大河ドラマ「平清盛」。このたびはたしか、
後を継いだばかりの清盛が藤原家成の歌会に
招かれる――といった話だろうか。
時代は、源義朝が下野守になった時点で
1153年のまま。よって、清盛36歳、
源義朝は31歳、常盤が16歳、そして
雅仁親王は27歳ということになる。
別冊歴史読本『源氏 武門の覇者』によると、
下野守はかつて八幡太郎義家が就任した
ポストであり、またウィキペディアの源義朝の
項によると、義朝の血統である河内源氏が
受領に就任するのは、義家の子・義親以来
50年ぶりの事だったらしい。この頃の義朝と
しては、これでようやく都の平家と対抗しうる
といったところであろうか。不謹慎な話かも
しれないが、いまドラマのなかで病気になって
いる近衛天皇が死に、そしてその翌年に
鳥羽院も死ねば、いよいよ保元・平治の乱が
始まる(すなわち「武者の世」をむかえる)。
もしかするとこのドラマを制作する側は、
今日がゴールデンウィーク中という事もあって
視聴率が著しく低くなりはしないか恐れていたり
するかもしれないが、少なくとも私は
「武者の世」をむかえつつあるこれからの
ドラマの展開を楽しみにしている。
ところで、正直あんまり期待していなかったが、
当ブログで時々レビューついでに話題にしてきた
義朝の弟・義賢がこのたび登場したことは
ちょっと嬉しかった。このたび彼は父・為義に
「お前も東国に行ってこい(そして義朝と対抗
しろ)」と言われていたが、彼はこの1153年に
武蔵国・大蔵(埼玉県比企郡嵐山町)へ居を構えた。
その跡地と言われている「大蔵館跡」について
私は以前に当ブログでとりあげている(こちら)。
この記事を書いた頃は歴史を把握しきれてない
部分が今よりも多かったので、とりあげるのは
少々恥ずかしい気がするが――、
現在の大蔵館跡の様子が画像や地図などで
分かるようになっている。なお、これは何度も
とりあげた気がするが、やがて1155年、
義朝はこの大蔵へ長男である義平をさしむけ、
義賢を討伐させた(大蔵合戦)。この戦いは
武蔵国をめぐる義賢・義朝兄弟の覇権争いで
あり、また為義・義朝父子の代理戦争という
側面もあったのではないだろうか。
それにしても、このたびドラマで歌会に
参加した貴族ではないが、ドラマの清盛が
詠んだ歌には私も呆れてしまった。
さしずめ現代に例えるとするなら、
大学の授業中に自分の意見を発表する際、
設問とはほとんど関係ない内容の意見を言って、
「一生懸命書いたんだし、昨日どうしても勉強に
身が入らなかったんだから、これで良いじゃん」
と開き直っているようなものだろうか。
設問の内容や採点する先生の考え方によっては、
あるいはそうした回答で通る場合もあるかも
しれないが、おそらく大抵の先生ならその生徒を
低く評価したり、あるいは再度の回答を
その生徒にうながすところであろう。
ドラマの清盛もこんなレベルの回答をしたにも
かかわらず開き直っているのだから、これは
あまりにも自分本位な態度ではないのだろうか??
史実の清盛は今後、貴族の最高位である
太政大臣にまで大出世を遂げていくのであるが、
ドラマの清盛のようにこれほど自分本位では、
どうしてそこまで出世できたのか、私はちょっと
理解に苦しまねばならなくなってくる。
私の狭い了見かもしれないが、どんな時代であれ
自分本位な人間がそれほど大出世できるとは
思えないのである。
それに、「家族や家人が何より大事」とは、
後で太政大臣となり海外貿易を展開してくるような
清盛にしては、なんと内向きな内容であることか。
たとえ同じ稚拙な歌であっても、これではまだ
「親父が死んだのは悲しいけど、棟梁になったん
だから、いよいよオレらしく面白く生きてみたい」
とか、(いつか清盛が最初の妻に語ったように)
「いつか大海原に乗り出してみたい」という
意気込みを歌ってもらったほうが、
よほど夢があって清盛らしいように思える。
親族のコネやパイプを頼りに出世していった
清盛のこと、あるいは史実の清盛も同じように
「家族や家人が何より大事」と感じていたかも
しれないが――人前で詠む歌の内容としては、
ちょっと寂しいようにも感じた次第である。
だいたい、ドラマの清盛は信西に対して
「歌会で恥をかきたくないから助けてくれ」と
言って断られていたが、信西が断った理由が
意味不明であったし、仮に信西がダメだとしても、
信西に「誰に教わればいいのか」と聞いたり
清盛に歌会を持ちかけた藤原家成に助けを請えば
いいではないか。家成も助けてくれない可能性は
あるが、なぜ助けを請うことさえしないのか。
そもそも私としては、特に清盛の家督相続に
あれほど反対していた平忠正がどうしておとなしく
しているのかが不思議である。いくら忠盛が
「後継者は清盛だ」と言い聞かせたにしても、
その言葉が忠盛の死後も生前と同じ効力を
維持し続けるとは限らないものではあるまいか。
もしそうでなければ、なぜ後世の徳川家康は
秀吉の死と同時に秀吉の遺言を踏みにじって
天下取りの準備を始めたというのか。
平忠正という人物が家康より従順だったにしても、
少なくともドラマの清盛とか平家貞のような
立場なら、まず平忠正、それに平頼盛や池禅尼にも
内心警戒し、彼らを謀反に走らせないように
気を配るべきだろう。いまは家督を継いだばかりで
そこまで気を配る余裕はないにしても、
これも当主としての必要事項の一つに思える。
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後を継いだばかりの清盛が藤原家成の歌会に
招かれる――といった話だろうか。
時代は、源義朝が下野守になった時点で
1153年のまま。よって、清盛36歳、
源義朝は31歳、常盤が16歳、そして
雅仁親王は27歳ということになる。
別冊歴史読本『源氏 武門の覇者』によると、
下野守はかつて八幡太郎義家が就任した
ポストであり、またウィキペディアの源義朝の
項によると、義朝の血統である河内源氏が
受領に就任するのは、義家の子・義親以来
50年ぶりの事だったらしい。この頃の義朝と
しては、これでようやく都の平家と対抗しうる
といったところであろうか。不謹慎な話かも
しれないが、いまドラマのなかで病気になって
いる近衛天皇が死に、そしてその翌年に
鳥羽院も死ねば、いよいよ保元・平治の乱が
始まる(すなわち「武者の世」をむかえる)。
もしかするとこのドラマを制作する側は、
今日がゴールデンウィーク中という事もあって
視聴率が著しく低くなりはしないか恐れていたり
するかもしれないが、少なくとも私は
「武者の世」をむかえつつあるこれからの
ドラマの展開を楽しみにしている。
ところで、正直あんまり期待していなかったが、
当ブログで時々レビューついでに話題にしてきた
義朝の弟・義賢がこのたび登場したことは
ちょっと嬉しかった。このたび彼は父・為義に
「お前も東国に行ってこい(そして義朝と対抗
しろ)」と言われていたが、彼はこの1153年に
武蔵国・大蔵(埼玉県比企郡嵐山町)へ居を構えた。
その跡地と言われている「大蔵館跡」について
私は以前に当ブログでとりあげている(こちら)。
この記事を書いた頃は歴史を把握しきれてない
部分が今よりも多かったので、とりあげるのは
少々恥ずかしい気がするが――、
現在の大蔵館跡の様子が画像や地図などで
分かるようになっている。なお、これは何度も
とりあげた気がするが、やがて1155年、
義朝はこの大蔵へ長男である義平をさしむけ、
義賢を討伐させた(大蔵合戦)。この戦いは
武蔵国をめぐる義賢・義朝兄弟の覇権争いで
あり、また為義・義朝父子の代理戦争という
側面もあったのではないだろうか。
それにしても、このたびドラマで歌会に
参加した貴族ではないが、ドラマの清盛が
詠んだ歌には私も呆れてしまった。
さしずめ現代に例えるとするなら、
大学の授業中に自分の意見を発表する際、
設問とはほとんど関係ない内容の意見を言って、
「一生懸命書いたんだし、昨日どうしても勉強に
身が入らなかったんだから、これで良いじゃん」
と開き直っているようなものだろうか。
設問の内容や採点する先生の考え方によっては、
あるいはそうした回答で通る場合もあるかも
しれないが、おそらく大抵の先生ならその生徒を
低く評価したり、あるいは再度の回答を
その生徒にうながすところであろう。
ドラマの清盛もこんなレベルの回答をしたにも
かかわらず開き直っているのだから、これは
あまりにも自分本位な態度ではないのだろうか??
史実の清盛は今後、貴族の最高位である
太政大臣にまで大出世を遂げていくのであるが、
ドラマの清盛のようにこれほど自分本位では、
どうしてそこまで出世できたのか、私はちょっと
理解に苦しまねばならなくなってくる。
私の狭い了見かもしれないが、どんな時代であれ
自分本位な人間がそれほど大出世できるとは
思えないのである。
それに、「家族や家人が何より大事」とは、
後で太政大臣となり海外貿易を展開してくるような
清盛にしては、なんと内向きな内容であることか。
たとえ同じ稚拙な歌であっても、これではまだ
「親父が死んだのは悲しいけど、棟梁になったん
だから、いよいよオレらしく面白く生きてみたい」
とか、(いつか清盛が最初の妻に語ったように)
「いつか大海原に乗り出してみたい」という
意気込みを歌ってもらったほうが、
よほど夢があって清盛らしいように思える。
親族のコネやパイプを頼りに出世していった
清盛のこと、あるいは史実の清盛も同じように
「家族や家人が何より大事」と感じていたかも
しれないが――人前で詠む歌の内容としては、
ちょっと寂しいようにも感じた次第である。
だいたい、ドラマの清盛は信西に対して
「歌会で恥をかきたくないから助けてくれ」と
言って断られていたが、信西が断った理由が
意味不明であったし、仮に信西がダメだとしても、
信西に「誰に教わればいいのか」と聞いたり
清盛に歌会を持ちかけた藤原家成に助けを請えば
いいではないか。家成も助けてくれない可能性は
あるが、なぜ助けを請うことさえしないのか。
そもそも私としては、特に清盛の家督相続に
あれほど反対していた平忠正がどうしておとなしく
しているのかが不思議である。いくら忠盛が
「後継者は清盛だ」と言い聞かせたにしても、
その言葉が忠盛の死後も生前と同じ効力を
維持し続けるとは限らないものではあるまいか。
もしそうでなければ、なぜ後世の徳川家康は
秀吉の死と同時に秀吉の遺言を踏みにじって
天下取りの準備を始めたというのか。
平忠正という人物が家康より従順だったにしても、
少なくともドラマの清盛とか平家貞のような
立場なら、まず平忠正、それに平頼盛や池禅尼にも
内心警戒し、彼らを謀反に走らせないように
気を配るべきだろう。いまは家督を継いだばかりで
そこまで気を配る余裕はないにしても、
これも当主としての必要事項の一つに思える。
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