黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

友情を知らない女

2009-03-31 17:06:34 | 日常
先月お手紙をくれた友人たち4人と、昨夜少し遊んだ。
連絡とるのも何年ぶりかという友人がほとんどである。
この年齢で根をはれずに肩身の狭い思いをしている私は
「今なにしてるの」と聞かれるのが嫌だったが、
今回は寂しさに負けて誘いにのったのだった。

手紙をくれた子とはまた別の友人だったが、
会ってみればやはり「みんな今なにしてるの」と
悪気のない質問をしてくる子がいた。
最後に私の番になってウソをついてもためにならないので
元カレとの別れの顛末もまじえて「働いてない」と
答えてみれば、
なぜか急に水をうったように静まりかえり、
誰も何も言葉を発してくれなかったので
私の方がいたたまれなくなって
話題を変えてしまった。

少なくとも彼女らは私が働いてないことを
バカにしていないように見えたし、
それが友情というものだということも
本当は彼女らに会う前から分かっていた。
ただ彼女らが友情というものを
経験的に理屈ぬきで理解できているのに対して、
私だけはまだ頭の中の理屈でしか理解できていない。
きっとこれは、友情というものにふれあうことなく育った
子供時代のことが響いているに違いない――
私は今日になって、ようやく思い知らされたようだ。

『風雲児たち』オトナ買い

2009-03-30 13:26:32 | 『風雲児たち』


食いつめの身ながら(あるいはだからこそ)、
全30巻にも及ぶ漫画本を「オトナ買い」した。
すなわちそれは、みなもと太郎さんの『風雲児たち』シリーズ。
その漫画は、関ヶ原の戦いから幕末の動乱期に至る
超ロングスパンで描かれたギャグマンガである。
私がこの漫画を知ったのは
手持ちの『別冊宝島463号 よみがえる幕末伝説』
(1999年 宝島社)で紹介されていたからであるが、
徳川三代の絵が気に入ったのと、
漫画に作者独自の史観が盛りこまれていて
小学校の図書館にでもありそうな
教科書っぽい子供向けの歴史マンガとは
どうやら趣が異なるらしいという点が決め手になって
全巻購入に踏みきった。
要するに私は、このマンガに作者の職人魂を感じた
ということかもしれない。
最近になってリイド社もこの漫画を印刷ようだが、
私が入手したのはもっと昔に潮出版社が印刷したもの。
第1巻は、くしくも私と同い年だ。

さて、現時点で読破したのは6巻まで。

えっと・・・・・・

既に語りたいことが多すぎて忘れてしまいそうだが、
今日は1巻の関ヶ原の戦いから。
このマンガは幕末に影響を与えた出来事や人物に
重点が置かれているので島原の乱や忠臣蔵などは
だいぶ省略されていて、6巻かんでは既に
田沼意次が登場してきている。
時に10代将軍・家治の時代なのであるが、
やはりこの時代の武士たちは関ヶ原の戦いの時代とは
なにか質が違う。

1巻で印象的なのは、石田三成と大谷吉継のコンビ。
どんな人にも自分なりの美学はあると思うし、
石田三成とて最後まで自分なりの筋を通しきった
御仁だったのだとしたらもう少し良いように
描いてもいいのではないかと思ったが、
「120万石の毛利家に総大将の座を託しておきながら
その殿さまを大坂城に押しこめておいて
19万石の三成が戦場で総大将然としゃしゃり出るから
戦場での三成の人望はイマイチだった」という
この漫画の見解はとても興味深かった。
たぶんそこには、「毛利家を立てているからこそ
最も尊い秀頼さまのお側につけさせてあげたのだ」という
文官の三成らしい発想があったのではないかと思うが、
こう考えたであろう漫画の三成は
秀吉公に武力を認められた大谷殿に一喝されていた。
かくいう私も、石田三成のような頭でっかちな発想で
人さまと接したり思いをめぐらせているのかもしれない。

だが、その漫画の大谷殿の一喝も
友情の裏返しということなのかもしれない。
この大谷吉継という人は越前・敦賀の武将で
絵でこそタコっぽく描かれているが
人となりは一番カッコよく描かれていたように見える。
漫画では標準語で語られていた
「男は自分を認めてくれた男のために死ぬものよ」という
名ゼリフも敦賀の方言に直すと
だいぶ印象が変わるのではないかと想像してしまうが
いくら自分が不治の病におかされていたとはいえ
未だ忠義の時代への過渡期にすぎないにもかかわらず
損得で動かなかったこの御仁は稀有な存在だったと思う。
ちなみに、「三成が持つにはもったいないもの」としては
彼の居城の他に「島左近」という家臣がいたはずだが、
この漫画ではそこまで載せきれなかったようだ。

西部劇風大河ドラマ

2009-03-25 23:47:07 | 歴史系
「おんな太閤記」が終わり、
時代劇専門チャンネルで新たな大河ドラマ
「風と雲と虹と」が始まった。
舞台は10世紀前半の坂東(関東)、主人公は平将門。
主人公を演じるのは加藤剛さんであるが、
その人のイメージは20代の私にとっては
子供の頃に観た優等生的な「大岡越前」のみだったので
ヒゲをたくわえて大きく笑う粗野な坂東武者姿に
まず驚かされた。

あの時代の武士のことはほとんど分からないので
さっそく少し勉強してみたのだが、
将門に関する信頼性の高い資料そのものが少ない事と
私の生来の短気な性格ゆえに
歴史的なことはあまり書く気になれない。
ただドラマの第一印象としては、
将門が長い時間をすごした坂東という土地では
何事も最終的にモノをいうのは腕っぷしだけで
誰もみな土地や女を取ったり取られたりの毎日を
繰り返していたという、
どこか西部劇に似た印象をうける。
時代劇専門チャンネルで流れていた
このドラマのCMの冒頭で将門は
「戦うだけが唯一の生きる道だ」と言っていたが、
要領のいい平貞盛(将門の従兄弟)と違って
朝廷の権威にも頼らなかった将門の生涯は、
まさにあの一言に尽きるのかもしれない。

また、ドラマと将門の生涯を大雑把に見たかぎり
彼は人が良かったように思える。
そして、人が良すぎたために
時代に翻弄されて滅びていったという感がある。
そういう将門の末路の暗示が、
貞盛の個人的ないざこざに巻き込まれた挙句
貞盛のために無実の罪をかぶってやって
一人奥州に落ち延びていくというかたちで、
既にドラマにも表れているようにも思えた。

ちなみに、このドラマのオープニングが
ヒロイックかつ高尚で、とても気に入っている。
1988年の大河ドラマ「武田信玄」のオープニングと
同じ匂いを感じると思って注視してみれば、
作曲したのはいずれも山本直純という御仁であった。

1976年の「風と雲と虹と」(2:22)




1988年の「武田信玄」(2:35)



戦国版「あの人は今」

2009-03-18 17:45:58 | 歴史系
昨日の放送で「おんな太閤記」が終わった。
ねねさまと秀吉の夫婦愛の物語がメインだったようで、
秀吉没後から大坂・夏の陣の部分は駆け足の感があったが、
徳川家康が夏の陣直前になっても
「本当は豊臣家を滅ぼしたくはなかったのじゃ」と
涙ぐむ高台院さまの前でシャアシャアと言ってのける
シーンが印象的だった。

もっとも、この言葉は半分本当らしく聞こえた。
家康が豊臣抹殺を決意したタイミングについては
関ヶ原の戦いの11年後で大坂夏の陣の4年前、
二条城で直接秀頼に会った際に、
成長した秀頼の立派さを目の当たりにして、
いつ寿命がきてもおかしくない家康は
にわかに危機感を覚えた、という話が知られている。
(歴史読本の投稿者の一人によると、)
本当のところ家康は、秀頼本人を恐れただけではなく
秀頼を命がけで守らんとする加藤清正らの力も
恐れたようだが、
その加藤清正をはじめ、五奉行の一人・浅野長政、
前田利家の跡継ぎ・利長を含む実に6人の豊臣系大名が、
二条城の対面からわずか1年余りで他界している。
家康が豊臣抹殺を決意したのは
遅くともこの時点であった、ということかもしれない。
もし豊臣家が素早く、なおかつ思い切って
徳川幕府の臣下にくだっていれば、
例えば過去の実績や幅広い人脈を活かして
朝廷対策の出先機関として豊臣家を存続させる余地も
残るところであったそうだが・・・

さて、先日とりあげた2冊の歴史読本を読んでいると、
「おんな太閤記」ではワンポイントしか登場しなかった
人物の行く末も紹介されていたりする。
そんな人たちのなかから、歴史読本に載っていて
個人的に気になっていた人たちの「その後」を
ごく簡単に書き留めておきたい。

1:とも(秀吉の実姉で、秀次の実母)
1592年からの4年間でわが子全員を失くした彼女は、
その後、日蓮宗に傾倒。仏門に入った。
彼女が亡くなるのは1625年、実に92歳であった。

2:三好吉房(ともの夫で、秀次の実父)
秀吉によって一族抹殺の憂き目に遭った秀次に連座し、
除封のうえ讃岐に配流される。
没したのは1600年とも1612年とも。

3:松の丸殿(京極高次の姉妹で、容姿華麗な秀吉の側室)
秀吉没後、高次の居城・近江大津城に移る。
関ヶ原の戦い後には京に移り、1634年に没した。

4:織田秀信
(幼名・三法師。秀吉が支持した織田家の跡継ぎ)
1592年に岐阜城主となり13万石の大名になるが、
関ヶ原の戦いでは石田三成の味方になる。
岐阜城で篭城した末に落城し、自害するつもりでいた
ところを福島正則らに説得され、剃髪。
そのあと高野山に入ったが、1605年に26歳で病死した。
彼が正式な織田家の跡継ぎであったため、
その時点で織田家の嫡流は断絶してしまった。

5:織田有楽(信長の末弟。「おんな太閤記」には
登場しなかったが、東京・有楽町に名前を残す)
本能寺の変で九死に一生を得たのち、
秀吉に仕えて2000石を知行し、剃髪。
関ヶ原の戦いでは東軍について戦功をあげた。
その後も秀頼母子を補佐していたが、
同時に徳川とも内通していたという。
1615年の夏の陣では、家康の了解を得て
四月上旬には大坂城を退去、
戦後は京で静かに暮らした。

秀吉亡き後を学ぶ

2009-03-11 00:22:10 | 歴史系
今日は、日々楽しみにしている日本史の話をしたい。
今は「おんな太閤記」に影響されて、
豊臣一族(あるいは豊臣派)とその末路に関する本を
読みあさっているところなのだ。
ドラマのほうは、昨日折りしも秀吉が他界した。
時代や身分ゆえに多くの人を殺しもしてきた秀吉が、
今際の際に至って「もう二度と殺生はしない」と
つぶやいていたのが非常に印象的だった。
たとえ元気だった頃は人殺しをしていたような人でも、
己の命が危うくなると命の尊さを知るようになるのだろうか。
かくいう私も、人殺しこそしていないが
日々若さを無駄にしながらすごしているので
実は命の大切さを分かっていないのかもしれない。
別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』では
「(ねねの血縁は別として)秀吉の方の縁者では
秀長以外の男は大したことなかった」などというような事が
書かれてあったが、逆に言えばそれほどpoorな人脈で
よく天下がとれたものだと思う。

同じ別冊歴史読本『真田幸村と大坂の陣』とも
合わせて読んでみると、武将あるいは家の数だけ
ドラマがあるのだなと思えてとても面白い。
何しろ、大坂の陣における豊臣方の武将は
真田幸村と大野治長ぐらいしか知らなかっただけに――
なかでも、それぞれの武将の話の端々に垣間見える
家康のタヌキぶりや、徳川に骨抜きにされたために
篭城戦しか方法がない(と著者の一人が記している)
ようなお粗末な当時の豊臣家に就職し、功を得て
己の人生を切り開こうと奮闘する、
やや有名な武将たちの必死さに心うたれたのであった。
もっとも、大坂の陣の結果がどうなるかも、
当時の人間には分からなかったものなのかもしれないが。

かつて大河ドラマで観た津川雅彦さんの晩年の家康の
印象が良かったためだろうか、
(たぶんそれだけではないと思うが)いつからか
家康のタヌキぶりを私は美徳と感じるようになった。
ちなみに去年発行された『太閤秀吉と豊臣一族』によると
現代の大阪には「家康を罵る会」というのが
あるそうだが、それも「小江戸」に住む私には初耳だし、
家康のしてきたことが大阪では
まだ時効をむかえていなかったことに驚いた。
「おんな太閤記」の家康であるフランキー堺さんも
私が持つ家康のイメージにピッタリなので
「おんな太閤記」の家康のタヌキぶりが
観られることをこれからの楽しみにしよう。

続・おんな太閤記

2009-03-02 22:07:29 | 思索系
別れて早や半月、ようやく気持ちが落ち着いてきて
コメントも受け付けられるようになった。
当時はそれしか方法が思いつかなくても
今から思えば悔やまれることばかりしてきたので
正直批判されるととても辛いのだが・・・

とりあえずは、ささやかだが生きがいにしている
時代劇についてのウンチクをこねてみたい。
テレビの感想などは生きがいとも思ってなかったが
現時点ではこれが唯一の楽しみかもしれない。
だが、「たとえそれがすごく小さなことでも」、
何かに「凝れば凝るほど」私も「一人の人間として
幸せな道を歩いているだろう」。

先日も取りあげた「おんな太閤記」を、
私はどんな時も欠かさず見続けている。
現時点の秀吉は、信長という重しもいなくなって
唯一恐かった家康もどうにか懐柔して、
天下人になった。
だがその秀吉は、信長の死を契機に
天下人への志を果たすために
時には「人の道」も踏み外さねばならないという
宿命を背負わねばならなくなっていたのだった。
私のような身分の人間には分かりにくい境地だが、
やはり既存の権力を潰すというのは
並大抵のやり口では実現できないことなのだろうか。

ドラマにおいて、ねねと共に
終生「人の道」を何より重んじてきた
秀吉の弟・秀長は、いわば秀吉の良心の象徴であり、
秀長の死は、秀吉がその悲しい宿命によって
「人の道」を踏み外す性格に様変わりしていく際の
ターニング・ポイントであるかのようだ。
私の記憶が正しければ、その後の秀吉には
鶴松や大政所や秀次を亡くしたり、朝鮮出兵にしくじったり、
いずれにしても精神的に辛い出来事が続くのである。

(私のような人間が「人の道」を語るのも
おこがましいが――)
「人の道」を踏み外した挙句に犠牲になるのは、
その人の個人的な幸せである。
今年の大河ドラマ「天地人」を観て感じたのだが、
信長や秀吉の、「人の道」を外れた行為は
日本を統一するためなら個人的な幸せなど
どうでもかまわないという覚悟の表れだったのかもしれない。