黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

この一年をふりかえる

2014-12-31 20:16:51 | 日常
ブログのデザインがクリスマスのままだったので慌てて変えた(汗)

早いもので、今年ももう大晦日になった。

特に今月は朝は7時半には会社につき、20時越えの退社は当たり前、
さらに後半ともなると22時をすぎることも何度かあり、
しまいには20時すぎに退社できて家族共々喜んでる自分がいた。
今年の前半のうちは事務の仕事だけやっていればよかったのが、
電話の応対が下手くそということもあり、事務の仕事は減らされ、
そのぶん、現場の作業をやることになった。
現場の作業は、事務の仕事と比べて身体的負担が大きい。
そして、事務の仕事を「減らされた」という事に挫折感を感じ、
いまだにその思いを克服しきれていない部分もある。
ただ、現場の作業自体は事務よりも楽しいと感じるうえ、
さらに、現場の派遣さん・パートさんたちや、たまに管理職
レベルの人たちからでさえ、私に対する愛情を感じられる
瞬間があり、それに癒されることで何とか一年頑張ってこれた
感がある。決して仕事ができるわけではないので、
せめてこれからも全従業員一人一人の心の動きをよく見、
大事にしていくよう心がけていきたいと思っている。
先に述べた挫折感は、いつか時間が解決してくれるだろう。

努力すれば何でも出来るわけじゃないし、回り道も多かった。
きっと、これからもそうだろう。
自宅ではまだまだ子供だが、刹那的で、自分たち以外のことは
どうでも構わないというスタイルはそろそろ卒業して
いきたいと、今になってようやく感じ始めた今日この頃である。
そしてそれゆえ、少なくとも方向性としては、
「ありのままの」自分を肯定することはあっても、
「ありのままの」自分を見せる事は避けたいと感じている。
つまり、「演技する」のだ。


それにしても、すっかり少なくなった自分の趣味の時間。
この正月にせめてどこか城跡に足を運びたいものだが、
以前ほど詳細にブログに載せるところまで行き着くか
どうかは不透明である。


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悔いのない充実した一生

2014-12-21 23:11:53 | 思索系
大河ドラマ「軍師官兵衛」。この大河ドラマも、
今回でついに最終回をむかえた。けっきょく、
黒田家のように大して石高の高くない家の者が
天下取りを狙うなら、晩年の官兵衛のように
全くの独自路線を歩むより、若き日の官兵衛や
関が原の戦いの際の長政のように、より天下に
近い男に取り入ったほうが手っ取り早い、という
ことのように私には思える。ドラマの官兵衛や
家康は、関が原の戦いで活躍した長政のことを
「父を超えた」と評していたけれど、このたびの
長政の活躍を父親と比べるなど、少々無理がある
ように感じられる。

ドラマでは、九州に端を発して天下を狙っていた
かのような官兵衛であるが、そもそも当時の
官兵衛の野心の有無について、2013年5月号の
歴史読本は否定的な見解を述べている。
このたびのドラマでは、関が原の戦い後、家康に
たいそう褒められた長政に対して官兵衛が
「長政、お前は家康に右手を差しのべられた時
なぜもう片方の左手で家康をやらなかったのか」と
述べるシーンがあったが、この逸話についても、
歴史読本は「如水に天下を取って欲しかったという
仮託であって、史実とはみなし難い」と評している。
ただし、仮に当時の官兵衛に野心がなかったと
しても、家康からはあんまり信用されなかった
らしい。『黒田官兵衛のすべて』によると、
「如水には数々の戦功があったにもかかわらず、
何の恩賞の沙汰もなかった」し、先に「家康は
井伊直政を通じて、切り取り勝手であるとか、
毛利吉成の豊前二郡を与えるとか約束していたが、
それは少しも実行されなかった」という。
そして、官兵衛も家康の不信を見抜いていたのか、
家康が官兵衛に朝廷の官位や上方の領地を
あげようとしても、これを辞退していた。
黒田官兵衛55歳、ヒトとしては一番の分別の盛り
である。関が原の戦いの時代の官兵衛の野心に
ついては諸説あるとしても、かつては秀吉の
天下取りに多少なりとも貢献することで、
官兵衛も共に夢を見ることができたと思われる。
決して順風満帆ではなかったが、決定的な
大事件に足元すくわれるのを回避できる賢明さと
幸運を持ち、戦えば強く、家臣領民の扱いも
うまかったであろう黒田官兵衛。
2013年5月号の歴史読本によると、その辞世は――

おもひおく 言の葉なくて つひに行く
道はまよはじ なるにまかせて

――心残りがあれば、こんな辞世は残せない
ように思えるのである。

しかしながら、当時の戦国武将とて、彼のように
能力や幸運に恵まれた武将ばかりとは限らない。
特に個人的には、往年の慧眼ゆえ、安国寺恵瓊の
滅亡が惜しまれるところである。かつては
毛利家の外交僧として活躍していたはずの彼で
あるが、秀吉の世になってその立場も変わったのか、
関が原の戦いの際にはなぜか毛利の一部将として
軍を率いて戦っていた。新・歴史群像シリーズ
「戦国軍師伝」の記事の投稿者の分析によれば、
当時の彼がするべきことは一部将として吉川
広家らと行動を共にすることではなく、むしろ
石田三成と毛利輝元の調整役となり、西軍勝利の
ために毛利輝元を戦場へと引き出し、吉川広家の
傍観や小早川秀秋の裏切りを妨げることであった。
秀吉の世になって秀吉に取り立てられ、武将として
戦う場面が増えてくるうちに、世の中の大局を
見極める眼が曇っていったのか、それとも、相手の
能力を見極める才能と、相手がいま何を考えて
いるのかを見抜く才能は別物ということなのか。

それから、官兵衛の没後に黒田家を出奔した
後藤又兵衛。ドラマでは割愛されたが、彼は黒田家
出奔後、黒田長政から「奉公構」という再就職の
妨害にあって浪人の身となっていた。ウィキペ
ディアで彼の出奔にまつわる逸話を読む限り、
彼には自分で正しいと思ったら立場に関わらず
我を通すところがあったらしい。ただ、思えば、
又兵衛はかつては一族の都合で黒田家追放を
余儀なくされ、その後再仕官を許されてようやく
あそこまで出世した末の話であるから、やはり
寂しい思いだったのではないのだろうか。


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夢と夢を賭けた戦い

2014-12-07 23:04:22 | 思索系
大河ドラマ「軍師官兵衛」。このたびは、関が原の
戦いの日の早朝で話が終わった。時代は、1600年
9月15日。官兵衛55歳、光姫48歳であった。ドラマの
最後では、お城好きで「笑点」でおなじみの春風亭
昇太さんが毛屋主水という武将の役で登場した。
この武将は歴とした黒田二十四騎の一人で、佐々
成政が切腹したあと黒田長政に仕えるようになった。
ウィキペディアの彼の項には、彼が関が原の戦いの
際に「物見として正確に敵情を探り、過大に宣伝
されていた敵兵の数が、実際には少ないことを
報告し味方の士気をあげたため、徳川家康より
その機知を褒められ、その場にあった饅頭を褒美
として受け取った」とあり、ドラマがこの逸話に
即していることが分かる。なお、彼を演じた昇太
さんは「笑点」でよく自身が独身であることを
ネタにしているが、毛屋主水もまた、主家を渡り
歩いたがために晩婚であったという。いずれにせよ、
昇太さんの楽しそうに演じている姿が印象的だった。

一方、「九州の関が原」石垣原の戦いは、関が原の
戦いの2日前に起きていた。井上九郎右衛門と
吉弘統幸との一騎打ちは、話を面白くするための
演出だろうと思っていたのだが、『黒田官兵衛の
すべて』によると、実際にあったと伝えられて
いるという。また、この石垣原の戦いが吉弘統幸に
とって不本意な戦いであったことも、ウィキペ
ディアで伝えられている。大友義統は統幸の進言や
息子が東軍についているにもかかわらず西軍として
大友家再興を目論んでいたわけで、ドラマでは
降伏する際に進言をしりぞけたことを九郎右衛門に
とがめられていたが、そうまでしても夢を諦められ
なかったという点ではドラマの官兵衛と同じはずだ。
よせばいいのに、ドラマの官兵衛も50をすぎて天下
取りの野望を捨て切れず、そのために多くの将兵を
死なせ、九郎右衛門にはケガまでさせているのだ。

それから、このたび登場した竹中重義とその父
重隆であるが、彼らが官兵衛に味方した経緯は
ドラマとは少し異なっているようだ。すなわち、
『黒田官兵衛のすべて』によると重隆はやはり当初は
官兵衛に味方するつもりであった。それが、大友
義統の威勢を見るや去就に迷うようになって様子見の
態度をとるようになった。これを知った官兵衛が
怒って重隆の高田城を攻撃すると、ビックリして
息子・重義を派遣させたのだということである
(重隆自らは病と称して出てこなかった)。
なお、重隆は半兵衛の従兄弟であったが、当時は
半兵衛の息子も存在した。竹中重門といい、彼は
当初西軍に属したが東軍に鞍替えし、黒田長政と
共に石田勢と戦ったそうだ。


ところで、2013年5月号の歴史読本によると、
実は官兵衛でさえも最初から家康に与していた
訳ではなかったという。というのは、1600年7月に
毛利輝元が大坂に入場した際に官兵衛がこれを
喜んだことを示す書状が残っているからである。
官兵衛といえども、安易に去就を鮮明にしなかった
であろう天下分け目の戦い。官兵衛がするような
大博打なんて夢のまた夢。また大谷吉継のように
カッコがつかなくてもいい。一国一城の主には、
まず一族と家臣を守っていく責務が第一にある。
だからこそ、途中で去就を変えたり、なかなか
煮え切れない大名も多かったということだろう。
彼らは決断力に欠けるとしても、無責任とは
言えないように感じられるのである。


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