縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

塩野谷祐一 『エッセー 正・徳・善 ~経済を「投企」する~』 

2009-11-15 19:22:06 | 最近思うこと
 エッセーという言葉に騙されてはいけない。この本を「格差は拡大するは、企業の不祥事は無くならないは、経済にもやっぱり倫理が必要だな。」などと軽い気持ちで手に取ってはいけない。意味がわからず、読むのに疲れ、すぐに買ったことを後悔するだろう。
 日頃、正とは何か、善とは何か、はたまた 人は如何に生きるべきか等について、まじめに考えてみたいと思っている方にこそ、この本をお勧めしたい。

 塩野谷先生は我が国における経済哲学研究の第一人者である(もっとも他に研究している人がいないとの話もあるが・・・)。
 そんな先生も初めから経済哲学を研究されていたわけではない。先生は若かりし頃ケインズの高弟ハロッドの下で学び、1960年代、70年代は、経済成長論、インフレーションなど時代の要請に合った研究をされていた。それが80年代以降、先生の関心は、単なる経済事象やそれを説明せんとする経済理論から次第に離れ、経済の根底にあるもの、枠組みや制度を規定するものへと移って行ったのである。
 これには先生がもう一つのライフワークとされているシュンペーターの影響もあると思う。先生が本書の中に書かれているが、シュンペーターは「経済学や政治学や倫理学などの個別の社会科学が個々別々に取り上げている対象を、社会学の視点から統一的に取り扱う」という「総合的社会学」の実現を目指していたという。塩野谷先生の目指すものも それに近いのではなかろうか。

 さて、本書の考えについて簡単にご紹介したい。
 タイトルにある「正・徳・善」というのは倫理学の概念である。各々「正」は社会の制度ないしルールを、「徳」は個々人の存在ないし性格を、「善」は個々人の行為を、その倫理的評価の対象とする。その中で、公正な社会を規定する「正」が最上位にあり、一方、行為の根底にある 人間の存在そのものを規定する「徳」は「善」の上位と考えられる。即ち、「正>徳>善」という倫理的ヒエラルキーが成立するのである。

 次にサブ・タイトルにある“経済を「投企」する”の意味であるが、社会に存在する我々一人ひとりが主体的、積極的に正しい経済のあり方を考えることではないかと思う。
 ハイデガーのいう「投企」とは、否応なしにこの世界に投げ込まれた者が、不安を通してそれを自覚し、そこから自らの生の意味を捉え直し新たな生き方を始めるといった意味である。この新たな可能性に向けて自らを投げ込む行為が「投企」なのである。
 経済は単なる仕組み、システムに過ぎず「投企」する主体とは成り得ない。「投企」するのは人間である。「徳」を備えた人間である。失業や格差の拡大、貧困の問題あるいは高齢化社会への対応など、今後、経済の制度、ルールはどうあるべきなのか。今、我々はこうした不安の中に生きているわけであり、斯かる問題の存在、難しさを認識した上で、新たな社会の可能性を考えることが求められているのである。

 ところで、スイスの哲学者・法学者であるヒルティに『眠られぬ夜のために』という本がある。日記のようなスタイルになっていて、毎日少しずつ ありがたい話を読むことができる。
 そこで本書を買われた皆様にご提案。この本を一気に読むのは相当骨が折れるので、それこそ眠られぬ夜に1節ずつ(大体7ページくらい)読んでは如何だろう。そうすれば日々問題意識を高めることができるし、又、その難解な内容ゆえ羊を数えるよりも眠りに就くのが早いという副次的効果も期待できるかもしれない(失礼)。