黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

権力者の「おごり」とは

2012-09-30 23:18:07 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたびの話題は、
清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内し、
いよいよ平家の一人勝ちとなっていく――と
いったもの。徳子が入内したのは1171年12月、
清盛54歳、後白河法皇45歳、源頼朝が25歳、
北条政子は15歳である。

最近登場している「禿」についてであるが、
これは『平家物語』の「禿髪」に登場する
者たちのようである。『平家物語』では
「入道相国のはかりごと」であるとしており、
平時忠が使っているとは述べてないようだが、
「禿」の務めの内容はドラマと同じらしい。
いずれにしても、本当にこうした集団が
いたのかは、私には分かりかねる。

この度の主な政治的出来事である徳子の
入内についてであるが、ドラマの描き方とは
対照的に、『平清盛の闘い幻の中世国家』では
あまりこの出来事を「清盛が成しとげた
大躍進」として大々的にとりあげていない
ようである。というのも同書では、
当時に近い時代の先例を根拠に、「摂関と
外戚とは分離しており、摂関以外の外戚は
政治的地位を上昇・安定させるものの、
政権の座とは無関係である」と解釈している
からである。どうもドラマと違って同書では、
徳子の入内は平氏政権の樹立を約束するもの
ではないと解釈しているようなのだ
(もしかするとドラマのほうは、同書が述べる
「通説的理解」に基づいて描かれているの
かもしれないが)。そして同書では、清盛が
徳子を入内させた思惑について、家格の上昇・
安定のためではないかとしている。

また、このたびのドラマの貴族たちは、
徳子の入内について「武門の血が入ってくる
なんてゆゆしきことじゃ」と忌まわしげに
していたが、先述の本ではこの点についても、
「徳子が後白河院の猶子として入内したため、
高倉と兄妹になってしまうことが非難された
ものの、武門の娘ということは何ら問題と
なっていな」かったとしている。

ところで、動乱の時代だからなのか分からぬが、
平安時代末期には面白い女性が多い。
ドラマではいつも平家の敵役として登場する
八条院であるが、実際の彼女はとにかく
おおらかな性格で、例えば彼女の財産を上皇や
天皇が勝手に拝借しても気にしなかったり、
「塵が積もった御所の中で、女房がちぐはぐな
衣装を着ても気に留めなかった」という。
別冊歴史読本『源氏対平氏』では彼女のことを
「戦乱のなかで不遇になった多くの人々を
庇護したが、そのなかには、後白河法皇もいた」
とか、平氏とも源氏とも円満な関係を保って
いた、というふうに紹介しているが、
ウィキペディアの彼女の項では「(以仁王が
挙兵した時代では)八条院自身の立場は
さておき、彼女の周辺には、反平家の人々が
集っていた。」とも述べている。
これは私の勝手な想像にすぎないが、彼女が
「負け組」たちを助けていくという務め上、
「勝ち組」だった清盛たちとはどうしても
ぶつからざるをえない場面が多くなっていた
可能性はあったかもしれない。


力を持った人間が「おごっている」と見なされ
「おごれる者も久しからず」ということに
なってしまうのは、思うに「あの人は自分の
利益ばかり考えている」と思う人が多くなり、
そうなったがために、多くの人々の支持を
失ってしまうからではないのだろうか。
たとえ本人におごってるつもりはなくても、
他人の利益を守ったり還元するというかたちで
結果を出さなければ、結局は「おごれる者」
よばわりされ、「おごれる者も久しからず」
ということになってしまうものだと思う。
史実の清盛たちにしろ、あるいは彼らなりに
世のため人のためを考え続け、にもかかわらず
結果を出せなかったがために、「おごれる者」
よばわりされてしまっただけかもしれない。
ただ、少なくとも、清盛を「おごれる者」
よばわりしている『平家物語』に近い描き方を
しているこのドラマのことだから、ここは
「ドラマの清盛は所詮は自分の利益しか
考えてない」ということにするべきなのだろう。
前回も気になったことであるが、ドラマの
清盛が貿易を始めたり栄華を極めたり
することによって、果たしてどれだけ多くの
人間がその恩恵を感じているのだろうか。
もしかすると清盛のしていることは、
ある種の「善意の押し付け」にすぎないの
ではあるまいか、と――。
権力者の「おごり」には、自分勝手さが
つきもののように思える。

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新説「桶狭間の戦い」

2012-09-25 17:41:31 | 思索系
先週、「BS歴史館」という番組で
「桶狭間の戦い」がとりあげられた。
「桶狭間の戦い」とは、大軍勢を率いて京を
目指す今川義元を、若き織田信長が寡兵ながらも
迂回奇襲作戦によって撃破、義元の首を取ったと
される戦いであるが、この番組ではこうした
定説を、『信長公記』という史料を根拠に
くつがえしていく――といった内容である
(『信長公記』とは、信長の家来だった
太田牛一という人が記した史料である)。
当初、このブログでは別の話題をとりあげる
予定であったが、この番組の内容が
私にとっては新鮮に感じられたので、
このたびは久々にこの番組内容を話題にしたい。

番組によると、『信長公記』という史料から
分かる事と、定説とでは、大きく異なっている
部分が2点あるという。その1つ目の相違点は
今川義元の目的で、『信長公記』から解釈するに
今川義元は上洛のためではなく、織田軍に
包囲されている国境付近の支城(それらは以前は
織田家の城だった)を救うために進軍したのでは
ないかという。「桶狭間の戦い」とは信長が
仕掛けた旧領奪還作戦で、むしろ今川義元の方が
これに対処するかたちだったのではないかという
ことである。そして、もう1つの相違点が
今川義元が休んだ場所「桶狭間」についてで、
そこは谷ではなく、「おけはざま山」という
山だったのではないかということである。

『信長公記』によると、前線基地の砦に駆け
つけた後の織田信長軍は、歩けば足をとられる
ような深田の一本道を進んで「おけはざま山」に
むかったという。そしてそこは、山で休んでいる
敵の今川勢から丸見えのような道であった。
このとき信長は、進軍に反対する家来に対し
「今川勢は我らと違って前日の戦に疲れている
はずだから勝てるさ」と言ったというが、
そうだとしても、果たしてこの後の信長は
どうやって今川の大軍相手に勝利をおさめたのか。
そのへんの謎は、どうやら番組の出演者も
よく分かっていないようであった。

番組ではその後、当時の織田軍の強さの秘密に
せまる。ふつう、戦国時代の武士は普段は
農業に専念し、有事の際に兵士になるもので、
彼らは土地という恩賞目当てに戦うものだった。
しかし、そうした武士であれば軍事訓練の
時間は限られ、例えば負け戦にでもなると
主君への忠誠心をも捨ててしまうケースもある。
そこで信長は、農家の次男・三男を金で雇い、
農業から離れさせ、専門的な軍事訓練をさせて、
そして一途に信長のために奉仕するよう教育した。
そうしてつくられた信長軍はよく統制が取れ、
しかも土地にしがみつくことなく信長のために
一途に命をかけ、ひいては信長の天下統一事業に
貢献する結果にもなったという。

また、兵士を金で雇うには高い経済力を要する。
しかし、織田家は津島、熱田といった新興の
港湾都市をかかえ、そこから莫大な資金を
得ていたため、「不思議なくらい儲かっていた」。
その儲かりぶりは、伊勢神宮に一億円、当時の
皇居に六億円も献金できるほどであったという。
私は今まで知らなかったが、織田家は領地が
それほど広くないわりに豊かだったようだ。

番組によると、戦国時代は農民・商人が自治を
進め、各大名が相応の分国法を定めて統治する
ようになってきた自治分権の時代であった。
それゆえ、地方分権型の日本の未来のありようも
当時は選択肢としてあったはずだが、信長は
これを好まず、武家による天下統一を目指した。
しかしながら、天下統一しようと思えばそのぶん
犠牲も増えてくるし、信長の家臣としても、
「天下統一」事業に協力する義理など本当は無い
(自分の領地を守り、周囲に広げていくといった、
身近で目に見えるかたちの事業ならともかく)。
そこのところを信長は、自分のために命をかける
ような軍隊をつくりあげ、彼らを使って「天下
統一」事業を進めていくことに成功した。
これを信長の功績と位置づけて、番組は終わる。


最後に、この番組を見て思った事を少し述べる。
番組では信長を「新興都市が産んだアイディア
豊富な天才」と評しているが、思うに信長とて、
日頃の研鑽なくしてアイディアが湧き出る
はずがない(エジソンではないけれど)。
幼い頃の信長は文房具代としてもらったお金を
元手に仲間と石投げ合戦をし、功績のあった
仲間にはそのお金を与えていたそうであるが、
信長はもしかすると、その他に、例えば父親や
他の大名の統治の仕方を日頃から観察したり、
僧からも教えを乞うたり、街なかを歩き回って
最新のニュースをマメにキャッチしたりしていた
かもしれない(これは全く私の想像にすぎないが)。
思うに信長は、そういうふうにして常日頃から
政治感覚・経済感覚を磨き続けてきたからこそ、
イザという時にたった一人でひらめいちゃう
「天才」となりえたのではないだろうか。
少なくともそうでもなければ、信長の
「天才」ぶりは私の理解を超えたものとなる。

また、織田信長というとどうしても「中世を
ターミネートさせた男」という、革命児の
イメージが先行しがちであるが、以前にも
当ブログで指摘したように(こちらで)、
信長が全く独自に考え出したアイディアという
ものは私の知る限り意外と少ないものである。
番組では、信長軍の画期性や、『信長公記』が
伝える「桶狭間の戦い」の信長の型破りな
戦い方(敵の今川勢から丸見えのような道を
敢えて進んだこと等)をとりあげていたけれど、
それらのアイディアとて、果たして本当に
一から信長一人で思いついたことなのか、実は
信長は父親や先輩大名のアイディアを参考にした
ものではなかったのか、そのへんに関して
番組で全く言及されなかったところが、
私の心にひっかかっている。ただ、仮に番組で
とりあげられた信長の「アイディア」が全て
信長独自のアイディアではなかったとしても、
参考にしようと思いつき、それを実行に移した
事は、信長の手柄と考えていいだろう。

同じ当ブログ記事でも少し指摘したが、
信長の政策にはまた不完全な部分もあった。
以前の記事ではとりあげなかった点であるが、
『歴史群像シリーズ特別編集 全国版
戦国武将群雄譜 国人・大名・異能衆伝』に
よれば、信長の政策には「意外と現状に
妥協した穏健な政策が目に付く」という。
例えば関所の廃止という改革にしても、京都の
七関は残しておいたり、「伊勢・近江・畿内と
版図を伸ばしながらも、彼は守護家や国人の
既得権を安堵していった」。
父親や、先輩大名たちが残していった
アイディアや功績無くして英傑・信長は無く、
信長一代の力で旧体制を完全に改革できた
訳でもない(旧体制を変革したいという意識は
信長に常にあったと思われるが)。
しかし信長は、参考になりそうなアイディアを
取捨選択し、これを実行に移していく才能を、
日々の研鑽によって身につけていたため、
ある程度革新的な政策を、ある程度進める
ことができた。――あるいは、信長像を
こう評するべきなのではないかと思う。


追記:後日の別番組「歴史秘話ヒストリア」
によると、「桶狭間の戦い」の時代の
信長の領地の広さは今川義元のそれの
六分の一だったにもかかわらず、
後世の秀吉による検地結果に基づく
両国の石高の差はわずか5万石であった
という(信長の領地は57万石、今川義元の
それは62万石)。当時の信長の領地が
農業の面から見ても豊かであることが
同番組で説明された。


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清盛の影・重盛Ⅱ

2012-09-23 23:44:22 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」このたびの話題は、
輿に乗った藤原基房と平資盛(重盛の息子)との
間で喧嘩沙汰が起きたという「殿下乗合事件」。
時代は前回と同じ1170年、清盛53歳、後白河
法皇44歳、源頼朝が24歳、北条政子は14歳である。

ウィキペディアの殿下乗合事件の項を読むに、
ドラマにおける「殿下乗合事件」の経緯は
軍記物『平家物語』が伝えるところに近く、
『玉葉』『愚管抄』『百錬抄』といった史料が
伝えるところとは異なっている。
ドラマでは、最初に重盛が報復しないという
方針を決めたにもかかわらず、清盛の意をくんだ
時忠によって報復がなされ、そうと知らない
平家一門がこの報復をそろって歓迎し、
重盛一人だけが悔しい思いをさせられるという
展開であった。そして、『平家物語』では
重盛ではなく清盛が報復をおこない、その後に
なって重盛が騒動に参加した侍たちを勘当したり、
資盛を伊勢国で謹慎させたという経緯であるのに
対し、史料からの解釈では、重盛が報復を
おこなったのちに藤原基房と和解、その後、
清盛が謝罪の意味をこめて藤原基房を太政大臣に
就任させた可能性もあるとしている。
だが、同項の冒頭部分を読んでみた限り、
ウィキペディアでは前者の『平家物語』よりも、
後者の複数の史料が伝える経緯を
より真実に近いと見なしているようである。
また、後者の複数の史料が伝えるところでは
藤原基房は「平家への恨みをはらすために
敢えて資盛に嫌がらせをした」どころか、
重盛による報復の可能性が出てきたことに
震えあがり、従者を勘当したり首謀者の身柄を
検非違使に引き渡したばかりでなく、
邸に篭って参内しなくなるほどであったという。
それはそうだろう、平家は殺しのプロなのだから。

なお、同項によれば「『平家物語』における
記述は、清盛を悪役、重盛を平家一門の
良識派として描写する、物語の構成上の演出の
ための創作であると考えられている」そうで、
あるいはこのドラマも同じような方針に基づいて
重盛像を描写したものかもしれない。
実際、ウィキペディアの重盛の項によると、
重盛に対する同時代人の評価は「好意的なものが
多く、優れた武人であると同時に穏和で気配りの
できる人物」とは評されていたらしい。
しかしながら、あとで清盛と後白河院が対立する
ようになると重盛は彼らの板ばさみに苦しむ
日々をおくるようになり、さらに実母の身分が
低いので重盛を支えてくれる有力な親族もなく、
同母弟の基盛も早くに死去しているため、
重盛は孤立感を深めるようになったのではないか
という。そういえばドラマの重盛にしても、
支えといえば妻による慰めぐらいなものである。


これは現代人の後知恵かもしれないが、
ドラマの清盛の場合、重盛の優しさ・正しさを
心配するのであれば、重盛のそばに信頼できる
ブレーンを置かせ、彼を通じて自分の方針なり
考えを重盛に教え伝えればいいのではないか
(さらに申せば、時忠のような一門の人間では
重盛と立場が違う限り問題が出てくる可能性が
あるため、むしろ平家貞とか平盛国のような
陪臣がブレーンにふさわしいと思う)。
既に母方の親族の支えも基盛もいないような
重盛を棟梁にしたのだから、すぐには福原などに
行かず、数年は責任を持って京に留まり重盛を
支えてやるべきだ――とまでは言わないけれど、
せめてブレーンをつけてやるぐらいの支援は
そろそろすべきなのではあるまいか。
たしかに若き日の清盛にも、母方の有力親族や
同母弟などはいなかったかもしれないが、
清盛が棟梁になった頃とは所帯の規模が違うし、
誰もが清盛と同じように出来るとも限らない。
そもそも平家一門と彼らの家来のうち、
果たしてどれくらいの人間が清盛と同じ夢を
共有できているのだろうか。
ひょっとすると彼らの多くは、外国貿易など
やってもやらなくてもどっちでもいいとしか
思っていないのではないだろうか――。


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清盛の影・重盛

2012-09-16 23:54:29 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」このたびの話題は、
延暦寺の僧が藤原成親の流罪を求めて
強訴するという話であった。後白河上皇、
藤原基房、平重盛という役者がそろった
ところに満を持して清盛が登場した時点で
1170年の1月、清盛53歳、後白河法皇は44歳、
常盤御前は33歳、源頼朝は24歳、そして
北条政子は14歳である。
むかし、幼少だったドラマの重盛の所有を
かけて清盛と後白河がゲームをするという
シーンがあったが、このたびはまさにそんな
シーンの再現といっていいかもしれない。
ウィキペディアの重盛の項にもあるが、
「重盛は一門の代表とはいえ、重要案件に
ついては清盛の判断が優先していて、自らの
意思・行動はかなり制約されており」、
そのために面目をつぶされることもあった。
ドラマの重盛の今後が心配される内容である。

『平清盛の闘い 幻の中世国家』によると、
清盛と後白河の表面的な協調関係の裏には、
政治構想の違いに由来する対立関係があった。
清盛と後白河は、高倉天皇を擁護するという点で
利害が一致するため表面的には友好的であり、
だからこそ両者同席の千僧供養も実現したので
あるが、後白河法皇が専制政治を確立して
院近臣の恣意的な人事を実現させたいと考え、
院近臣もそうして自分たちをどんどん昇進
させてくれることを後白河法皇に期待して
いるのに対し、清盛はその人事に介入する
などして専制の実現を阻み、平家一門も
高位高官の座を次々に奪ってゆく。
一方、王家との婚姻関係によって家格を維持・
向上させたい平家一門にとって院近臣の台頭は
脅威であるし、院近臣がどんどん取り立て
られて自分達が政務から疎外される事態は
不都合でもあった。同書によれば、このたび
清盛が強訴の鎮圧に消極的だった理由の一つは、
このような、清盛と後白河の裏の対立関係
ゆえに、清盛は院近臣の救済に不快感を感じて
いたからではないかという。その他の理由と
して、清盛と明雲が誼を通じていたこと、
平家が後白河の言いなりでないことを
アピールする狙いがあったこと(この二点は
ドラマの清盛もほのめかしていた)も同書で
指摘しているが。

また、このたびは重盛が藤原成親と清盛との
板ばさみに苦しんでいたが、思うにこうした
重盛の苦悩の背景の一つとして、重盛と
清盛の後白河法皇に対する関係性の違いも、
可能性として考えられないだろうか。
先述の本によると、清盛自身が皇胤で、
しかも後白河が清盛のおかげで天皇や治天の
君になれた側面すらあるのに対し、重盛は
後白河の御給で昇進し、後白河院政確立後に
公卿として活動してきたという。
重盛と清盛に生来の性格の違いもさること
ながら、こうした立場の違いもあれば、
おのずと後白河法皇に対する態度も違ってくる
ものではあるまいか。重盛の立場を思えば、
少なくとも後白河法皇に対して清盛ほど強気に
振舞えないのも無理からぬことではあるまいか。


源頼朝、織田信長、豊臣秀吉――
もしかすると別冊歴史読本の『太閤秀吉と
豊臣一族』に同様のことが書かれていた
かもしれないが、極端に運の強すぎる男子が
一人存在している家では、その人以外の男子の
運が弱くなる傾向があるのではないかと感じる。
そして思うに、もし清盛が率いた平家一門も
(ドラマの彼らのように)清盛無しでは
凡庸な対応しかできないということならば、
この例に漏れず、それゆえに清盛の死後、
あっけなく滅亡していったのではないかと
感じられる(むろん、彼らが滅亡した直接的な
理由は別に存在したに違いないが)。


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日経の歴史ランキング

2012-09-14 16:31:24 | 思索系
先の土曜日、日経プラス1の冒頭「何でも
ランキング」で、「歴女が訪ねたい城下町」と
「歴女が好きな戦国武将」のランキングが
掲載された。これらランキングは、ウェブでも
こちらで見ることができる。
ランクインしている城下町のうち、私も
行ったことがあるのは姫路と大坂だけなので、
とても参考になった。城下町のランキングに
その街でオススメの食べ物等も回答として
紹介されていることに関連して、
このたびは、私の印象に残っているスイーツ
(もちろん城下町の)を紹介し、「歴女が好きな
戦国武将」について思うところを述べたい。

まず、印象に残った城下町のスイーツに
ついてであるが、奈良県の大和郡山城に行った
さい、近くの「本家菊屋」という老舗で
売っていたスイーツに「御城之口餅」という
和菓子があった。たしか、きび団子ぐらいの
大きさの大福で、こちらの公式HPによれば、
かつて大和郡山城主だった豊臣秀長の
「兄者をもてなすための菓子を作ってくれ」
という命令で作られたものだそうである
(つまり、400年以上の歴史を持つ和菓子)。
上品な甘さで美味しいと感じたものの、
足が速いので持ち帰りには不向きだと思った。

もう一品は、彦根城のお堀近くにあった
「たねや」の店舗の一つ「彦根美濠の舎」の
アフタヌーンティーセット(公式HP)。
これは、2人前からの注文になっている。
ティーバッグやペットボトルに入ってない
紅茶などそれまで飲んだことがなかったが、
店員さんが正しい飲み方を教えてくれた。
空のティーカップに専用の「こし器」を
つけて・・・急須(に相当するもの)から紅茶を
注いで・・・上品に盛られたスイーツを
不器用に食べて・・・、疲れを癒すために
ノンビリとすごした「ティータイム」――。
イングリィッシュ・レディの気分で優雅に
すごすことができたのが、思い出に残っている。
同店の別の階や建物で和洋のスイーツを
持ち帰るだけであればともかく、
このアフタヌーンティーセットに関しては、
行きたいところを一通りまわり終えてから
食べることをオススメしたい
(たしか、注文してから出てくるまで
ちょっと時間のかかるものだったと思うし)。

次に、「歴女が好きな戦国武将」について。
これはどうだろう、ランクインしている
武将のうち、少なくとも3位の徳川家康と
7位の武田信玄には私は親しみを感じている。
私の地元・川越(埼玉県)が徳川家と縁が
深かったり、時々日帰りで山梨に遊びに行ったり
するところも、親しみを感じる理由の一つかも
しれないが、やはり日経の記事にあるように、
テレビドラマの影響が大きいのかもしれない。
特に後者の武田信玄については、1988年の
大河ドラマの物語そのものが深く心に残っている。

その、1988年の大河ドラマの再放送を見て以来
何年も気になっていたのが、あのドラマのなかで
なぜ武田信玄や上杉謙信が「山の神」と呼ばれて
いたのか、である。当初は「山がちな地域を領し、
大軍勢を率いる程の権力を持ち、かつ、無敵を
誇ったからだろう」と思ったが、果たしてただ
それだけだろうか。彼らが「神」と呼ばれる
からには、さらにもっと特別な条件を兼ね備えて
いたのではないだろうか――。私はそう思った。
そんななか、たまたま神道のことも少し学ぶ
ようになったうちに、ふと思いついた。
ドラマのなかで彼らを「神」と呼んだのは、
彼らが父祖伝来の地に根をおろして活動し、
結局最期までそこから拠点を移さなかったから
ではないのだろうか、と。武田信玄の場合、
晩年こそ京を目指して途中で力尽き、本人は
さぞかし無念だったであろうが、この挫折に
よって、結果的に信玄はあのドラマのなかで
「山の神」たりえたのではないかと思った。

あのドラマには、やはり手堅く領土を広げて
信玄とも渡りあった小田原の北条氏康も
登場したが、小田原北条氏の相模人としての
歴史の浅さを思えば、まだまだ神とは呼びがたい。
また駿河の今川義元は、尾張の信長に自分の
首までとられてしまったので、やはり神ではない。
それと、日経のランキングでは人気の高い
戦国の三傑(信長・秀吉・家康)の場合は、
出世するとともに故郷を離れて拠点を移して
いったので、やはり神とは言いがたい。
全国に点在する神社ではないけれど、
父祖伝来の地から離れずに最強を誇った人こそ
「神」と呼ばれるにふさわしいと思うのである。

テレビで関西人ぽい人が「家康きらい」なんて
言っているのを見るとちょっと寂しい気分に
なるものの、家康がこの日経のランキングで
5位の秀吉を押しのけ、3位につけたのは
大健闘に思えた(オシャレでカッコよくて、
大物感もある信長や伊達政宗には及ばなかったに
しても――)。秀吉の場合、天下統一後の
ゴタゴタや朝鮮出兵が無ければ、あるいは
家康よりも高ランクにつけたかもしれない。
私の想像にすぎないけれど、少なくとも秀吉に
一票を投じた人は、千利休や秀次一族を殺して
朝鮮に兵を出した秀吉に票を投じたのではなく、
日の出の勢いで出世し天下を統一していく秀吉、
あるいは郷土の恩人としての秀吉に一票入れたの
ではないだろうか??

なお、gooランキング「好感が持てる日本の戦国
時代の武将ランキング」では、秀吉は4位で
家康は5位と、むしろ秀吉の方が高ランクに
つけている(こちら)。
よく読んでみると、先の日経のランキングでは
「歴女が好きな」戦国武将というランキング名に
なっており、結果に違いが出たポイントも
この点に表されているのかもしれない。
秀吉の晩年と家康の晩年(あるいは両者の死後)の
違いから感じられる家康の安定感や着実な感じが
女性に「頼もしい」という印象を与え、
家康の評価を相対的に高めたのではあるまいか。
ただ単に私が家康を相対的に頼もしいと感じて
いるだけなのかもしれないが(自覚はないけど)、
あるいは家康に票を投じた他の女性も
そう感じているのではないかと思うのである。


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頼盛の孤独

2012-09-09 23:52:45 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたびの話題は、
清盛が出家して新たな日宋貿易の拠点づくりを
始めるという話であった。時代は、頼盛が
全ての官職を解かれた時点でまだ1168年。
清盛は51歳、後白河上皇は42歳、源頼朝は22歳、
そして北条政子は12歳である。
福原に新たな拠点をつくって、後白河上皇の
手のひらから離れようとする平清盛。
ドラマの後白河上皇はこの清盛の意図を
見透かしているかのように、ドラマの清盛に
「ココから離れるからにはそれなりに覚悟して
おけよ」と言って脅していた。
なお、このたび遮那王(後の源義経)を演じて
いたのは神木隆之介さんであるが、彼は2005年の
大河ドラマ「義経」でも子供時代の義経を演じた。

ドラマでは、頼盛が滋子への奉仕を怠った事に
対して後白河上皇が怒っていたが、そもそも
なぜ、頼盛は滋子への奉仕を怠ったのだろうか。
これについては、頼盛が滋子のために「皇太后
宮権大夫」を辞任するハメになったからだという
直接的な理由もあるだろう。ただその他に、
ウィキペディアの頼盛の項に、そもそも頼盛は
滋子とは疎遠であったと説明しているので、
この点も頼盛が滋子への奉仕を怠った背景の
一つだったのではないかと思われる。
一方で同項の推測によれば、亡き美福門院の
養女で、やはり滋子のために后位を追われた
呈子に対しては、頼盛は親近感をいだいていたの
ではないかという。そして、やはり美福門院との
つながりゆえに八条院とも関係が深かったのでは
ないかという推測をたてている。
このたびのドラマでの頼盛と八条院とのシーンは、
頼盛政界復帰後の彼らのつながりを暗示するもの
かもしれない。

ちなみに、ドラマの重盛は頼盛が解官された際にも
元気な姿を見せていたが、ウィキペディアの
頼盛の項によると、このとき重盛は病気であった。
そして、同項では、「解官の背景には、独自の
動きを見せていた頼盛を完全な統制下に置く
ことで、重盛の地位を守ろうとする清盛の意思が
介在していた可能性もある。」としている
(ドラマでは、後白河上皇が解官させたことに
なっているが)。

一方、このたびのドラマの伊豆では、たしか
佐々木なにがしという武士が酒の勢いに任せて
平家に対する恨み言を言っていた。
これは「BS歴史館」という番組で北条一族や
清盛の財テクをとりあげたときにも誰かが
言及しただろうか、「平家は知行国を増やすと
同時に、それまで知行国で収奪されてきた人達の
恨みをも一身に集めるようになっていった」と
解説していた気がする。この記憶が正しければ、
まさに今のドラマの平家は、知行国を増やすと
同時に、知行国で収奪されていた人たちの
恨みをも集めつつあるということかもしれない。
だが、まだあまり熟読できていないけれど、
『平清盛の闘い 幻の中世国家』の見解はどうも
「平家は知行国を増やすと同時に、それまで
知行国で収奪されてきた人達の恨みをも一身に
集めるようになっていった」という「通説」とは
異なるようである。


ドラマの頼盛は、保元の乱のことばかりを
問題にして血筋のことは何も言わなかったが、
そもそも彼は池禅尼と忠盛の子でない清盛が
平家を牛耳っているのをあんまり不満に
思っていないのだろうか??(私が頼盛と同じ
立場なら、不満に思ってしまいそうだが)
いずれにしても、清盛は自分の夢を語り、
「お前の居場所はここしか無いんだぞ」と
遠まわしに言うばかりで、頼盛の気持ちと
マトモに向き合おうとはしない。
なので、今後の頼盛が平家の内部に自分の
居場所を見出せるかどうか、個人的には
心配になるのだけれど、ドラマでは
見出したということにしてしまうのかもしれない。


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2014年の大河を予測

2012-09-06 00:13:51 | 日常
最近、大河ドラマを見終えた後でふと思った。
2014年の大河ドラマの題材は果たして何だろう。
もう、とっくに決まっているだろうと思い、
ネットで検索してみたが、どうやらそうでも
ないらしい。夏の疲れが蓄積されているのと
長い文章の記事を載せすぎて疲れてきている
という個人的な事情もあったりするので、
このたびは2014年の大河ドラマの題材を
私なりに予測してみたい。

「この人を題材にしてほしい」という個人的な
要望は多くあるものの、実際2014年の題材に
選ばれるのは、むしろ九州ゆかりの男性なの
ではないかと感じている。まず、最近では
主人公が男女交互に選ばれているようなので、
この法則に従えば、2014年の主人公は男性と
いうことになる。そして、もし日本の各地域に
平等に題材を求めようとするのであれば、
「篤姫」の2008年以来舞台に選ばれていない
九州を題材にすることが順当に思えるからだ。
では具体的に、この条件に当てはまる
人物として誰を連想できるだろうか。

まず、私が連想できる人物のなかで最も著名
かつ面白そうに思えるのが、薩摩の島津義久・
義弘兄弟である。彼らについてそれほどよく
知っているわけではないが、私の認識では、
彼らは豊臣の世になっても徳川の世となっても
それなりに「自分」を貫き、輝かせ、そして
あくまでも薩摩を領し続ける事に成功した。
そんな彼らの奮闘ぶりを描けば痛快だろうと
私は思っているが、島津の武名がとどろいた
朝鮮出兵を描く際には、ちょっと難しい所が
出てくるかもしれない。

その他、肥前では戦国大名の龍造寺隆信に
幕末・明治期の鍋島直正や大隈重信、
豊前であれば幕末・明治期の福澤諭吉、
また熊本県民に親しまれている加藤清正、
黒田如水・長政父子、細川忠興あたりが
有名どころだろうか。一方、西郷隆盛や
大久保利通は既に「翔ぶが如く」(1990年)で
主役をはったはずだし、豊後の戦国大名・
大友宗麟は、かつて同局の正月時代劇の
主人公に選ばれたはずである(その宗麟の
時代劇に対する私の過去の感想はこちら)。
が、だからといって、彼らも2014年の題材に
選ばれないとは限らないだろう。
または、特定の著名人というより、有名な
出来事が題材になったりするかもしれない。
既に一度は題材になった蒙古襲来の他に、
天正遣欧使節、島原の乱、あるいは薩摩藩の
木曽三川工事などは、私も知る出来事である。

思えば、2008年の題材が篤姫とわかったとき、
私などは「誰それ??」と思ったものである。
あるいは私が知らないような人物や出来事が、
題材に選ばれたりするかもしれない。
また、例えば天正遣欧使節が題材になると
海外の場面が多くなりそうであるが、
1980年の大河「獅子の時代」を想起すれば、
まぁ不思議とは言えまい。だがいずれにせよ、
個人的には最初に言及した島津義久・義弘
兄弟をとりあげてほしいと思っている。


なお、これは全くの余談であるが、
戦国武将の肖像画のなかで個人的に最も
気に入っているのが、尚古集成館に所蔵されて
いるという島津義弘公の肖像画である。
剛毅さと、慎み深さと、そして高貴さを
兼ね備えたような、貫禄に満ちたあの御姿。
おそれ多くて憧れにはならないけれど、
一目見て思わず「これほど尊いお方のためなら
喜んで働きたい」と感じてしまう。そんな
肖像画は、今のところこの人のものだけである。
…が、たとえ可能になったとしても、あんな
恐ろしい時代にタイムスリップしたくはない。


追記:2014年の大河ドラマの主役は黒田官兵衛。
期待した島津兄弟ではなかったが、
黒田官兵衛(=如水)もまた九州ゆかりの
男性ではある。私の予想が当たった!!
(NHKによる発表の記事)


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栄華の夢Ⅱ

2012-09-02 23:53:17 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたびの出来事は、
清盛が病と闘っている間に彼の周囲の人間達が
あれこれと思いをめぐらしている――とでも
言うべきか。まだ清盛は出家しておらず、
高倉天皇も即位していないようなので、
時代は1168年のままと考えるべきだろうか
(『別冊太陽 日本のこころ190 平清盛
王朝への挑戦』によれば、清盛の病が重篤で
なかなか癒えないからこそ、出家してみたり、
「清盛の息のあるうちに」と高倉天皇を即位
させたりしたというのであるが)。この時点で、
清盛は51歳、後白河上皇は42歳、常盤御前は
31歳であった。

ところで、このたびは北条政子が登場した。
図体がデカいわりに奇妙な髪形をしていると
思い、この時点での政子の年齢を割り出して
みると、彼女は1157年生まれということなので
現時点でわずか12歳であることが分かった。
この先、彼女と頼朝との仲がどれくらいの
スピードで進んでいくのか知らないが、
やはりこういうときには、子役に政子を演じて
もらいたいものだと思う。なお、ついでに
頼朝の年齢を調べてみたところ、彼は1147年
生まれなので現時点で22歳であることがわかる。

このたびのドラマの後白河上皇は清盛の容態を
たいそう心配していたが、実際このときの
後白河上皇はそうした言動をみせたらしい。
先述の本によると、このとき後白河上皇は
熊野「参詣時の服を改める間も惜しんで
六波羅に直行、清盛を見舞い、その翌日も
再び見舞った」という。少なくともこの頃の
後白河上皇にとって清盛は死なれては困る
存在であるし(というのも、もしここで清盛が
死んだら、後白河上皇が天皇に即位させたいと
思っていた憲仁の地位が動揺し、ひいては
後白河院政の安定化も危うくなる恐れが
あったから)、『平清盛の闘い 幻の中世国家』
には、個人のレベルでは清盛と後白河上皇は
親密であった、ともある。ただし、同書には
「表面の親密さとは裏腹に、元来二条親政に
近かった清盛と後白河の間にはつねに緊迫した
空気も流れていた」ともあり、この点も
見逃せない。清盛は全快しても政界復帰せずに
福原に隠居したそうであるが、同書によると
清盛が隠居した理由の一つが、裏に潜在する
後白河上皇との緊張関係であったという。
すなわち、清盛は福原に退くことによって
後白河上皇との日常的な衝突を回避すると共に、
一門を遠隔操作して、後白河上皇らに間接的な
揺さぶりをかけていたのではないかという。

ちなみに、私は以前『秘伝 密教宿曜占星術』
をもとにこの時代の有名人の宿星を少し
紹介したが、後白河上皇は壁宿で、室宿の
清盛とはもともと良い相性であったといえる。
実際の彼らには利害が複雑にからんでおり、
ゆえに彼らがお互い相手にいだいた感情も
決して単純なものではなかったと考えられるが、
もし彼らにそんな利害関係がなければ、
あるいは良い友達になっていたかもしれない。


前回のドラマでは、清盛の外部に未来の敵が
いかに多く存在するかということが描写されて
いたが、この度のドラマでは、清盛の内部にも
いかに多くの不安要素があるかという描写が
目立った。まず、嫡男だけど実母を亡くした
重盛と、正妻・時子の子だけど弟扱いの宗盛の
間にヒビが生じた。かつて平忠盛が健在だった
ころにも似たような構図の確執があったが、
その負の遺産をかかえて生きる清盛の弟・
頼盛も要注意要素の一つと考えられる
(このたびドラマでは登場しなかったが)。
『別冊太陽 日本のこころ190 平清盛 王朝
への挑戦』によると、実際に平家一門の内部
分裂が表面化するのは清盛が死んでからだ
そうであるが、思うにこれはあくまでも
結果論であり、現時点でのドラマの清盛の
立場で述べれば、清盛のリーダーシップや
政治情勢次第ではいつ平家一門の内部分裂が
表面化し、重大な問題になるかもしれない。
にもかかわらず、今のところドラマの清盛は
こうした危険性にも気がついていないのだ。

こうした意味でも、今のところドラマの
清盛は未だ権力者の孤独を知らずにいる。
だからこそ今のドラマの清盛には、
権力者ならではの孤独におびえて非情な
おこないをしてきた白河院が理解できないの
であろう。しかし、私の認識が正しければ、
そんな清盛にもやがて権力者ならではの
孤独におびえる日が来るものと思われる。


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