あかまど(仮)

net初心者で自称ソフト技術者。Gamer属性。netは人の望み?それとも?

ひととひとびと。

2006-05-09 16:03:40 | ことば
ひととひとびとは違うもの。と、最初に思ったのはたぶん、5歳ぐらいの時。
「ひなんくんれん」のとき、みんながいっぺんにはしりだした。ころんだ。ふまれた。ふまれた。ふまれた。

当時、別にとくに恨みを買ってたとかいう記憶はないし、それ以後も個人個人と、普通に生活してたと思う。
でも、
「人は集まったり、きっかけがあると、変わるんだなぁ」
「たくさん集まると、別人格っていうか、『別な』モノが行動を制御するんだなぁ」
「それは、悪意とか善意とかと別の次元のものであって『違う』ものだなぁ」
とか、そんな風に思ったし、今も確信として持ってる。
その後もまぁ、逆だけど友達とつるんで結構ひどい事してたこともあるように思う。その反省か、どうも集まることに抵抗がある。特に、集まって意思をひとつにする、正確に言えば、明確に意識せずに全体の意思がまとまってく状態を見るのは、さらに、それが個人の意思を蹂躙してくのを見るのは、かなり恐い。

全体主義がキライとかそういうのともちょっと違う。「それで助かる人間が多いなら自分が死ぬ」とかいう論理で動くMr.Spokとか、かっこいいなぁ、とか思うし。
「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」、とか、自分が思うのはいいけど、思わされる環境はイヤだなぁ、と思う。

個人主義云々がイヤとかいう話じゃなくて。「気の毒だがわたしの為だ(出典)」とか、全世界と自分の気持ちを天秤にかける中島朱実(出典)とかいうのも、単純に、生き方としていいなぁ、と思う。

たぶん、本音と建前とかそういう、薄っぺらな話じゃなくて。
たぶん、性善説性悪説とかいう次元の話じゃなくて。
たぶん、全体主義と個人主義とか、そういう話でもなくて。

人は、集まると、「別なもの」が意思を持つようになる。
個人の意思より、その意思が表に出てくることもある。
個人はそれを意識してないこともある。

という話。別にいわゆるオカルトな話じゃない。ましてカルトな話じゃない。多かれ少なかれ、比喩的に思ってるか信念として持ってるかはともかく、誰でも「知ってる」話。

ぼくは、その「別なもの」にゼンプクの信用が持てない。
ぼくは、それに動かされてる個人はあんまり好きじゃない。
ぼくは、動かされてることすら意識できてない個人は、信用しないし、嫌い。

という話。


あんまり関係なかったかな。
共謀罪のニュースを見たので、ふと思い起こしてみた。
「別なもの」のせいでつかまりたくなかったら、せめてそいつが「いる」ことを意識した方がいいのかもね。

KimI

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