黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

前途多難

2012-04-29 23:51:52 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたびはたしか、
後を継いだばかりの清盛が藤原家成の歌会に
招かれる――といった話だろうか。
時代は、源義朝が下野守になった時点で
1153年のまま。よって、清盛36歳、
源義朝は31歳、常盤が16歳、そして
雅仁親王は27歳ということになる。
別冊歴史読本『源氏 武門の覇者』によると、
下野守はかつて八幡太郎義家が就任した
ポストであり、またウィキペディアの源義朝の
項によると、義朝の血統である河内源氏が
受領に就任するのは、義家の子・義親以来
50年ぶりの事だったらしい。この頃の義朝と
しては、これでようやく都の平家と対抗しうる
といったところであろうか。不謹慎な話かも
しれないが、いまドラマのなかで病気になって
いる近衛天皇が死に、そしてその翌年に
鳥羽院も死ねば、いよいよ保元・平治の乱が
始まる(すなわち「武者の世」をむかえる)。
もしかするとこのドラマを制作する側は、
今日がゴールデンウィーク中という事もあって
視聴率が著しく低くなりはしないか恐れていたり
するかもしれないが、少なくとも私は
「武者の世」をむかえつつあるこれからの
ドラマの展開を楽しみにしている。

ところで、正直あんまり期待していなかったが、
当ブログで時々レビューついでに話題にしてきた
義朝の弟・義賢がこのたび登場したことは
ちょっと嬉しかった。このたび彼は父・為義に
「お前も東国に行ってこい(そして義朝と対抗
しろ)」と言われていたが、彼はこの1153年に
武蔵国・大蔵(埼玉県比企郡嵐山町)へ居を構えた。
その跡地と言われている「大蔵館跡」について
私は以前に当ブログでとりあげている(こちら)。
この記事を書いた頃は歴史を把握しきれてない
部分が今よりも多かったので、とりあげるのは
少々恥ずかしい気がするが――、
現在の大蔵館跡の様子が画像や地図などで
分かるようになっている。なお、これは何度も
とりあげた気がするが、やがて1155年、
義朝はこの大蔵へ長男である義平をさしむけ、
義賢を討伐させた(大蔵合戦)。この戦いは
武蔵国をめぐる義賢・義朝兄弟の覇権争いで
あり、また為義・義朝父子の代理戦争という
側面もあったのではないだろうか。


それにしても、このたびドラマで歌会に
参加した貴族ではないが、ドラマの清盛が
詠んだ歌には私も呆れてしまった。
さしずめ現代に例えるとするなら、
大学の授業中に自分の意見を発表する際、
設問とはほとんど関係ない内容の意見を言って、
「一生懸命書いたんだし、昨日どうしても勉強に
身が入らなかったんだから、これで良いじゃん」
と開き直っているようなものだろうか。
設問の内容や採点する先生の考え方によっては、
あるいはそうした回答で通る場合もあるかも
しれないが、おそらく大抵の先生ならその生徒を
低く評価したり、あるいは再度の回答を
その生徒にうながすところであろう。
ドラマの清盛もこんなレベルの回答をしたにも
かかわらず開き直っているのだから、これは
あまりにも自分本位な態度ではないのだろうか??
史実の清盛は今後、貴族の最高位である
太政大臣にまで大出世を遂げていくのであるが、
ドラマの清盛のようにこれほど自分本位では、
どうしてそこまで出世できたのか、私はちょっと
理解に苦しまねばならなくなってくる。
私の狭い了見かもしれないが、どんな時代であれ
自分本位な人間がそれほど大出世できるとは
思えないのである。

それに、「家族や家人が何より大事」とは、
後で太政大臣となり海外貿易を展開してくるような
清盛にしては、なんと内向きな内容であることか。
たとえ同じ稚拙な歌であっても、これではまだ
「親父が死んだのは悲しいけど、棟梁になったん
だから、いよいよオレらしく面白く生きてみたい」
とか、(いつか清盛が最初の妻に語ったように)
「いつか大海原に乗り出してみたい」という
意気込みを歌ってもらったほうが、
よほど夢があって清盛らしいように思える。
親族のコネやパイプを頼りに出世していった
清盛のこと、あるいは史実の清盛も同じように
「家族や家人が何より大事」と感じていたかも
しれないが――人前で詠む歌の内容としては、
ちょっと寂しいようにも感じた次第である。

だいたい、ドラマの清盛は信西に対して
「歌会で恥をかきたくないから助けてくれ」と
言って断られていたが、信西が断った理由が
意味不明であったし、仮に信西がダメだとしても、
信西に「誰に教わればいいのか」と聞いたり
清盛に歌会を持ちかけた藤原家成に助けを請えば
いいではないか。家成も助けてくれない可能性は
あるが、なぜ助けを請うことさえしないのか。

そもそも私としては、特に清盛の家督相続に
あれほど反対していた平忠正がどうしておとなしく
しているのかが不思議である。いくら忠盛が
「後継者は清盛だ」と言い聞かせたにしても、
その言葉が忠盛の死後も生前と同じ効力を
維持し続けるとは限らないものではあるまいか。
もしそうでなければ、なぜ後世の徳川家康は
秀吉の死と同時に秀吉の遺言を踏みにじって
天下取りの準備を始めたというのか。
平忠正という人物が家康より従順だったにしても、
少なくともドラマの清盛とか平家貞のような
立場なら、まず平忠正、それに平頼盛や池禅尼にも
内心警戒し、彼らを謀反に走らせないように
気を配るべきだろう。いまは家督を継いだばかりで
そこまで気を配る余裕はないにしても、
これも当主としての必要事項の一つに思える。


←ランキングにも参加しています

鉢形城跡

2012-04-25 21:47:22 | 歴史系(ローカル)
先週、埼玉県大里郡寄居町にある県内最大
規模の城・鉢形城に行った。
鉢形城は、後北条氏の本拠・小田原城の
支城として知られた城である。
まずは、このたび私が撮影した城跡の様子を
とりあげたい。下の画像が、鉢形城の縄張の
様子と撮影ポイントを示したものである:



まず、こちらは本曲輪の様子で――



本曲輪の撮影ポイントから少し道路側へ
後ずさりしてみると、下の画像のように
石垣が残っていることがわかる。



一方、こちらは二の曲輪と三の曲輪の
狭間の様子。本曲輪よりもこちらの地点の
方が標高が高いので、こちら方面が
「本曲輪」と呼ばれないのは奇妙である。
下の画像にあるような、畝を持つ堀は
「障子掘」と言って、以前当ブログで
とりあげた岩槻城跡でも復元されているもの
だが、これは後北条氏系城郭の特徴とされる。
私はこのたび初めて知ったことだが、
この鉢形城の二の曲輪側の掲示によると、
近年の発掘調査例では後北条氏より前から
「障子掘」が用いられていたようだという。



上の画像の左側に写っている三の曲輪は
下の画像のように整備され、門などが
復元されていた。ただ、最初にとりあげた
本曲輪の方が、史跡としての味わいを感じる。



上の画像の右側には柵も復元されていて、
この柵の向こうにはさらに秩父曲輪と伝わる
スペースもあった。そこの掲示によると、
この場所は北条氏邦の重臣・秩父孫次郎が
守ったと伝わる曲輪である。下の画像が
その曲輪の様子で、池になってる部分を画像に
指し示したのだが、同掲示によると往時は
この池を囲むようにして建物が配置されていた
らしい。ここでは茶道具やカワラケなどが
出土したため、宴会や歌会などを行う特別な
空間だったのではないか――と、掲示は
推測をたてている。私が歩いて感じた限り、
ココが城跡内で最も標高の高い部分だった
ようだし、やはりココこそ本来「本曲輪」と
呼ぶにふさわしい場所だったのではないかと
思うのであるが。



なお、下の画像は地点③から見えていた
馬出の様子。この馬出の周囲の土塁は
比較的深い状態で残されており、
この馬出から土塁や荒川を覗いてみると
思わずゾッとするが、つい忘れそうになる
城の機能の残虐性を思い出させてくれる。



それと、下の画像は搦手橋から深沢川を
のぞいて写したもの(四十八釜方面)。
川幅は狭いが、両岸より鬱蒼と樹木の生い
茂る断崖絶壁が迫っている。
搦手橋の掲示によると、この川には
激しい渓流が谷底の岩盤をうがって形成
された「釜」と呼ばれる淵が点在し、
少なくとも往時はこの「釜」が
たくさんあったようである。
戦国時代であれば、この「釜」も有効な
天然の防御設備たりえたかもしれない。




城跡内の掲示等によると、築城は文明8年
(1476年)に長尾景春という山内上杉氏の家臣が
おこなったとする説が有力である。
鉢形城は埼玉県北西部に位置し、その西側は
秩父地方、その北側は上野国(現・群馬県)。
文明年間では、山内と扇谷の両上杉氏が
上野地方や秩父口の押さえとしてこの城を
重視していたという。
時代はまだ両上杉氏が協調していたころ、
長尾氏は4つの家に別れ、持ち回りで山内上杉の
家宰職を務めてきたが、景春の家である
白井長尾氏は景春の祖父・景仲、父・景信と
2代続けて家宰職を務めた。家宰職は関東管領の
補佐役であり、関東では大きな権力である。
そんな大きな権力を2代に渡って掌握した
白井長尾氏の更なる増長を山内上杉氏は恐れた
ため、山内上杉氏は景春の父・景信が死ぬと
家宰職を景春ではなく別の長尾家の忠景に
与えた。そして景春はこの仕打ちに怒って、
1476年に鉢形城で反旗を翻すに至ったのである。

その後、長尾景春は、扇谷上杉氏の家臣・
太田道灌によって追われてしまう。
それから鉢形城には上杉顕定が入り
(なお、この人事には道灌が関わっている)、
顕定から上杉憲政が城主をやめるまでの間は
山内上杉氏の城となっていたが、この間の
歴代城主たちの出自は越後上杉系、足利系、
山内上杉系、と、様々だったようである。

その後、1546年の「河越夜戦」で北条氏康が
両上杉氏等を破り、上杉憲政が上野の平井城へ
逃れると、それまで両上杉氏に従っていた
各地の領主の多くは後北条氏に服従するように
なり、藤田重利(康邦)も、そうした一人となる。
康邦は山内上杉氏譜代の重臣で天神山城主で
あったが、北条氏康の攻撃を受けて降伏したのだ。
そして、康邦は氏康の三男(氏政の兄もカウント
すれば四男)氏邦を娘婿として迎え、
氏邦は永禄年代(1558年~1570年)に鉢形城主と
なった。鉢形城を現在の外曲輪まで整備した
のも、この氏邦であったという。
北条氏康は藤田氏以外の有力者のもとにも
自分の実子や養子を送りこみ、そうすることで
守りの体制を作り上げ、勢力拡大の足がかりに
したのである。

氏邦の場合、領内の反北条勢力や越後の
上杉謙信、それに甲斐の武田信玄とも
対戦しつつ鉢形城主としての地歩を固め、
時代が下って1582年に信長が没すると、
当時北条宗家当主となっていた甥・氏直と共に
上野の滝川一益と戦って(神流川合戦)、
西上野にも進出した。なお、上杉謙信とは、
関東から追い出された上杉憲政のために
毎年のように関東へ出張った武将であり、
武田信玄は信玄自身が駿河へ侵攻したのを機に
北条と不仲になった武将であり、
滝川一益とは、自分の主君である信長から
上野と信濃の二郡を与えられていた武将である。

だが、1590年になると関白・豊臣秀吉が
北条攻めを始め、鉢形城の方にも同年5月に
豊臣軍(具体的には前田利家と上杉景勝らの
軍)が差し向けられる。
鉢形城はかつて武田信玄の猛攻に耐えた城、
攻防戦は一ヶ月に及んだが、
6月14日、ついに氏邦は降伏、開城した。
鉢形城は、徳川氏が江戸に入府すると
廃城の運命をたどったという。
なお、氏邦は前田利家にお預けの身となり、
利家に厚遇されて晩年を能登の七尾で
すごしたが、1597年に没し、遺骨は寄居に
帰って、藤田氏の菩提寺・正龍寺に葬られた。
また、藤田康邦の娘で氏邦の妻になっていた
大福御前は落城後も鉢形に残り、氏邦に先立つ
1593年に病死したとも自害したとも言われる。
氏邦と大福御前との間には三人あるいは
四人の息子と一人の養子がいたようだが、
彼らの「その後」に関する情報はウィキペ
ディアと『中世武蔵人物列伝』とで異なる。

実は、藤田康邦には実の息子が2人もいて、
兄の名は重連、弟の名は信吉と言った。
婿入りしてきた氏邦はいわば、この兄弟を
押しのけるかたちで鉢形城主になったのだ。
そして、重連は氏邦の家来になったものの
氏邦と確執が生じ、沼田城代になると
氏邦に毒殺される。一方の信吉は、氏邦への
不信から北条氏以外の大名を転々としたが、
秀吉の脅威が氏邦夫妻を脅かすようになると、
氏邦に投降をすすめたり、氏邦が前田家へ
お預かりとなるよう動いてもいる。
これは私の勝手な想像にすぎないが、
北条氏邦は年長者たちの都合によって
鉢形城主にさせられ、そのために不満分子を
かかえることにもなり、一方で北条宗家からは
良き統治者かつ良き側近である事を求められる。
そんな氏邦の大変さを妻の大福御前がよく理解し
氏邦を支えていく。そして、氏邦・大福御前
夫妻に秀吉の脅威が迫ってくると、藤田信吉が
「氏邦のためではなくて、大福御前のため
ならば」という思いゆえに氏邦を助ける――
といった人間模様が見えてくるようだ。
なお、信吉は最終的には徳川の家臣となったが、
1615年の「大坂夏の陣」後に改易され、
その翌年に亡くなった。近年では、
信吉は自殺したとする説が有力だそうである。


参考にした文献等:
・『歴史散歩⑪ 埼玉の県の歴史散歩』 
 (山川出版社 2005)
・「鉢形城主氏邦とその兄弟」(鉢形城歴史館
 平成24年春季企画展のパンフレット)
・「人物鉢形城史」(鉢形城歴史館の受付で
 いただいた資料)
・『中世武蔵人物列伝』(編:埼玉県立歴史
 資料館 さきたま出版会 2006)
・『歴史ロマン 埼玉の城址30選』
 (編著:西野博道 さいたま新聞社 平成21年)
・ウィキペディアの長尾景春の乱の項
・ウィキペディアの藤田康邦の項
・ウィキペディアの北条氏邦の項
・ウィキペディアの滝川一益の項
・ウィキペディアの用土重連の項
・ウィキペディアの藤田信吉の項


←ランキングにも参加しています

清盛の父の死

2012-04-22 00:02:41 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたび、清盛の父・
忠盛がこの世を去った。1153年、享年58歳。
このとき清盛は36歳、源義朝は31歳、
そして常盤は16歳ということになる。
なお、このたびはドラマの最初の約10分間を
見ることができなかったので、公式HPを
見ることでその分を補った次第である。


摂関家の藤原頼長はこのたび「氏の長者」の
座を得たようだが、少なくともこのころが
彼の最も得意の頃だったと思われる。
その頼長は、平忠盛の死を知ると、忠盛の
事を自分の日記のなかで次のように評した
という:「数国の吏を経て富は巨万をかさね、
奴僕は国に満ち、武威は人にすぐれる。
しかるに人となりは恭倹にして、いまだかつて
奢侈の行ひあらず。時の人これを惜しむ」と。
そして、この人物評を引用している
『別冊太陽 日本のこころ190 平清盛
王朝への挑戦』(平凡社 2011年)では、
「ふだんのあからさまな諸大夫蔑視に似ず、
忠盛を褒め上げた。忠盛は、複雑な人間関係の
中で気配りを怠らず、宮廷のうるさ型の
好意的な評すら得たのである」と、
解釈している。少なくともこのドラマや
『平家物語』では、忠盛は彼の昇殿に反対する
貴族たちの差し金で闇討ちに遭いそうになった
こともあり、そこで貴族たちに対する気配りの
重要性を学んだということでもあろう。
ただ、ドラマの頼長がこんなふうに
忠盛を褒めるようなシーンなど、
どうも期待できそうにない。

それと、ドラマのナレーションや公式HPには
「忠盛が清盛や武士に残した功績は
はかりしれないものがあった」とあった。
これは私個人の推測にすぎないが、たしかに
忠盛は武士のなかでは前人未到の高い位や
官職を歴任したとか、海外貿易に目をつけたとか、
土地や財産を莫大に増やしたといった功績は
あったようである。
しかし――このドラマで忠盛が見せてきた姿は
主に清盛を遠くで暖かく見守る父親の姿であり、
それなりに志は持っていても、一人の男として
志と正面から向き合って仕事に打ち込むといった
「夢中に生きる」姿は、ドラマ上、
必要最小限しか見せてこなかったという印象が
あったので、その死に際になって
「忠盛が残した功績は計り知れない」などと
言われても、ちょっと取って付けたような言葉に
聞こえた。ここはむしろ、「父・忠盛の死を
察した清盛は、父の遺志を受け継いで
果たしていく事を強く心に誓うのであった」
という言葉の方が、私には適切に感じる。
まあそれでも、この取って付けたような言葉に
よって「清盛の栄華は一代にして成らず」という
点がちゃんと述べられた印象も受けるので、
全く不満に感じた訳でもなかった。

一方、源氏では、あくまで摂関家に忠実な
為義と、院権力に近くなった義朝とで
相変わらず対立している。
別冊歴史読本『源氏対平氏』によると
義朝が院権力に近くなった直接的な理由は
義朝が清盛に倣って院にも仕えるようになった
からだそうだが、なぜ義朝は清盛に倣おうと
考えたのだろうか。また、ドラマの義朝は
東国から京へ帰ると鳥羽院のために水仙を
送って鳥羽院にとりいったが、
なぜ義朝はそうしようと考えたのだろうか。
正しい認識なのか自信も持てないが、
私の認識では、源氏にとって鳥羽院は、
今まで仕えてきた摂関家の敵対勢力だった
はずである。なにやら別冊歴史読本
『源氏 武門の覇者』によると「義朝の従えた
在地武士たちが摂関家領の荘官としてよりも、
国衙の在庁官人たる側面を自らの存在基盤として
主張する方が得策とさせるような在地状況の
変化」が当時あったそうなので、
義朝はこれを冷静に感じ取って院権力との
接近を図った、ということではあろう。
だが、このような「変化した在地状況」とは
具体的にどんなものだったのか、そのへんが
私にはちょっと想像つかないので、
あいにく今の私には完全には解決できない
謎となっている。


←ランキングにも参加しています

情けは人のためならず

2012-04-15 23:52:06 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたびの話題は、
平家盛の死によって平家一門に内部分裂の
危機がおとずれた――とでも言うべきか。
時代は、近衛天皇が元服した時点で1150年。
清盛は33歳、源義朝は28歳、そしてこのたび
久々に登場した雅仁親王は24歳である。


ところで、これは前々回にも話題にした
ことだったが、最近このドラマは低視聴率に
あえいでいるらしく、そのための対策案として
小雪さん(清盛役の松山ケンイチさんの奥方)の
出演が浮上していたり、よっぽど視聴率が
低くなった場合はオリンピック期間中に
放送を中止するといった案まで出てきてる
らしい(こちらのニュースによる)。
くどいようだが、私自身の思いを前々回より
多く書かせてもらうと、少なくとも夫婦共演は
特に必要ないと感じるし、もし万が一
放送が中断するようなことでもあったら・・・、
少々大げさな例えになってしまうが、
日本の国土から富士山が消えたかのような
衝撃を受けるだろう。

たしかに高視聴率であればそれにこしたことは
ないだろうが、そもそも今時なぜそうまでして
高視聴率に固執せねばならないのだろう。
むしろ視聴率などハナから問題にせず、
「たとえ万人ウケなどしなくても、一部の
歴史好きに息長く愛されればそれで良いんだ」
ということにはならないのであろうか??
たとえホームラン王になどなれなくても、
イチロー選手のような底堅い活躍ができれば
それで充分――といった発想の転換は、
できないものであろうか。

上でとりあげたニュースのページにも
近いような意見がよせられていたが、
やはりテレビうけするのは戦国時代か幕末
だろうと思う。だがそれらの時代ばかり
題材になっても私は飽きてしまうし、
それらの時代に生きた人物ではないが
とりあげてほしい人たちもたくさんいる
(足利義満、保科正之、田沼意次など)。
もしいつか彼らを取りあげてもらえる
機会があれば、その時こそいっそ、視聴率など
あまり問題にしてほしくないものである。


閑話休題。前回から、常盤御前が登場している。
ウィキペディアで調べてみると、
彼女は1138年に生まれたということなので
このたびの1150年の時点でまだ13歳という
ことになる。一方、彼女を演じている
武井咲さんは今年で19歳。単純に計算すると
両者の年齢差はわずか6歳ということに
なるのだが・・・やはり、13歳には見えない。

一方、このたびの摂関家では、藤原頼長が
自分の養女・多子を近衛天皇の皇后にすえたが、
頼長の兄・忠通はこれに対抗するように
自分の養女・呈子を同じ天皇の中宮にすえた。
ドラマでは彼らの父・忠実と頼長が忠通に対して
抗議する場面が見られたが、彼らの対立の
原因こそ、以前言及した忠通の実子誕生と、
それまで忠通の養子となっていた頼長の
後継の立場の喪失であった。


前回のドラマのレビューで指摘した「清盛の
幸福」も、考えてみれば忠盛が自分の夢を
清盛に託してるからこそ、存在しうるものである
(というのもドラマの清盛はもともと
平家一門にとってよそ者であるから――)。
忠盛自身の夢がおおもとの原因となって
家盛が死んだということであれば、それは
忠盛にとっても辛いものだっただろうが、
だからといって、もし、忠盛が高野山の
普請をやらなくなれば、忠盛の夢は
宙ぶらりんになるところだったし、
忠盛の夢が宙ぶらりんになれば、本来よそ者の
清盛の立場も宙ぶらりんになるか、あるいは
もっと悪いものになっていたところだろう。
つまりドラマの清盛としては、自分の立場を
守るためにも、高野山の普請を止めようとする
忠盛を阻止せねばならなかった。
ドラマの清盛がそこまで計算していたようにも
見えないが、少なくともドラマの清盛は
忠盛の投げ出しを阻止することによって
結果的に自分の立場を守ることに成功したと
言えそうだ。


←ランキングにも参加しています

天下取りへのみちのく

2012-04-12 23:51:06 | 思索系
先月末、時代劇専門チャンネルで再放送された
1997年の大河ドラマ「風林火山」が終了したが、
同じチャンネルの同じ時間帯で今度は
1987年の大河ドラマ「独眼竜政宗」が始まった。
初回放送当時は私自身があまりに幼すぎて
全く記憶に無かったこのドラマを
この年齢になってようやく観ることができ、
とても楽しみにしている。
視聴率を問題にしたくはないが、
平均視聴率が歴代一位で、ものすごい人気が
あったと聞けば、やはりそれだけで内容が
気になってくるし、それに私の推測としては、
少なくともこの「独眼竜政宗」の人気なくして
今日ほどの政宗人気もなかったのではないかと
日頃より感じていたからである
(「独眼竜政宗」以外にも政宗人気の秘密は
あるのかもしれないが)。
いくら本人が優れた大名だったにせよ、
やはり天下取りからは物理的にも時間的にも
ちょっと遠い存在だったであろう田舎大名。
そんな彼と似たような条件の持ち主ならば、
例えば薩摩の島津義久・義弘兄弟とか、
土佐の長宗我部元親あたりも
もっと持てはやされていいはずである
(とりわけ長宗我部元親は、晩年の肖像画から
想像するに、若い頃は現代人ウケする顔の
持ち主だったかもしれないし)。
もしこの大河ドラマ「独眼竜政宗」の人気が
無ければ、伊達政宗も例示した戦国大名と
同じく「知る人ぞ知る名将」どまりだったの
ではないかと思う――。

しかし、「独眼竜政宗」の内容自体は
初めて観るに等しい私だが、このドラマの
オープニングはよく聴いたものだった。
なんでも、テレビ画面に「独眼竜政宗」
という題字が出る際には、なにか特殊な
楽器が演奏に用いられているそうだが、
私の関心をひくのはむしろ、バイオリンの
高音部分がいかに多いかというところである。
この「独眼竜政宗」のオープニングは
バイオリンが高い音を出して演奏する時間が
非常に長いゆえ、「崖っぷち」感たっぷりに
なっていて、私にはそこが伊達政宗の人生と
ダブっているように思えるのだ。
特に、ややあって「出演」というテロップが
出るあたりや、政宗が「押し出せー!」と
言ってそうなあたりは、平穏な(あるいは
ヒロイックな)メインのメロディと同時に
ひたすらバイオリンの高音が続くサブの
メロディが演奏され、表面的な栄光とは
裏腹の崖っぷち人生がうまく表現されている。
ただ、伊達政宗の人生がなぜ「崖っぷち」と
思うのかという点については、ドラマが
もう少し進んでから述べることになるだろう。

ここで話題を少し横道にそらし、
戦国時代の東北の特色についてのみ
少しまとめておきたい。ドラマでは、
「戦国時代の東北では、近隣の豪族同士が
近親憎悪に近い争い事を繰り返すのみで
あった」という主旨の説明がなされ、
ドラマの政宗自身もそのように語っていた。
同じく『歴史群像シリーズ【戦国】セレク
ション 風雲 伊達政宗』でも、戦国時代の
東北の豪族たちは「代々政略結婚をかさねて
いるから、みな親戚といってよく、たとえ
合戦しても、決定的な勝敗のかたちをとる
ことは」なかったと記されており、
だからこそ、「近隣の豪族同士が近親憎悪に
近い争い事を繰り返すのみ」だったという事で
あろう。伊達政宗は父・輝宗の隠居時代に、
小手森城(小浜塩松城の出城。小浜塩松城の
城主は大内定綱)で「撫で斬り」と称する
殲滅作戦を断行したが、同書によると
こうした「敗戦すればすべて無に帰する」と
言わんばかりのやり方は、今まで「決定的な
勝敗のかたちをとってこなかった」近隣の
豪族たちに恐怖を与えたという。
ドラマでも、政宗が殲滅作戦を家臣たちに
命じると、家臣たちは全て言葉を失ったが、
こうした描写は決定的な勝敗のかたちを
今までとってこなかった東北の武将たちの
歴史をよく表していると言える。
そして少なくとも、殲滅作戦を用いて
こうした歴史を断つことが、ドラマの政宗に
とって、天下取りへの第一歩だったのだ。

それと、『歴史群像シリーズ特別編集 
【全国版】戦国武将群雄譜 国人・大名・
異能衆伝』では、戦国時代の東北の特色が
もう一つ言及されている。同書によると、
戦国時代の東北では他地域と比べて
下剋上が少なく、兄弟や親子の相克に
終わるのみであったそうである。
東北地方では、畿内・近国や中間地帯の
国々にくらべて鎌倉時代以来の地頭領主層
(国人領主)の力が強く、それより下位の
名主百姓との間の力の差が圧倒的であった
ため、家臣が下剋上しようとしても
なかなか成功できなかったのではないか
ということである。ドラマでは、若き新参者・
片倉小十郎がしばしば古株の家臣たちから
「新参者のくせに」と言われ、彼らの妬みに
苦しむ様子が描かれたが、そうしたシーンも
相対的に下剋上が少ないという戦国時代の
東北の特色をよく表していると思う。
またドラマの輝宗は、「新参者のくせに」という
物堅い気風が自国にあったからこそ、
「上方に乗りおくれまい」と、
有能な人間を出自に関わらず抜擢していったと
理解することもできる。

ただ、これは私が思うところであるが、
たとえどんな時代や場所であっても、
新参者の栄光には常に多少なりとも古参の者に
妬まれるリスクがつきまとうものではないかと
思う。例えばこのドラマでは早くも
羽柴秀吉が登場しているが、草履取りだった
彼が長浜城主にまで成り上がった際に
丹羽長秀と柴田勝家の名字を一字ずつ頂いて
「羽柴」に改姓したのも、彼らのような
古参の武将の妬みを恐れたためだったからだ。

閑話休題。「独眼竜政宗」のドラマは、
1585年10月、政宗が父・輝宗と不幸なかたちで
死別したところまで話が進んだ。
このドラマでは、政宗が梵天丸と名乗っていた
幼い段階から、既に伊達家の未来を見ることが
できる(政宗をとりまく大人たちを介して)。
例えば、政宗の母・義姫は、彼女の父・最上
義守が長男の義光よりも次男の義時を愛し、
それゆえに義光・義時兄弟が家督相続を
めぐって争うようになった有様を知って
「愚かだ」と言っていたが、くしくも彼女は
後年、自分の父と同じ轍を踏むことになる。
また、政宗の守役・喜多は、初めて殿さまの
前に参るとき、お手打ちにされると思い
泥酔した状態で殿さまの前にまかりこしたが、
これも、秀吉の前へ死装束でまかりこした
後年の政宗の姿を髣髴とさせる。
そして、1577年の正月、伊達と相馬との
戦いの際の伊達の陣中で「相馬義胤が
『自分は伊達稙宗の曾孫だぞ!』と名乗る
かもしれない」という話になったとき、
伊達輝宗は「構わず義胤を鉄砲で撃ち殺せば
よい」と言い捨てたが、その輝宗は敵将・
畠山義継と共に息子・政宗に撃ち殺される
こととなった、というふうに――。

現時点でまだ若い伊達政宗の人生のキー・
ポイントの一つは、生母・義姫との不協和音
だろう。これはたしか、「BS歴史館」という
番組で江と春日局がとりあげられた時に
聞いた話だろうか、そもそも戦国時代の
大名家では、嫡男には幼い時から乳母やら
男性の守役やらがたくさん付いて、
嫡男の養育に生母が手出しする余地は
あまり残らないのであるが、次男・三男
以降になってくると、嫡男よりは
生母の出る幕も増えてくるものらしい。
そして、そうした事情から生母が
「自分の手元から奪われた嫡男よりも
手元において育てられた次男・三男の方が
カワイイ」と感じ、弟の方を偏愛するように
なってくると、そこから兄弟の家督争いに
発展する場合もあるという(戦国時代の
家督相続は必ずしも長男と決まっていた
訳ではないし――)。
織田信長・信行兄弟や徳川家光・忠長兄弟と
同様、伊達政宗・小次郎兄弟に関しても、
その家督争いの背景にはこうした事情が
からんでいる可能性があるのだそうだ。
ドラマの政宗と義姫の仲がうまくいかない
要因も、政宗の失われた右目のせいという
部分も全く無い訳ではないのであるが、
今のところはそれよりもむしろ
義姫の手元から離れて養育を受けねばならない
政宗の立場に由来する部分の方が多いように
感じられる。

しかしながら、史実にしてもドラマにしても、
政宗が生涯、失われた片目をコンプレックスに
していた可能性は高いように思われる。
仙台市博物館に所蔵されているという肖像画に
描かれた晩年の政宗は両目とも開いているが、
これは史実の政宗が生涯、片目であることを
意識して生きざるをえなかった事情を物語って
いるように思える。ただ、果たしてその事情とは
「両目とも自由であれば母の愛が得られたのに」
という思いだったのか、それとも日常生活から
命のやりとりをする戦場に至るまでハンディを
感じずには居られなかったためなのか、
あるいはその両方であったのか、あるていど
想像することはできても、断定はできない。
一方、ドラマの政宗はまだ年若く、
後先もまだまだ長いといえるであろうが、
少なくとも現時点では失われた片目を
事あるごとに気にしているように見える。

いくら「見た目よりも中身が大事」とはいえ、
特に少年時代では、片目が不自由である事を
意識せずに生きるのは難しかったであろう。
ややもすると「引っ込み思案でコンプレックスを
かかえた長男よりも次男の方が後継者に
ふさわしいのではないか」という話を
されかねない政宗を支えていたものとは、
一体何だったのだろうか。
ウィキペディアの政宗の項によると、
政宗は存命中から隻眼の行者・満海上人の
生まれ変わりであると知れ渡っていたそうだが、
たとえ政宗の少年時代から知れ渡っていたと
仮定するにしても、そうした伝説のみが
政宗の現実的な部分まで支えになっていたとは
考えにくい(そうした伝説は、少年・政宗の
精神的な支えにはなりえたかもしれないが)。
やはり私は、政宗の父・輝宗がどんな時も
政宗のことを後継者として立てつづけ、
政宗の立場を脅かす恐れのある全てのものから
政宗を守っていたように思われるのである
(史実の輝宗がそうだったと断言するつもりは
ないが、少なくともドラマに描かれている
輝宗にはそうしたところがあったように思う)。
そんな父・輝宗の一命を畠山義継の凶行から
守ることができなかったのかと思うと
政宗がとてもあわれに思えてくるのだが、
少なくともドラマの政宗は、父親への
はなむけの意味もこめて天下とりへの野心を
燃やすことになるのだろう。
ただ、たしかに父親との別れ方は不幸だったと
思うものの、その一方で私には、政宗が家督を
継いで名実共に父親から自立し、「一国に
二人も主は要らぬ」という状況に転ずるや、
天は「ここぞ」とばかりに惜しげもなく
政宗の父親をこの世から引き離していった――
という感もあったりする。もし、輝宗・政宗
父子の死別のタイミングがもっと遅ければ、
伊達家中は分裂し弱体化していたかもしれない。


ドラマでは、影に日向に父・輝宗の支えが
あったものの、政宗の方から父に頼ろうとする
ことは決して無い。政宗は、失われた右目を
人知れず自分で潰した梵天丸の時代から
あくまで自分の考えに従って行動し、
大志を抱き、ライバルや敵に対してはツッパり、
正室・愛姫に愚痴や弱音を聞かせることはない
(ただでさえ引っ込み思案でコンプレックスを
かかえていたうえ、なんとか結果を出して
周囲に大将と認めてもらわねばならない
プレッシャーが人一倍強く、不安や苦しみも
多かったであろうに――)。
私は先程このドラマのオープニングの
メイン・メロディとサブ・メロディの
ギャップについて述べたが、あのギャップは、
ドラマの政宗の雄々しく伊達な生き様を
表してもいるのかもしれない。
ドラマの畠山義継の凶行に関しては、
そもそも輝宗に対して無条件降伏していた
義継を、政宗が強硬な態度で決定的に
追い詰めてしまったためという側面もある。
いまのドラマの政宗に全く課題が無いとは
思えないが、父の死から直ちに、あるいは完全に
立ち直れるとも思えないし、いずれ何らかの
かたちで父の死という経験も活かされるように
なればいいなと思う。


←ランキングにも参加しています

家盛の挑戦

2012-04-08 23:53:48 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたびの話題は、
清盛の弟・家盛が跡継ぎになろうと決起する
――といったところ。史実の家盛がどこまで
本気で「清盛に対抗しよう」と思っていたのか、
それは私には分からないが、ドラマにおいては
「やはり異母兄弟は同母兄弟ほど仲良くは
なりにくい」という展開になったようだ。
前回ドラマでとりあげられた「祇園闘乱事件」
以降、兄・清盛に代わり、家盛が朝廷で
重んじられるようになっていったらしいという
話は、前回も記したとおり。また、この話を
記しているウィキペディアの家盛の項には、
もし「家盛が存命であれば、保元の乱で
平家一門が分裂していた可能性もあったと
言われる」とも記されている。
このたび、その家盛が死去した時点で時代は
1149年。清盛は32歳、源義朝は27歳である。

また、これも以前に記したことであるが、
源義朝はドラマでの前々回に相当する時代に
院権力と結びつくようになったため、
あくまで藤原摂関家との結びつきを重視する
父・為義と対立するようになっていく。
このたびの為義・義朝父子の喧嘩も、
その兆しという訳であろう。
藤原摂関家や源為義は天皇という従来勢力側の
者であり、一方の院権力や源義朝、そして
平家は新勢力の側である。ドラマでの藤原
頼長は、自分の属する従来勢力側の挽回を
図るため、平家盛を利用して平家全体を
従来勢力側へひきずりこもうと考えたようだ
(実際に史実の頼長もそうしていたのかは
私には分からないが)。

その藤原頼長はこのたび、家盛を相手に
男色にふけっていたようであるが、
ウィキペディアの頼長の項によると
『台記』という頼長の日記には、
男色の記録が数多く記されているという。
同項によると「男色相手として、随身の
秦公春・秦兼任のほか、貴族では花山院忠雅・
藤原為通・四条隆季、徳大寺公能、藤原家明、
藤原成親、源成雅の名が特定されているが、
五味(の研究によるところで)はうち4人までが、
院近臣として権勢を誇った藤原家成の親族で
ある」そうだ。この分析を読んで私が
想像するに、史実の頼長は新勢力の弱体化と
従来勢力の回復を図る手段の一つとして
男色を用いていたのではないだろうか。

家盛が頼長の男色の相手だったという話は
ウィキペディアの家盛の項にも頼長の項にも
記されてはいないが、このたびのドラマで
描かれた時代の頃には、源義朝の弟・義賢が
頼長の男色の相手になっていたことが分かる
(ウィキペディアの義賢の項による)。
義賢は今のところドラマに一度も登場してない
はずであるが、彼は1155年「大蔵合戦」という
武蔵国の覇権争いで、義朝の長男・義平に
敗れて戦死してしまう。
そもそも義賢は父・為義の「命により義朝に
対抗すべく北関東へ下った」のであり、
一方の義平は父・義朝に代わって叔父の義賢を
征伐したのであるから、この「大蔵合戦」は
為義・義朝父子の代理戦争という側面も
あったのかもしれない。


ドラマの家盛は、たぶん多くの人から見れば
「いい子」である。相手が自分に期待している
ことを読み取ることができて、
これに応えるためには自分を捨て偽ることも
してみせる。だがそんなドラマの家盛とは
対照的に、ドラマの清盛は、いつもワガママに
ふるまい周囲に迷惑をかけ、あまつさえ
父・忠盛の実の子ではないにも関わらず、
常に周囲の好意や幸運に助けられている。
家盛は、日頃から清盛のことを宇宙人のように
感じていたうえ、前回のあの宗子の愚痴を
聞いたのがキッカケで、清盛の幸福にズルさを
感じたものかもしれない。
家盛は清盛のズルさと宇宙人ぶりに挑戦する
意味でも「決起」したのであるが、
「いい子」であるがためにあえなく伏魔殿の
餌食となってしまった――なかなか難しいが、
私はこんなふうに解釈した次第である。

畠山重忠ゆかりの史跡たち

2012-04-04 23:51:49 | 歴史系(ローカル)
平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した
武将、畠山重忠。彼に関する史跡の画像が
いくらか集まった。なかにはだいぶ前に
撮影したものもあるので、思い出せなくなる
前にここで一通りとりあげていきたい。

最初に、以下は埼玉県深谷市の「畠山重忠公
史跡公園」。1164年、畠山重忠の父・重能は
ここ畠山館で三浦義明の娘とのあいだに次男・
氏王丸――のちの重忠をもうけた。下の画像は、
園内に伝わる重忠の産湯の井戸である:



畠山氏は桓武平氏の流れをひく秩父氏の一族で、
重忠の父・重能が秩父から畠山荘(深谷市の
畠山一帯か)に移り住んで開発領主となり、
畠山庄司を称したことから始まったという。
下の画像が同園内に伝わる重能の墓で、
画像の右側にうつっている掲示によれば
重能の墓は「重忠墓の東南、椎の木の下にある
自然石と伝わる」。重能の生没年は不明だが、
ウィキペディアの彼の項によると『吾妻鏡』
(1185年・文治元年7月7日条)に、平家の家人
平貞能が重能・有重兄弟の帰国に尽力した事が
記されているので、1185年の時点では
重能はまだ存命だった可能性がある:



――そして、下の画像が掲示にも記されている
重忠主従の墓で、やはり同園内に建てられている:



ちなみに、下の画像は重忠主従の墓の裏手の
様子である。わずかに地面が盛りあがっている
部分があるが、土塁の名残であろうか??:




畠山氏に限らず、当時の武蔵武士団の多くは
味方する相手を変えながらその命脈を保っていた。
例えば1155年、相模から武蔵への進出を図る
源義朝・義平親子が、源義賢・秩父重隆を相手に
武蔵国の覇権を争ってこれを破ると、
武蔵武士団の多くが源義朝の配下に入った
(以前こちらでとりあげた「大蔵合戦」のこと)。
なおウィキペディアの畠山重能の項によると、
重能は自分の父・秩父重弘を差し置いて
家督を継いでいる秩父重隆(重弘の弟)に不満を
抱いていたため、「大蔵合戦」で源義朝・
義平親子に味方したのだという(ただ重能は、
2歳になる源義賢の子の探索と殺害を義平から
命じられた際、その子の命を見逃している。
それからおよそ30年後の1184年、木曽義仲と
名乗るようになったその子は、六条河原で
重能の子の重忠と戦うことになるという――)。
その後、多くの武蔵武士団は、「大蔵合戦」の
翌年に起こった保元の乱、1159年に起こった
平治の乱の際には源義朝のもとで戦ったが、
平治の乱で源義朝が敗れ、平清盛が勝利すると、
武蔵武士の多くは平氏の支配下に入った。
畠山重忠はこうした時代をへた後の1164年に
産まれたわけだが、当時は平家一門が繁栄を
極めていて、3年後の1167年には平清盛が
太政大臣に就任していた。

平家の全盛期に、平氏一族の子として成長した
畠山重忠であったが、1180年8月17日、
源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵した。
重忠の父・重能はこのとき平氏方の武将として
「京都大番役」(京都御所の警護役)を務める
ために上洛中であり、重忠は畠山館で父の留守を
守っていた。このため、重忠も当初は平氏に
味方し、その関係で、河越重頼や江戸重長
(いずれも重忠と同じ秩父一族)と共に三浦義明
(重忠の母方の祖父で、頼朝に与した武将。
今年の大河ドラマ「平清盛」にもちょこっと
出た)を自刃に追いやった。
しかし、石橋山の合戦で一旦は敗北した頼朝が
安房・上総・下総で勢力を立て直し、
秩父一族にも帰属を勧告すると、
重忠は同族の河越重頼や江戸重長と共に
これに応じて頼朝に従うようになった。
秩父一族は、武蔵国における一大勢力である。
別冊歴史読本『源氏 武門の覇者』によると、
重忠は情勢を鑑みた末に頼朝を迎え撃つのは
無理だと判断して頼朝への参陣を決意し、
一方の頼朝としては、平家打倒にはまだまだ
非力であったため、重忠の属する秩父一族を
敵にまわしたくはなかったのだろうという。
ともかく、当時17歳だった重忠はこうして
頼朝配下の武将となり、以後、「治承・
寿永の乱」で大いに活躍するようになった。
なお、ウィキペディアの畠山重能の項で
述べられている推測によれば、重忠の父・
重能個人はあくまで頼朝の軍門には下らずに
平家方の人間として生き続け、後事を重忠に
託して隠居したのではないかという。

ところで、畠山重忠については怪力伝説が
数多く伝えられているようであるが、
なかでも有名なのは、「一の谷の戦い」の際に
重忠が愛馬・三日月を背負って鵯越を下りた、
という逸話であろう。先の「畠山重忠公史跡公園」
には愛馬・三日月を背負う重忠の像があって、
下の画像がその像である:



しかしながら、『嵐山史跡の博物館ガイドブック1
菅谷館の主 畠山重忠』(平成23年)によると、
この逸話は今日では重忠の怪力ぶりと心優しさを
物語るための後世の創作と考えられていて、
その理由は次のごとくであるという:
すなわち、この逸話が成立するためには
源義経が率いた搦め手軍の別働隊(70騎)に
重忠も属してなければならないが、
『吾妻鏡』では重忠は大手の軍を率いていた大将
源範頼に従ったことになっているし、
『平家物語』では、重忠は搦め手軍を率いていた
義経に従ったことになっているものの、
鵯越の場面に重忠の名前はなく、馬を背負った
話も記されていない。
そして、この逸話が登場するのは
『源平盛衰記』という『平家物語』の異本だけで、
重忠の所属についても「範頼を大将の器でないと
見限った重忠が、義経の軍に乗り換えた」という
ふうに記されているからである、と――。
では重忠は一体どこの隊に属していたのか、
という点については、同ガイドブックの推測では
安田義定という武将が率いていた搦め手軍の本隊
(義経が率いた別働隊ではなくて)だろうという。
というのも、『吾妻鏡』や『平家物語』の諸本の
多くに「重忠の家臣が平師盛を討ち取り、それが
安田義定の手柄になった」という記事があるから
だそうである。

畠山重忠、多くの怪力伝説を生ましめる
剛の者かと思えば、音曲の才を持つ者でもあった
らしい。先述のガイドブックによると、例えば
頼朝に命じられた静御前が鶴岡八幡宮で舞を
披露したときには重忠は銅拍子(シンバルのような
楽器)を演奏し、鶴岡八幡宮の別当が主催した
宴会では重忠は今様を披露したという。
同ガイドブックの推測によると、
当時の「京都大番役」は重忠のような御家人が
当番制で務めるものになっていたため、重忠は
そうした機会に今様などの芸を身につけたのでは
ないかということである。
なお、下の画像は鎌倉の畠山重忠邸跡の石碑で、
現在の鶴岡八幡宮の東側の入口に立てられている;



一方、下の画像は重忠の国元の邸宅地とされる
菅谷館跡の縄張である(埼玉県比企郡嵐山町)。
重忠は、1187年11月以前に先述の畠山館から
この菅谷館へと移住し、1205年に北条氏に
謀殺されるまで居を構えたとされている。
ただし、下の画像のような縄張は
戦国時代末期に改修・拡張された末のもので、
重忠時代の縄張ではない。



また、下の画像は武蔵御嶽神社(東京都青梅市)の
宝物殿前にある畠山重忠像である。社伝によれば、
1191年、畠山重忠はこの御嶽神社に
「赤糸威大鎧」を奉納したという。
その大鎧は、現在国宝に指定されている。



武勇と人望ゆえに頼朝に信頼され、
河越重頼が義経に連座して誅殺されたのちは
武蔵武士団を統率する「武蔵留守所惣検校職」を
重頼から引き継いだ畠山重忠。
しかし頼朝の死後、そんな彼にも
北条氏の陰謀の犠牲になる日がやってくる。
1204年11月、重忠の息子・重保と、
平賀朝雅という武士との間で口論がおきた。
畠山重忠が北条時政の先妻の娘婿となって
もうけた子が重保なら、この平賀朝雅は
時政の後妻・牧の方の娘婿にあたる。
口論そのものはその場で収まったものの、
朝雅は恨みを持ち続け、母・牧の方へ讒訴し、
牧の方も朝雅に同情した。そこで、彼女らは
北条時政を動かし、重忠・重保父子を滅ぼす
計画をたてさせたのである。北条時政は、
まず息子の義時に重忠討伐のことを相談する。
義時も、初めは反対したものの結局は
討伐に賛同し、重忠討伐を実行にうつした。
1205年6月22日の寅の刻(午前四時ごろ)、
鎌倉で謀反が起こるという騒ぎを聞きつけた
重保は、何も知らぬまま郎従3人をつれて
由比ガ浜へと様子を見に向かうと、
待ち構えていた三浦義村の郎党に誅殺される。
そして同じ日の正午ごろ、二俣川(現在の
横浜市旭区)で重忠一行は鎌倉軍と衝突し、
4時間ほど奮闘したものの
重忠・重秀(重保の異母兄)以下、主従134騎
みなことごとく討ち死にしてしまった。
重忠の享年は42歳であった。
この日はもともと重忠が鎌倉に参上する日で
あったため、重忠はそのつもりで3日前に
菅谷館から出発したのであるが、その道中で
鎌倉軍の攻撃にあって誅されたかたちである。
別冊歴史読本『北条時宗』によると、
重忠討伐を終えた義時は時政にむかって
「重忠の弟や親類は大略、他所に在りました。
戦場に従うものは、わずかに百余輩。
ですから謀反を企てるという話は虚言です。
やはり讒訴によって誅戮にあったとしか
考えられません。はなはだ不憫でなりません。
陣頭に首を持ってきましたが長年昵懇であった
ことが忘れられず、悲涙禁じがたいものが
あります。」――と、言ったという。
同書では、この義時の言葉について
「義時と重忠の妻は、時政の先妻の子という
関係から両者は親しい間柄であったと
思われる。が、それ以上に剛勇廉直の
典型的な鎌倉武士と賞賛された重忠に対する
同情の念は、他の武士にも影響が見られた」
と記している。

北条時政と後妻・牧の方には、新羅三郎
義光の曾孫でもある娘婿・平賀朝雅を
将軍にすえて自分達が実権を握るという
野望があった。重忠が死した1205年の閏7月、
時政らはちょうど時政の館にいる現将軍・
源実朝を葬ろうと企てたが、これを悟った
息子・義時や娘・政子が実朝を義時の館へと
引き連れて時政らの企てを阻止、
企てがバレた時政は失脚へとおいこまれた。
さらに義時は父・時政に代わって執権職に
つくと、先の平賀朝雅を直ちに誅殺させた。
武蔵国には畠山・平賀・比企という
有力武士が勢力をおいていたのであるが、
比企一族は畠山と平賀が誅される2年前に
既に北条氏に滅ぼされており、かくして
北条氏は武蔵国を版図に加えた次第である。


――最後に、番外編として、埼玉県飯能市で
偶然みつけた畠山重忠の墓と伝わる場所を
一つ紹介したい。
それは「大六天神社」のなかにあるのだが、
この神社、たしか民家と民家の隙間に
たてられていて、見つけるのに
けっこう苦労したことを覚えている
(なお、ウィキペディアでは
「第六天神社(飯能市)」で登録されている)。
下の画像の、鳥居の奥にある樫の木の裏側が
畠山重忠の墓とされているのであるが・・・



その、墓とされる鎌倉期の板石塔婆は
下のような状態で立っていた:



そして、この神社の掲示によれば、
この墓の由緒は次のごとくであるという。
すなわち、1205年に二俣川で討ち死にした
畠山重忠の遺骸を秩父へと移送する際、
一行は「飯能の車返しの坂」に差しかかった。
この時たまたま車が動かなくなったので、
従者は重忠の霊がそうさせたのだと解釈し、
ここに重忠を葬ることに決めたのだ、と――。
だが同じ掲示には、重忠は二俣川に葬られて
いるのでこの塔婆が「畠山重忠の墓」と
いわれているのは伝説であろう、ともある。
また、先述の重忠のガイドブックにも、
別冊歴史読本『北条時宗』にも、この墓は
紹介されていない。ウィキペディアにも、
この墓が畠山重忠のものだとは書かれてない。
以上のことから私も、これは畠山重忠の墓とは
思えない。


←ランキングにも参加しています

神輿と矢と

2012-04-01 23:57:18 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたびの話題は、
1147年に起きた「祇園闘乱事件」。
年齢はそれぞれ、清盛30歳、
源義朝25歳のままということになる。

「祇園闘乱事件」とは、祇園社の神人と
平清盛の郎党との間で起こった小競り合いで、
祇園社の本寺である延暦寺がこれを理由に
忠盛・清盛父子の流罪を朝廷に求めたものの
結局は鳥羽院の庇護により実現せず、
清盛に罰金刑が課されるのみに終わった――
というもの。ドラマでは清盛がわざと
神輿を射ていたが、本当は誰が射たのか、
またその人は意図的に神輿に当てたのか
それともたまたま当たってしまっただけ
なのか、この点について明示しているものは
私には見当たらなかった。
なおウィキペディアの祇園闘乱事件の項では、
忠盛・清盛父子が「鳥羽法皇の庇護により
配流を免れたことで、その信任ぶりを周囲に
誇示することになった。鳥羽法皇にとっても、
白河法皇が手を焼いた延暦寺の強訴を事実上
斥けたことは大きな自信となり、強訴に
対抗する武力の有効性・重要性を再認識したと
思われる。」――としている。
またウィキペディアの平家盛の項では、
この事件以降、「兄清盛に代わり、家盛が
朝廷で重んじられるようになって」いった
ともある。
いずれにしても、武士たちが人殺しという
その職能によって時代の趨勢を決めていくと
いった時代(いわゆる「武者の世」)を
むかえたとはまだ言いがたいと思われる。
こちらのヤフーニュースによると
このドラマは低視聴率にあえいでいる
そうだが、ドラマの舞台がまだ「武者の世」
をむかえていないという点も、
低視聴率の一因ではないかと私は考える。
しかし、私自身は今のところ(何となくでは
あるが)去年の大河ドラマよりは面白いと
思えるし、できれば視聴率など気にせず、
格調高く骨のあるドラマをつくって
もらいたいと思っている。

ところで、このたびは武蔵坊弁慶が
登場した。あわててウィキペディアで
彼の生年を調べてみたが、あいにくそれは
いつなのか分からず、また弁慶が鬼若時代に
「比叡山に入れられた」という話はあっても、
清盛たちの流罪を求める強訴に参加した
という話は同項には見られない。
治承4年以降の源平争乱を因縁づける
存在として、このたび弁慶を登場させたの
だろうか。


ウィキペディアでは、白河法皇が手を焼いた
延暦寺の強訴を事実上斥けたことで
自分に自信を持つようになったとされている
鳥羽院。そうなる前のドラマの鳥羽院には、
白河院という神輿に対する恐れを克服し
自分を信じておのれの道を貫く勇気が
必要だったらしい。そしてそんな鳥羽院は、
神輿を恐れることなく射て
しかもこのことを堂々と白状するドラマの
清盛の姿に自分に足りないものを見出し、
清盛に自分の胸を射るしぐさをしてもらう
ことで、自分に足りなかった勇気を
清盛からもらった気分になり、
白河院の亡霊から開放されるに至ったのだろう。

このドラマの「神輿」とは
理不尽だけど恐くて逆らえない存在の
象徴であり、そうしたものが存在するゆえに
世が乱れていると言える。
そして、そうして乱れた世を改善するには
「ダメなものはダメ」と恐れず意思表示
できる勇気という名の矢が必要になってくる。
清盛がこうした新しい時代を切り開くのに
欠かせない「矢」となることを、
ドラマの忠盛も望んでいたと言えよう。


←ランキングにも参加しています