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花の美術館・薔薇

2019年06月26日 | ★花シリーズ★
 
 
山陽メディアフラワーミュージアム
バラ園
バラ(薔薇)は、バラ科バラ属の総称である。
あるいは、そのうち特に園芸種(園芸バラ・栽培バラ)を総称する。
バラ属の成形は、灌木、低木、または木本性のつる植物で、葉や茎に棘を持つものが多い。
葉は1回奇数羽状複葉。花は5枚の花びらと多数の雄蘂を持つ(ただし、園芸種では大部分が八重咲きである)。
 
北半球の温帯域に広く自生しているが、チベット周辺、中国の雲南省からミャンマーにかけてが主産地でここから中近東、ヨーロッパへ、また極東から北アメリカへと伝播した。南半球にはバラは自生しない。
名称
「ばら」の名は和語で、「いばら」の転訛したもの。漢語「薔薇」の字をあてるのが通常だが、この語はまた音読みで「そうび」「しょうび」とも読む。
 
漢語には「玫瑰」(まいかい)や「月季」(げっき)の異称もある(なお、「玫瑰」は中国語においてはハマナスを指す)。
欧州ではラテン語の rosa に由来する名で呼ぶ言語が多く、また同じ語が別義として「薔薇色」として「ピンク色」の意味をもつことが多い。
6月の誕生花である。季語は夏(「冬薔薇」「ふゆそうび」となると冬の季語になる)。 花言葉は「愛情」であるが、色、状態、本数、組合せによって変化する。
用途
現在では鑑賞用として栽培されることが圧倒的に多いが、他にもダマスクローズの花弁から精油を抽出した「ローズオイル」は、香水の原料やアロマセラピーに用いられる。
花弁を蒸留して得られる液体「ローズウォーター」は、中東やインドなどでデザートの香りづけに用いられる。
 
また、乾燥した花弁はガラムマサラに調合したり、ペルシャ料理では薬味として用いる。
日本では農薬のかかっていない花弁をエディブル・フラワーとして生食したり、花びらや実をジャムや砂糖漬けに加工したり、乾燥させてハーブティーとして飲用することもある。
日本での栽培の歴史
近代前
日本はバラの自生地として世界的に知られており、品種改良に使用された原種のうち3種類(ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシ)は日本原産である。
古くバラは「うまら」「うばら」と呼ばれ、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌がある。
『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。
常陸国にはこの故事にちなむ茨城(うばらき)という地名があり、茨城県の県名の由来ともなっている。
 
また、中国で栽培されていたバラもその多くは江戸時代までに日本に渡来している。
江戸時代初期には仙台藩の慶長遣欧使節副使・支倉常長が西洋からバラを持ち帰った。
そのバラは、伊達光宗の菩提寺の円通院にある光宗の霊廟「三慧殿」の厨子に描かれたため、同寺は「薔薇寺」の通称で呼ばれるようになった。
江戸時代には職分を問わず園芸が流行ったが、バラも「コウシンバラ」「モッコウバラ」などが栽培されており、江戸時代に日本を訪れたドイツ人ケンペルも「日本でバラが栽培されている」ことを記録している。
 
また、与謝蕪村が「愁いつつ岡にのぼれば花いばら」の句を残している。
ノイバラの果実は、利尿作用があるなど薬用に利用された。
 
明治以後
このように日本人にゆかりのある植物であるが、バラがいまのように「花の女王」として愛好されるようになるのは明治以降である。
明治維新を迎えると、明治政府は「ラ・フランス(和名:天地開)」を農業試験用の植物として取り寄せ、青山官制農園(いまの東京大学農学部)で栽培させた。
 
馥郁とした香りを嗅ごうと見物客がしばしば訪れたので、株には金網の柵がかけられたという。
まだ、バラは西洋の「高嶺の花」であった。
その後、バラが接ぎ木で増やせることから、優秀な接ぎ木職人のいる東京郊外の川口市の安行や京阪神地域の郊外・宝塚市山本で栽培が行われるようになった。
バラは皇族、華族、高級官僚といったパトロンを得て、日本でも徐々
に愛好され始め、生産量も増え始めた。大正から昭和のころには一般家庭にも普及し、宮沢賢治が「グリュース・アン・テプリッツ(和名:日光)」を愛し、北原白秋の詩にもバラが登場している。
第二次世界大戦で日本でもバラの栽培より野菜の栽培が優先され、生産が停滞する。
 
第2次世界大戦以後
しかし、戦後すぐの1948年には銀座でバラの展示会が開かれた。さらに1949年には横浜でバラの展示会が開かれ、そのときにはアメリカから花を空輸して展示用の花がそろえられた。
 
 
鳩山一郎や吉田茂などのバラの愛好は、戦後日本でのバラの普及に大いに貢献した。このように戦後の高度成長の波に乗り、バラは嗜好品として庶民にも普及していき、日本でも品種改良が行われるようになった。
バラ園の造園
バラの価格が安くなり、一般に普及し始めたとはいえ、花の観賞を楽しむことができるのは、庭を持つ比較的裕福な家庭に限られていた。そのため、私鉄各社は沿線開発の一環として、バラ園の造営を沿線に行い、利用者の増加を図ることになった。
その嚆矢は京阪電鉄であった。同社は戦前から枚方市で菊人形の展示などをおこなっていた。
キクが秋の風物であるなら、春の風物として独自のバラ園でのバラの展示をし、集客を計画した。
同社は「東洋一のバラ園」の造園をぶち上げ、当時、日本人ではただ一人の英国園芸協会会員で、バラの導入や品種改良で実績のあった岡本勘治郎をバラ園造営の監督に迎え、「ひらかたばら園」を開園するに至った。その後、社名が京阪薔薇園になる。