黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

夫婦に意地は要らない

2011-07-31 23:52:44 | 思索系
大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」。
このたびは、江が周囲から説きふせられて
徳川家に嫁ぐという話であった。
時代はまだ1595年の9月。江23歳、秀忠も17歳の
ままだということになる。
江がまだ子供だった頃、「天下」は江と共に
信長の手中にあったのであるが、
信長が死んで秀吉が「賤ヶ岳の戦い」に勝利すると
江は秀吉のものとなり、やがて「天下」も信長から
秀吉に引き継がれた。そしていま、江は徳川家
(つまりは同家の当主・家康)のものとなった。
「天下」はすぐにも徳川家のもとに転がりこんで
くる――というのは言いすぎだろうが、
豊臣家の没落の始まりというべき秀吉の死は
これからわずか3年後のことである。
「琵琶湖(=江)を制する者は天下を制す」――
まだ今年の大河ドラマが始まって間もない頃に
述べたことだが、やはり「天下」なるものは
くしくも江と行動を共にするようである。


秀忠というと、このたびのドラマでは「初婚」
ということになっているが、たしか5年前に
上洛したおりには別の姫との縁組が成立したことに
なっていたはずである。これはどうしたことかと
思ってウィキペディアの江の項をひらいてみれば、
たしかに秀忠には江と結婚する以前に「小姫」なる
秀吉の養女との縁組が一旦成立していて、その後、
その縁組が「小姫」の死去によって立ち消えに
なったのだと述べられている。
しかしながら、一方のウィキペディアの秀忠の項を
ひらいてみると、秀忠は「小姫」とは実際に
祝言まで挙げた後で離婚したことになっており、
江とは「再婚」したことになっている。
同じウィキペディア内でも、話が一致しないのだ。

ドラマの江は秀吉のやること全てが気にくわず、
秀吉の意のままにはなるまいと常にふるまい、
一方の秀忠は家康のやること全てが気にくわない
ので常に憎まれ口をたたいてきた。
これもいつか述べたことと似ているかもしれないが、
やはりドラマの江と秀忠は似たもの同士である。
その江は家康に「秀忠がワシに心を開いてくれなくて
困っておる」とグチられても秀吉の心まで思いやる
余裕が無く、このたびの結婚も最初は拒絶し続け、
家康や姉・茶々に説きふせられてようやく嫁ぐ
決意をした。江はそうして嫁いできた経緯を
秀忠に対して隠しきれなかったにもかかわらず、
秀忠には「私は自分の意志を運命に乗せることにしたの
だから保護者に従うだけのあなたとは違うんです」と
意地を張った(秀忠のツッコミどおり、
結局は2人とも同じレベルだと思うのであるが)。

江に心を開いてもらえない秀吉の苦悩まで思いやる
余裕が無いレベルであることも、
自分が嫁ぐ運命に本当は逆らおうと散々ごねた挙句
説きふせられてようやく嫁ぐ決意をしたレベルである
事も、おそらくこの際それほど大した問題ではない。
ただ、いまの江には、自分のレベルがその程度で
あることを素直にさらけ出し、「あなたは私と同じだ」
という秀忠の言葉に笑ってうなずけるほどの余裕も
無いようである。江が秀忠よりも6歳年上で
妹や弟もなく、秀忠と違って落城と結婚を2度ずつ
経験してきた事を思えば、訳知り顔でずばずばツッコむ
秀忠は江には生意気にみえ、意地でも「あなたとは
違うんです」と訴えたくなるのかもしれない。
だが江がそんなふうにして意地を張っているうちは、
江と秀忠は心の通い合う夫婦にはなれないだろう――
ドラマの秀忠はあるいはこのように考えて、
江の態度が変わるのを待つことにしたと考えられる。


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秀次事件

2011-07-24 23:54:28 | 思索系
大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」。
このたびは、豊臣秀頼誕生によって秀吉から
疎まれるようになった秀次が切腹させられるという
話であった。その時点で、時代は1595年の7月。
江23歳、秀忠17歳のことである。


今日は、私に個人的な昔話をさせていただきたい。
私は子供の頃から大河ドラマが大好きで、
出演している俳優さんがカッコイイと思えば
子供ながらにも憧れたものである。
例えば思春期に1994年の大河ドラマ「花の乱」を
見たころには細川勝元役を演じておられた
野村萬斎さんに憧れ、「花の乱」が全話終わった
後も何年かは気になり続けたものであったが、
ある日偶然、彼にお子さんがいることを知るや
それまでにあった憧れ(それは少なくともどこか
恋愛感情に似たもの)は消えうせてしまった。
決してオッカケる程の気持ちは持たなかったが、
お子さんがいるのを知った時のショックは
今でも思い出すことができる。
――このたびの大河ドラマで秀忠が江の娘の
存在を知って呆然としているのを見て、
「あの時の私もああだったのかな」などと
思い出していたのである。

話題を戦国時代に戻そう。
秀次は、なぜ切腹にまで追いこまれたのか。
直接的な「理由」については諸説あるようだが、
個人的に最も説得力を感じているのが
別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』で
述べられていた推測で、それは要するに
「秀次は秀頼が誕生したのを機に関白職を失う
不安から情緒不安定に陥ったのであるが、
秀吉もこの時に秀次の関白職に対する執着心を
見透かした。そんな秀吉は『これじゃあ秀頼が
成人しても秀次は関白職を秀頼に譲らないかも
しれないな』と考えるようになって、
『何でもいいから理由をつけて秀次を滅ぼして
しまおう』と思い至ったのではあるまいか」――
といったものである。
つまりこの推測によれば、秀次が関白職に対する
執着心を秀吉に見せた時点で、秀次の運命は
既に決まっていたといえるのである。

では、秀次はどうすればよかったのか。
ドラマの家康は「秀吉に付け入る隙を与えぬよう
忠勤に励むべきだ」と言っていたが、
まさにこの家康こそ、信長や秀吉に付け入る隙を
与えぬよう忠勤に励むことで今日の隆盛を
築き上げてきたといえる(それを知らない秀忠は、
「忠勤に励んだってムダだ」と家康の前で
あざ笑っていたが――)。
ゆえに家康らしいアドバイスではあったが、
上述の推測からすると、秀次はむしろ自ら秀頼に
関白職を譲ってしまえばよかったのだといえる。
秀次は豊臣一族内の数少ない成年男子なので
関白職を手放したところでいくらでも重役を担う
チャンスはあったと考えられるし、
よしんばそうでなかったとしても
路頭に迷うなどということはまずありえない。
しかしながら、もしかすると秀次の周囲に
石田三成の政敵がとりまいていたりすれば、
仮に秀次が関白職を秀頼に譲ろうとしたとしても
秀次のとりまきが阻止にかかったかもしれず、
それゆえ、秀次が関白職を譲りたくても譲れない
立場にたたされていた可能性も考えられる。

いずれにしても、このたびの「秀次事件」における
秀吉の所業(一度出家した人間を切腹させ、
その一族郎党までほとんど根絶やしにすること)は、
「当時の日本の倫理観と社会常識に照らし
合わせても悪逆無道」であったらしい
(ウィキペディアの秀次の項による)。
江の秀吉への怒りは現代人のみならず同時代人の
感覚からしても真っ当なものといえるし、
秀次が死ぬ前に何とか秀次を救おうと奔走する
江の態度も、「人の道」を何よりも大切にする
江らしさではあると思う。
ただ――、思うにそんな江の言動は、
秀次の奥方たちから見れば小姑の出しゃばりとも
いえるのではあるまいか(彼女らはドラマでは
ほとんど登場しなかったが)。
秀次に仕事しなさいとアドバイスしたり
諦めてはならぬと説得しに行ったりするのは
まず秀次の奥方か部下の役目であって、
江が秀次の助けになりたいと思うのであれば、
秀次の奥方のことも無視せず、彼女らの話も
聞いてあげるべきなのではあるまいか。
まず最初に奥方や部下が秀次を説得するシーンが
あり、それでもダメなのでいよいよ江が乞われて
登場する――例えばこんな感じの描写ではない
せいか、このように感じてしまうところである。


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蝦夷史再学習①

2011-07-21 18:12:36 | 歴史系
このたび、『逆説の日本史』の17巻を新たに
借りることができた。この本では、第一章で
北方世界(東北・北海道)の歴史をとりあげている。
かつて漫画『風雲児たち』の11巻のレヴューを
記すために北海道史(松平定信の時代まで)を学んだ。
当時は何となく分かったつもりになっていたが、
いま思えば、時代の大まかな流れすらも
うまく消化しきれていなかったのである。
元来読解力の低い私は『逆説の日本史』ですらも
話についていくのに困難を感じたが、それでも、
かつて必死になって読んだものたちよりは平易に
書かれた『逆説の日本史』のおかげで私も少しは
北海道史についての理解が進んだ気になった。
『逆説の日本史』を正確に理解できてるかどうか
やはり自信が持てないところではあるが、
ここで北海道史をもう一度咀嚼し直したい。
できれば松平定信の時代まで一気に進めたかったが
話の整理に困難が伴い、このたびは松平定信の
時代よりも古い「シャクシャインの戦い」の
時代までしか進めることができなかった。


まず、以前の記事では北海道史のことを一言で
アイヌの土地を脅かし虐げてきた歴史というふうに
述べたが、これが必ずしも蝦夷史の全てを表現した
言葉ではない。
というのも、夷島(えぞがしま=北海道)で和人と
アイヌの軋轢が生じるようになったのは室町時代の
1432年、津軽・十三港を本拠にする安東氏が
南部氏にその地を奪われて夷島に移住してからの
ことだからである。『逆説の日本史』によると、
1432年以前は和人は少人数でアイヌともおおむね
共生し、民族的対立もそれほど先鋭化しなかったの
であるが、1432年以降になると和人が豪族単位で
集団移住することが増え、
和人が夷島の「領主」としてふるまうようになり、
先住民アイヌに対して何かと干渉、収奪するように
なっていった。そんな和人に対してアイヌが不満を
爆発させ、最初に大々的に蜂起したのが、
「コシャマインの戦い(1457年)」であるという――

なお、私は以前「蒙古襲来」が幕府に与えた
影響についてもこちらでまとめたことがある。
『逆説の日本史』によると、安東氏が南部氏に
駆逐されたのは、安東氏が内紛やエゾの蜂起によって
弱体化し、そこを南部氏につけこまれたからであるが、
この安東氏の内紛とエゾの蜂起の原因が
元寇かもしれないという。
当時の安東氏は夷島の支配権を幕府から得ていたが、
元の勢力が夷島方面へ南下したことによって
「パワーバランス」が崩れ、その結果、安東氏内部で
相続争いが起こったのかもしれないというし、
一方のエゾの蜂起の原因についても、
和人か元の勢力かあるいはその両方の圧迫を受けて
エゾの蜂起が拡大したのかもしれないということだ。

時代を「1457年のコシャマインの戦い」に戻そう。
当時、夷島には和人の館が12ヶ所あったが、
コシャマインはそれらのうちの10箇所を陥落させた。
このとき、まだ陥落を免れていた「花沢館」には
館主・蠣崎季繁とその客将・武田信広がいたのだが、
この武田信広が和人軍を立て直して反撃に転じ、
自らの弓でコシャマイン父子を討ち取ったという。
『風雲児たち』(11巻)は「日本側の記録」に疑問を
投げかけつつも、信広がコシャマインと正々堂々と
戦って一刀両断したことにしているようだが――
『逆説の日本史』が引用している松前藩の記録
(日本側)『新羅之記録』では信広はコシャマイン
父子を「射殺」したことになっているし、
『逆説の日本史』の著者等に至っては次のような
推測を根拠にコシャマイン父子も(信広の子孫の
常套手段たる)騙し討ちで討たれたのだろう、と
している。すなわち――
松前藩の記録『新羅之記録』であれば、松前藩主の
先祖たる信広の武勇伝を誇らしげに伝える
はずなのに、その伝え方はあまりにもそっけない。
これは、本土生まれの信広がコシャマインへの
騙し討ちを内心恥じてあまり誇らしげに語らず、
そんな信広の態度が歴史の記録者にも影響したから
であろう。ただし孫の代になると、もはや
「悪ズレ」して遠慮がなくなったのでは
ないだろうか、というふうに――。

コシャマインの戦いでコシャマイン父子を滅ぼした
武田信広の子孫たちは、いくらかの時代を経た後、
「松前」と改姓して徳川家康から蝦夷地(=北海道)
交易の独占権をもらい、蝦夷地全てを支配下に
おくようになった。そうして成立したのが、
松前藩である(松前という名字の由来については
以前記した記事のとおり)。
当時、本州の藩は自分の領地で
取れた米を換金して収入を得ていたのであるが、
松前藩の蝦夷地では、米を生産して藩の収入源に
する事は気候上、不可能であった。
そんな松前藩は交易で収入を得るしかなく、
それだけにアイヌの領域を侵して侵して、
交易による収入をできるだけ増やそうとした。

当初、松前藩では「商場知行制」という、藩士が
直接アイヌと交易するスタイルで収入を得ていたが
そのうち藩士たちはアイヌとの交易を本土商人に
丸ごと委託するようになった。
『逆説の日本史』の推測によれば、「商いのことは
商人に任せたほうがいい」という意識や、朱子学の
「貴穀賤金」思想が藩士のあいだで広まったから
ではないかという。そうして、この本土商人たちが
アイヌへの無法なまでの収奪をし、松前藩もこれを
黙認するという状況が形成され、のみならず、
本土から来た和人たちがアイヌに頼らず直接
自分たちで魚を乱獲するようになったがために
アイヌ側が食糧難におちいるようにもなった。

アイヌの立場を述べれば、もはや和人との交易
なくして生活は成り立たたないという大前提が
まず存在する一方、本土商人による収奪は
理不尽をきわめ、しかも和人による乱獲で
自分たちも食糧難にもさらされるようになった――
といったところである。
そんな状況におかれたアイヌの怒りは強かったが、
当時のアイヌ民族は部族同士が一枚岩ではなかった。
だがその後、シャクシャインというアイヌが現れて
アイヌ民族を団結へと導き、アイヌ民族を率いて
アイヌ史上最大規模の対和人蜂起を決行させた。
それが、1669年に起こった
「シャクシャインの戦い」なのだという。

しかしながら――、「シャクシャインの戦い」は
アイヌ民族総力戦の様相を呈していた反面、
シャクシャインと行動を共にしないアイヌも
まだまだ少なからず存在し、行動を共にした
アイヌ人内部でも、松前藩に対する温度差や
血の気の多さは部族によってまちまちであった。
そこで松前藩士はコシャマインに苦戦すると、
コシャマイン勢の分断作戦に出た。
松前藩士が幕府の権威や強力な武力を背景に
「金品を差し出せば降伏を受け入れるが
そうしなければ成敗する」と言うと、平和を好む
アイヌやそれほど和人の被害に遭ってないアイヌが
次々に降伏して戦線離脱した。
いずれのアイヌにしても、松前藩ないし日本との
交易なくして食べていくことは不可能である。
それほど和人の被害に遭ってないアイヌであれば、
シャクシャインより和人の方が大事と考えたかも
しれない。
――そして、松前藩の分断作戦のためにシャクシャ
インが戦線を縮小せざるをえなくなると、
やがてシャクシャインのところにも
「他のアイヌと同じく金品を出せば命は助け罪には
問わない」という旨の使いが来た。
シャクシャインは迷った挙句これに応じたものの、
結局は松前藩の「お家芸」騙し討ちにあって、
酒席で謀殺されてしまった。


以前の蝦夷史の記事はいきなり田沼意次の時代
(「シャクシャインの戦い」よりも後の時代)から
話を始めてしまっているため、この記事との照合も
このたびはあんまり出来なかった。
だが最後に、コシャマインやシャクシャインは
どうして松前藩の「騙し討ち」に騙されたのか
という謎にこの際少しせまりたいと思う。
というのも、『逆説の日本史』のなかで
「読者は松前藩の騙し討ちに反感を持ちつつも
『ダマされる方もダマされる方だ』と思いは
しなかったか?」という問いかけを見つけたからで
ある。少なくとも私は当初からこの謎に興味を
感じていたので「ダマされる方もダマされる方だ」
と裁くだけで思考をやめる気にはなれなかった。
そして、以前の記事にも書いたように、
彼らは何らかの事情で松前藩の騙し討ちの歴史を
学ぶ機会を得られず、それゆえに騙されたか、
もしくは生活のために騙されると分かってて
騙されたのではあるまいか――などとあれこれ
自分なりに考えてみたのである。
――で、この謎について『逆説の日本史』が
推測するところでは、そもそもアイヌの辞書には
「騙し討ち」などという卑劣な言葉がない、
つまりそういう「哲学」のない民族であるがゆえに
コシャマインもシャクシャインも思いがけず
「騙し討ち」にあってしまったのではないかという。
たしかに、アイヌ民族が和人よりも人を信頼する
文化をもっていて不思議はないと思うが・・・、
ただ、もしアイヌがそうした民族だったとすれば、
どうしてアイヌは和人のズルさを長年見てきたのに
その「人を信頼する文化」を変質させなかったので
あろうか??和人のズルさを長年見てきたとしても、
「人を信頼する文化」はなかなか変えがたいもの
だからなのだろうか。

c.f.蝦夷史再学習②


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「あの頃」には戻れない

2011-07-17 23:48:23 | 思索系
大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」。
このたびの話題は、江が夫の死から立ち直るという
話と、茶々が新たに「拾」(後の豊臣秀頼)を
出産するという話であった。
それまで太閤・秀吉は自分の後継者を現関白の
甥・秀次にと決めていたところであったが、
ここで実子・秀頼が生まれたために秀吉は考えを
変え、秀頼を後継者にしようとするようになり、
秀次の立場が危うくなってくる。
時代は、「拾」が産まれた時点で1593年の8月。
江は21歳、秀忠は15歳ということになる。

このたびは、さしもの江もいつもの元気が
なかった。第二次大戦の頃には、新婚早々に夫が
出征し、それきり生きて帰ってこなかったという
境遇におかれたご夫人も多かったかもしれない
(あたかもこのたびの江のように)。
私がそんな女性であればこのたびの江の心境に
ついてもう少し想像力を働かせることもできた
かもしれないが、やはり私には京極竜子のように
「時間が解決するさ」といった類の言葉しか
みつからなかった。
失恋ぐらいならしたことはあるものの、
自分の意思で別れるのとは勝手が違うであろう。


徳川家の家臣たちが集うような場所で、秀忠が
昼間からゴロゴロしているというシーンを
最近になって時々目にする。
父・家康のやり方全てが気に入らないという秀忠は
15歳、今日でいうところの反抗期かもしれない。
――が、このときの秀忠が大人扱いされていようと
仮にまだ子ども扱いされていたとしても、
家来が集まるような場所でゴロゴロしてる時点で
既に秀忠は守役にひっぱたかれても仕方がない――
いや、少なくとも守役は秀忠を諌めねばならない。
秀忠の未来の妻・江も、いまの秀忠と同じ年の頃は
礼儀知らずに見えたものだったが、この秀忠も
ずいぶんと礼儀知らずに見える。
まあ、天下の豊臣と徳川の子たちであるし、
反抗期をむかえることそれ自体はあるていど
仕方のないことかもしれない。
――ただそれでも、せめてそんな年齢の配役を
いい年した大人が演じるというところだけは
何とかならないものだろうか。
というのは、これは私だけなのかもしれないが、
反抗期の年齢の役をいい大人が演じたところで
「まぁ反抗期だから大目にみてやろう」という
気分にはなかなかなれないからである。
きっとそれは、決して反抗期を演じる俳優さん達の
技量が足りないからではなくて――
私を「大目に見たい」という気分にさせるある種の
魔力のようなものは、本物のティーンエイジャーで
なければ決して醸しだすことのできない(ゆえに
どんなに上手な大人の俳優さんにも真似できない)
ものだからではないだろうか。
やはり、ティーンエイジャーの役はティーン
エイジャーでないと演じきれないような気がする。

ところでドラマの最後のほうでは、
現関白・秀次が秀次の娘と秀頼との婚約を
受け入れたという話をしていた。
ドラマの秀次は受け入れた理由について
「秀吉には逆らえないからな」とだけ話したと
記憶しているが、この婚約の話は秀次にとっても
決して悪い話ではないと考えらえる。
というのも、もしこの婚約話が進んで結婚まで
実現したら、たとえ秀次が将来秀頼に関白の座を
奪われたとしても関白の外戚として絶大な権勢を
ふるい続けることができると思われるからである。
たしかに秀吉は実子・秀頼を溺愛するあまり
秀次を関白の座から蹴落とそうとしているのかも
しれないが、むしろ秀吉は蹴落とされた後の秀次の
境遇も同時に配慮した結果、その婚約話を秀次に
すすめたのではないかと感じられるのである。

また、秀次の義理の妹である江は実姉の茶々に
「秀次の追い落としをやめるよう秀吉に忠告して
くれ」と頼んでいたが、秀次が秀頼に
追い落とされることで得をする人物の一人が、
他ならぬ秀頼の実母・茶々なのである。
江は姉妹の仲ゆえに茶々に頼んだのだろうが、
ここはむしろ北政所に頼むほうがまだ見込みが
あるかもしれない。
もはや結婚によって江と茶々の利害関係は
対立するようになったため、姉妹3人して
同じ境遇を慰め励ましあった「あの頃」には
戻れなくなりつつあるのではなかろうか。
最近では、江と茶々が大切な人(秀勝や鶴松)を
亡くした境遇を互いに慰め励ましあったりも
していたけれど――


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龍馬暗殺の謎

2011-07-13 18:16:48 | 歴史系
先週、BSプレミアムの番組「BS歴史館」で
龍馬暗殺の真犯人探しが放送された。
再放送を観て確認したい点がいくらかあったし
記事にするのが遅くなったが、
このたびはこの番組内容について記したい。


龍馬暗殺には実行役と黒幕の二種類の人間が
かかわっていると考えられるが、実行役と黒幕は
それぞれ誰がどのていど真犯人らしいのか。
まず、実行役が誰なのかという問題については
新撰組説と京都見廻組説が知られているが、
番組によれば新撰組説は今やどの専門家も
支持しておらず、番組も京都見廻組説を支持した。
では京都見廻組のなかの誰が実際に龍馬に刃を
向けたのかという問題については、番組は
今井信郎という人物の証言よりも渡辺篤の
それの方が具体的でリアルであるとして
「渡辺らが実行役だったのではないか」という
推測をたてるに至った。

一方、黒幕は一体誰だったのか。可能性のある
者は多く、例えば龍馬が成した大政奉還によって
潰された幕府の関係者たち、大政奉還によって
武力討幕の邪魔をされた薩摩藩、それに、
「いろは丸沈没事件」の際、龍馬に面目を
潰された紀州藩なども、番組のなかで黒幕の
候補にあげられた(紀州藩説は初耳であった)。
そして番組の最後に、京都守護職のトップである
会津藩主・松平容保らを黒幕とする説をとりあげ、
番組はエピローグを迎えた。

京都守護職というのは幕府関係のポストだし、
会津藩自体も幕府と一心同体のような特色を持つ。
そのため松平容保らが黒幕であったとしても
それ自体は別に驚くべきことではなかった。
私が驚いたのは、むしろ京都見廻組頭・佐々木
只三郎の実兄で京都守護職の公用人でもある会津
藩士・手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)が、
「松平容保公の指示で弟・只三郎が龍馬をやった」
という証言を亡くなる直前に残していること
だったのだ。この現象について番組が推測する
ところでは、「生前の直右衛門は主君の容保公に
嫌疑が及ばぬようずっと口をつぐんでいたけれど、
容保公もやがてこの世を去り、直右衛門自身の
死期も近くなったところで『坂本龍馬暗殺を
一族の武勇伝として子々孫々に伝えていこう』と
思い至り、今際の際になって龍馬暗殺の真相を
子孫に語るようになったのではないか」――
ということである。

ところで番組では、土佐を出た坂本龍馬の動きを
実は土佐藩も常に監視していて、寺田屋騒動の
際にも、土佐藩が幕府方の伏見奉行に情報提供等の
支援をしていたのではないかとする推測もなされた。
番組によれば、龍馬がいつも偽名を使って国事
活動をしていたにもかかわらず寺田屋騒動の時点で
既に伏見奉行が龍馬の本名をつかんでいた事と、
龍馬捕縛にしくじった伏見奉行が出した
京都所司代への報告書が土佐藩にあった事と、
この2つの事実から、幕府方と土佐藩とのあいだに
繋がりがあったと解釈できるという。
ではなぜ土佐藩は龍馬の監視をしていたのかと
いうと、それは、去る1863年に土佐藩出身の
吉村虎太郎ら「天誅組」が京で武力反乱を
起こしたが、山内容堂は他の土佐藩出身者が
また京で武力反乱をやらかして朝敵になる(そして
そうすることで幕府をも敵にまわす)ことを
恐れたため、竜馬も含め土佐脱藩浪士たちを
密偵に監視させるようになったのではないか、
という。
少なくとも土佐藩を率いていた山内容堂は
親幕の立場だったし、容堂も幕府方と同じく
龍馬を危険視していたのであれば、寺田屋騒動の
際に土佐藩と幕府方が連携を取っていたとしても
まあ不思議はないと思う。


――では、土佐藩は京都見廻組による龍馬暗殺の
際にも何らかのかたちで京都見廻組に協力したの
だろうか??
このへんの謎は番組でも言及されなかったと
記憶しているので、自力で推測するしかなくなる。
そこで、私が思うに――平和倒幕を目指していた
龍馬がもしもっと長く生きていれば戊辰戦争は
避けられたかもしれないし、龍馬が策定した
「新官制議定書」のなかに徳川慶喜の名前が
ナンバーツー(内大臣)として挙げられているのを
思えば、龍馬の働きによって慶喜も明治政府参加が
許されたかもしれない。
慶喜に奉仕すべき土佐藩であれば、竜馬の死は
土佐藩にとってマイナスだったと考えられる。
ゆえに、土佐藩が組織的に京都見廻組への協力を
したとは考えにくいところであるが・・・、
ただ、一体個人レベルではどうだったのだろうか。
特に何か心当たりがあって述べる訳ではないが、
山内容堂が親幕の立場を取ってきただけに
もしかすると土佐人のなかには内心「大政奉還」に
不満を持って会津藩や京都見廻組には理解を示し、
「それでも表立って竜馬を殺せば容堂公の意に
背いたと知れるから」と、秘密裏に情報提供など
何らかのかたちで京都見廻組に協力した武士は
いたかもしれない。
――そんな武士が本当にいたのかどうか、見当も
つかないが、こんなふうに想像をめぐらして
みるのも一興である。

今回の参考資料:新・歴史群像シリーズ20
『坂本龍馬と海援隊』(学研 2009)


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江と秀次の人柄を再考

2011-07-10 23:56:05 | 思索系
大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」。
このたびの話題は、江の夫・豊臣秀勝の死と
彼女らの娘が誕生したことであった。
豊臣秀勝が死んだ時点で時代は1592年の9月。
前回と同年のことなので、江20歳、秀忠は14歳
ということになる。

ドラマを見てまず印象的だったのは、日本軍が
特に朝鮮の水軍に苦戦している様子であった。
とりあえずウィキペディアの「文禄・慶長の役」
の項にザッと目を通してみると、
火縄銃で武装した歴史を持つ日本側は陸戦で
優位にたち、倭寇対策に力を入れてきた朝鮮側は
海戦で優位にたっていたという旨の記述が
たしかにある(「軍事情勢」の節)。
秀吉の指揮下には実戦で鍛えられた50万人の
軍隊がいて、これが当時のアジアで最大の軍隊で
あった――とする同節の一文には良い意味で
驚かされたが、一方「日本は当初海戦を想定して
いなかった」という一文から察せられる秀吉の
海戦に対する認識不足には悪い意味で驚かされる
(「水軍」の節)。

またこのたびは、ドラマの豊臣秀次の人柄に
ついて新たな発見があった。
秀次が古典を多く所有していて彼自身も
古典に明るいということ、またこれは
弟・秀勝による秀次評であるが、それによると
秀次は頭の回転が速く、心が繊細で優しいという
ことである。どうやらこの大河ドラマは、
私が当初思っていたほど秀次を悪く描こうとは
意図してなかったようだ。
ウィキペディアの秀次の項はたしかに秀次の事を
「そこそこの力量はあり、文武両道の人物
だった」と評しているし、古典に対する秀次の
愛着ぶりについても言及している。
だがそうした史実の秀次に対する秀次評は
ともかく、ドラマの秀勝による秀次評については
まだ納得のいかない部分がある。
「頭の回転が速い」というのなら、なぜ秀次は
小田原攻めの際、家康に先鋒を命じた秀吉の意図を
見抜けなかったのであろうか。
また、もし秀次が本当に心優しい人物であれば
おなかが大きくなった江の体の大事を気遣って
江が無事に子を産むまで秀勝の死をふせておく
ぐらいのことは出来てよさそうなものである。
――あるいはもしかすると、ドラマの秀次は
文武両道ではあってもメンタル面が弱く、
「戦でしくじった」とか「秀吉に嫌われた」とか
「秀勝に死なれた」といったショックを受けると
頭の回転が鈍ったり気が利かなくなったりして
しまうような人物なのかもしれない。

一方、このたびあえなく命を落としてしまった
秀勝の史実については以前この記事
言及したことだし、割愛したい。
ドラマの秀勝は自分の家臣から現地の朝鮮人を
かばおうとして負傷した挙句に死んでいたが、
あの程度の足の傷で命まで落とすとは
どうも解せない。

ところで、ドラマでは妊娠した江のもとを
姉・初が訪れ、「結婚してちょっとしか日にちが
たっていないのに身ごもるなんて、一体どんな
おなかをしているのかしら」と江に言いつつも
江とおなかの子供をかわいがっていたが、
実はこの翌年(1593年)になると初の夫・高次が
側室とのあいだに男子をもうけることになる。
高次も秀勝と同じく朝鮮へ出征しているはず
(ということは高次の側室の懐妊・出産の時期も
江のそれと大差がないはず)なので、
もしかすると、初はこのたび江を訪ねた時点で
既に夫の側室の妊娠も知っていたかもしれない。
――こうした京極家の事情をドラマはこのたび
描こうとしなかったが、豊臣家と等しく
京極家についても描いてもらいたいものである。
もしそうなれば、初の心境がより複雑になって
ドラマとしての面白みも増すと思われるから。


本当のところ、私にとってドラマの江は
もはや宇宙人のような存在なのであるが、
なぜそう感じるのかが最近になってようやく
分かった気がしている。
思うにドラマの江は、戦争や人の死が嫌いで
自分好みの人間だけは大事にするという
非常に素直でシンプルな発想を持ち、
どんなときもそんな「自分」をためらわずに
貫こうとする人物のようなのであるが、
そんな彼女に対して私は、戦国時代ないし
現代の社会からのバイアスのかかった価値観に
どっぷりつかった状態でドラマを見ている
可能性があり、それゆえにドラマの江の言動を
理解するのに困難を感じるのかもしれない。
いまの私が感じている江像は果たしてどれほど
的を射ているのか、なるべくこの点も留意しつつ
ドラマを見てみたいと思っている。


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妙本寺縁起物語

2011-07-07 17:29:24 | 歴史系
先週、鎌倉駅近くのお寺「妙本寺」に行った。
このお寺は鎌倉時代初期に非業の死を遂げた
比企能員の屋敷跡に建っているもので、
能員の一族および鎌倉幕府2代将軍・源頼家の
息子・一幡と娘の媄子(よしこ)の墓などがある。
比企氏は現在の埼玉県比企郡や東松山市を領し、
能員は私の地元・川越を領した河越重頼とも
義理の兄弟にあたる人物である。
これも何かの縁かと思い、このたび足を運んだ。
以下、ウィキペディアと別冊歴史読本
『北条時宗』(新人物往来社 2000)を参考に
説明を進めたい。
まずは、下図が同寺にある比企一族の墓である:



比企能員という人物は、頼朝の乳母・比企尼の
養子で、頼朝の信任厚い側近の一人であった。
ウィキペディアの能員の項によれば彼は元々
比企尼の甥で阿波国か安房国の生まれらしいが、
一方の別冊歴史読本では彼を阿波の生まれとし
比企尼の娘と結婚したとしている。
いずれにしても北条政子は頼朝の後継者男子・
源頼家をこの比企能員邸で産み、能員の妻は
頼家の乳母の一人に選ばれ、頼家の長男・一幡と
娘の媄子も、同じ比企能員邸で能員の娘・
若狭局の腹から産まれた。
このため、比企能員をはじめとする比企一族が
この先さらに権勢をふるうようになるであろうと
予想されていた。

上述のように比企氏との繋がり深い源頼家が、
18歳で突然父・頼朝に死なれ、将軍職を継ぎ、
独裁政治をすすめるようになった。
頼家は鎌倉生まれ、源氏の棟梁の嫡男である
だけでなく、当時としては高齢な親が産んだ
子である(父・頼朝36歳、母・政子26歳)。
頼家が甘やかされて育ち、将軍になった時点で
まだ人格未熟だったであろう事はたしかに
想像できるが、頼家の人格の問題以前に、
そもそも鎌倉時代初期の御家人のあいだで
頼朝統治という将軍独裁に対する不満が
積もっているという時世の問題もあった。
これらの事情ゆえ、頼家は将軍になってわずか
三ヵ月後に訴訟の裁決権を奪われ、代わりに
13名の合議制がしかれた。別冊歴史読本では、
特に北条時政がイニシアティヴをとって
これらを実現させたのだろうとしている。
だが同書によれば、頼家は意識して北条氏と
対抗するようになっていき、頼家との繋がり
深い比企能員も、北条時政と対立するように
なっていく。
そして頼家が若干22歳で重病になり、
頼家の後継者を誰にするのかという問題が
浮上すると、比企能員と北条時政は
この問題をめぐって争うことになった。
北条時政が先手を打って比企能員を刺殺すると、
比企一族をはじめとする比企方は
頼家の長男である一幡の館(小御所)に立てこもり
襲撃に来た北条方の兵を相手に応戦する。
だが比企方は衆寡敵せず、やがて館に火を放って
それぞれ自害し、わずか6歳だった一幡も、結局
助かることなく非業の死をとげていった。
世に言う、「比企能員の変」――
そして、下図がその一幡の「袖塚」である。
ウィキペディアの比企能員の項には
「一幡も焼死し、焼け跡から小袖の切れ端を
乳母が確認した」という一文があるので、
「袖塚」はこの「小袖の切れ端」を納めたものと
されているのかもしれない:



――ただ、別冊歴史読本のほうでは一幡の最期に
ついて2つの説を紹介しており、それによれば、
一幡は館のなかで焼死したか、もしくは母に
抱かれて館から逃げ延びたものの
後日つかまって刺し殺され埋められたという。
なお、この一幡の母・若狭局の最期についても、
一幡と共に焼死したとも、井戸(蛇苦止の井)に
身を投げたとも言われている
(前者は『吾妻鏡』による説で、後者はウィキペ
ディアの妙本寺の項による)。
一方、下図は一幡の妹・源媄子の墓である。
彼女は北条政子の庇護を受けていたため、
「比企能員の変」にまきこまれずに済んだ。
(なお、下図の赤字は媄子の別称「竹御所」に
なっているが、これは「媄」の字を
入力できなかったためである)。



媄子は「比企能員の変」後の幕府のなかで、
唯一頼朝の血筋を引く生き残りとなっていた。
彼女は幕府の権威の象徴として御家人に敬われ、
京都朝廷から鎌倉へむかえられた4代将軍・
藤原頼経に嫁いで彼の子を身ごもれば
「頼朝の血を引く将軍後継者が生まれるかも
しれない」と周囲に期待された。
だが、彼女は不幸にして出産時に命を落とし、
この時の男の子も死産に終わってしまう。
彼女の享年は33歳――。彼女も、当時としては
なかなかの高齢出産をしたと考えられる。
この媄子の死によって、源頼朝の血筋は完全に
途絶えてしまった。おそらく私なら、
死んでも死にきれないところであろう――。


「比企能員の変」でほとんどが滅びてしまった
比企能員一族であるが、当時2歳であった
能員の末子・能本は助命され、僧侶として
生き延びていた。のち、能本は将軍御台所と
なっていた媄子の計らいで許され、鎌倉に戻る。
媄子は能本の姪にあたる人物であった。
能本は媄子が亡くなると彼女の菩提を弔うため
比企ヶ谷に法華堂を建てるが、これが妙本寺の
前身であるという。
また能本が日蓮に帰依していた関係で、
妙本寺は日蓮宗の寺の一つになっている。


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江の成長

2011-07-03 23:53:47 | 思索系
大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」。
このたび題材になった出来事は千利休と
鶴松の死、そして江が豊臣秀勝(秀次の弟)に
嫁いだことであった。江が秀勝に嫁いだのが
1592年、江20歳、秀忠は14歳のころである。

秀吉がなぜ朝鮮出兵を計画したのかについても
諸説あるようだが、それらもウィキペディアの
文禄・慶長の役の項の段落「秀吉の『唐国平定』
構想」で紹介されている。
たしかドラマでは、九州平定の際に家康が
チラっと「秀吉殿は信長公の遺志を継いで
大陸を攻めるつもりじゃ」と言っていたが、
結局はこのたび鶴松の死を嘆く秀吉に
石田三成が朝鮮出兵計画を思い出させ、
秀吉も鶴松のことを忘れようとするかのごとく
朝鮮出兵にのめりこんでいった――という
話の流れになったようだ。

時代劇では、朝鮮出兵は秀吉一人だけが
「裸の王様」のごとくヤル気をみせている
ように描かれることが多い。
だが『逆説の日本史』の16巻か17巻か
出典は忘れたが、そのどちらかの本では
そうした時代劇の描写と相反する推測を
たてていたという記憶がある(それが正しい
記憶かどうかは未確認であるが)。
私の記憶によれば、その推測は
「当初、朝鮮出兵に意欲をみせたり歓迎したり
していた武将は多かったのであるが、
そうした武将たちは朝鮮出兵が失敗に終わると
『あの朝鮮出兵は秀吉一人だけがよろこんで
進めていた戦いであって、自分たちは嫌々
参加していたにすぎないという話にして
しまおう』とたくらんだのではないか」――
といったものである。
これはあくまで推測にすぎない。
が、秀吉没後の家康が朝鮮との関係を改善させ
朝鮮と友好をむすぶようになる時代まで
生きのびた武将およびその家来・子孫なら、
やりそうなたくらみではあると思っている。


このたび利休が死んだとき江は19歳であったが、
お市の方が死んだときの江は11歳であった。
おそらく、ドラマの江にとっては利休もまた
思い入れの深い人物の一人である。
私は、ドラマの江が、お市の方と今生の別れを
したころのように、利休に対しても
「あの世で会うのを楽しみにしてます」などと
明るく言うのではないかと予測していたが
このたびは普通に利休の死を嘆き悲しむばかり。
また、ドラマの江は12歳で佐治一成に嫁いだ
ときには初夜の段取りを聞かされたために
二度も卒倒していたが、
このたびはそのようなことも起こらなかった。
いったい大人になるとはそういう事なのか、
私から見れば、さすがのドラマの江も
以前よりは理解不能ではなくなった。

理解不能といえば、以前私はドラマの江が
どうして茶々の懐妊を祝福できるように
なったのか、それも理解できずにいた。
しかし――、今になって思うに、もしかすると
あの時の江の祝福の言葉は実は本心ではなく、
茶々と仲直りするためにムリしてついた
ウソだったのかもしれない。
というのも、もしあの祝福の言葉が本心なら
カワイイ甥っ子・鶴松の臨終にかけつけるとか、
それが物理的に出来なかったとしても、
鶴松の死を知り次第、江も甥っ子の死を
嘆き悲しむはずだと思われるからである
(だがドラマの江はそんな素振りは見せず、
深く悲しむ姉・茶々を気遣うばかりであった)。
江の以前の祝福の言葉も、江の本心ではないと
解釈すれば理解不能ではなくなる。
そして、ドラマの江も本音と建前を使い分ける
ようになったのだとすれば、
彼女も大人になったものだと感じる次第である。


このたび、利休と鶴松の死によって最も
精神的にダメージを受けたのは秀吉だと思う。
だが、ドラマの茶々には江や初、北政所が
付いていて、利休に死なれた江には秀勝が
付いているのに、ドラマの秀吉を慰めてくれる
人間は誰もいなかった。
その意味で、ドラマの江や茶々などよりも
秀吉の方がよっぽど哀れに思えたのは、
果たして私だけであろうか――。


P.S.ここで引用した『逆説の日本史』による
推測についてであるが、この推測は同本11巻の
一部を15巻で復習したものだと判明した。
15巻によれば――「唐入り」当初は日本が
勝てると予想した武将もいたはずであるが、
結局戦争は負けてしまった。ならば、「最初に
勝つと予想していた人間はバカだ」という話に
なるので、最初に勝つと予想していた人間は
自分の名誉を守るためにハズレた予想の痕跡を
消すか書き換えるだろう。そうして結果的には
負けを予想した史料だけが残るはずだ――
ということである。


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