黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

大晦日の楽しみ

2007-12-31 17:01:34 | 日常
いよいよ大晦日。
今年は、夕方から「Shall We Dance」
(芸能人が社交ダンスを踊る番組)があるので、
出来ればそれが観られたらいいなと思う。
でも、演歌三昧なんだろうなあ・・・
(もっとも、それも悪くはないけど。)

年末になって自分の時間がめっきり減ったけど、
明日はたぶんほとんど自分の時間がないだろう。
人が家に来るから・・・
女も、つらいよ。

すまなかった・・・

2007-12-30 20:34:06 | 日常
大掃除をして、昔買ったホコリまみれの
MYヴィーナスが久しぶりに片付いた机で日の目を見た。
彼女をぞうきんでキレイにしてみたが、
どうも日に焼けてしまったらしく
御顔に黄色い線ができてしまったようだ。
その線は目じりから頬を伝うように通っていて、
まるで所有者に見捨てられた悲しみの
涙のあとのようであった。
存在は、家出していたときだって片時も忘れなかったけど、
なかなか片付けられない性分で、すまなかった。

おやじ世代の郷土愛

2007-12-29 19:59:11 | 思索系
今月18日にとりあげたU35に関する話。
「リスペクト男子」は地元愛が強いそうだが、
そういえば最近は県民性に関する
バラエティー番組が増えてきたような気がする。
どうせ埼玉は話題にのぼらないから、と思って
普段はほとんど見ないけど、
たまに見てみると、そこでは
おやじ世代の人も堂々と自分の地元を
カミングアウトしている。
もちろん、ああした番組に出るおやじは
カミングアウトしてもかまわないから出るのだろうし、
もしかしたら、本当は嫌でもお金になるから
カミングアウトしている人だっているかもしれない。

だが最近、彼らよりもっと積極的にカミングアウトした
おやじをテレビで見つけた。
「歌謡コンサート」という番組で、司会のアナウンサーの
「高校時代は何をしていましたか?」という質問に、
演歌歌手の前川清さんが
「(長崎県の)佐世保でボーっとしてました」と答えたのだ。
その場所でそのタイミングでカミングアウトしたって
お金には直接結びつかないのに、
「田舎で」ではなく「佐世保で」と。
これを聞いていた最も身近な親父は、
「俺たち、昔は佐世保だなんて絶対言わなかったのになあ」と
感慨深そうに首をかしげていた。

それにしても、親父の感想はU35の私にはやっぱり滑稽だ。
親父を田舎者だと思い知らせた当時の東京人だって、
もとをただせば同じく田舎者だったのではないか。
そんな相手になぜ、田舎者なのを隠す必要があるのか。
(少なくとも私はそう思って、初対面の相手にも
「東京のほう」などとは言わずに、ダサイたまであることを
カミングアウトするようになったのだった、今は)。
それとも親父は、どうせ佐世保と言ったって
どこにあるか分からないだろうなどと気遣っていたのだろうか
(しかし、だったら「長崎」と言えばいいではないか)。

だがいずれにしても、ひょっとすると
U35の影響によって田舎をカミングアウトしやすい
雰囲気が全体にできつつあるのかもしれない。

「あしあと」始める

2007-12-28 22:00:43 | 日常
お気づきかもしれないが、「gooあしあと」を始めた。
このブログが面白いかどうかを調べ始めると
私の見栄っ張りに拍車がかかってしまいそうで
当初ブロクに貼り付けることをためらったのだが・・・
どうしても嫌になったら止めることもできるし、
とりあえずやってみようと思う。

それにしても、ジャンル検索で
特定のジャンルのサイトを持つメンバーを
探し出すような機能があればいいのになあ。

第三と第九

2007-12-26 20:35:37 | 思索系
NHK教育の「第九交響曲物語」を見ていた(こちら)。
実のところ私は、ベートーヴェンの交響曲は
第五と第七しか聞いたことがないし、
第九がいつの時代でも欧米のあらゆる国で演奏されていたり
EUの歌になったりしていると聞いて、
第九はこれほど欧米でポピュラーだったのかと
今になって驚かされているところである。

もう一つ、番組では第三交響曲エロイカについても
少しだけ言及があったが、
実はこのエロイカにこめられた思想を解釈する番組も、
私はかつて観たことがあった(放送大学)。
そのとき教授していた先生は
「この解釈が絶対とは言えない」とことわっていたが、
それによると、第三の楽章ごとのテーマは
第一楽章は英雄の活躍、第二楽章は英雄の死、
そして第四楽章は人類の歓喜、だろうということであった。
つまり、人類の歓喜は英雄の犠牲のもとに実現する、という
意味がこめられていると考えられるそうだ。

一方、第九のメッセージの解釈に関しては、
今日の番組を見ていた限りでは
英雄のようなある特定の人間の力がなければ
歓喜は勝ち取れない、などという思想性は感じられない。
むしろ特定の人間よりももっと普遍的な、
例えば神や自然の力による歓喜の獲得を
歌っているように思える。
なぜなら、ベートーヴェンはたしか
番組のなかでこう語っていたからである:
「我々は法律や王の力が無ければ自由は勝ち取れないのか!?
 (いいや、そんなことはない)」と。

内面からのセクシー

2007-12-23 22:39:28 | 思索系
5日ほど前、
『平成男子図鑑』(著:深澤真紀 日経BP社)の
内容についてとりあげたが、
今日は同じ本に載っている「セクシー男子」について
少し語ってみたいと思う。
ちなみに「セクシー男子」は、こちらのサイトでは
「ちょいワル男子」として紹介されている。
しかしいずれにしろ彼らは、オシャレをするかたちで
努力してセクシーさを手に入れ、その上で
モテたら最高、と考えているらしい。

セクシーであることが(少なくとも男子の間で)
良しとされる背景は、一体どんなものなのだろうか。
(本に書かれているように男子がオシャレを楽しむように
なっただけでなく)、ソツが無さすぎると
つまらないと思われたり下手するとねたまれるから、
「セクシー」というかたちで「ちょいワル」になってみる、
という心理が背景なのだろうか。

同本の「セクシー男子」の項では、
彼らのカリスマとして男性誌「LEON」のモデルである
パンツェッタ・ジローラモさんがとりあげられていた。
ジローラモさんについては、
彼が奥さんと喧嘩した翌日の帰宅時に、
なんの予告もしないで、バラの花束を奥さんに
プレゼントしたら仲直りすることができた、という
エピソードが、個人的にはとても印象的だった。
突然のトラブルに対して
とっさにそのような機転を利かすという能力など、
1日2日で体得できるものではない。
特に比較的人生経験の浅いセクシー男子なら、
ひとたび同じ状況に置かれてしまうと
「カッコよく機転を利かす」心の余裕など
たちまち無くなってしまう事だろう。
真性のセクシーは一日にして成らずという訳だが、
今のセクシー男子には(見た目のセクシーだけでは
なくて)是非こうした能力も少しずつ
身につけていってほしいと思うし、
(かくいう私は女を捨てているけれど・・・)
例の男性誌も、
あんな風にカッコよく機転を利かせることができる
ジローラモさんの内面にもっと迫ったほうがいいと
感じるのである。(独りよがりな考えだから
「そうすれば絶対売れる」という確信はないけど・・・)

こんなふうに語ったら、なんだか「オシャレ」も
「ちょいワル」も「カッコいい」も、
だんだん「セクシー」と同義のように思えてきて、
セクシーとはそもそも一体何だったのか、
分からなくなってきた。
個人的にはオシャレなどしなくても、
ワイシャツの間から鎖骨とか胸板がチラリするだけで
充分セクシーに見えると思えるのであるが・・・
(例えば、「ベルばら」のアランのように。)

食べ物の価値

2007-12-22 22:37:57 | 思索系
今日、野菜市場に行った。
そして、そこである初老のオバサンと居合わせた。
彼女は新鮮なブロッコリーを見ると、
売り手の八百屋さんの目の前で無邪気にこう言った:
「ブロッコリー、ウチの犬が大好きなんですよ!!」
その瞬間八百屋さんは、ギョッとした目で反射的に
「犬!?」と聞き返していた。

今の時代、人が苦労して作った食べ物の価値は
あの程度のものらしい。
今年(大食い女性が大食いする事それ自体ではなくて)
大食い女性に人気が出た事も、
おそらくはこれと同じ理由だろう。

かくいう私も、もちろんこれに文句を言う資格はない。
胃腸炎がひどいときに食べ残してしまった
うどんが捨てられてあっても何とも思わなかったし、
料理のなかに苦手な食材が潜んでいれば、
やっぱり特別な事情でもない限り残している。
だけど・・・今日のあのオバサンの悪気のない言葉は、
あまりにショックだった。
せめて八百屋さんのいないところで言うとか、
犬にやることを悟られないような表現を使うとかしないと、
八百屋さんに失礼なのではないのか。
つまり、食べ物の価値を昔より低く見ているということは
本来隠すべき事なのではないのか。

ただ、彼女は私より数倍は人生経験が豊富なので、
私よりは常識があるに違いない。だとしたら
むしろ、ブロッコリーを過小評価しているのではなく
犬の価値の方が人間と同格に上がったと考えるべきなのか。
だから彼女には悪気が無かったのだろうか。
そしてもし私が愛犬家になったら、彼女のように
八百屋さんを喜ばせるつもりで
「これ、犬が好きなのよ!」と喜ぶようになるのだろうか。

秀吉の島国根性

2007-12-19 23:37:23 | 歴史系
NHKの「そのとき歴史が動いた」を見ていた。
今日の内容は、日本の中央政権(秀吉・家康)と
朝鮮の狭間で苦労する対馬の話であった。

トークの内容はただひたすら日本人の視点ばかりで
内向きだったけど・・・
あれでは、秀吉が朝鮮半島で嫌われるのがよく分かる。
秀吉については、第二次大戦の旧日本軍よりも
評判が悪いという噂さえ聞いたことがあるのだが
(実際には戦前の旧日本軍のほうが罪は大きいはずだが、
その噂によると韓国では、戦前の話は
時代が比較的新しいためにかえって敢えて口には
出さないよう気を配ってくれている人が多いそうだ)、
朝鮮半島の人にとって秀吉は
ただ単に侵略者であるだけでなく、
(朝鮮の使節が言うように)「自分勝手」…
…で、さらに身の程知らずであったと思われる。
秀吉も、もし当時の教養(=大陸の進んだ学問や
日本史)に明るかったり、信長のように地球儀を持って
日本の小ささを知ることがあったりしたなら、
朝鮮使節とちょっと顔を合わせただけで
「我々と一緒に中国を日本化しよう」などとは
公言できないはずである。
結局秀吉も、晩年の信長のように自分を神に等しいと
考える(=つまり、過去の実績を根拠に
成功が永久不変に続くと考える)ようになった、
ということなのだろうか。

それにしても、
地方の事情をかえりみない当時の中央の姿勢は、
なんだか現代に通じるものがある気がする。