かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 389 中欧④

2023-11-25 12:24:09 | 短歌の鑑賞
   2023年度版 馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
      【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
      参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
      司会と記録:鹿取 未放


389 放牧のかほ白き牛観光のわれをあやしみ長く鳴きたり

      (レポート)
 放牧されている牛が観光客のわたしを見てまるであやしい人間だというように、鳴き声を長くのばし鳴いていることだ。雨のプラハ、雨のヴルタヴァ、カレル橋、スメタナのプラハ、虹の立つプラハとうたい、その終わりに放牧の牛をうたい、ゆっくりと時間がながれ、のどかでユーモアさえ感じさせる歌。緊張感から解きほぐされ少し明るい気分にさせてくれる。(藤本)


    (後日意見)
 一連をこういう力を抜いた歌で終わらせることは作者のよく使う手だ。首都プラハを離れてどこかへ向かう途中に前の388番歌(はるか見るチェコ原子力発電所稼働拒まれしままに立ちゐつ)があるので、その過程に牧場もあったのだろう。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠 388 中欧④

2023-11-24 10:58:34 | 短歌の鑑賞
   2023年度版 馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
       【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
      参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
      司会と記録:鹿取 未放


388 はるか見るチェコ原子力発電所稼働拒まれしままに立ちゐつ

      (レポート)
 列車かバスか移動しているのだろう。窓から見えるはるか遠くには原子力発電所が建っているが、その発電所は稼働を拒否されている。1999年頃の旅行の時、作者はこのような視点で原子力発電所に目をやった。尚、2002年にはついに稼働を開始したと聞く。(藤本)


      (当日発言)
★高野公彦さんも原子力発電所を詠んでいた。何を孕んでいるか分からない原発に文殊
 とか普賢とか最高の智恵の名前を付けているという歌。何年頃の歌かは知らないが。
   (慧子)
★ドイツなどは自分のところでは作らないで、よその国から原子力の電気を買ってい
 る。(曽我)
★バスか列車の中から見えたのをガイドが指さして、稼働はしていない云々と概略の説
 明があったのではないか。チェルノブイリ原発事故は1986年。この旅は1999
 年、随分時間は経過しているが、その事故の記憶がチェコの反対運動に拍車をかけて
 いたのだろう。作者が原発に注目して詠ったのも、チェルノブイリ事故あってのこと
 だろう。ここに詠まれているのはテメリン原子力発電所です。(鹿取)


      (後日意見)
 【1987年に建設を開始したが、抗議活動が続き、幾度も建設は中断した。1999年建設支持は47パーセントまで落ちていたが、同年5月、政府による建設継続の最終決定に基づき建設続行、2002年に1号炉の営業運転を開始。2003年には2号炉の運転開始。現在はテメリン2基に加えドコバニに4基の原発が稼働しており、原発によりロシアへの依存が減り、電力輸出国としての地位を築き上げた。2011年の日本の原発事故後も原発促進を固持する国の一つとなっている。隣国オーストリアやドイツなどの反対は根強いが、国内での反対はあまり表面化していないようだ。】(Wikipediaなど数種のネット情報より)
 作者の旅行は1999年秋なので、上記情報によるとまだ原発は完成していない。ただ反対運動は続いていたのかもしれない。それが完成はしていないが「稼働拒まれしままに立ちゐつ」と詠った所以だろう。3・11後の今読むとどきりとする。作者がこの歌を詠んだ折、チェルノブイリ原発事故のことが強く意識にのぼっていただろう。そして日本の原発についても漠然とした不安を感じていたのだろう。当日意見にある高野公彦の歌とは「近江なる観音を見て若狭なる<もんじゅ><ふげん>を見ず帰る旅」(『地中銀河』1994年刊)のことだろうか。 (鹿取)


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馬場あき子の外国詠 387 中欧④

2023-11-23 11:04:20 | 短歌の鑑賞
※お詫び:毎回、プレビューを見て打ち間違いがないか、変換ミスがないか確かめてか
     ら投稿していますが、その後に変な文字化けが怒っています。
     前回も題が変でした。お詫びいたします。

   2023年度版 馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
       【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
      参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
      司会と記録:鹿取 未放


387 スメタナの記念館の椅子翳ふかくヴルタヴァに雨そそぐ昼なり

      (レポート)
 382番歌(ヴルタヴァの朝雨に立つ虹見ればかなしきかなやスメタナの祖国)ではここスメタナの祖国であるよとうたう。雨のプラハ、雨のヴルタヴァ、時間は昼であるが、スメタナ記念館の椅子はかげを深くおとしている。スメタナ記念館はカレル橋の旧市街側のたもとにあり、ヴルタヴァ川がすぐ脇を流れている。スメタナは1863年から1869年までここに住んでいた。〈売られた花嫁〉〈ダリボル〉をここで作曲した。作者のスメタナへの思いが深く表れている歌。(藤本)


      (当日発言)
★雨が降っているゆえの翳が作者の心情に影響していて、印象深い。(N・I)
★私が行った時は川に記念館の影が映って、川が暗く見えた。(曽我)

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馬場あき子の害九国詠 286 中欧④

2023-11-22 19:03:51 | 短歌の鑑賞
   2023年度版 馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
      【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
      参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
      司会と記録:鹿取 未放


386 雨けむるカレル橋の彼方プラハ城大統領執務中の旗ありき窓

      (レポート)
 384(旅人に見えざる歴史の時間あれどカレル橋雨のヴルタヴァを見す)ではカレル橋から下を流れるヴルタヴァを見下ろしてうたったが、ここではカレル橋から上を見上げてプラハ城の姿を見ている。雨にけむるカレル橋の向こうには大統領の執務中という旗がある窓がもやっとしている中に見えている。執務中の大統領の姿まで何と生き生きと浮かび上がってくるようだ。(藤本)
  カレル橋:ヴルタヴァ川にかかる最古の橋。1357年カレル4世着工、60年か
       けて完成。ゴシック様式、520メートル、幅10メートル、聖像が両
       側に並ぶが、彫刻はバロック様式。


      (当日意見)
★プラハ城はかなり遠くなんだけれど。(曽我)
★この旗は今この部屋で執務しているよという意味ではなく、大統領は国内にいるよと
 いう意味で立ててあるそうです。(鹿取)


      (追記)(2013年11月)
 プラハ城は雨に煙っているくらいだから、大統領執務中の旗など520メートルあるカレル橋の手前から見えるわけがない。この一連の一首目は雨のプラハの街を去ってゆく歌だから、昨日だか一昨日だか、少なくともこの旅の間に作者は城を見学してこの旗を見たのだろう。鮮やかに懐かしげに翻っていた旗を思い出しているのだ。今は雨降りであるし、遠いのでその旗は見えない。だから「旗ありき」と過去の助動詞「き」を使っている。間近に見た昨日は(あるいは一昨日は)大統領執務中の旗が鮮やかに靡いていたなあ、という気分。(鹿取)


      (追記2)(2018年1月)
 プラハ城は9世紀後半に建てられた。以後この城には明暗さまざまな歴史が刻み込まれた。それは概ね外国に侵略され、支配を受け、また自由が弾圧された暗い歴史である。
 近い所では、第一次世界大戦後の1918年にハプスブルク家が崩壊、400年間の支配から解放されてチェコスロヴァキア共和国が成立した。1920年には、長く外国にあって独立運動を続けていたマサリクが初代チェコスロバキア大統領に選ばれ、民衆に歓迎されながらプラハ城の大統領府に入った。マサリクはそこで演説を行い、「真実は勝つ」という旗をプラハ城に掲げ、偏狭な民族主義を諫めた。
 しかし、1939年にはヒトラーによってまたプラハは占拠され、プラハ城ではヒトラーがマサリクと同じ演壇に立って演説を行った。1945年までナチスの支配が続いた。
 第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となったが、その後も平坦な道ではなかった。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、ソビエト軍が侵攻し、プラハの春は潰された。その後は共産主義政権になり、改革派は弾圧された。民衆に自由はなく、全ての映画が検閲されたという。しかし、1989年、ベルリンの壁が崩壊し、ビロード革命により共産党政権は崩壊、革命の立役者だったハヴェルが最後のチェコスロヴァキア大統領となり民主化を行った。1993年にはチェコとスロヴァキアが分離し、ハヴェルがチェコの初代大統領となり、プラハはチェコの首都となった。
 馬場あき子一行がプラハを訪れたのはその6年後の1999年秋である。ちなみに馬場の旅より10年後の2009年、オバマ大統領が核なき世界を唱えた「プラハ演説」がプラハ場外のフラチャニ広場で行われた。

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馬場あき子の外国詠 385 中④④

2023-11-21 10:28:35 | 短歌の鑑賞
   2023年度版 馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
      【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
      参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
      司会と記録:鹿取 未放


385 チャスラフスカいかなる齢(よはひ)重ぬるや雨に虹立ちやすしプラハは

      (レポート)
 1964年東京オリンピックで金メダルを獲得したチャスラフスカはどのような齢を重ねて生きているのだろうか、と体操選手だった彼女を思いつつ、しかし雨が降れば、すぐ虹の立つプラハだよ。虹は明るい未来の象徴、プラハ・チェコを希望をもって見ている作者と思う。チャスラフスカという一人の女性を詠いつつその背後のプラハの歴史や長かった民族独立運動に思いを重ねている。激動の時代を生きてきた人々への熱い目差しを感じさせる。(藤本)


      (当日発言)
★私は東京オリンピックの体操で金メダルをとった人としてしか知らなかった。調べて
 きたので読み上げます。【1968年のチェコスロバキアの民主化運動「プラハの
 春」の支持を表明していたので、ソ連軍のプラハ侵攻の折はやむなく身を隠してい
 た。同年のメキシコ五輪には直前に出場を許されたが、金メダルはソビエトの選手と
 ダブル受賞となった。その後1989年、ビロード革命によって共産党体制が崩壊、
 ハベル大統領のアドバイザー及び「チェコ・日本協会」の名誉総裁に就任した。後に
 チェコオリンピック委員会の総裁も務めている。2010年旭日中綬章を受章。】
 (Wikipediaより抜粋)「いかなる齢重ぬるや」と言ってはいるが、作者はチャスラ
 フスカの金メダル後の生き方を知った上でわざとぼかしてこう表現したのだろう。
   (鹿取)


      (追記)(2017年1月)
 昨年(2016年)8月、チャスラフスカは74歳で死去。
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