毎週恒例、大河ドラマの話。今日は、
忍城(今の埼玉県行田市)が話題になった。
時代がだいぶ違う話だが、
江戸時代では、忍城下には最大で10万石の
「忍藩」が存在した。
そして、その石高にちなんで作られたのが
「
十万石まんじゅう」である。
私はあのまんじゅうだけは大好きで
(具体的には、あの上品な甘さのこし餡と、
しつこすぎを抑えた程よい大きさが好き)、
店を見つけたときにある程度お金があったら
大抵は買っていく。
ただし、私の地元の川越は
江戸時代の石高は最大で17万石であったが。
それはともかく、今日の話の中心は
「上杉謙信のおごり」であった。
宇佐美という家臣は、
「おやかた様とて人間だから、おごりが出てくると
危ない」ともらしていたが、
なぜ人間であるとおごりが出たときに危ういのか。
それはおそらく、人間の未来は神の未来と違って
不確かなものだからではないだろうか。
今まではうまくいっても、次もうまくいくとは限らない。
確かに、過去の実績は未来の実績を測るための
手がかりにはなるかもしれないが、
それは所詮過去の事実であって、未来の事実ではない。
そして、ここでもし「おごり」によって
過去の事実と未来の事実を混同してしまうと、
その時おそらく人は自分を神だと錯覚してしまうのであろう。
なぜなら、神には過去も現在も未来も無い
(=つまり、神は永久不変である)からである。
同じように、晩年になって自分を神だと信じた信長は、
本能寺で明智光秀の襲撃を知ったとき、
「是非に及ばず(=しょうがない)」と言った。
明智光秀の謀反の理由については諸説あるが、
もし信長が晩年になっても自分が人間であることを
忘れていなければ(=過去の事実と未来の事実を
混同せず、未来が不確かであることを忘れてなければ)、
用心深い信長の事だから「しょうがある」ことも
あった(つまり、本能寺に堀はあったにせよ、
もうちょっとマシな対処の仕方があった)のかもしれない。