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★旅シリーズ★熱海 起雲閣 其の5

2012年04月30日 | ★旅行★国内
内田信也の別邸 障子のある部屋

古来より、日本家屋独特のほの暗さの文化や陰翳の美を演出するものとして、日本の建築文化の象徴的な存在であった。現代においてはインテリアとしての再評価の他、ガラス戸との組合せによる断熱効果、紫外線の軽減効果などで見直されつつある。



明障子(あかりしょうじ)の誕生

鎌倉時代以降、公家・武士の家で用いた片面だけに薄い白紙を張ってある障子。

明障子の誕生は、平安時代末期の頃で、襖よりもおよそ100年程後に工夫されたと推測されている。建具の構造としては、間仕切りとしての隔ての機能をもつ襖に近く、さらに襖よりも簡素ながら、隔てと採光という矛盾した機能を併せもつ明障子の発明は、画期的なことであった。



平安時代後期になると、引き違いの格子戸が広く使用されるようになった。『源氏物語絵巻』『年中行事絵巻』などには、黒漆塗の格子戸を引き違いに使ったり、嵌め込み式に建て込んだ間仕切りの様子が描かれている。



天喜元年(1053年)藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂は四周の開口部には扉を設けているが、その内側に格子遣戸も併せ用いている。このような格子遣戸の用い方は、隔ての機能を果たしながら、採光や通風を得ることができる。機能としては、明障子の前身ともいうべきものである。

現在のような薄紙を貼った明障子の誕生は、平安末期のころである。六波羅の地には平家一門の邸宅が、甍を競って建ち並んでいた。なかでも平清盛の六波羅泉殿は、その権勢を象徴する豪壮な邸宅であったという。その復元図によると、従来の寝殿造りとはかなり異なり、間仕切りを多用した機能的合理的工夫がみられる。



その中でも、明障子の使用は画期的な創意工夫であった。 室外との隔ては、従来壁面を除き蔀戸や舞良戸が主体であり、開放すると雨風を防ぐ事ができず、誠に不便な建具であった。採光と隔ての機能を果たすため、簾や格子などが使用されていたが、冬期は誠に凌ぎにくかった。京都は盆地なので、ことに冬期は底冷えする。室内では、屏風をめぐらし、几帳で囲み火鉢を抱え込んだと思われる。

隔てと採光の機能を充分に果たし、しかも寒風を防ぐ新しい建具として、明障子が誕生した。しかし、明障子のみでは風雨には耐えられないため、舞良戸、蔀、格子などと併せて用いられた。六波羅泉殿の寝殿北廂では、外回りに明障子が三間にわたって使用されていた。



『山槐記』には、この寝殿や広廂に「明障子を撤去する」とか「明障子を立つ」などの記述もある。

平清盛が願文を添えて長寛二年(1164年)厳島神社に奉納した『平家納経』図録には、僧侶の庵室に明障子が描かれている。



この時代の明障子の構造は、四周(ししゅう)に框(かまち)を組み、太い竪桟二本に横桟を四本わたし、片面に絹または薄紙を貼ったものであったという。

寝殿造りの室礼を記した古文書の中に、「柱をたてまわして鴨居を置きてのち、塗子(ぬりこ)の明障子を間ごとに覆う」とある。

『春日権現験絵日記』にも、黒塗りの明障子が描かれている。また、襖障子と同じように、引手に総が付けられている。明障子の歴史的発展の過程で、漆の塗子の縁が寝殿造りに使用され、襖障子と同様な室礼としての位置付けがあったことは注目に値する。

框に細い組子骨を用いる現在のような明障子は、鎌倉時代の絵巻物に多く登場するようになるが、多少の時間と技術改良を必要とした。

明障子は壊れやすく、現存するものは極めて少ない。南北朝期康暦二年(1380年)の東寺西院大師堂の再建当時のものとされている明障子が、最古の明障子といわれている。上下の框と桟も同じような幅でできており、縦桟と横桟を交互に編み付ける地獄組子となっており、また桟の見付けと見込みもほぼ同じ寸法でできている。


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