大河ドラマ「八重の桜」。このたび、いよいよ会津
城下での戦いが始まった。1868年8月23日、
山本八重23歳、山本覚馬40歳、日向ユキ20歳、
高木時尾22歳であった。ドラマではついぞとりあげられ
なかったが、城の搦手を守っていた「槍と刀の隠居組」も
実はこのときスゴく頑張っていて、薩長軍が新式の銃を
持っていたにもかかわらず「鉄の忠魂」に由来する気迫で
薩長の兵を圧倒し、奇跡的にも退却させていたという。
それにしても、「死んでも会津を守る」とか、
「死んでも敵に屈しない」という、勇ましく美しい
彼らの会津士魂――。思うに、そういう彼らだからこそ、
地元の農民たちも全て自分たちと志を同じくしている
はずだと思いこみ、(前回述べたように)地元の農民対策が
ノーマークで、農民の一部が薩長に買収されるだなんて
思いもよらなかったのかもしれない。
八重たちが見せる根性は武士の家だからこそのもの、
武士以外の身分の者となると、皆が皆、同じぐらいの
根性を持っているとは限らない。別冊宝島『よみがえる
幕末伝説』によると、会津の農工商の庶民は、会津武士が
敗退目前になると、家財を担いで逃亡していたのだった。
以前にも述べたように、このたびの戦いの薩長軍の
先鋒は土佐の板垣退助率いる迅衝隊であった。
いつも引用している『八重と会津落城』によると、
板垣の後方には薩摩の伊地知正治が控えていたが、
伊地知は会津若松城内の兵力がどれほどなのか分から
なかったので、敢えて板垣に先鋒を譲り、城内の兵力を
探らせたのだという。一方、伊地知に上手く使われた
板垣は本当はあまり戦上手ではなかったようで、敵情
視察をせずに突っこんだあげく、八重の奮闘の前に多くの
将兵を死なせて惨敗。そういうわけで、ドラマの板垣は
「次の作戦で行くぞ」と陣中で遠吠えしたのであった。
なお、このたびのドラマにおいて、死にきれずにいた
西郷頼母の親族の止めを刺してやったのはこの板垣で
あったが、ウィキペディアの中島信行の項を見る限り、
板垣が止めを刺したとされる説は無さそうである。
ただ、ウィキペディアの板垣の項には板垣が「維新後
すぐから、賊軍となった会津藩の心情をおもんばかって
名誉恢復に努めるなど」していた、とあるので、
もし本当に板垣がその場に居合わせていたならば、
同じように対応した可能性は充分あっただろう。
それにしても、『八重と会津落城』にあるように、
西郷頼母の親族は必要性もないのに何でみんなして
自決したのか。『時代を駆ける 新島八重』によると、
「食糧をいたずらに消費しないよう」という配慮による
そうであるが、そんなことを言い出したら、会津城下の
女子供は一人残らず自決しなければならなくなるし、
もしそうした場合、一体誰が食事を用意し、ケガ人の
手当をするのか。殿さまの一族の女性とその女中だけで
手が足りるとは思えない。――そう思うにつけても、
頼母の親族の自決もミステリーの一つだと感じている。
ところで、これまでの一連の戦いを振り返ってみると、
白河城が薩長軍に占領されたのは5月1日であった。
これは『八重と会津落城』で指摘されていることだが、
この日から、薩長軍が(このたびのドラマのように)会津
盆地へ攻め込んでくるまでには3か月以上の時間が
あったことになる。そして、3か月以上時間が経過した、
このたびのような会津城下の戦いでは、会津藩という
組織は、八重がせっかく板垣を撤退させても無為無策で
あった。ここからは私の解釈がふくまれるのであるが、
3か月以上も時間があれば、会津藩は落とし穴等、
敵兵を死傷させるための仕掛けを城下につくる時間も
あったはずだし(それこそ全ての女子供を総動員して)、
たとえそれが無くても、戦国武将の真田昌幸のように
敵を懐深くまでおびき寄せて一気にたたくとか、
真田幸村のように複数の指揮官の連携プレーによって
敵の総大将の首一つを狙い、敵軍の総崩れを目論むとか、
何らかの策を弄することは可能である。にもかかわらず、
会津藩という組織は以上のような工夫を一切しなかった
ことになるのだ。前回述べたように、なんといっても
もはや会津の資源を消耗する一方の籠城戦であるから、
たとえどれほど工夫したり頑張ったりしたところで、
他藩からの更なる支援なくして明るい展望はのぞめない。
しかし、たとえそれほど不利な状況であったとしても、
「ダメもと」で何らかの策は講じておくのが普通だろう。
これも同書を読んだうえでの感想にすぎないけれど、
思うに会津藩は、八重のような士族の女性とか、実際に
戦場で働いている(それほど身分の高くない)武士が
スゴく頑張っていたのに対して、彼らの上に立っている
高禄の重臣たちがちょっとだらしなかった。
会津藩という組織が無為無策だった理由も、思うに
そのへんにあるような気がしているのである。
つまり、私が想像するに、重臣たちが相対的にだらし
なかったのはあまりにも絶望的な状況ゆえに思考停止に
陥っていたからで、ゆえに、(個人のレベルでは頑張って
いても)組織としては無為無策となってしまったのでは
ないかと思うのである。
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城下での戦いが始まった。1868年8月23日、
山本八重23歳、山本覚馬40歳、日向ユキ20歳、
高木時尾22歳であった。ドラマではついぞとりあげられ
なかったが、城の搦手を守っていた「槍と刀の隠居組」も
実はこのときスゴく頑張っていて、薩長軍が新式の銃を
持っていたにもかかわらず「鉄の忠魂」に由来する気迫で
薩長の兵を圧倒し、奇跡的にも退却させていたという。
それにしても、「死んでも会津を守る」とか、
「死んでも敵に屈しない」という、勇ましく美しい
彼らの会津士魂――。思うに、そういう彼らだからこそ、
地元の農民たちも全て自分たちと志を同じくしている
はずだと思いこみ、(前回述べたように)地元の農民対策が
ノーマークで、農民の一部が薩長に買収されるだなんて
思いもよらなかったのかもしれない。
八重たちが見せる根性は武士の家だからこそのもの、
武士以外の身分の者となると、皆が皆、同じぐらいの
根性を持っているとは限らない。別冊宝島『よみがえる
幕末伝説』によると、会津の農工商の庶民は、会津武士が
敗退目前になると、家財を担いで逃亡していたのだった。
以前にも述べたように、このたびの戦いの薩長軍の
先鋒は土佐の板垣退助率いる迅衝隊であった。
いつも引用している『八重と会津落城』によると、
板垣の後方には薩摩の伊地知正治が控えていたが、
伊地知は会津若松城内の兵力がどれほどなのか分から
なかったので、敢えて板垣に先鋒を譲り、城内の兵力を
探らせたのだという。一方、伊地知に上手く使われた
板垣は本当はあまり戦上手ではなかったようで、敵情
視察をせずに突っこんだあげく、八重の奮闘の前に多くの
将兵を死なせて惨敗。そういうわけで、ドラマの板垣は
「次の作戦で行くぞ」と陣中で遠吠えしたのであった。
なお、このたびのドラマにおいて、死にきれずにいた
西郷頼母の親族の止めを刺してやったのはこの板垣で
あったが、ウィキペディアの中島信行の項を見る限り、
板垣が止めを刺したとされる説は無さそうである。
ただ、ウィキペディアの板垣の項には板垣が「維新後
すぐから、賊軍となった会津藩の心情をおもんばかって
名誉恢復に努めるなど」していた、とあるので、
もし本当に板垣がその場に居合わせていたならば、
同じように対応した可能性は充分あっただろう。
それにしても、『八重と会津落城』にあるように、
西郷頼母の親族は必要性もないのに何でみんなして
自決したのか。『時代を駆ける 新島八重』によると、
「食糧をいたずらに消費しないよう」という配慮による
そうであるが、そんなことを言い出したら、会津城下の
女子供は一人残らず自決しなければならなくなるし、
もしそうした場合、一体誰が食事を用意し、ケガ人の
手当をするのか。殿さまの一族の女性とその女中だけで
手が足りるとは思えない。――そう思うにつけても、
頼母の親族の自決もミステリーの一つだと感じている。
ところで、これまでの一連の戦いを振り返ってみると、
白河城が薩長軍に占領されたのは5月1日であった。
これは『八重と会津落城』で指摘されていることだが、
この日から、薩長軍が(このたびのドラマのように)会津
盆地へ攻め込んでくるまでには3か月以上の時間が
あったことになる。そして、3か月以上時間が経過した、
このたびのような会津城下の戦いでは、会津藩という
組織は、八重がせっかく板垣を撤退させても無為無策で
あった。ここからは私の解釈がふくまれるのであるが、
3か月以上も時間があれば、会津藩は落とし穴等、
敵兵を死傷させるための仕掛けを城下につくる時間も
あったはずだし(それこそ全ての女子供を総動員して)、
たとえそれが無くても、戦国武将の真田昌幸のように
敵を懐深くまでおびき寄せて一気にたたくとか、
真田幸村のように複数の指揮官の連携プレーによって
敵の総大将の首一つを狙い、敵軍の総崩れを目論むとか、
何らかの策を弄することは可能である。にもかかわらず、
会津藩という組織は以上のような工夫を一切しなかった
ことになるのだ。前回述べたように、なんといっても
もはや会津の資源を消耗する一方の籠城戦であるから、
たとえどれほど工夫したり頑張ったりしたところで、
他藩からの更なる支援なくして明るい展望はのぞめない。
しかし、たとえそれほど不利な状況であったとしても、
「ダメもと」で何らかの策は講じておくのが普通だろう。
これも同書を読んだうえでの感想にすぎないけれど、
思うに会津藩は、八重のような士族の女性とか、実際に
戦場で働いている(それほど身分の高くない)武士が
スゴく頑張っていたのに対して、彼らの上に立っている
高禄の重臣たちがちょっとだらしなかった。
会津藩という組織が無為無策だった理由も、思うに
そのへんにあるような気がしているのである。
つまり、私が想像するに、重臣たちが相対的にだらし
なかったのはあまりにも絶望的な状況ゆえに思考停止に
陥っていたからで、ゆえに、(個人のレベルでは頑張って
いても)組織としては無為無策となってしまったのでは
ないかと思うのである。
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