黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

割り切れない思い

2013-09-29 21:07:40 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびの題材は、
結核を患った薩摩出身の女学生をめぐる人間模様だった。
時代は、同志社女学校が開校した時点で1878年9月。
新島八重33歳、山本覚馬50歳、山川浩33歳であった。
このたびは、ドラマの最後の方になって八重の母・
佐久が洗礼を受けたが、以前こちらで述べたように
佐久は実際は西郷吉之助が挙兵する以前の1876年に
洗礼を受けている。

ところで、私は前回の「西南戦争」の回の時間までに
帰宅することができなかった。そこで、昨日の午後の
再放送を見て思うに、西郷吉之助も本当は薩摩士族を
暴発させないために随分と気をつかってきていて、
それでも防ぎきれなかった末の西南戦争であった。
あの西南戦争は、西郷といえども一個人の力では
如何ともしがたい、「時代の流れ」とでもいうべき
もっと大きな力によって引き起こされたもので、
会津戦争も実はそうしたものだったのかもしれない。
――前回の西郷吉之助もそう認識しているかのように、
多くを語らず、言い訳もせず、ただ従容として
「より小なる悪」(――せめてその戦いを最後の内乱に
させること)を選んで滅びっていった感があった。

このように、ドラマの西郷吉之助が「天」の定むる
ところを従容として受け入れていったにせよ、
そんな芸当が実際は誰にでも簡単にできるはずもなく、
それをよく表した内容が今回のドラマだった気がする。
特に、自分の力では如何ともしがたい大きな力によって
故郷や親しい人を失った人間ならば、戦いが終わったり
仇討や汚名挽回が成ったりしたところで、割り切れない
思いまで消えるわけではないということだろう。
「恨むばかりで大望が無ければ、恨みを晴らしたとて
一体なんになろう」。――むかしの大河ドラマ
「風林火山」での武田晴信はこう言ってたかと思うが、
考えてもみると、下々の人間ではそんなにすぐに大望が
持てるとも限らないし、とりあえず前に進むことすら
難しい場合もあるだろう。――そうなってくると、
時間だけが解決してくれるということになるのだろうか。

――ところで、そういえば、「歴史秘話ヒストリア」で
八重がとりあげられた際には、八重はむしろ薩長出身の
学生に辛く当たっていたなどと紹介されていなかった
だろうか??ちょっと前にウィキペディアの八重の項を
見たときにもそれが書かれてあったと私は記憶しているが、
いま同じページを見てみたら、どういう訳かそうした
記述が見られなくなっている。この、ヒストリアの内容と
ドラマの描写に相違を感じて戸惑いを覚えているのは
果たして私だけだろうか??


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薩摩の群像その一

2013-09-16 14:50:14 | 思索系
訪れた史跡のうち、ブログでとりあげていないものが
まだまだあり、鹿児島の史跡も今年の6月に訪れたが
まだとりあげられていなかった。
今年の一月に「翔ぶが如く」の再放送を観たときには
幕末の薩長に負けた者として複雑な思いもあったが、
なにも幕末・維新だけが鹿児島の歴史じゃない
ということは、もっと以前からよく実感していた。
当時、尚古集成館で中世の島津氏の特別展があるらしい
ということで、その機会に訪れた次第である。
――それにしても鹿児島は史跡の宝庫で、撮影し損ねた
ものも結構あったが、それでも、いつもよりたくさんの
史跡を撮影することができた。やはり一度では載せきれ
ないので、このたびは島津斉彬公よりも古い偉人や
史跡をとりあげていきたい。

まず、下の画像は宮崎県都城市にある「祝吉御所跡」に
たつ碑。この碑の近くにある掲示によれば、かつて
この場所は島津氏の祖・忠久が支配した荘園「島津荘」の
中心であったという。碑にもあるように、この場所が
いわば島津家発祥の地ということらしい。
ただし、『【決定版】図説・薩摩の群像』によれば
島津忠久の主な生活の場はこの場所ではなく鎌倉だった。



島津氏の祖・忠久は鎌倉時代初めの武将で、もともと
「惟宗」という姓を名乗っていたのが、島津荘を
任された後に「島津」に姓を変えた人物である。
彼の父親に関しては、源頼朝だったという説話や以仁王
だったとする話もあるものの、尚古集成館で購入した
『島津家おもしろ歴史館』(尚古集成館 2008)では、
本当は惟宗広言という人物か近衛家と関係のある貴族が
父親だったのではないか、と述べている。だが一方、
ウィキペディアの島津忠久の項では、現在は惟宗広言説
よりも惟宗忠康説の方が有力であるとしている。
『【決定版】図説・薩摩の群像』も併せて参照するに、
忠久は1185年に源頼朝の命により近衛家の荘園だった
島津荘の下司職(荘園管理の実務役)に任命されたのを
契機として段階的に権限や領地を広げていった。
そうして忠久は南九州以外の場所でも守護職や地頭職を
務めるようになるのであるが、1197年時点での忠久は
薩摩・大隅・日向各国の守護職を兼ねるようになり、
同年の島津荘もこの三国にまたがり8000町もの広さを
ほこるようになっていた。

しかし、そんな忠久の人生も常に順風満帆とはいかな
かったようで、少なくとも1203年に比企能員が滅ぼさ
れた際には、忠久も能員の縁者として連座させられ、
結果として一時的にではあるが全ての職を剥奪されて
いる。『【決定版】図説・薩摩の群像』を読むに、
島津忠久の母親が比企能員の妹であったか、少なくとも
比企氏の出であったことから連座させられたようだ。
比企能員は、現在の埼玉県比企郡一帯を領した有力武将。
そういうわけで、島津忠久は、埼玉ゆかりの武将の
悲劇にも、(不本意だったにせよ)多少関わっていた。
また、以上のような島津忠久の履歴を知ると、
幕末の島津斉彬と近衛家とのつながりや、鎌倉にある
源頼朝の墓が島津の名前で整備されている事も、
多少、理解できるようになると言えるだろう。

それから、大河ドラマ「北条時宗」にちょこっと出て
いた島津久経は、忠久の孫にあたる。蒙古襲来に備えて
筑前の守備を命じられた久経自身は筑前の筥崎で
亡くなるものの、この蒙古襲来が契機となり、
島津氏は久経の子・忠宗の代になってようやく
薩摩に土着した(『島津家おもしろ歴史館』による)。
ただし、ウィキペディアの島津忠久の項を読むに、
島津久経の代の時点ではまだ大隅・日向守護職の
座は取り戻せてなかったようだ。

その島津久経の代からずいぶん時代がくだり、
島津義弘らが活躍した安土桃山時代。このたびが
初めての鹿児島だった私は、「島津家発祥の地は
行っておきたい」「幕末・明治の史跡も一応おさえて
おきたい」「主な博物館もまわりたい」などと欲張った
結果、島津義弘に関する史跡に出向く時間がほとんど
つくれなかった。そうしたなかで辛うじて撮った一枚が、
日置市の伊集院駅にある島津義弘の像を写したものだった
(下の画像)。同市役所から東の方向に亀丸城跡があり、
島津義弘もそこで産まれたと伝えられていることに
ちなんで、彼の像がこの駅に建てられているのかも
しれない。



しかし、尚古集成館を訪れてみれば、戦国時代の事も
それなりに知ることはできる。そこに収蔵されている
島津義弘の肖像画が意外と小さいものだったという
ことも――。しかし、それ以上に興味深かったのが、
秀吉が命じた朝鮮出兵に対する島津家の本音である。
これはたぶん、同館の学芸員さんか誰かの考えと
思われるが、当時の島津家も貿易をしていたため、
朝鮮出兵はむしろ島津家にとって貿易の邪魔だった
可能性があるという。島津義弘自身はどちらかと
いうと豊臣政権寄りで、実際に朝鮮で武功を立てたが、
義弘の兄・義久は豊臣政権寄りの弟の考えに反対だったし、
島津家の誰もが朝鮮出兵に賛成だったとは限るまい。
来年の大河ドラマの主人公は彼らではなく黒田官兵衛に
なったが、この黒田官兵衛こそ朝鮮出兵に賛成だった
可能性があることは、以前にこちらの記事で述べた
とおりである。――そう考えると、来年の大河ドラマは
朝鮮出兵の場面をどのように描いていくつもりなのか、
非常に興味深いところである。

それから、下の画像は鶴丸城跡の様子。
島津義弘の実子で関が原の戦い後に跡を継いだ
島津忠恒が築城した。島津義弘は、防御に問題がある
という理由でこの場所に築城することを最後まで
反対したそうで、実際、幕末の薩英戦争の際には
「イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込ま
れるなど脅威にさらされ」たという(ウィキペディアの
鹿児島城の項による)。



ちなみに、下の画像は同城の鬼門除けである。



漫画『風雲児たち』ではうかがい知ることができないが、
ウィキペディアの島津忠恒の項では、忠恒のことを
「父・義弘と違って酷薄な性格」だったようだと
している。――ここからは私の想像にすぎないが、
島津忠恒の場合、お父さん(義弘)や伯父さん(義久)が
強い影響力を持ち続けたことでフラストレーションが
たまり、それをうまく解消できず、自分より目下の者に
ぶつけてしまっていたのかもしれない。
一方、父の島津義弘は実力本位の時代に生き、実力と
人望を兼ね備えていた。そして、兄・義久とは考え方が
噛み合わなくて困ることがあった。それでも義弘は
変な野心を持たず、終生、兄・義久を立てていた。
島津義弘にしても息子の忠恒にしても、目上・年上に
逆らわなかったという点で共通しているように思える。

島津忠恒から、時代はさらに下る。
先述の漫画『風雲児たち』で感動的だった物語の
一つに、江戸時代中期に幕府から薩摩藩へ課された
木曽三川分流工事の物語(第30巻)があった。
当時、この工事の責任者だった薩摩藩家老・平田靱負。
彼の屋敷跡が、現在、鹿児島市街の平田公園として
残っていることが分かったので、もれなく訪れた。
その公園内の石碑が、下の画像で――、



下の画像は、公園内に立つ彼の像である。



木曽三川分流工事については、4年前にこちら
記事でとりあげた。
費用は全て薩摩持ち、かつ、口出しは一切ならぬ、
専門職人も一切不要――。
ウィキペディアの平田靱負の項によれば、
この、幕府のあまりにも露骨な薩摩イジメゆえ、
薩摩藩内では幕府への反発が極まり、このまま
潰されるくらいなら一戦交えようという過激な
意見まで噴出するほどだった。そこのところを
平田靱負は、「民に尽くすもまた武士の本分」と
薩摩藩士を説破して、工事受注に至ったという。
4年前の私には、この「民に尽くすもまた武士の
本分」という平田の言葉が、平田の本心から言った
言葉のようにはどうしても思えず、「平田は、本当は
やりたくもないのに、悔しい気持ちをこらえて仕方なく
こういう方便を使って諭したのだろう」と思っていた。
当時の私は、今の私以上に「世のため人のために尽くす」
という意識が低かったものだから、そうとしか思えな
かったのかもしれない。しかし、今の私としては、
平田の本音なんてそれほど大した問題ではない。
とにかく「民に尽くすもまた武士の本分」と言って
藩士を諭し、ちゃんと工事をやり遂げた平田の志を
買いたい。また、関が原で敵中突破した島津義弘の
ように、「進むも地獄、退くもまた地獄、同じ地獄なら
いざ進まん」と決めて工事を引き受けた平田の覚悟を
買いたいのである。

『逆説の日本史』19巻もあわせて参照するに、
実際に工事をしてみれば、40万両も費用がかかり(うち
半額を大坂商人からの借金でどうにか賄う)、地元・
濃尾の民百姓の協力も許されない。そうかと思うと、
やっと完成させた堤防の破壊工作までされた。
現場の薩摩藩士たちは過労や疫病で死んだり、
もしくは幕府に対する抗議の意味で切腹するなどし、
それでも、幕府との摩擦を回避するために、平田は
切腹した藩士たちを事故死として処理せねばならない。
そうして、最終的には病死33名、自殺者52名という
多大な殉職者が出たということである。

やりたくもないのにやらねばならないことは多く、
ムカつくこともたくさんある。――平田靱負は、
他の薩摩藩士たちでさえ忍び難いほどの試練に直面した
にもかかわらず、怒らず、腐らず、逃げずに
責任を持って工事を完成させた。そして、「平田は
よくよく頑張った」、と、こちらが褒め称えたくなる
ところで、平田は「予算を超過させ、多くの薩摩藩士を
死なせてしまったから」と、人知れず自刃していく。
――「サムライ」を感じさせる、平田靱負の忍耐。
さすがに彼と同じぐらいの苦難など私は願い下げだが、
少なくとも尊敬できる人物ではある。
鹿児島の道徳の授業で彼のことをどのように教えて
いるのかとても気になるが、鹿児島に知人すらいない
私には知る由もない。

それにしても、当時の幕府はなぜ、薩摩藩にこのような
過酷な命令を下したのだろうか。私が4年前の記事でも
記したように、幕府が薩摩藩にこの工事を命じたのは
1853年で、それは徳川吉宗が亡くなって間もないころ
だった。『島津家おもしろ歴史館』によれば、生前の
吉宗は竹姫を可愛がっており、そしてその姫は
時の薩摩藩主・島津継豊に嫁いで、これによって
幕府と薩摩藩の関係は強化されたはずだった。
同書は、幕府が薩摩藩に木曽三川分流工事を命じた
真相を不明としつつも、「幕府と薩摩との関係強化を
妬んでいた人々が吉宗の死とともに薩摩藩を困らせ
ようと仕組んだものだろうか」という推測を立てている。
一方、これは私の想像にすぎないが、亡き吉宗から
将軍職を継いでいた徳川家重は健康面に難のある男で、
家重を支える幕閣としては、幕府を守っていくことに
対してさらに不安感が増していた時期だったかもしれず、
そういう不安感もあって、幕府は薩摩藩にこのような
過酷な命令を下したのかもしれない。
竹姫によって「幕府と薩摩藩の関係は強化された」
とはいえ、やっぱり基本的に薩摩藩は幕府にとって
油断のならない存在だったことに変わりはなく、
「竹姫をもらったからといって増長するんじゃないぞ」
という意味をこめて、幕府は薩摩藩に過酷な命令を
下したのかもしれない。
ちなみに、この木曽三川分流工事の時代、私の地元・
川越藩は秋元凉朝という人物が領していて、彼は
幕府ではちょうど老中を務めていた。
・・・もし、時の川越藩主がこの薩摩イジメの
首謀者の一人だったとしたら、薩摩藩に申し訳ない
ことである。
ただ、『風雲児たち』第30巻によると、薩摩藩などが
徳川幕府を倒した頃は「既に宝暦年間の治水工事を
知る薩摩人も消え去っていた」というから、
これを信じる限り、治水工事における平田らの苦労が
恨みとなって薩摩藩を倒幕に向けさせたとは考えにくい
(実際、治水工事の恨みが薩摩を倒幕へと突き動かした
という話は未だに聞いたことがない)。
同漫画によれば、薩摩藩は領民の動揺と幕府を恐れ、
平田らの苦労や悲劇を歴史の闇に葬り去ろうとしたの
である。しかし、工事現場だった濃尾の民百姓が、
平田らに対する感謝の気持ちから、平田らのことを
ずっと子々孫々に語りついできたということである。

平田公園の、細い道をはさんだ向かい側は、現在
アパートっぽくなっている。だが、かつてここには
調所広郷の屋敷があり、現在は下の画像のような
石碑がそれを伝えている。彼は元々茶道職だったが、
財政に明るかった点を島津重豪に買われて家老にまで
出世し、財政改革などに取り組んだ。
なお、島津重豪は、平田靱負に治水工事を託した
島津重年の次代の殿さまであった。



『逆説の日本史』19巻によると、薩摩藩の財政には
先述の木曽三川分流工事を始める以前の段階で既に
六十六万両もの借金があった。それが工事によって
百万両単位にふくれあがり、さらに島津重豪という
豪快な殿さまのために五百万両という天文学的
数字にまでなってしまった。そこで重豪もさすがに
ヤバいと思ったか、佐藤信淵という、当時経世家
として著名だった人物のアドバイスを受けることに
した。この、佐藤信淵の財政再建プランを実行に
移し、成功させたのが、調所広郷であった。
しかし、プランが既に練られていたにせよ、
むしろそれを実行に移し、成功させる事こそ
大変だっただろうことは、想像に難くない。
ともかく、彼らは財政再建に努め、同書によれば
わずか十年で二百五十万両の利益を上げることに
成功したという。

財政再建とは借金を返済して増収を図ることだが、
まず、五百万両という借金の額はその利子分だけで
年80万両を越え、薩摩藩の年収(12~14万両)を
越えていた(ウィキペディアの調所広郷の項による)。
額が額であるため、マトモな方法では手に負えない。
そこで、「利子は払わぬ、元金は毎年二両ずつ
二百五十年かけて払う、それ以上は無理だ。」という
「踏み倒すも同然の処置」をおこなったという。
お金を貸していた大坂商人たちは大混乱に陥った
そうだが、全く返されないよりはマシだと思ったか、
ともかくそれで話はついたという。なお、これは
薩摩藩が2085年まで払い続ける計算になるので、
もし藩が現在も存続していたならば、今後もなお
70年先まで毎年払い続けることになるのだが、
1872年に廃藩置県されると、明治政府によって
債務は無効にされたということである。

一方、増収策に関しては、まず砂糖や薩摩焼などを
専売にし、また「これらの特産品の包装が悪く損耗が
激しいので改め」た。そして、御老公(重豪)様の
小遣い稼ぎという名目で清国との貿易拡大の許可を
幕府から取り付けた。ただし、そこはやはり並の
やり方ではなかった。少しでも砂糖を増産させる
ために奄美の人々をしぼりあげてみたり、
清国との貿易拡大範囲だって、幕府が設けた上限など
お構いなしに稼ぎまくる。また、『逆説の日本史』
19巻には、この貿易の不正をもみ消すための
賄賂まで積み立てたという、貴重なお話もある。
おまけに、調所が贋金づくりにまで手を染めた
という説まであるという。――しかし、こうした
ダーティな方策も、また、薩摩焼の増産や、朝鮮人
陶工の生活改善に尽くすといった明るい方策も、
全ては財政再建のためだった、というのが私の
感想である。

以上のような財政再建を実際に進めていった
調所広郷がどのようにして亡くなっていたのか、
これもなかなかかわいそうなものだったのだが――
この点については、次回、島津斉彬公をとりあげる
際に述べる予定である。『逆説の日本史』19巻に
あるように、幕府そのものも、ここまで重商主義的
政策を進めていたら、幕末になって薩長に負ける
こともなかったのかもしれない。幕府については、
先述の川越の殿様・秋元凉朝が苦々しく思っていた
という田沼意次が老中となった頃に、重商主義的
政策が進められていったものの、田沼の重商主義的
政策は結局志半ばで松平定信に阻まれてしまった
ことは、昔このブログで記したとおりである。


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塞翁が馬

2013-09-15 23:19:49 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびは、熊本から
迫害を逃れてやってきた転校生たちの話題だった。
時代は、山川浩の友人の竹村幸之進なる男が
思案橋事件を起こした時点で1876年10月。
新島八重31歳、山本覚馬48歳、山川浩31歳であった。
このたび転校してきた熊本県人の「熊本バンド」の
メンバーのなかには、二次大戦前の日本において
オピニオンリーダーとなった徳富蘇峰の他に、
伊勢時雄なる横井小楠の長男もいた。時雄は後に
覚馬の娘・みねを娶る人物で、この時雄からみれば
徳富蘇峰は母方の親戚であったという。
徳富蘇峰に関しては、NHKの歴史番組を見る限り
八重を鵺よばわりした人物としての印象が強く
なるが、『時代を駆ける 新島八重』によれば、
蘇峰は襄の死後も八重の面倒を見た人物の一人でも
あり、八重の墓石の文字も蘇峰の筆によるものだった。
これらのことから、同書では蘇峰と八重の関係は
むしろ良好であったとしている。

ところで、ウィキペディアの熊本バンドの項では、
彼らの特異性の一つとして、「熊本県人気質を強く
持っていた点」を指摘しているが、その「熊本県人
気質」とは一体どういう気質を示すのだろうか。
そこで『県民性の日本地図』を開いてみると、
熊本県人の一面に関しては「曲がったことが大嫌いな
がんこ者で、駆け引きが大の苦手」であるのに加え、
「気が短く他人を説得して自分の意見を通す
根気がない」ともある。実際の「熊本バンド」にも
そういうところがあったのかは分からないが、
少なくともドラマの「熊本バンド」はそんな感じ
だと思ったし、そういう気質なら、ドラマのように
不協和音を生じさせても不思議は無かろう。
ドラマの彼らもそうだったように、同書によれば
熊本県人は本当は人情味があつく親切なのに、
先述のような気質ゆえに損をする場合があるという。


それにしても、このたび気になったのは冒頭で
言及した竹村幸之進なる人物だった。
彼の名は、ウィキペディアの思案橋事件の項で
見ることができるようだが、ウィキペディアに
彼自身の項目はなく、私の手持ちの本にも彼の名は
見つからない。それでもウィキペディア以外の
ネットで彼について調べてみるのだが、上京後
どのようにして暮らしていたのかが分からない。
これは私の想像にすぎないが、彼は山川浩ほど
うまく生きていくことができなくなったので
反政府行為に走ったのではないだろうか。
この時代に反乱を起こした士族にしても、やはり
時代の趨勢によってうまく生きていくことが
できなくなったので反乱をおこしたのだと思われる。
維新の負け組ではあってもうまくやり直しつつある
人間もいれば、維新の勝ち組だったにもかかわらず
国家反逆に身を落とさざるを得なくなった者もいた。


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逆風のなかでの同志

2013-09-08 22:06:48 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびは、周囲からの
逆風にもめげずに八重が新島襄と結婚し、同志社
英学校を開校したという話であった。
時代は、八重と襄が結婚した時点で1876年1月。
新島八重31歳、山本覚馬48歳であった。
このたび、襄たちが同志社英学校を開校したのは
高松保実なる公家の旧宅であったが、襄たちに
とってこの場所はあくまでも仮の場所、襄たちは
開校前から別の候補地を探していた。そして
見つけたのが、かつて山本覚馬が閉じこめられて
いた旧薩摩藩邸の跡地であった。しかしながら、
資金面での問題などで購入できなかったため、
藩邸跡地で開校することはかなわなかった。
襄たちが藩邸跡地への移転を実現させるのは、
1876年9月のことであったという(『時代を駆ける
新島八重』による)。いっそのこと、京都ではなく
長崎あたりに移ってしまえば、風当たりはそれほど
強くならなかったかもしれない。しかしながら、
京都の人間や勝海舟からムリだと言われた襄のこと、
むしろそれで、京都での開校を絶対に実現させるの
だと意地になったのではないのだろうか。
(ドラマの襄を見てるとそういう印象は受けないが)
いずれにしても、周囲の逆風をはねのけて結婚し、
キリスト教の学校を運営していこうというのだから、
その絆が深くならないはずがなかろう。

これは次回でとりあげられるのかもしれないが、
私にとって驚くべきは、八重と襄が結婚した同年に
なんと八重の母・佐久が66歳の高齢にして洗礼を受け、
2年後には同志社女学校の舎監にもなっていた事だ。
八重の場合はまだまだ若いし、単に男とくっつきたい
一心で受洗もできるだろうという解釈も成り立つ
(それが当時の女性としてはとても思い切った行動
だったにせよ、少なくとも佐久と違って八重には
受洗の必要性があったと言えるのではないだろうか)。
また、八重を賢く導いていった兄の覚馬でさえ、
キリスト教の価値は早くから認めつつも、実際に
キリシタンになったのはこれからまだ9年も先のこと
であった。それにひきかえ、八重の母・佐久は
八重よりもずっと高齢にもかかわらず、覚馬よりも
受洗のタイミングが早いのである。
受洗などしなくたって「母」は務まるはずだが――
佐久はそうは考えなかったということだろうか、
それとも八重に刺激されて、自分も「母」を務める
だけでは飽き足らなくなっていたのだろうか。

それにしても、このたびの槇村正直の発言で興味
深かったのは、「(キリスト教に反感を持つ者たちを)
なだめすかすのが大変だからいい加減にしてくれ」と
いった趣旨のものである。この期に及んでようやく
私は理解したが、彼はただ単に面倒に巻きこまれて
自分のキャリアに傷がつくのを恐れている。
前回の私は勘違いしていたが、中央政界の重鎮たちが
もともと「天皇絶対教」の信徒であることと、
槇村正直がキリスト教を嫌っていることは、直接
関係ないということが分かったのだ。
中央政界の重鎮たちはもともと「天皇絶対教」の
信徒で、そうだからこそ、欧米列強が脅威となった
幕末においても「一人の売国奴も出な」かった。
しかし、ウィキペディアの日本キリスト教史の項を
見てみると、明治初期から中期にかけての国は
むしろ欧化政策を進めており、よって西欧精神の
中枢であるキリスト教に関心を持つ者も(主に
上流階級のあいだで)増えていたのだそうである。
槇村正直は、ただ単にキリスト教に対する世間の
偏見と、襄たちとの板挟みに悩まされていたという
ことになるのかもしれない。
世間は、覚馬や八重たちのように柔軟で勇気ある
人たちばかりではない。――そう思うと、
槇村正直もちょっとかわいそうな気もしてくる。


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千の風になって

2013-09-01 22:10:30 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびは、八重が
新島襄のプロポーズを受け入れたところで
話が終わった。時代は、彼らが婚約した時点で
1875年10月。山本八重30歳、山本覚馬47歳、
山川浩30歳、高木時尾29歳であった。
以前にも指摘したと思われるが、八重の弟・三郎は
上方で重傷を負い、船で江戸へと運ばれたものの、
手当の甲斐なく亡くなった。つまり、史実の三郎は
ドラマと違って戦場で即死したわけではなかった
(『八重と会津落城』による)。
そこを、あえて戦場で即死したことにしている理由が、
このたびの八重と襄のやりとりでようやく理解できる。
また、このたび、高木時尾が夫となった藤田五郎
(旧名・斎藤一)と共に登場したが、彼女と同じく
八重の幼馴染だった日向ユキは、去る1872年に
内藤兼備という旧薩摩藩士と結婚している
(『時代を駆ける 新島八重』による)。
旧会津藩士による紹介とはいえ、時は明治五年、
会津戦争から間もないうえ、薩摩の不平士族が
鹿児島で挙兵する以前(ということは、旧会津藩士が
御維新の恨みを晴らす以前)の話である。
これはこれで驚くべきことに思えるが、未だに
あえてドラマで話題にしないというのは、むしろ
会津人が薩長を憎んでいたという背景を表わす
ためなのだろうか??

ところで、これは前回の感想を記す際に不覚にも
記し忘れたことだが、前回引用した17巻の
『逆説の日本史』によると、キリスト教が現代でも
根付かない理由には、私が前回で考えたような
ものよりも、もっと根本的な理由があるという。
それはつまり、日本人の「和」の精神が「習合」の
宗教を生み、それが、「混じる」ことを拒否する
一神教(キリスト教やイスラム教)と決定的に対立
するためであること、さらに、江戸時代に本居
宣長が「天皇絶対教」を生み出したために
「絶対神」というたった一つの「席」が天皇に
よって埋められ、「天皇絶対教」の信徒のなかでは
キリストやアッラーの入り込む余地が無くなって
しまったためだそうである。
新島襄に対する抵抗勢力としてドラマで登場して
いたのは京都の仏教の坊主だけだったが、
京都はついこの間まで「天皇絶対教」のメッカ
だった場所でもある。京都でキリスト教を広める
ことの難しさは、神道の観点からしても、推して
知るべきものだったと考えられる。
また、これは私の想像にすぎないが、この時代の
中央政界に君臨している薩長の連中も、元を
ただせば「勤王の志士」、つまり「天皇絶対教」の
信徒である。中央政界の重鎮たちが天皇を唯一の
「絶対神」と信じているならば、そこにキリストの
入り込む余地は無い。――槇村正直もなかなか
キリスト教の学校を許可しない事情が、実は
そういうところにあるのではないかと私は想像する。
槇村正直と、新島襄の後援者たる山本覚馬との
確執には、神道とキリスト教の宗教戦争のような
側面もあったのではないかと私には感じられる。

ところで、日本には「肉体は滅びても霊魂は不滅で、
霊魂は意志を持ち子孫を守る」という「祖霊信仰」が
ある。このたびのドラマでは、キリシタンになった
はずの新島襄が八重をかつての戦場に連れていって
「戦死した八重の仲間たちの声が、この大地から
聞こえてくるかもしれない」などと言っていたが、
どうやらこうした感覚を「祖霊信仰」というらしい。
同書によれば、こうした「祖霊信仰」はキリスト教や
イスラム教などの一神教が発生する以前のユーラシア
世界にもあったが、一神教が「別の死後」を提示して
「祖霊信仰」を否定したことにより、「祖霊信仰」は
(ウィキペディア風に言うと)「超越された」という。
しかしながら、少なくともアメリカではキリスト教
以前の「祖霊信仰」をよく表した詩が「親しまれ」、
それが邦訳され、日本でも「千の風になって」という
歌として親しまれるに至っている。
「祖霊信仰」は先進国では「超越された」とは言うの
かもしれないが、かといって少なくともアメリカでは
「祖霊信仰」が完全に消滅したとは言えないようにも
思えるし、ゆえに、日本と欧米の死生観に共感できる
部分が全く無いではないようにも思えるのである。
「祖霊信仰」によれば、人は亡くなっても霊となって
親しい人の側にいる。だからこそ、「その人が
亡くなったからといって無視せず、ちゃんと向き合う
べきであり、報いていかなければならない」という
話になるのだろう。


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