神である主は、土地のちりで人を形造り、
その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで、人は、生きものとなった。(創世記2-7)
ギリシャの哲学者たちは、様々な人間論を主張した。
人間とは何であるか?人間の現実の姿とは何であるか?
このような問いをもって、彼らは真理研究の主要課題としたのである。
まずプラトンは、二元論を主張した。
すなわち、人間というものは精神と肉体から構成されるもので、
精神と肉体の調和のもとに、人間存在が成立しているのである、と。
しかしプラトン哲学において、精神と肉体の関係は、
調和するというよりは矛盾対立するものであった。
そこでプロティノスは、精神のみの一元論を唱えた。
存在するのは精神のみで、肉体は実相ではない、と。
すべては上なる絶対理念から流出したものであって、
肉体なるものは仮姿に過ぎないと。
しかし人間の本質が精神のみであれば、肉体を持つ必要などない。
かかる理由によって、今度は逆に、肉体のみの一元論を唱える者がいた。
デモクリトスである。
デモクリトスは言う、すべては最小物質の集合体に過ぎず、
人間も死んだら最小物質に分解され、何も残らないと。
「精神と肉体が拮抗する二元論」と「精神のみの唯心論」と「肉体のみの唯物論」、
これが古代ギリシャの生んだ人間観のすべてであった。
しかし人間というものは、人間自身で存在しているわけではない。
被造物を造り給うたのは造物主であるから、被造物の存在を問うということは、
まずもって造物主の存在を問題にせねばならない。
であるから、古代ギリシャの哲人のように、
神から切り離した人間というものは、一種の抽象的な人間論である。
精神と肉体が拮抗する人間、精神のみの人間、肉体のみの人間、
そういうものは、科学的モデルとしては興味深きものであるが、
現実の人間を理解する手立てにはならない。
ギリシャ人がどれほど天才的だったとしても、神を知らないという意味で、
彼らは人間を理解することができなかった。
我々に人間を理解する素材を与えるのは、神のみと格闘し続けたイスラエル人である。
彼らの聖典曰く、「人はちりで造られ、神の息が人に生命を与えた」と。
人間は所詮ちりであって、人間の内に永遠なるものはない。
神が人に霊を与え給うから、人は生きることができる。
すなわち、神から付与される霊なくして、
我々は生きることも・考えることも・欲することもできず、
存在自体が成り立たないことになる。
霊魂などと称して、何か人の内に永遠なるものがあると信じたくとも、
その霊なるものは神が間断なく与え給うもので、
人間の精神にも肉体にも付随していないものなのだ。
神が日々与え給う霊によって、人は生きる。
神の霊によって、人の精神も肉体も調和できる。
これが、イスラエル人の人間観であるし、真実の人間である。
西洋人はキリスト教を受けて、かかる聖書的人間論を理解すべきであった。
しかし彼らは、あまりにもギリシャ的素養に富みすぎて、
ギリシャ的人間論の外に出ることができなかった。
中世の教父たちは、神に属すべき霊を人の内にあるものだと勘違いし、
プラトン的二元論に無理やりはめ込もうとし、
すなわち精神に霊の力を付与して、霊肉二元論を唱え始めた。
神のみを絶対視する聖書的人間論から逸脱し、人の内に神の性を与えたのである。
ここに至って、歴史は同じことを繰り返すようになる。
神の霊を取り込んだ精神は、より力を得て、ギリシャ的人間論の歴史を再現した。
まずヘーゲルは霊肉の対立を霊によって統一しようと欲し、
唯心論を唱えて、人間理性を神の位置にまで引き上げた。
またマルクスは霊肉の対立を肉によって統一しようと欲し、
唯物論を唱えて、経済体制によって調和幸福を得んと欲した。
どちらの思想も、霊の本質を忘れた抽象的人間論に過ぎず、
誤謬だったことは歴史が証明している。
西洋的キリスト教の人間論には、ギリシャ的思考という、
最も異教的な根が内在している。
神も霊も、人間内部に取り込もうとする、思考様式があるように思う。
霊は神に属するものであり、人間は霊ではなく、霊を与えられているに過ぎない。
(ヨハネ伝4-24、イザヤ書32-15)
かかる冷酷なほどの神中心的認識が、初めて現実の人間を直視せしめると思うのである。
神なき人間論は、常に二元論→唯心論→唯物論の経過をたどる。
ギリシャ的思考、西洋的キリスト教の呪縛である。
そして、人は注意すべきである。
かかる異教的人間論の最も恐ろしいのは、
唯物論にまで到達した人間論が、再び唯心論に逆戻りする時である。
この時、人間的欲望のすべてが神となる。
霊という最初の出発点が間違って(実は最後の到達点でもあるが)、
最後には神を侮辱するに至るのである・・・。
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その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで、人は、生きものとなった。(創世記2-7)
ギリシャの哲学者たちは、様々な人間論を主張した。
人間とは何であるか?人間の現実の姿とは何であるか?
このような問いをもって、彼らは真理研究の主要課題としたのである。
まずプラトンは、二元論を主張した。
すなわち、人間というものは精神と肉体から構成されるもので、
精神と肉体の調和のもとに、人間存在が成立しているのである、と。
しかしプラトン哲学において、精神と肉体の関係は、
調和するというよりは矛盾対立するものであった。
そこでプロティノスは、精神のみの一元論を唱えた。
存在するのは精神のみで、肉体は実相ではない、と。
すべては上なる絶対理念から流出したものであって、
肉体なるものは仮姿に過ぎないと。
しかし人間の本質が精神のみであれば、肉体を持つ必要などない。
かかる理由によって、今度は逆に、肉体のみの一元論を唱える者がいた。
デモクリトスである。
デモクリトスは言う、すべては最小物質の集合体に過ぎず、
人間も死んだら最小物質に分解され、何も残らないと。
「精神と肉体が拮抗する二元論」と「精神のみの唯心論」と「肉体のみの唯物論」、
これが古代ギリシャの生んだ人間観のすべてであった。
しかし人間というものは、人間自身で存在しているわけではない。
被造物を造り給うたのは造物主であるから、被造物の存在を問うということは、
まずもって造物主の存在を問題にせねばならない。
であるから、古代ギリシャの哲人のように、
神から切り離した人間というものは、一種の抽象的な人間論である。
精神と肉体が拮抗する人間、精神のみの人間、肉体のみの人間、
そういうものは、科学的モデルとしては興味深きものであるが、
現実の人間を理解する手立てにはならない。
ギリシャ人がどれほど天才的だったとしても、神を知らないという意味で、
彼らは人間を理解することができなかった。
我々に人間を理解する素材を与えるのは、神のみと格闘し続けたイスラエル人である。
彼らの聖典曰く、「人はちりで造られ、神の息が人に生命を与えた」と。
人間は所詮ちりであって、人間の内に永遠なるものはない。
神が人に霊を与え給うから、人は生きることができる。
すなわち、神から付与される霊なくして、
我々は生きることも・考えることも・欲することもできず、
存在自体が成り立たないことになる。
霊魂などと称して、何か人の内に永遠なるものがあると信じたくとも、
その霊なるものは神が間断なく与え給うもので、
人間の精神にも肉体にも付随していないものなのだ。
神が日々与え給う霊によって、人は生きる。
神の霊によって、人の精神も肉体も調和できる。
これが、イスラエル人の人間観であるし、真実の人間である。
西洋人はキリスト教を受けて、かかる聖書的人間論を理解すべきであった。
しかし彼らは、あまりにもギリシャ的素養に富みすぎて、
ギリシャ的人間論の外に出ることができなかった。
中世の教父たちは、神に属すべき霊を人の内にあるものだと勘違いし、
プラトン的二元論に無理やりはめ込もうとし、
すなわち精神に霊の力を付与して、霊肉二元論を唱え始めた。
神のみを絶対視する聖書的人間論から逸脱し、人の内に神の性を与えたのである。
ここに至って、歴史は同じことを繰り返すようになる。
神の霊を取り込んだ精神は、より力を得て、ギリシャ的人間論の歴史を再現した。
まずヘーゲルは霊肉の対立を霊によって統一しようと欲し、
唯心論を唱えて、人間理性を神の位置にまで引き上げた。
またマルクスは霊肉の対立を肉によって統一しようと欲し、
唯物論を唱えて、経済体制によって調和幸福を得んと欲した。
どちらの思想も、霊の本質を忘れた抽象的人間論に過ぎず、
誤謬だったことは歴史が証明している。
西洋的キリスト教の人間論には、ギリシャ的思考という、
最も異教的な根が内在している。
神も霊も、人間内部に取り込もうとする、思考様式があるように思う。
霊は神に属するものであり、人間は霊ではなく、霊を与えられているに過ぎない。
(ヨハネ伝4-24、イザヤ書32-15)
かかる冷酷なほどの神中心的認識が、初めて現実の人間を直視せしめると思うのである。
神なき人間論は、常に二元論→唯心論→唯物論の経過をたどる。
ギリシャ的思考、西洋的キリスト教の呪縛である。
そして、人は注意すべきである。
かかる異教的人間論の最も恐ろしいのは、
唯物論にまで到達した人間論が、再び唯心論に逆戻りする時である。
この時、人間的欲望のすべてが神となる。
霊という最初の出発点が間違って(実は最後の到達点でもあるが)、
最後には神を侮辱するに至るのである・・・。
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