黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

長岡の偉人を訪ねて

2015-10-26 17:40:12 | 旅行記
日帰りで長岡(新潟県)に行った。
その一番の目的は、かの地ゆかりの偉人、河合継之助と
山本五十六の記念館に足を運ぶためであった。

まず、河合継之助の記念館に行ってみて初めて感じた
ことは、戊辰戦争のころも長岡藩士が会津藩を盟友の
ように考えていたらしいということ。
長岡藩もいよいよ薩長と戦わねばならなくなると、
まず先に一番大事な牧野のお殿様を会津藩に避難させる。
そして、河合継之助が膝を討たれて再落城しても、
そこで「もはやこれまで」――ということにはならず、
行ける人は会津にむかってなおも戦い続ける。
長岡藩はそれほどまでに会津藩を信頼し、また会津藩を
残して戦線離脱するなど思いもよらないことだった――
少なくとも、私にはそのように感じられ、これに強い
インパクト感じたのである。
そして、当時の薩長軍を「官軍」と呼ばず、あくまでも
「西軍」と呼んでいるところに強いインパクトを感じた。

一方、山本五十六の記念館に足を運んでみると、米軍に
撃墜された五十六の戦闘機の左翼の一部が展示されていた。
アメリカと戦うことに反対していたにもかかわらず
戦うことになってしまい、それでも逃げず、腐らず、
誠実にベストを尽くしてきた末に撃墜された人の無残な
残骸。そんな人を支えていたであろう使命感、あるいは
自尊心を想像すると、何とも言いがたい心境になった。
幸い戦争と無縁の生活をしていても、やりたくないこと、
困難なことと向き合わねばならないことがある――
そう思うにつけ、たとえ真似はできないとしても
心の琴線に触れる生き方ではあった。


河合継之助にしても山本五十六にしても、解釈によっては
不本意な戦いを強いられながらも誠実に戦いと向き合った
という点で共通している。だからこそ、私も彼らの記念館に
足を運んでみたくなった。――ただし、少なくとも
河合継之助については、本当にそれが不本意な戦いだった
と言い切れるとは限らない節もある。半藤一利さんは、
『もう一つの「幕末史」』のなかで評している――
(河合継之助は)「『どうしてもやるというなら存分に
戦ってみせる』の存念です。必ずしも、あくまで局外の
中立の立場を固守し、なんとか長岡藩を戦争回避の場に
持っていこうとするものではありませんでした。」
――「武装中立論者・継之助」という人物評に対し、
こうした異論があることについて問うてみたい
気もしたが、ついにそんな勇気は出なかった。


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学ぶことの大切さ

2015-10-25 23:55:42 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびはの話題は、前原一誠が
起こした不平士族の反乱「萩の乱」。時代は、玉木文之進が
自害した時点で1876年11月、美和34歳である。
なお薩摩では去る1874年6月に、西郷吉之助らが不平士族の
暴発を防ぐ目的で私学校を開設している。まあ結局は
その甲斐もなく、薩摩でも不平士族が暴発してしまうので
あるが――、前原らもこんなふうに、明治政府のやり方を
糺す以前に、明治政府のつくる世の中にも対応できる
士族の育成を試みる余地は無かったのだろうか。同時期の
文之進はそれこそ松下村塾を再興していたというから、
新たな世でも生きられる士族の育成も不可能ではない
はずだが、別冊歴史読本 『【幕末維新】 動乱の長州と
人物群像』によると、彼自身も実は明治政府の欧化主義
政策には批判的だったようなので、難しかったのだろうか。
ただし、萩の乱に「養子の玉木正誼や門弟の多くが参加
した」のに責任を感じて自害したというのも本当らしい。


おのれの志は、おのれで確立するものである。
しかし若い時分は判断材料が乏しいせいで、自分自身の
考えで志を持っているつもりでも、実は親しい人に影響
されて追随しているにすぎない場合が多い。このたびの
「萩の乱」で命を散らした若者についても、そういう
ケースが少なくなかった事が想像される。ドラマの文之進が
「萩の乱」へ若者を送り出すことにためらいを見せたのも、
おそらくは経験的にこれを知っているからだということ
だろう。そしてドラマの楫取もこれに気づいているから
こそ、乱に参加しようとしていた久米次郎に上京を促し、
親しい人の思想のみにとらわれず視野を広げることの
大切さを教えたのである。何も乱に加わることだけが
仲間に対する義理でもないし、また、自身の志でもない。
これにまだ気づかないドラマの久米次郎には、まだまだ
勉強が必要なようである。自分の志が次々に破れていく
ように思えるのも、実は彼がまだ真におのれの志を持ち
えず、親しい人に感化されているにすぎないからである。


また、判断材料が乏しいということは、人にだまされ
やすいということでもある。ドラマのなかで女工さんが
借金取りに騙されて契約を結んだのは、判断材料という
べき識字能力を持ち合わせなかったからである。
かつて当ブログに通ってくれてた方が教えてくれたが、
やはり人に騙されないためにも勉強は大切なようだ。


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ヨチヨチ歩きの新政府

2015-10-18 23:29:22 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびは、熊谷県令となった
楫取素彦がよそ者としての苦労を味わいながらも政務に
取り組み、生糸の直輸出のために新井領一郎なる若者を
渡米させるといった話。時代は、渡米が決まった新井が
楫取に挨拶に来た時点で1876年、美和34歳である。
ところで、この頃の都道府県の変遷というのがなかなか
複雑怪奇で、私はその時系列を誤って認識していたらしい。
まず、このたびのドラマのナレーションで「新井の渡米が
三月十日と決まった」とあったが、2014年9月号の歴史
読本にある都道府県の変遷図によれば、熊谷県が廃止
されて群馬県となるのは1876年8月だから、ドラマ上の
県庁の看板は「熊谷縣庁」でなければならないはずである。
また、このため、前回の時点では楫取が「群馬県令に
なった」とブログに書くべきではなかったし、年代も
1876年とすべきではなかったのである。

ところで、このたびは耳の不自由な美和の弟・敏三郎が
亡くなった。ドラマの彼は今わの際に「自分も少しは
人の役に立てただろうか」と聞いていたが、思うに
障害者は、その存在自体が周囲の者の人間観に影響を
与えるものではないだろうか。例えば彼の兄でもあった
吉田松陰は「二度も熊本の加藤清正廟に足を運んで弟の
障害の治癒を祈願し」たそうだが、のみならず、蝦夷地で
和人がアイヌ人を虐げていると知れば怒りの言葉を残し、
被差別者であっても孝行の模範を見せればその顕彰に
携わり、被差別の芸人と隔てなく交流した高須久子とも
親しく関わる。別冊宝島『吉田松陰と松下村塾』が評する
「あらゆる階級社会と差別を嫌うヒューマニスト」としての
吉田松陰像の形成には、この聾唖の弟・敏三郎の存在が
深く関わっているように私には思われるのである。

またドラマでは、結局強いカミさんの言葉で新井への
資金提供が決まったように描かれている。しばしば
「群馬県は『かかあ天下』」であるかのように言われて
いることに由来するのかは分からないが、前回引用した
『県民性の日本地図』ではこの「かかあ天下」の由来と
して、働き者の女性を妻に持つ農家の男性が「うちの
かかあは天下一だ」と言っていたことに由来するという
説を伝えている。つまり、元々は必ずしも「女が強い」
という意味ではなかったとも考えられるのである。
ただし、実際に女が強い可能性があるのは前回説明した
とおりである。

一方、このたび渡米することになった新井領一郎に
ついてウィキペディアで調べてみると、なんと彼や兄・
星野長太郎、父・彌平など一族7人ほど、戊辰戦争の際に
新政府軍に捕えられ、「片鬢にされて数珠つなぎで
館林城下まで引致、土地財産の差し押さえに処せられた」
過去があるという。会津藩幇助の嫌疑によるもので
あった。新井の渡米はいわば、かつては歴史によって
被害者と加害者に分かれた者たちのタッグでもある――
そう考えると、なかなか感慨深い話に思えてくる。

感慨深いといえば、ドラマに登場する上州の豪商・
阿久沢権蔵役の江守徹さん、その夫人役の三田佳子さんを
大河ドラマでお見かけするのは久々ではないだろうか。
特に三田佳子さんは1994年の「花の乱」で主役をはった
のが最後だったし、ついでに誕生日が私と同じだしする
ので、感慨もひとしおである。


どういうわけかNHKはDVD化していないようだが、私は
2001年に同局で放送された時代劇『山田風太郎 からくり
事件帖-警視庁草紙より』が好きだった。あの時代劇は
西南戦争以前の明治時代初期の東京が舞台なのだが、
時の明治政府がまだ出来立てホヤホヤだったために
明らかに新政府のポリスよりも元・江戸町奉行の方が
頼もしい感じがしているのである。
「あんな田舎モンの素人さんにポリスが務まるのだろうか」
――あの時代劇が描いたように、当時の江戸人が
少なくとも心情としては旧幕府寄りで、新政府の役人に
対しては半信半疑だったであろうことは想像に難くない。
ただ現実には、例えば戊辰戦争に敗れた幕府の残党はもはや
自分の生命・財産を脅かす「賊」となりはて(何といっても
その残党はもはや経済的バックボーンを失っているので)、
自身も新政府に逆らっても損をするばかりである。当時の
江戸やその近郊と同様、北関東の庶民もそうした状況の
なかで、次第に実績を重ねていく新政府を受け入れて
いったように感じられるのである。このたびのドラマの
群馬人もその只中におかれているということではない
だろうか。ドラマでも表したように、当時の群馬人はまだ
実績に乏しい主人公たちを「よそ者」扱いして快く思って
いない。もしそうであるなら、美和が群馬人の商人に対して
「長州の男に二言はない(だからこちらの要求をのめ)」と
言ってしまったら、かえって嫌われて「うるせぇ、ココは
上州だっ!」と追い払われてしまうのではないだろうか??
――それなのに商人のカミさんに助けられ、要求が受け入れ
られてしまうこの不思議を、いったいどう解釈すれば
いいのだろう。上州女の太っ腹さか、あるいは美和の
「至誠」の恐るべき神通力ということなのか。
「きっと群馬のためにもなりますから、支援してください」
――長州色を出すよりも、そういう言葉の方がまだ、相手の
心に響くはずではないか。


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群馬県という地域

2015-10-11 23:35:49 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびは、楫取素彦が木戸
孝允と地元の人たちに説得されて熊谷県令になるという
話。時代は、熊谷県令になった時点で1874年、美和
32歳である。ウィキペディアの彼の項によると、史実の
楫取素彦は百姓からいきなり県令になったわけではなく、
まず4年前、1872年に足柄県参事になってから熊谷県令、
群馬県令になっていったようである。ドラマの最後の
紀行では彼の書状も取り上げられたが、私はあの書状に
ついては、以前に江戸東京博物館で開催された「花燃ゆ」
展で拝見した覚えがある。そしてその時の記憶によれば、
実際の彼は、県令就任を躊躇していたところを、薩摩藩士
だった大久保利通に「天皇の世の中になったんだから
何とかなるよ」とかなんとか言われて引き受けたかと
思う(個人的な感覚からすると何とも無責任な言い方に
聞こえるが、かつての尊攘の志士やその仲間だとするなら
本気でそう信じ、また納得したのであろうか??)。


さて、同じ「花燃ゆ」展での記憶を頼りにもう少し
具体的に述べれば、楫取素彦は熊谷・群馬あたりの地域を
「民情荒い」がゆえに「難治県」と評していた。この
たびのドラマでは、木戸孝允が「難治県」である理由に
ついて「あの辺の地域では以前は色んな支配者の管轄が
複雑に入り組んでいたゆえ――」と説明していたが、
そういう地域がなぜ「民情荒い難治県」になるのかと
いうと、それは次のような理由と思われる――
色んな支配者の管轄が複雑に入り組んでいる地域では、
例えばある地域で犯罪が起きて警察組織が犯罪者を捕え
ようと追いかけても、その犯罪者は比較的容易に別の
管轄の地域に逃げおおせ、警察組織はたちまち手を出せ
なくなってしまい、結果的に犯罪の多い地域となる
(そして「国定忠治」のような渡世人も多くなる)。
むろん、お上も決して無為無策だったわけではなくて
あらゆる管轄地に警察権が及ぶFBI、「泣く子も
黙る」「関東取締出役」を設けるようになるのだが、
それでも実際は犯罪がゼロになるということはない。
そのように、お上も決して完璧で万能ではないがゆえ、
庶民もいざというときは犯罪者に負けない自衛力を
身につけねばならなくなった――
以上は、2014年9月号の歴史読本と漫画『風雲児たち』
13巻を参考にした私の想像である。以前「花燃ゆ」に
関連して新撰組について述べたのと重複するが、
少なくとも歴史読本によれば新撰組のふるさと・多摩は
「色んな支配者の管轄が複雑に入り組んでいるので
治安が悪く、ゆえに殺伐としている」地域性であった。
ゆえに私は上州も同様だったのだろうと想像する訳だが、
漫画『風雲児たち』の方では特に上州(現・群馬県)の
治安が悪い理由の一つを浅間山噴火に求めている。
すなわちこれによると、噴火によって稲作できなく
なったこの地域は養蚕で生計をたてるようになった。
絹を織るのは女の仕事だから女はその立場が強くなり、
一方男は、絹を売って生活するカネ中心の生活に
なったのでバクチをするようになり、彼をカモにする
バクチ打ちが増えたり、果ては彼自身までがバクチ
打ちに成り下がったりするなどして、結果的に治安が
悪くなるという具合だ。――だが、浅間山噴火以前から
おたずね者が多い理由については、この漫画よりも
『県民性の日本地図』の方が説得力を感じる。これに
よれば、そもそも上野・下野は山国であり、そういう
地域は小地域が自立しやすく、実際、歴史的には奈良
時代の昔からそうであったという。また、古来関東は未開の
辺境地でしかも「関東ローム層」という稲作に適さない
土壌であるから貧しく、誠実で根気強く義理人情あつい
気質が形成され、これがさらに平安時代中期以降になると
武士が新田開発するようになり、それに伴って武士道も
形成されていった。そうして形成された質実剛健の鎌倉
武士の気質は、江戸時代になると関東南部では変化を
見せたが、北関東では依然残り続けたという。――つまり、
領地が細切れになっているという事情も、武士の気風が
存在することも江戸時代よりもかなり昔からあったので、
治安の悪さとそれに伴う民情の荒さも根深かったという
ことなのだろう。そんな群馬県民だそうだが、同書では
本来男女とも正直で働き者というから、ポテンシャルは
高いということになるかもしれない。なお、同書では同じ
山国でも下野の方が上野よりおとなしいように書かれて
あるが、なぜそういう違いが出たのかについては特に
言及されていない。また、同じ北関東でも茨城県は比較的
平野が多いので、「一つにまとまりにくい」という事には
ならないらしい。


それにしても、このドラマの美和のぶっ飛びぶりは
相変わらずである。このたびにしても、自分の仲間が
暴力で幕府を倒したばかりであるというのに、いみじくも
「暴力では何も変わらない」と言ってのけたのである。
彼女が何と言おうと、少なくとも前原一誠とてもとは
反政府活動をしていた志士、暴力によって全てを変え
られるうまみを体感している男の一人なのである。
ただ、たしか後で不平士族を率いた西郷吉之助は本当は
鹿児島を出てもなお反乱を起こすつもりはなかったとも
いうから、そんな西郷と同様、前原も不幸な行き違いの
末に不本意ながら武力蜂起を始めてしまう可能性はある。
ドラマの美和は「変えられるものがあるとすればそれは
暴力ではなく心だ」と言うが、実際のところ「心」を
持ったところで、それを何らかのかたちで表さなければ
何にもならない。そして、たとえその表し方が暴力で
あったとしても、あいにくそれで全てが変わってしまう
場合もあり、それは当の前原一誠や美和が一番よく
知っているはずなのである。現代でもなお暴力が無く
ならない理由の一つが、まさにそこにあるような気が
しているところだ。


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なにが子供の幸せなのか

2015-10-04 21:15:48 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびは、美和が久坂玄瑞の
忘れ形見・秀次郎の養育を試みるものの、かわいそうだと
思って結局、元の母親のもとに返してやるという話。
時代は、徴兵令が出た時点で1873年、美和31歳である。

史実の秀次郎の境遇については、以前に紹介した大河
ドラマのガイドブックより、こちらの外部サイトの方が
詳しい。これによると、久坂家には秀次郎が生まれる
前から久米次郎という養子がいたため、秀次郎は玄瑞の
縁者である酒造家に託されていた。その後、明治二年
(1869年)に秀次郎が玄瑞の子であると認定された。
それから、翌・明治三年の(秀次郎の生母)辰路の結婚を
機に、秀次郎は負野という家へ養子に出されたとされる。
そうして保護者をたらい回しにされた末、明治12年に、
秀次郎はようやく久坂家を継いだということである。
また、このたび描かれた時代は少なくとも(毛利元徳が
廃藩置県で免官されて東京へ移った)1871年~1873年の
時代に相当するから、当時の秀次郎は実際は7~9歳
ぐらいということで、もう少し大きかったのでは
ないかと思われる。そしてこのころ、辰路はとっくに
再婚していたことになるのである。いずれにせよ、
実際の秀次郎の境遇はドラマとはかなり異なっていた
ようだ。はたして、辰路と秀次郎の登場はこれっきりと
なるのか、それとも明治12年あたりにまたひょっこり
現れるのであろうか。それにしても、これは私の想像に
なるのだが、辰路の結婚の際に秀次郎が久坂家には
出されなかったあたり、美和や楫取素彦夫妻の苦悩の
深さを感ずる思いである。そこのところは、ドラマは
ちゃんと表現しているようでもある。


久坂玄瑞のように芸者に子供を産ませてみたり、自分の
家の奉公人に手を出してみたり――その結果、親類縁者が
婚外子の処遇に悩むというのはそれほど珍しい話でも
なかっただろうと思われるが、将来の経済的困難が予想
されるにも関わらず生みの親に返してしまうというドラマの
展開はいかにも現代的な感じがする。子供ができるまで
天涯孤独であったというドラマの辰路は、これから女一人で
どうして子供を養うつもりなのか。昔の歌謡曲「花街の母」
ではないが、よしんば芸者に戻ったとしても子持ちでは
住みにくかろう。片親世帯の貧困が問題視されている昨今
だけに、何が真に子供の幸せとなるのかをもっと深く考え
させる内容にするべきではないのだろうか。むろん、実の
親子で暮らせれば、本人たちの心情としてはうれしかろう。
ただ、事情は「これからも一緒でよかったね」で片づけ
られるほど単純なものでもないように思われるのである。


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