思考の限界

2006年05月12日 | 深キ眠リニ現ヲミル(自己哲学)

思考の限界を考えてみた。

 たとえば思考に限界はないとする人は、確かに主観的には思考の限界はないとしても客観的にみれば思考の限界の余地がないとは言い切れないだろう。仮に限界があった場合に彼はそれを証明できない。彼はその限界に制限されているのだから、その認識を超えた存在を証明はできない。

 逆に思考の限界が存在していると考える人間の場合は、主観的に限界が存在している。そのものは既に限界を決定してしまっているのだから、神が隣にいない以上その主観的思考限界と客観的思考限界が同一、つまり思考が全てを支配し得る(思考限界は存在しない)、といえない。それが真か偽かは別として。

 客観的に思考に限界がなかったとしても、限界は存在する。限界は拡張することによって、その全てに近づいていくけれども、全てが何であるかを知りえない人間にとって、その拡張によって全てに到達しえたとしてもそれは全てではない。その全てを知りえるのは神以外のなにものでもない。

 ついに私は自分の書いていることすら、自分の支配の範疇にない状態となった。自分の思考をこうして言葉にかえるということは、多くの錯誤をもたらす。人間はひとつの言葉に、自分なりの解釈をみつけることでその意味を拡張したり、変節させたりしてきた。言葉は多くの誤解を生む。それは言葉の多義性や、曖昧さにょる。この人間の特殊な思考・意思伝達手段は非常に不完全である。この言葉が人間の思考をある意味で曇らせている気がしてならない。しかし、逆にこの言葉あるからこそここにこういう文章を残せるし、一定の思考が可能であるのだが。

 今日出会ったインターネット上の書評は遥かに私の思考範囲を超えていた。人は思った以上に頭が良くなれるらしいということを思った。しかし、やはり人間の枷はある意味で、その基幹である言葉にあるのだということを強く感じた。

 思考の限界はそれが言語によっている限り一定の限界を持っているのではないかというのが、結論であるが、これが真であるかは全くもって私の思考の範囲外にあるのかもしれない。しかし、考えることを放棄したくはない。


とにかく、今日は纏まらなかったが、ただ思うままに自分の考えを書いた。後の自分はこれを見てなんと思うか。