De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

私の戦中戦後記憶整理

2015-07-23 17:47:19 | 自分史エピソード
facebookのシニアライフコミュというグループに、メンバーで終戦の記憶のある数少ない一人(年齢的に)ということで書いたものをここにも残しておく。

私の戦中戦後記憶整理

戦中戦後期、直接戦災や進駐軍の影響を受けることもない平和な寒村に生まれた私に、語り継ぐべき戦中戦後の記憶はありません。
でも毎年終戦記念日のころになるとSNS上に思い出を書き込んでいました。facebookの昨年8月15日前後を見ると、いくつも出てきます。

親たちが防空壕を掘っている様子、隣近所の防空壕巡りをしたこと、他人の壕に比べて我が家のは小さくてみすぼらしかった。見せてもらった壕は立って歩けたし、電気も引き込んであった。この差は働き手の差だった。我が家は男手として役に立つのはおやじだけ。近所に住む、おやじの弟子のようなお兄さんがいつもぴったり寄り添って手伝っていた。


壕についていえば、最初に作ったものは結構利用した。空襲警報が鳴ると家族で飛び込んだ。入口から空を見るとはるか遠くに飛行機の影が見える。親たちは、見るな、かがめと怒鳴る。壕の広さはせめて2畳分ぐらいだが、家族7人(両親と女学校の姉を筆頭に5人の子供。私は末っ子)が何とか入れた。
そのうち気丈な長姉は壕に入らずラジオの空襲警報の放送を大声で復唱して伝えてくれた。壕には電気が引いてなかった。

壕は、どういうわけか2つ目を掘り出した。竹の根が張ってさっぱり掘り進まないがこの時は私も動員されたので覚えている。この2番目の壕は完成しなかった。
終戦直近になると3番目の壕を掘り出した。それは初めての横穴式だった。斜面の竹林に横穴を掘るという、後でおやじの日記で知ることになるが全部役場からの通達の軍命令。川に沿った斜面なので、本土決戦の準備のつもりだったのだろう。これも人ひとり入れる状態になる前に終戦。しかし、親の日記によれば、終戦数日後また掘り出すことになる。厚木の基地の動きが怪しい、と。