かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 11

2022-02-08 21:15:17 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)
    『泡宇宙の蛙』(1999年)【蟹蝙蝠】P14~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取未放


11 ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある

       (レポート)
 かけがいのない母親の一生と、とても自分の生を左右する存在とは思えないような青虫の一生とを対比した、大胆な表現に度肝をぬかれた。他者のなかでも最も自分に近い自分を生んだ母親と、他者のなかでも遥かに遠い他者であろう青虫との対比をし、その落差ゆえに、悲しみが極まる。「一生なんて青虫にも」と、母にもあったであろう、幼虫から蛹そして蝶へと羽搏いた一生を思い浮かばせる。青虫ときくとぷよぷよコロコロしたあの体を浮かべるが、青虫の一生、といわれるとその変身の様を思う。一首は反語的に詠まれていて、母の命以上に重いものなどこの世にはないんだ、と詠われているのだと思う。愛するたった一人の母だけれど、その母の一生に思いを馳せると、その変化のさまに、青虫の変化してゆく様を連想したのではないだろうか。作者との命の縁はまったく次元が違うのに、思い浮かんでしまった「青虫」がいまいましい。「◯◯なんて◯◯にもある」と口語で絞り出す声調に、母の死をなんとか受け入れようとし、なお受け入れられないでいる作者の悲しみや寂しさが宿る。(真帆)


     (当日意見)
★真帆さんのレポートの反語的に詠まれているというところがいいなあと思いました。(慧子)
★お母さんを青虫に例えるなんて大胆なうたいかただなあと思いました。(曽我)
★自分の母だからってそんなに特別ではなくて、青虫にだって一生はあるんだって言っていると思
 っていましたが、レポートを読んでなるほど蝶になって最期は綺麗になるんだって劇的なことが
 含まれているんだなって感心しました。(T・S)
★そうですか、私は全く素直にこの通りに読んでいました。確かにトンボでも蝉でもなく青虫をも
 ってきたのは変身のイメージはあったのでしょうけれど。華麗な変身とかお母さんの一生の中に
 あった華やかな時代とか、そういうことはあまり考えませんした。一生って部分ではなくてボリ
 ュームとして総体としてみた一生だと思います。また、自分からの距離の問題で比較して、母は
 近くて青虫は遠いと考えるのも違うかなあと思います。人間よりもはかない、短い生の代表とし
 て青虫を選んだとき、蝶への変身の華麗さよりもやはりあのぶよぶよの姿を出したかったのでは
 ないかな。大事な母とぶよぶよの青虫は一回性の命の本質においては同じだって。反語的という
 と青虫を虫けらとして見くだしているみたいで、青虫のために気の毒と思います。もちろん、お
 母さんの一生は作者にとって大切なんでしょうけれど、だからといって青虫を侮どるのは作者の
 思想から外れるんじゃないかなあって。
  あんまり実人生と対照させてはいけないのでしょうけれど、お母さんは作者が大学生の時亡く
 なっています。そして歌を始めたのはずっと後です。心の中でずっとお母さんの死を引き摺って
 いて、短歌の言葉を得た時に吐き出したというか歌ったんでしょうね。お母さんの歌、とてもた
 くさん作っていますから、どれだけ作者にとって重い存在だったかはよく分かります。もっとも
 リアルタイムでは青虫は出てこなかったでしょうから、時間が経過しているからこそ詠めた歌だ
 とも思います。この歌については『泡宇宙の蛙』の自選五首に入っていて本人のコメントがある
 ので、纏めるとき書いておきます。私はむしろ斎藤茂吉の「死にたまふ母」なんかと比較して読
 む方が、この歌は面白く読めるかなあと思っています。(鹿取)
★なるほど。寺山修司なんか歌の中で生きているお母さんを殺していますものね。(真帆)


   (後日意見)
大井学のインタビューで、『泡宇宙の蛙』の自選五首を聞かれて渡辺松男はこの歌を挙げ下記のように書いている。(鹿取)
 母にも一生がある。青虫にも一生がある(もっとも青虫は蝶になりますが)。それはあまりにもあたりまえのことです。しかし両者を同列に置いたところが生の内実としての等価性をもただちに暗示してしまい、ケシカランと言いますか、ある種のタブーに触れたようです。また外側から強引に概念化したところが不快感を誘因しているかも知れません。しかしこの歌は自己納得のための歌でした。母の一生の意味を突きはなすことによって逆説的に浮かびあがらせようとしたのでした。母は大切なものです。とても。切っても切っても切れないものです。その前提があるから詠めたのだと思います。(「かりん」二〇一〇年一一月号の渡辺松男特集)

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 10

2022-02-07 15:05:18 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)
    『泡宇宙の蛙』(1999年)【蟹蝙蝠】P14~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取未放


10  体臭ははばかるべからざるものと山を行くなり猪独活(ししうど)を折り

    (レポート)
 猪独活は芹科の植物で、笠状の白い小花をつける。山へ行くと様々な植物の発する匂いに出会うが、その匂いのどれもが、誰に遠慮することもなく己が匂いを発し、調和している。猪独活に強い匂いがあるかどうか私は知らない。たぶん猪独活を手折ろうと腰をかがめる先々で、山の自生植物の匂いが、作者の嗅覚を刺激したのだろう。「べからざるもの」という作者の主張が、きっぱりとしている。
 清潔になった現代社会で臭いものは大抵嫌われ、排除される。中年以降の体臭を加齢臭と厭う風潮すらある。だから自分の発する体臭にも敏感になり、つい遠慮が生じる。しかしどうだ。この山の自然を行くとき、存在を明らかにする固有の匂いを発し、植物は遠慮なんかしていない。作者はあるがままの匂いを美しいと感じたのかもしれないし、己が体臭を憚る行為の小ささに、嫌気がさしたのかもしれない。(真帆)


      (当日意見)
★猪独活は薬用であり食用でも在るらしいです。芹科ですね。猪だから臭いが強いのかもしれませ
 んね。(A・Y)
★シシウドはよく出会う花ですが、植物図鑑を見ると爽やかな匂いとか甘い匂いとかいろいろ書か
 れていてよく分からないですが、セリ科ですし匂いは強くても嫌な臭いではなさそうですね。今
 度折って試してみましょう。(鹿取)
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 9

2022-02-06 12:25:35 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)
    『泡宇宙の蛙』(1999年)【蟹蝙蝠】P14~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取未放


9 蟹蝙蝠(かにこうもり)大群生して霧深したれに逢いたくて吾は生まれしや

   (レポート)
 蟹蝙蝠はキク科の多年草で、山の針葉樹林の下に群生する。霧深い山奥で、蟹の甲羅に似た葉が、辺り一帯に群生しているのを見ながら作者はふと、自分は誰に会いたくてこの世に生まれたのだろうと問う。まず「蟹蝙蝠大群生して」という表現に引き込まれた。「蟹蝙蝠」は植物なのに、初句にポンと置かれたことにより、字面からまるで蟹がうじゃうじゃ、蝙蝠がバタバタ飛んでいるかのような錯覚をしてしまった。霧深い中で、植物のむせかえるような生命力が、匂いや肌に帯びる湿り気とともに伝わってくる。生の目的を問うのではなく、誰に逢いたくて生まれたのかと問うところに、作者の存在自体が相聞歌であると思わせるような、壮大なロマンを感じた。巧みな三句切れの修辞が、下句の自問する心情に余韻を醸す効果をもたらしている。(真帆)


     (当日意見)
★霧がポイントかなあと思います。登山をしていて霧に巻かれると幻想的な気分になります。お母
 さんのことを思い出されたのかもしれませんね。(A・Y)
★今のはいい意見ですよね。蟹蝙蝠ってインパクトのある言葉ですけれど、霧が深いことも大事で
 すよね。さっきまで見渡す限り蟹蝙蝠が群生している谷か何かを見下ろしていたんだけど、霧が
 深いのでもう自分の周囲しか見えなくなった。そんな時に自分は誰に逢いたくて生まれてきたん
 だろうって問いがふっと浮かんでくる。問いへ繋がる気分がとってもなだらかで余韻があります
 ね。真帆さんが書いているように、ホント壮大なロマンを感じます。(鹿取)


      (後日意見)(2020年6月)(鹿取)
 現代秀歌101首という「短歌」2004年8月号の特集で、前登志夫がこの歌について、他の歌人たちの歌に疑問を投げかけながら渡辺松男の歌を褒めている。曰く「人間の自在な豊かさにいささか欠けている」「人間の生の無意識なものが少し希薄になり、整理され過ぎている」と。渡辺松男の歌はこの逆だというのだろう。1首に即した批評としては次のように言っている。
(実は結句は歌集では「生まれしや」であるが前の文章では「生まれしか」となっている。引用の時点で前氏がまちがったのであろうか)【「たれに逢いたくて吾は生まれしか」と、人は問う。死ぬまで問う。その問いだけでよろしい。つづまりは「われ」であろう。】と言っている。
 また、『寒気氾濫』『泡宇宙の蛙』『歩く仏像』の三歌集を評して、「救世主ぶった偉そうなところや傲慢さがなく、むしろ剽げてさえいる」と評価している。さらに『泡宇宙の蛙』から下記の3首を引用している。(引用歌の順はこの通り、頭の数字はこの「秀歌鑑賞」のナンバーで、便宜上鹿取が付けたもの)
32 このところ白根(しらね)葵(あおい)がわれである きみをおもえばそよぐそよかぜ
45 蛇なりとおもう途端に蛇となり宇宙の皺のかたすみを這う
13 鳥のおもさとなりうれば死はやすからん大白檜曾(おおしらびそ)に蒿雀(あおじ)さえずる
 「渡辺松男氏の歌のユニークなのは、おれのいのちの全体が、一木一草であり、蛇であり蛙であるという発想である。」(前登志夫)    

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 8

2022-02-05 12:36:50 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【無限振動体】P9~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放


8 森林そのものになりたき菌ひとつ増殖をし分裂をし 熊楠叫ぶ

       (レポート)
 菌は森林の陰の木の根元や朽木などに繁殖するものとして捉えられる。ところが菌ひとつが「増殖をし分裂をし」とすさまじい勢いであることに「森林そのものになりたき菌」と想定外の様相に驚き、そう驚いたのは作者ではなく、熊楠だった。一首の構成として二重の想定外がある。(慧子)
  ※熊楠とは南方(みなかた)熊楠。生物学者、民俗学者。15年間世界各地を遊歴。大英博物
   館東洋調査部に勤務。民俗学、文献学、言語学に精通し、また粘菌類の研究で有名。
                            (学習研究社「新世紀百科辞典」)


      (当日意見)
★これだけが突然南方熊楠という実在した人物が出てきて、作者と共鳴する所がある人なんだろ
  うなと。粘菌類の研究者だって知らなかったのですが、ああこんな菌があるんだ、あんな菌が
  あるんだって熊楠が叫んでいるところを作者が想像したのが新鮮でした。(真帆)
★熊楠にだけ仮託されなくても、作者のことでもあるんじゃないか。(A・Y)
★「森林そのものになりたき菌」がたった一つですよね。どういう状況なんでしょう?新しい菌を
 発見したという叫びですか?(真帆)
★6番歌(月光のこぼれてはくるかそけさよ茸は陰を選択しけり)でも言いましたが、菌は種の意
 志として「森林そのものになりたき」と思っている。思っているってもちろん個体が思考してい
 るのではなくてDNAレベルでの話です。「増殖をし分裂を」することは生命の自然の摂理だか
 ら想定外でも何でもない。熊楠は粘菌類の研究者ですから、そこはよく知っているわけです。で
 はなぜ熊楠が叫ぶかというと、爆発的に増えていく菌を見て面白くってたまらない、だから感嘆
 の叫びを上げている。熊楠さん、とても破天荒な人だったらしいですけど。(鹿取)
★熊楠は自然保護の人でもあるんですよ。木を伐ろうとした島一つを反対運動をして守ったそうで
 す。(A・Y)
★茸には良い菌と悪い菌があるから森を征服しようと思っているのかしら。悪い菌だったら熊楠の
 叫びは悲鳴でしょうし、よい菌だったら喜びだと思うのですが。桜の木なんかも菌にやられて倒
 れたりしますが。(T・S)
★人間側からすると良い菌か悪い菌か大問題ですけど、松男さんの歌ではそれは問題にしていない
 です。あくまで菌という生命体が「森林そのものになりた」い意志をもって増え続けている。そ
 の生命力に熊楠は感嘆している訳です。善悪とかはここでは考えない方がいいです。(鹿取)
★では「森林そのものになりた」いとはどういう意味ですか?(T・S)
★生命というのは無限に発展したいものなんです。生命の本質ってそれでしょう。そこには善も悪
 も区別が無いのです。ジョン・ケージが影響を受けた東洋思想とか禅とかいうのにその辺りが繋
 がるのではないですか。(鹿取)
★いいか悪かは人間が決めることなんですね。(T・S)
★そうです、そうです。(鹿取)


        (後日意見)2019年5月追加
 菌類は森をめざす。森は菌類との共棲によってのみ本来の森となる。五句目に「熊楠叫ぶ」とあるが、この歌集の根源としてあるのはまさしく南方熊楠の「森の思想」なのではあるまいか。コンイロイッポンシメジ、イヌセンボンタケ、サンゴハリタケなどこの歌集には沢山の菌類が登場する。きのこは生体系のなかで物質の分解とさらなる還元という根源的な役割を果たす。特に菌類はバクテリアを捕食し、その活動の絶頂期に示す鮮やかさはほとんど感動的であるという。消費者としての粘菌は森の生死をさえ左右する。いま詳説する余裕はないが菌類や粘類に学問的に注目したのは南方熊楠である。輪廻にある生命はニルバーナ・マンダラと同一であるとして南方熊楠は秘密儀としての「森の思想」を説いた。この歌集のあとがきを見るまでもなく渡辺松男の『泡宇宙の蛙』を読み解く鍵は「南方熊楠」にありと指摘してこの稿を終える。(鶴岡善久)
                 「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号) 
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 7

2022-02-04 12:55:16 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【無限振動体】P9~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放


7  頭のなかに茸がぎっしり詰まっては冷蔵庫のようで眠れやしない

        (レポート)
 頭の中にぎっしり茸が詰まっていて、一晩中稼働している冷蔵庫のように眠れないとの意だろう。詰め込まれた茸が知識・情報そのようなものだとすれば、頭が冴えてしまうだろう。それを現代の暮らしに欠かせない冷蔵庫と組み合わせて「眠れやしない」とぼやくように、現代の知識人の呟きをする。(慧子)


        (当日意見)
★頭の中をCTスキャンのように割ってみたら喉の辺りの筋肉のへんに皺が出るように、頭のなか
 に茸がびっしり詰まっていて一晩中胴震いしているようで眠れないという妙なリアリティがあっ
 て面白い。(真帆)
★慧子さんのような考えもあるのでしょうが、私はやはりこのまま取って、頭の中には本当に茸が
 びっしり詰まっている像を思い浮かべました。まあ、冷蔵庫は新鮮さを保つために働いて眠るこ
 とが出来ないのでしょうが、〈われ〉は茸の本質を守るために眠れないのでしょうかね。次の歌
 を見てもそうですが、茸と知識・情報というものとは全く相反するもので、茸は原始的な生命そ
 のものみたいです。そういう原始そのものの茸が頭の中に詰まっていて眠れないと。この解釈に
 は文明の利器の冷蔵庫がちょっと邪魔ですが、単に食べ物がびっしり詰まっているイメージでと
 りました。松男さん、客観的には知識人でしょうけれど、いわゆる「知識人」は嫌いだと思いま
 す。(鹿取)
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