江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

睛明淵、晴明ころがし(睛明こかし)、晴明の社(やしろ)、睛明腰掛岩、睛明の井、木偶茶屋(でくちゃや)、晴明の手植の樹、安倍睛明庚申大明神、睛明田    その2

2022-05-17 10:20:35 | 安倍晴明、役行者
睛明淵、晴明ころがし(睛明こかし)、晴明の社(やしろ)、睛明腰掛岩、睛明の井、木偶茶屋(でくちゃや)、晴明の手植の樹、安倍睛明庚申大明神、睛明田    その2
                                  2022.5.17
「南紀土俗資料」(森彦太編、大正3年3)より


又、上山路村の西面松翠氏の報告に曰く、
昔、上山路村殿原の字(あざ)谷口の庄司新九郎と言うものの所へ、安倍睛明が訪ねて来た。
そこで、新九郎は、「この里の山中に、妖怪が出没して、通行者を悩ますことがある。」と告げた。
それでは、護摩を焚いて、それを調伏しよう、と言って、睛明は山に登って行った。
その祈祷の最中に、にわか雨が降って来たので、供の者が傘を晴明にさし掛けた。
笠塔山の名は、それから起こったと言う。
又、護摩を焚いた場所は、笠塔山の行いの壇と言って、その山頂に、跡地ががある。
この事があってからは、妖怪の出現は止んだ。
祈祷が終わって、晴明は谷ロの里へ帰って来た。
新九郎は更に、この附近に、猪や鹿が出て作物を害し、又、田地に蛭が多く、人に吸いついて困る、と言うことを話した。
晴明の言うには、「毎年霜月二十三日を拙者の忌日と定め、当日、白紛餅で祭ってくれよ。そうすれば、その害を除いてやろう」、と言うや否や、睛明の姿は惣然として消え失せた。

その後、今に至るまで、谷口の蛭は人に吸いつかぬと言う。


或いはこのようにも言われてる。
睛明がここの蛭に血を吸われ、怒ってその口をねじった。
それから一切血を吸わなくなったと。

姿を消した睛明は、やがて殿原の小字(こあざ)恩行寺という所に現われ、一若と言うものの家に泊った。
睛明が大金を持っている事を知って、一若は悪心を起こした。
鶏の止り木が竹なのを幸いに、夜中にこれに湯を通した。
驚ろかされた鶏は、一声高く時を告げた。

一若は、夜明も近いと偽って、睛明を連れ出した。
そして日高川の支流の丹生ノ川に沿って上り、穂手心場(ほてのやすば)の上手である「まいまい崖」と言う絶壁の下に到った。
すると突然、睛明を突き落した。
そして細い径をたどって淵の辺に下りて行って見ると、溺死した筈の晴明は、淵に臨んで突き出た大巌(おおいわ)の上に悠然として坐っていた。

ここを「晴明こかし」と言い、淵を晴明淵と言い、巌(いわ)を睛明腰掛岩と呼ぶ。

睛明は、おもむろに口を開いて、一若に向い
「おまえは愚かで悪心を起こし、大金を奪おうとして我を殺そうとしたのだろう。
  そんなに欲しいのならば、すっかりくれてやろう。」
と財布を投げ出した。
一若は恐しくもあり、きまり悪くもあり嬉しくもあり、且つ謝し且つ喜び、その財布を貰って家路を急いだ。
ふと後方を顧みれば、晴明は指をかみ切り、血を出して、壁のような巌に文字を書きつけていた。

一若は家に帰って早速財布をあけて見ると、予期した金は一文もなく、金と見えたのはすべて木の葉であった。
その後、一若の一族は、挙げて癩病に罹り死に絶えた。

その後、恩行寺の前の川中に、夜な夜な異光を放ち人々を驚かすものがあった。
ある人がこれを拾い上げて見ると、玉石であった。
これぞ一若の家に崇りをなすものであるとして、晴明の神体として、土地を選んで祠を建てて祀った。
称して、安倍睛明こうしん(原文通りで、かな。庚申)大明神と言う。
略して睛明様とも呼んでいる。
今も参拝する人はあるが、昔から道無し宮とも言って参道を開かない慣例になっている。
この祠の下の田を睛明田と言っている。(上山路村大字殿原字谷口千二十番地、田拾七歩)
この田は古来、下肥は勿論、灰をも肥料として用いず、ただ草肥のみを施す例になっている。
これも睛明を畏敬しての亊だと言う。

睛明淵、晴明ころがし(睛明こかし)、晴明の社(やしろ)、睛明腰掛岩、睛明の井、木偶茶屋(でくちゃや)、晴明の手植の樹、安倍睛明庚申大明神、睛明田     その1

2022-05-17 10:16:22 | 安倍晴明、役行者
睛明淵、晴明ころがし(睛明こかし)、晴明の社(やしろ)、睛明腰掛岩、睛明の井、木偶茶屋(でくちゃや)、晴明の手植の樹、安倍睛明庚申大明神、睛明田     その1


「南紀土俗資料」(森彦太編、大正3年3)には、安倍睛明(あべのせいめい)伝があり、面白い故事が記されている。


睛明淵の由来

昔、阿倍睛明が上山路の笠塔山(和歌山県田辺市)に入り、笠の下で所願祈祷をした。
或る日、大和の十津川へ行こうとして、殿原の恩行寺に来て泊まった。
しかし、睛明が大金を所持しているのを見た、この地の一若(いちわか)なるものがいた。
何とかして、その大金を奪ってやりたものだ、と仲間と語らって、晴明の駕籠かきに雇われた。
翌朝の明け方、彼を乗せてこの寺を出発した。
その途中に、とある断崖の下、丹生ノ川(和歌山県九土度山町)に湛へたる深淵のほとりに差しかかるや、俄然、晴明を捕まえて淵へ投げ捨ててしまった。
「さすがの睛明でも、この高さから突き落とされては、一たまりもあるまい。さあ、下りて行ってあの大金を早く盗ろう。」と川辺に下りた。
すると、あにはからんや、こときれた筈の睛明は、全身が血まみれになって、向岸の岩に腰かけていた。
そして、川には榊の葉が数多散乱していた。
さては、あの大金と見えたのは、榊の葉であったかと再び驚いた。
晴明淵と言う名は、これから起った。

晴明は、その後 谷口と言う所へ行って人生を終えたと伝えられている。
いわゆる晴明淵は、今の東小学校殿原分教場(和歌山県田辺市)の東に行く事、約二十町のところにある。



この伝説を(紀州俗伝)には、以下のように記している。

日高郡(和歌山県)上山路村殿原の谷口という小字(こあざ)の田の中に、晴明の社と言う小さな祠(ほこら)がある。

この川に棲む蛭は、大さも形も普通の蛭と異ならないが、血を吸わない。
医療のため、捕えても役に立たない(昔は、ヒルに血を吸わせる療法があった)。
荘子に、「散木は、斧伐を免がれる」との言葉があるが、その類である。

祠のかたわらに、睛明の井と言う、清水がある。
この殿原の応行寺と言う所と隣の大字(大字)の丹生川との間に晴明の淵がある。
その上の道側に、睛明ころがしと言う険しい崖がある。
また、淵の彼方の丹生川に腰掛け石がある。

睛明が熊野詣の時に、応行寺で駕籠に乗った。
丹生川の方へ行く途中、罵龍かき共が、睛明の所持金を取ろうとして、この崖より睛明を転し(ころがし)落としたが死ななかった。
川を渡って件の石に腰掛け休んでいた。
駕籠かき達は、大に驚き、謝罪した。
しかし睛明は、怒る気色もなく、欲しい物を与えてやろう、と財布を与えた。
駕籠かき達は、大いに喜び、財布を持帰って開けて見たが、木の葉ばかり入っていたと言う。

それから、睛明は、笠塔山に上った。
この山に、馬の馬場と言って、長さ五六十間、幅は四五間の馬場のような平坦な道があった。
今にいたっても、人が管理もしないのに一切の草木が生じない。
両側に大木が生えて並んでいる。
しかも、誰も乗っていない白馬が時々現われて駈けて行く。

又、木偶茶屋(でくちゃや)といって、人がたまたま路で野宿すると、夜中に忽ち小屋が立って、人形芝居が盛んに催され、明け方に及んで忽然と消え失せる所があった。
睛明が、ここに来て、笠を木に掛け、塔に見立てて祈ってより、その怪は、永く現れなくなったと言う。

東牟婁郡(ひがしむろぐん:和歌山県)七川村平井と言う所の神林に、晴明の手植の不思議な樹がある。
誰もその名を知らかっった。
ある人が、その枝を折って、私(南方熊楠)に示したのを見るに「おがたまのき(モクレン科の木)」であった。(をがたま:オガタマノキ。招霊木、小加玉木。モクレン科オガタマノキ属)


那智山(和歌山県)にも睛明の遺跡が色々と伝わっている。

古事談に、
「晴明は、俗人ではあるが、那智(なち)十日の修行者である。毎日、ある時間、滝の下に立って、水に打たれる行を行った。安倍晴明の前世も高貴な大峰行者であった云々、とあるので、広く熊野地方を旅したかも知れない。(南方熊楠)