キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

人の内に霊なし!

2007-05-28 22:38:02 | 無宗教主義
神である主は、土地のちりで人を形造り、
その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで、人は、生きものとなった。(創世記2-7)



ギリシャの哲学者たちは、様々な人間論を主張した。

人間とは何であるか?人間の現実の姿とは何であるか?

このような問いをもって、彼らは真理研究の主要課題としたのである。

まずプラトンは、二元論を主張した。

すなわち、人間というものは精神と肉体から構成されるもので、

精神と肉体の調和のもとに、人間存在が成立しているのである、と。

しかしプラトン哲学において、精神と肉体の関係は、

調和するというよりは矛盾対立するものであった。

そこでプロティノスは、精神のみの一元論を唱えた。

存在するのは精神のみで、肉体は実相ではない、と。

すべては上なる絶対理念から流出したものであって、

肉体なるものは仮姿に過ぎないと。

しかし人間の本質が精神のみであれば、肉体を持つ必要などない。

かかる理由によって、今度は逆に、肉体のみの一元論を唱える者がいた。

デモクリトスである。

デモクリトスは言う、すべては最小物質の集合体に過ぎず、

人間も死んだら最小物質に分解され、何も残らないと。

「精神と肉体が拮抗する二元論」と「精神のみの唯心論」と「肉体のみの唯物論」、

これが古代ギリシャの生んだ人間観のすべてであった。


しかし人間というものは、人間自身で存在しているわけではない。

被造物を造り給うたのは造物主であるから、被造物の存在を問うということは、

まずもって造物主の存在を問題にせねばならない。

であるから、古代ギリシャの哲人のように、

神から切り離した人間というものは、一種の抽象的な人間論である。

精神と肉体が拮抗する人間、精神のみの人間、肉体のみの人間、

そういうものは、科学的モデルとしては興味深きものであるが、

現実の人間を理解する手立てにはならない。

ギリシャ人がどれほど天才的だったとしても、神を知らないという意味で、

彼らは人間を理解することができなかった。

我々に人間を理解する素材を与えるのは、神のみと格闘し続けたイスラエル人である。

彼らの聖典曰く、「人はちりで造られ、神の息が人に生命を与えた」と。

人間は所詮ちりであって、人間の内に永遠なるものはない。

神が人に霊を与え給うから、人は生きることができる。

すなわち、神から付与される霊なくして、

我々は生きることも・考えることも・欲することもできず、

存在自体が成り立たないことになる。

霊魂などと称して、何か人の内に永遠なるものがあると信じたくとも、

その霊なるものは神が間断なく与え給うもので、

人間の精神にも肉体にも付随していないものなのだ。

神が日々与え給う霊によって、人は生きる。

神の霊によって、人の精神も肉体も調和できる。

これが、イスラエル人の人間観であるし、真実の人間である。


西洋人はキリスト教を受けて、かかる聖書的人間論を理解すべきであった。

しかし彼らは、あまりにもギリシャ的素養に富みすぎて、

ギリシャ的人間論の外に出ることができなかった。

中世の教父たちは、神に属すべき霊を人の内にあるものだと勘違いし、

プラトン的二元論に無理やりはめ込もうとし、

すなわち精神に霊の力を付与して、霊肉二元論を唱え始めた。

神のみを絶対視する聖書的人間論から逸脱し、人の内に神の性を与えたのである。

ここに至って、歴史は同じことを繰り返すようになる。

神の霊を取り込んだ精神は、より力を得て、ギリシャ的人間論の歴史を再現した。

まずヘーゲルは霊肉の対立を霊によって統一しようと欲し、

唯心論を唱えて、人間理性を神の位置にまで引き上げた。

またマルクスは霊肉の対立を肉によって統一しようと欲し、

唯物論を唱えて、経済体制によって調和幸福を得んと欲した。

どちらの思想も、霊の本質を忘れた抽象的人間論に過ぎず、

誤謬だったことは歴史が証明している。


西洋的キリスト教の人間論には、ギリシャ的思考という、

最も異教的な根が内在している。

神も霊も、人間内部に取り込もうとする、思考様式があるように思う。

霊は神に属するものであり、人間は霊ではなく、霊を与えられているに過ぎない。
(ヨハネ伝4-24、イザヤ書32-15)

かかる冷酷なほどの神中心的認識が、初めて現実の人間を直視せしめると思うのである。


神なき人間論は、常に二元論→唯心論→唯物論の経過をたどる。

ギリシャ的思考、西洋的キリスト教の呪縛である。

そして、人は注意すべきである。

かかる異教的人間論の最も恐ろしいのは、

唯物論にまで到達した人間論が、再び唯心論に逆戻りする時である。

この時、人間的欲望のすべてが神となる。

霊という最初の出発点が間違って(実は最後の到達点でもあるが)、

最後には神を侮辱するに至るのである・・・。



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