黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

おんなの時代の始まり

2017-03-27 00:34:19 | 思索系
大河ドラマ「おんな城主 直虎」。このたびの話題は、
井伊直親が死に、直平が死に、そして中野直由と新野
左馬助が死に、それでもずっと嘆いてはいられず、
いよいよ直虎が出てこざるを得なくなった――といった
話。以前に私は浜松を訪れ、中野直由と新野左馬助が
命を落とす戦いの舞台となった引馬城を当ブログで
紹介した。ドラマでも少しはこの城の戦いのシーンが
出てくるかなと期待していたのだが、ナレーションで
戦いがあったことを語られるだけで終わってしまった。
時代は、彼らが討ち死にした時点で1564年9月、家康
22歳、今川氏真27歳である。ドラマでは、井伊家を
愛し守ってきた男たちと入れ替わるようにして漆黒の
小野但馬守たちが舞い戻ってきたわけだが、そうして
「いいひと」路線を捨てた小野但馬守はいざしらず、
彼が新たに引き連れてきた三人は、井伊家にとって
必ずしも悪い連中であったとは言い切れないのでは
ないだろうか。彼らの来歴についても分からないこと
だらけであるが(私に限らず専門家たちにとっても)、
『この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎』では
彼らのうち、菅沼忠久と鈴木重時という家臣は直親の
家臣だったという。また、『歴史REAL おんな城主
井伊直虎の生涯』では、彼らのことを「必ずしも
井伊家への忠誠心が強かったわけではないようだが」
と評してはいるものの、なにより、三人とも井伊家の
菩提寺・龍潭寺で今も眠ることができているくらい
だから、少なくとも最終的には井伊家にとってそれ
ほど悪い家臣ともならなかったのだろうと想像できる。
彼らは「井伊谷三人衆」と呼ばれ、少なくとも史実
としては悪役のようにして終わる小野但馬守とは
違う動きを見せる人たちのようなので、個人的には
彼らの今後の動向にも注目したいところである。

ところで、このたび命を落とした直親の一粒種・
虎松はどのようにして保護されていたのだろうか。
ドラマの終盤では誰がその子の後見になるかで
さっそく火花が散っていたが、肝心のその子の姿は
その場にない。その子の命は、やはり今川家から守る
必要があった。どこで保護されていたのかという
点もはっきりしないらしいが、虎松は主に生母と
ともに新野左馬助の保護下に置かれたとされる場合が
ほとんどという。しかしながら、その新野左馬助も
近いうちに亡くなるので、それからは新野左馬助の
伯父が住職をしていた浄土寺にかくまわれていた
という。


私はいつか、姓名判断の一種『姓名の暗号』という
本を読んだことがある。残念ながら、ある程度、
姓名判断を勉強した人でないと呑み込めない内容に
なっているが、それでも人の世の栄枯盛衰について
色々と考えさせられるキッカケにはなるものだった。
人一人の人生に良いことと悪いことが半分あり、
一見、いま自分より良い思いをしているように
見える人でも、その裏側や過去あるいは未来に辛い
こともあったりするものだが、これはもっと長い
スパンの、一族の興亡についても当てはまるという。
一つの家だけがいつまでも栄えていくことを自然界は
許さず、例えばだいたい三代くらいで本家の栄光が
終わると、代わって分家が栄え始めたりするのだ
という。このたび、井伊直平や中野直由と新野
左馬助までが短期間のうちに死なねばならなかった
のは、謀反を起こそうとした井伊家が今川家から
誠意を示すことを求められ、そのため、年を取ろうが
自前の兵が少人数になろうが、戦場の最前線にたって
戦わねばならなくなったせいだろうと推察する。
おんなの大河ドラマであるせいかあまり詳細には
描かれないが、それでも、直親を失った直平たちの
明るさには、まさに中小豪族の悲哀を感じさせられる。
――ただ、このように女が出てこざるを得ないような、
御家滅亡の一歩手前の時代と引き換えのようにして、
直政の大出世がもたらされたような気がしてならない。
むろんその幸運は直政の努力なくしては無かった
だろうし、現時点での井伊家では誰も予想だにしない
事のはずであるが。
――ともあれ、このドラマの男たちの常套手段だった
「死ぬ」という方法論では、その場限りでしか家を
守ることができない。戦って死ぬ以外の方法論を
用いた女性ならではの闘いが、これから始まる
ということだろう。


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疑心暗鬼が生んだ悲劇

2017-03-19 23:49:36 | 思索系
大河ドラマ「おんな城主 直虎」。このたびの話題は、
疑心暗鬼に陥っている今川家の陰謀に井伊直親が
はまり、その結果直親と家康との内通がバレて、
直親は今川家に殺されるとわかりつつも「自分の責任
だから」と言って軽装備で釈明しに行く――といった
内容。時代は、直親が殺される時点で1562年3月または
12月。直親27歳、家康20歳、今川氏真25歳である。
個人的には「いいひと」路線が続いていた小野但馬守が
どのような経緯によって直親を死なせる事になるのか
注目していたのだが、直親とともに今川家にハメられた
結果、やむを得ず直親を葬り去る流れになったようだ。
それにしても、釈明しに行けば殺されると最初から
分かっているのであれば、例えば(家康に助けを求める
のではなくて、逆に)家康のもとへ出奔するなど、
いくらでもやりようがあっただろうに、どういう訳か
バカ正直に出向いて殺されに行くようである。
また、結果的には直親を裏切るかたちとなってしまった
小野但馬守は、それでもノコノコと井伊家に戻るので
あろうか。果たして、そんなふうにして「いいひと」
路線にも終止符が打たれていくのであろうか――。
少なくとも、入れ歯の寿桂尼さまからは今川の目付
としての役割を期待されている訳だから、彼としては
どんなに気まずくてもそのまま駿府に居付いてしまう
わけにはいかないはずである。だが、かといって、
これでもなお彼が「いいひと」であり続ける限りは
とても何食わぬ顔で戻ってこれるものでもあるまい。
よほど面の皮を厚くしなければ、彼は井伊家に戻って
これないように思われるのである。

ちなみに、このドラマでは小野但馬守は未だに独身
であることになっているが、これも私としては奇妙に
思える。彼は7年後に処刑されることになるのだが、
その一か月後には彼の息子二人も斬罪に処せられて
いるからだ。だいたい、現代でもあるまいにどうして
弟・玄蕃が妻を娶っていて兄が独身なのだろうか。


さて、『この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎』や
『歴史REAL おんな城主 井伊直虎の生涯』では、
どのような経緯で直親が殺されることなったと
説明しているのであろうか。まず、同書によれば
そもそも直親には父祖たちがなめた辛酸や築山殿との
繋がりに由来する潜在的な反今川・親家康の心があり、
そうであるがため、直親も今川家の足元が揺らいで
くると、実際に家康と内通するようになっていった。
しかし、父親と同様に今川家に忠誠を誓ってきた小野
但馬守は、そんな直親の心変りが目障りになってきた
ので、今川氏真に直親の謀反を訴えた。この事態に
新野左馬助が気が付いて弁明し、また直親自身も
釈明したので、氏真も一旦は兵を引いて直親誅殺を
思いとどまった。だが相変わらず直親謀反の噂は
消えないし、氏真としては何といっても自分の家の
凋落が著しくて疑心暗鬼に陥っていたから、なかなか
直親に対する不信感がぬぐえない。年若い直親は
申し開きをすれば何とかなるだろうと信じこみ、
「殺されるから止めとけ」という家来の諫めを聞かず
駿府に向かったが、氏真の方は結局「疑わしきは
罰するが最善」という結論に至り、朝比奈泰朝という
家来を使って直親を殺させた――ということである。
つまり同書によれば、直親には今川家によって父親を
殺された過去もあるわけで、直虎による築山殿の
命乞いなど無くても、その過去だけで充分、氏真に
疑われやすい立場にあったし、実際に今川家から
離反するようになってもおかしくない男であった。
また、二冊の本が説明するところの今川家は、一度は
直親誅殺を思いとどまるぐらいであるし、ドラマと
違って最初から直親を罠にハメようと仕掛けてきた
わけではなかった。だからこそ直親は氏真の思惑に
気づくことができず、死出の旅路になるとは知らずに
駿府へ旅立ち、また直親の家来たちもそこまで強く
止めることもできず、直親が殺される結果となって
しまったと解釈できる。――やはり、ドラマほどに
今川家の悪意が明白であれば、バカ正直に死出の旅に
向かう姿は奇妙に思えるのだ。


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疑心暗鬼の駿遠

2017-03-12 23:51:25 | 思索系
大河ドラマ「おんな城主 直虎」。このたびの話題は、
奥山朝利の死によって井伊家が分裂しそうになるのを
直虎が何とか食い止めたが、今度は家康の独立によって
駿府に取り残された築山殿の命が危うくなったので
またも直虎が助命活動に奔走する――といった話。
時代は、寿桂尼の孫と思われる鵜殿長照が討ち死にした
時点で1562年3月、直親27歳、家康20歳、今川氏真25歳
である。少なくとも築山殿はここでまだ死なないのだが、
彼女の養父の関口親永は氏真に去就を疑われた結果、
妻とともに切腹を命じられて死んでいる。問題は、
それが1562年のいつの事なのか。ドラマでは関口親永の
妻である南渓和尚の妹もまだ生きていたが、そうすると
彼女の夫の関口親永もまた1562年3月の時点でまだ生きて
いるということになる。

また奥山朝利が亡くなった時期については、虎松(後の
井伊直政)が産まれる二か月前とする説と、二年後の
1563年とする説があるが、このドラマは前者を採用
しているようだ。『この一冊でよくわかる! 女城主・
井伊直虎』によると、奥山氏は婚姻によって井伊家
分家のなかでも最大の実力者となっていたが、そうで
あるがために、井伊家の補佐役として一番でありたい
小野家にとって目障りな存在となっていたからだろう
という。さらに同書では、小野但馬守は今川氏真の
了解を得たうえで奥山朝利を殺害したとまで言い切って
いる。おそらく、そうでもなければ小野但馬守の暗殺は
失敗していたか、成功しても但馬守自身もお咎め無し
では済まされないと思われるからだろう。ドラマの
但馬守も、直盛の死をキッカケにおのれの野心を目覚め
させ、その野心によって奥山氏を殺すのかと思いきや、
あくまでも「良い人」の状態のまま、正当防衛によって
殺したことになっているようだ。そういう路線を守る
つもりであるなら、この後も相次ぐ直虎の親族の不幸を
どのように説明づけるつもりなのであろうか。


直虎の努力も何がしかあったにせよ、個人の力を超えた
ところで大きな時代のうねりが発生していた。今川
義元の横死に乗じて家康が西三河で独立したが、
東三河でもこれに追従する土豪たちが出始めていた。
そして、こうした動揺が遠江にも伝播すると、「正誤の
判別がつかない噂が飛び交い、遠江領内は敵味方の見
極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまった」
(ウィキペディアの今川義元の項)。このたびのドラマの
井伊家の時代は実はこうした空気に包まれていたはずで、
それだけにドラマを見ていて奇妙に感じるところも多い。
ドラマで強調されるのはあくまでも小野但馬守と直親の
友情であり、直虎の思いやりであり、親族の絆である。
また、今川家から代々井伊家の目付役を任されてきた
小野家にとって、今川家の屋台骨が揺らいでいることは
とてつもない危機であり、小野但馬守も日々不安でたまら
なかったはずであるが(特に父親が今川家の威を借りて
やりたい放題だったのであればなおさら)、ドラマの彼は
そんなそぶりをお首にも出さず、この点も奇妙に感じる。
まあ、前々回までおとなしかった奥山朝利が唐突に疑心
暗鬼になった背景を当時の不穏な空気感に求めることは
可能となるかもしれないが、それならそれで、前々から
小野家を目の敵にしていた中野直由や井伊直平などは
奥山朝利以上に小野家への猜疑心が強くなり、その結果
奥山朝利よりも先に殺されて然るべきなのに、なぜ彼らは
前回に限っておとなしかったのだろう。

今川氏真は、国衆の離反を恐れて新たな人質を要求したり
離反した家臣の人質を本当に処刑したりしていたようだが、
こうしたやり方はいずれも裏目に出ていたようである
(ウィキペディアの氏真の項による)。考えてもみれば、
国衆側にとっては人質を出したからといってそれを機に
今川家への忠誠心が固まるわけではないし、それだけに
人質を本当に殺されてしまっては頭にくるところだろう。
また、将来を見据えるうえでも、人質はなるべく丁重に
扱った方が、後でどんなふうに役立つかもしれない。
関ヶ原の戦い前、人質政策で戦いを有利に運ぼうとした
石田三成と、恩賞で味方を増やそうとした家康ではないが、
人質政策の類をあまりアテにしすぎることはこの場合
姑息な手段といえ、むしろ例えば主従共通の敵を想定して
団結を図り、その敵に対して戦いを仕掛け、これに勝って
領土を拡大させていくという方向性の方が、離反の問題を
根本的に解決させるには有効だったと考えられる。
思うに、やはり家来に領土拡大の夢を与えることこそ、
家来の心を繋ぎ止めるのに一番有効だったと思われる。
領土拡大のそぶりが無いところ、また疑心暗鬼に陥って
人質政策に頼ろうとするところを思うと、今川氏真はあまり
自分に自信がなかったのではないかと感じられてならない。
そして、彼の家来もそれを見透かしているから次々に
離れていってしまったのではないのだろうか。せめて、
雪斎がまだ存命であったなら――、そう感じられる。


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武士は食わねど・・・

2017-03-08 19:44:52 | 旅行記
仕事中に手をケガしてしまったので休まざるをえず、
おそろしくヒマである。したがって、今週は群馬県
甘楽町にある旧小畑藩邸とその大名庭園「楽山園」に
足を運んだ。小幡藩2万石は、江戸時代初めに織田信長の
次男・信雄が大和の宇陀藩3万石と共に得た領地で、
小畑藩の方は実質、信勝の息子・信良によって統治
された。まずは、最近見事に復元された「楽山園」の
画像をご覧いただきたい。庭園の植物は植えられた
ばかりの若い木が多いようだが、二つの東屋の右側の
梅の木は天然記念物で、しかも花盛りとなっていた。
庭園には、桜の木はもちろん、夏に咲く百日紅なども
あるので、他の季節になっても見ごたえありそうだ。






ところで、最初に紹介した大名庭園「楽山園」と藩邸の
図面をご覧いただきたい(下の画像)。



わずか二万石にして、こんなにも大規模な大名庭園――
実際に足を運んでみて、一つの予想が確信に変わる。
たった二万石の身上にしてはあまりにも分不相応な
広大さ!いくら織田信長の末裔たちであっても、
これを維持するのは絶対、大変だったはずだ――

この分不相応さがすごく気になったので、まずは現地で
事情を探ることにした。現地の掲示や冊子で分かった
ことは、織田信良が、信長の孫であるという理由で
家康から特別に国主格の待遇を与えられ、これだけ
広大な庭園の所有も許されたということ。しかし、
そうは言っても実際予算を捻出できないと、これだけ
広大な庭園はつくれない。そこで、諸大名から寄付を
募ってたしか数万両ぐらい得、それで実現を見たらしい。
誰が募ったかは忘れたが、家康の権力にものを言わせれば
諸大名もお金を出すということだろう。

だが、例えばそんな庭園一つにしても、ただつくるだけ
でなく、維持していかなければならないはずである。
また、高い格式ゆえに背伸びして庭園をつくらねば
ならないのであれば、例えば参勤交代の際の大名行列も
分不相応に背伸びした、豪華なものにするのが筋だ。
そこで帰宅したあとネットで調べてみると、やはり
そのシワ寄せは領民に及んでいたようである。ウィキ
ペディアの小幡藩の項によると、第2代藩主・信昌の
治世末期から財政難が始まり、宝暦5年(1755年)の
第5代藩主・織田信右の代には収入に対して支出が
2倍近くにも及んでいたという。また、第4代藩主・
信就の時代には財政再建が試みられたようであるが、
ものすごい重税を課したりしたのだろうか、領民が
織田氏の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願
するほどであった(ウィキペディアの信就の項)。

ちなみに、そもそも織田信雄父子がいきなりこれだけ
返り咲いた理由も、私にはイマイチ腑に落ちなかった。
現地の冊子を読んでも、あまりハッキリしないらしい。
「家康にとって主筋の人だったから・・・」とあるが、
よほど家康という人が義理堅い人物だったのだろうか。
ウィキペディアの信雄の項にあるように、大坂の陣の
際に家康のスパイとして役立ったから取り立てられた
のか。――だが私はやはり、織田信雄の孫娘・松孝院が
徳川家光の弟・忠長と結婚したことが関係している
ように思える。彼女が実際に嫁いだのは信雄父子が
小幡藩を与えられてから8年後のことであるが、もっと
早い時期に婚約が決まって、それに伴い小幡藩を与え
られたのだろうと想像する。ウィキペディアの彼女の
項からさらに想像するに、織田家の血を何が何でも
後世に残したいというお江(徳川秀忠の正室)の執念が
織田信雄の孫娘の結婚を手繰り寄せたのではないか。


最後に、昔の様子を最も残しているという江戸時代の
武家屋敷の画像をご覧いただきたい(下の画像)。



掲示によれば、これは勘定奉行だった高橋家の役宅跡
であるという。同家が残した近世文書は松平時代の
幕末の記録であるし、同家は松平時代の奉行だったの
だろう。勘定奉行なら、藩の財政状況に一番に向き
合わなければならないはずである。殿様が織田家から
松平家に代わり、財政状況はどうなったのだろうか。
そこで歴代の松平の殿様についてウィキペディアで
調べるのだが、良くなるどころか収入に対して借金が
10倍近くにもなっていたという(1844年)。織田家では
なくなったのだし、もはや国主格にふさわしい体面を
保つ必要もなくなったと思われるが、それにしても
織田時代のツケが大きかったのだろうか。

ちなみに、収入の10倍近い借金をかかえたのは松平
忠恵の時代であるが、この殿様は小幡藩江戸藩邸に
侵入した鼠小僧を見つけて捕獲させて幕府に引き
渡したことで知られる。泥棒の被害にあえば引き渡す
など当たり前の事のように思えるが、そこもまた
殿様家業の辛いところで、一般的に「大名屋敷では
面子と体面を守るために被害が発覚しても公に
しにくいという事情もあった」。また、そうかと
いってなかなか警備を厳重にするわけにもいかな
かったらしい。なぜなら厳重にすれば幕府から謀反の
疑いをかけられるかもしれないし、そもそもそれほど
お金が無かったりしたからである(以上、ウィキペ
ディアの鼠小僧の項による)。江戸時代も時代が
下ると、どこの藩も財政難ではあったかもしれないが
――、実際に捕まえて引き渡してしまうところ、
超・財政難の殿様ならではという感はある。
それとも、ただ単に鼠小僧がこの時初めて殿様と
鉢合わせするという不運に見舞われ、あえなく引き
渡されたということにすぎないのだろうか。


ともあれ、私の地元・川越(埼玉県)からは自動車で
わずか小一時間で着くことができ、しかも関東では
なかなか無い(と思われる)素晴らしい庭園である。
それでも近くの富岡製糸場ほど知られていないのは、
復元されてまだ五年しかたっていないからなのか、
それとも地元民を泣かせた人の屋敷だからなのか。
だが、富岡製糸場だけ見て帰るのは、もったいない。
私は平日に訪れたが、土日祝日はどれほど観光客が
来るのだろうか。――かつてはその圧政で地元民を
苦しめたお殿様の庭園ならばこそ、現代では地元の
経済に大きく貢献することを願っている。


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家が傾くとき

2017-03-05 22:13:23 | 思索系
大河ドラマ「おんな城主 直虎」。このたびの話題は、
運命の桶狭間の戦い。それは今川家もさることながら
井伊家にとっても命運が暗転する契機となったもの
である。時代は1560年5月、直親25歳、松平元康(のちの
家康)18歳、今川氏真23歳である。この戦いで横死した
今川義元は「海道一の弓取り」の異名を持った。当時の
年齢は42。私など、彼のことを今になって多少、勉強
したにすぎないが、ウィキペディアや『この一冊で
よくわかる!女城主・井伊直虎』によると、桶狭間の
戦いにおける実際の彼は「信長の家臣・服部春安が
真っ先に斬りつけようとした時、自ら抜刀して春安の
膝を斬りつけて撃退、さらに毛利良勝が斬りつけようと
した時にも数合ほどやり合った末に首を掻こうとした
良勝の指を食い千切って絶命した」という奮闘ぶり。
せっかくだから今年の今川義元はそういう武将らしい
死に方を最期に見せてくれるのだろうか――と期待
しながら見ていたのだが、姿さえ現さずいつの間にか
死んでしまった。

気になる点はこの他に二つある。まず、徳川家康に
ついてであるが、ドラマではこのたびのピンチを
抜け目なくチャンスと見抜いて早々に三河に戻ったが、
ウィキペディアの彼の項によれば実際の家康は
「松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害しようと
したが住職の登誉天室に諭されて考えを改め」たのだ
そうである。後年、本能寺の変にまきこまれた時で
さえ、最初は「狼狽して信長の後を追おうとする」
ような人だ。彼は実際はもう少しフツーの人だったの
ではないだろうか。

ところで、このドラマの舞台の一つ・龍潭寺が「龍潭
寺」と呼ばれるようになったのも、実は井伊直盛が
討死してからのことである。それ以前は「龍泰寺」と
呼ばれていたものが、死んで「龍潭」という法号を得た
直盛の菩提寺となったことで、「龍潭寺」という名に
変わったのである(『この一冊でよくわかる!女城主・
井伊直虎』による)。同書によれば「龍潭」とは「龍の
棲む淵」という意味だそうで、おそらくドラマの「龍宮
小僧」はこの名に関連付けて採用された創作だろう。
それはさておき、問題はこのたび横死した直盛の遺言の
内容である。『井伊家伝記』では、その内容をおおむね
次のように伝えているという:小野但馬は二心あって
心もとないので、井伊一族である中野直由に留守を
頼んできた。これからも但馬守と直親の主従の間が
心もとないので中野直由に井伊谷を預けたい――と。
つまり、同書によれば小野但馬守に猜疑心を向けていた
のは奥山朝利ではなく死んだ直盛の方で、直盛は小野
但馬守を信用してないからこそ、中野直由に後事を
託したのである。ドラマの小野但馬守は、父親こそ
策士であったが彼自身は今のところ特に大きな問題を
起こしてはいない。奥山朝利の猜疑心がどこから来る
のか、イマイチよく分からない感じがする。一方、
ウィキペディアの但馬守の項には「(但馬守)道好と
直親は、父同士が因縁もあり関係は不仲だった」と
あるので、『井伊家伝記』の直盛はこれを心配して
中野直由に後事を託したと解釈できる。


ウィキペディアの今川義元の項にある逸話のうち、
桶狭間の戦いの直前に義元の夢の中に玄広恵探が
現れて出陣をやめるよう言ってきたという話を
読んでいただきたい。玄広恵探と義元が骨肉の争いを
したのも今は昔、それでもこの義元は、「兄上、誠に
有り難きご配慮にはございまするが・・・」という
口さえもきけず、かえって目の敵にするばかり。
本当にこんな事があったのか真偽のほどは不明だが
傾いた家の者にふさわしい逸話ではあるまいか。
お家の一大事が起きた時こそ、一族や主従が団結して
守っていかなければならないのに、特に俗世の男どもは
コダワリが強すぎてそれが難しいから、家がますます
傾いていく。早くも離反や家来同士の対立が起き始めて
いる今川家、そして、どうしてなのかイマイチよく
分からないがドラマの井伊家にも、早くもこの兆候が
出始めているところなのだろう。


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