『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

子鍬倉稲荷の祭り その5

2007年05月02日 | 歴史
子鍬倉稲荷の祭礼について、
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は
書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)のなかで、
次のようにも記述している。


又、屋臺狂言、地踊、練物等ヲ出ス。
是ハ十二甼ヲ四甼ヅヽ組合三年代リニ勤ム。
一甼目組ハ材木甼、長橋甼、久保甼トシ、
二甼目組ハ紺屋甼、新川甼、五甼目トシ、
三甼目組ハ四甼目、研甼、鍛冶甼トス。
七日ノ朝、辰ノ刻ニ三甼目横甼ヨリ不開(あかず)門ヲ入、
田甼通リ、城坂ヲ登リ、追手門廣小路ヘ挽ク。
領主在城ノ節ハ此處ニ棧敷カヽリ、観覧アリ。
夫ヨリ黒門、六間門ヲ出テ、揚土、やつとこ坂ヲ下リ、
鍛冶甼ヘ出テ、順次甼々ヲ牽キ廻ル。
遠近貴賎老幼男女ノ群集、雲霞ノ如シ。
此屋臺狂言、五日ヲ足そろへト唱ヘ、九日ヲ笠ぬきト唱フ。
見物人、当日ニヒトシ。

子鍬倉稲荷の例祭の際には、
屋台狂言や地踊り、練り物なども行われていたという。
それらは氏子である町内の人達が当番で、
責任をもって挙行していた。
また、これらの出し物は城の殿様も御覧になった。
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子鍬倉稲荷の祭り その4

2007年05月01日 | 歴史
いわき市平に鎮座する子鍬倉稲荷の祭礼について、
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)のなかで
次のようにも書いている。


甼々ヨリ、ちご、警護ヲ出ス。
ちごハ女兒ノ二歳ヨリ七歳マデヲ抽籖ニテ、壱甼一人ヲ出シ、
之ニちはやヲ着セ、珠絡(ようらく)冠ヲ戴カスナリ。
ちはやハ白絹、又ハ水浅葱絹ニテ作リ、舞寉ノ紋ヲ着ク。
舞衣ニ同ジ。珠絡冠、又、天冠トモイフ。
ちごヲ抱ク者、或ハ従者ニ之ヲ持タス。
警護ハ童男ナリ。上下ヲ着ク。壱甼二人ヲ出ス。
十二甼ニテ、ちご十二人、警護二十四人ナリ。
神輿ノ後ニ隨行シ、甼々ヲ過グル時、
家々ヨリ紙ニ包ミシ菓子ヲちごニ與フル事ナリ。
大袋ヲ持シ、ちごニ付添フ者、菓子ヲ受ケ、袋ニ容ル。
之ヲちご袋トイフ。白土ニテ神輿懸坐ノ間、
ちご、警護ヲ出セシ組合ノ者、
毛氈、茶瓶、酒肴等ヲ用意シ置テ、
之ヲ開キ、謡めでたニテ祝フ。

子鍬倉稲荷の神輿渡御行列には、
各町内から2人ずつ出される稚児も加わる。
稚児役に選ばれるのは2歳から7歳までの女の子で、
瓔珞(ようらく)という冠をかぶり、
舞衣装のようなチハヤという衣装を身に付ける。
祭りのまぶしいまでの華やかさがひしひしと伝わってくる。

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