黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

思いのほかハードな大晦日

2016-12-31 19:57:52 | 日常
今年も、あとわずかで終わることとなった。
昨年の大晦日と同様、今日もフツーに仕事をしてきた
ところで「年忘れにっぽんの歌」など観てようやく大晦日を
実感しているところである。

それにしてもこの「さだめなき浮世」、昨年と全く同じ
ふうに一年を終えられることのなんとありがたいことか。
決して悪くはなかったこの一年、だがおそらくいつまでも
このままというわけにはいかない。なので真田幸村では
ないが「さだめなき浮世」ということになる。

今まで生きてきて初めて、「同じ仕事を長く続けている」
と言っていいかもしれない。後輩等の指導をする機会も
増えてきて、また昨年以上に周りの状況が読めるように
なってきて、それはそれで新種の苦労の種ともなっている。
だが、その過程で拙いながらも自分や人の心を見つめて
いくのも悪くはないかもしれない。
山本五十六の言う「男の修行」も厳しいものだが、
「やってみせ・・・」が語る理想の実現もなかなか難しい
ということにようやく気がついた。


来年も、良い一年でありますように。
これも使い古された言葉になるが、いまになって心から
そう思う。


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順当な結末

2016-12-19 00:56:54 | 思索系
大河ドラマ「真田丸」も、今回でついに
最終回。時代としては1615年5月7日、
主人公・幸村と豊臣家が滅亡したところで
話が終わった。幸村49歳、信之50歳。
最近の大河ドラマにはよくあることだが、
このたびも主人公や豊臣一族の死は隠され
滅亡の様子が明確に描かれないまま終わった
感じだ。思えばこの「真田丸」は裁判あり
認知症介護ありでかなり現代的な感じだった
が、その終わり方にしても、死を隠すべき
現代日本らしい終わり方だと思った。
しかし、そんな終わり方のドラマを見るたび
思うが、本当にそんな終わり方でいいの
だろうか。特に今年の主人公にとって自らの
滅亡というのは究極の不都合であろうが、
不都合であるからといって隠していいの
だろうか。べつに、うまくいかなかった
からといって、そんなのフツーではないか
(人生とはそうしたものだろうから)。
「諦めてしまえばそれで終わり」というのは
本当だろうが、かといって諦めなければ
必ず夢がかなうとも限らない。主人公は
ベストを尽くしたのだし、「それでもダメ
でした」という帰結でもそれはそれで私は
悪くはないと思うが、いかがだろうか。

さて、このたびの戦いも、連携の巧拙が
カギになっていた。ドラマでは、毛利勝永が
自分の持ち場を離れているうちに毛利隊が
戦闘開始し、勝永がこれを知って慌てて戻る
という場面があったが、これは敵の本多
忠朝の手勢に鉄砲をいかけられた勝永の
与力たちが各自の判断で勝手に応戦をして
しまったために始まった戦闘である。
また、これに気づいた松平忠直も抜け駆けを
始め、これにさらに本田忠朝も加わって
戦場は大混乱、毛利勝永や幸村が止めに
入っても後の祭りとなったという。
ただ、そうかと思うと、幸村のあの突撃も
毛利勝永との軌を一にした突撃、幸村の
突撃に最後までついてきた諸将の協力が
あったればこそ実現された。

だが結局、それでも多勢に無勢、矢尽き
刀折れ力尽きたようだ。また、ただでさえ
多勢に無勢であるのに大坂方の主戦派諸将は
「過早な突撃」によって「地形的優位」を
自ら捨て、その消耗を早めていたという。
失うものなど何もなく、存分に戦える幸村
たちに対し、勝っても収穫が少ないから
あまりやる気のない徳川家の家来たち。
それでも、大坂方が勝つなど万に一つも
ありえなかった。


カネや力にものを言わせて向かってくる
ものにギャフンと言わせる痛快劇の典型の
ように語られる幸村の武勇伝であるが、
その実像は消える寸前のロウソクの最後の
瞬きにすぎない。また、このドラマで以前
取り上げた二度の上田合戦、さらには忍城
攻めにおける城方の健闘も、長期間に
わたっていれば滅亡を免れたか、甚だ
疑問が残る。「小よく大を制す」という
ことは実際は一定の条件を満たした限定的な
現象で、そんな面白い話はあまり転がって
いない。結局はそういうところに帰結する
物語であるように感じられる。




死なせるための戦い

2016-12-12 00:40:31 | 思索系
大河ドラマ「真田丸」。このたびの話題は、
主人公・幸村が決死の覚悟で家康と対決
する、その直前で話が終わった。時代は、
大坂方のアニキ・後藤又兵衛が討死した
時点で1615年5月6日、幸村49歳、信之
50歳。主人公の幸村はこのアニキの翌日に
討死することになる。
上杉謙信みたいに義を貫いた人生ーー
ドラマの上杉景勝は、幸村の生き方をこう
評したつもりかもしれない。これには
私にはまだまだ疑問が残るが(なぜなら、
幸村が豊臣家のために働くことは同時に
幸村自身の利益を追求することでもある
から)、ただ、例えばやろうと思えば
逃げ出すこともできたはずであるから、
彼なりの美学を貫いた可能性はある。
長い長い潜伏期間の末に一瞬だけ輝いて
消えた、いわば打ち上げ花火のような人生。
それも悪くはないと思うが、少し寂しくは
ないだろうか。

さて、時代は夏の陣に突入している。
別冊歴史読本『真田幸村と大坂の陣』に
よると、このたび先陣の役割だった又兵衛は
後続の諸将に前進の合図を送らねばならな
かったのに、そうした連携を無視して単独で
出撃し討死した。そして又兵衛に無視された
後続の諸将もそれぞれ連携を無視して個別に
出撃し、直接交戦した徳川方に大きな打撃を
与えることができたものの、半数近い兵力を
失って後退したという。大坂方からして
みれば、どうせ最初から勝ち目のない戦い
である。又兵衛ほどの武将であっても功を
焦っても無理からぬことだったようだが、
「風林火山」のような統制のとれた軍隊とは
程遠いありさまだったことが分かる。

一方、同書によると、このたびほとんど
黙っていた大野治長のような和平派に
とって、この戦いは実は主戦派を討死させる
こと自体が目的だった可能性があるという。
徳川家との懸案事項だった主戦派を一掃
できれば徳川家との信頼関係も修復され、
豊臣家存続も夢ではなくなるはずであった
のだが、徳川軍が近づいてきてから主戦派を
出撃させたために主戦派を遠くへ追い出す
ことは不可能となり、負けても依然主戦派が
手元に多く残る状況となった。
しかも主戦派が徳川軍にそれなりに大きな
打撃を与えたことにより、総攻撃を回避する
余地さえ失った。和平派にとっても、もはや
ここに命運は尽きたというべきだろう。

ところで、ウィキペディアの福島正則の項で
死ぬ直前の家康にまつわる逸話を読んで
いただきたい。豊臣恩顧の大名の代表格に
思わず忠誠を誓わせる言葉を言わせてしまう
家康の老獪さ。ドラマの本多正信ではないが
敵を消すことしか脳のないドラマの秀忠より
何枚も上手である。秀忠よりも人の扱いが
うまい家康の鶴の一声さえ引き出せれば、
豊臣家も細々とだが存続できたかもしれ
ない。そう思うにつけても、実に残念な
戦いが始まったものだ。

諦めないから終わらない

2016-12-05 00:22:55 | 思索系
大河ドラマ「真田丸」。このたびの話題は、
牢人たちの暴走がついに歯止めがきかなく
なって勝ち目の無い戦が不可避となり、
幸村は死を覚悟して戦いに臨むーーといった
内容。時代は、家康が大坂再征を命じた時点
で1615年4月、幸村49歳、信之50歳である。
このたびは幸村たちが牢人たちの暴走を
止めようとするシーンなどが見られたが、
そんな幸村たちは茶臼山付近に新たな防御
設備の設置を計画しており、それが完成する
までは暴走を止めようということのようだ。
しかしながら、牢人たちの暴走にせよ、
幸村の防御設備設置計画にせよ、徳川家から
すれば、和平交渉相手としての信頼性を
損ねる行為であることに変わりはないと
思う。私が前回述べたような理想は
そのような「次の戦いのための暴走の阻止」
ではなく、「恒久的な平和のための暴走の
阻止」なのだ。そして、そうして和平交渉
相手としての信頼性を損ねた先に待って
いるのは、豊臣家にとって絶対勝ち目の無い
戦いなのである。それは、たとえ家康暗殺が
成功しても、だ。

ドラマの幸村は相変わらず「私はまだ諦め
てはいない」と言って家康暗殺を命じたり
しているが、だいたい戦争というものは
そんなふうに考える人によってズルズルと
続けられるものではないだろうか。
前回に感想を述べる時も第二次大戦時の
日本を引き合いに出したが、例えば旧日本軍
でも「絶対国防圏」なるものを定めていて、
これを破られた時点で降伏していれば
少なくとも本土空襲とか沖縄戦とか原爆投下
なんて無かったものを、その時もとにかく
「諦めない」という人たちが多かったの
だろう、戦争は続けられ、先述のような
事態も起きた。そう考えると実は、戦争を
諦めないよりは、諦める方がよほど勇気が
いることなのかもしれない。このたびは
ドラマでもようやく「資金が無い」という
場面が描かれたが、幸村はそれでも戦争を
続けようとしている。それも、和平派の
織田有楽斎を追い出してでもだ。これでも
第二次大戦を想起せずにいられようか。

もっとも、そもそも実際の幸村はドラマの
彼ほどの発言権があったとは考えにくい。
何しろ彼も所詮はカネで雇われた外様の者、
いまに残る身内への手紙の内容からしても
上からの命令をただただ淡々とこなして
いくのが本分という立場だったのではない
だろうか。となると、ここで恒久的な平和の
ために一番頑張るべき立場だったのは豊臣
秀頼と、彼を補弼する立場の大野治長だった
ということになる。実際、少なくとも史実の
治長は和平派の筆頭格だったはずなのだが、
ドラマの彼は戦争を続けようとしている
幸村にヤケに好意的で、実に奇妙だ。
実際の彼は、弟・治房をはじめとする
主戦派を疎ましく思いながら、徳川家との
関係改善のために奔走していたのでは
ないだろうか。

ドラマの幸村にしても実際の幸村にしても、
不本意なかたちで夏の陣をむかえるという
ことに違いはないかもしれない。だが
いずれにしろ、彼個人としてはもしかすると
九度山で朽ちて死ぬよりはある意味幸せだと
感じたかもしれない。ただ、日本全体の
平和、そして豊臣家存続を考えればやはり
悔いの残る結末に思える。繰り返す
ようだが、牢人問題の対処の仕方に
よっては、ベターな結末もありえたのでは
ないだろうか。