黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

消えゆく炎の最後の煌き

2013-06-30 23:27:08 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたび、いよいよ会津
城下での戦いが始まった。1868年8月23日、
山本八重23歳、山本覚馬40歳、日向ユキ20歳、
高木時尾22歳であった。ドラマではついぞとりあげられ
なかったが、城の搦手を守っていた「槍と刀の隠居組」も
実はこのときスゴく頑張っていて、薩長軍が新式の銃を
持っていたにもかかわらず「鉄の忠魂」に由来する気迫で
薩長の兵を圧倒し、奇跡的にも退却させていたという。
それにしても、「死んでも会津を守る」とか、
「死んでも敵に屈しない」という、勇ましく美しい
彼らの会津士魂――。思うに、そういう彼らだからこそ、
地元の農民たちも全て自分たちと志を同じくしている
はずだと思いこみ、(前回述べたように)地元の農民対策が
ノーマークで、農民の一部が薩長に買収されるだなんて
思いもよらなかったのかもしれない。
八重たちが見せる根性は武士の家だからこそのもの、
武士以外の身分の者となると、皆が皆、同じぐらいの
根性を持っているとは限らない。別冊宝島『よみがえる
幕末伝説』によると、会津の農工商の庶民は、会津武士が
敗退目前になると、家財を担いで逃亡していたのだった。

以前にも述べたように、このたびの戦いの薩長軍の
先鋒は土佐の板垣退助率いる迅衝隊であった。
いつも引用している『八重と会津落城』によると、
板垣の後方には薩摩の伊地知正治が控えていたが、
伊地知は会津若松城内の兵力がどれほどなのか分から
なかったので、敢えて板垣に先鋒を譲り、城内の兵力を
探らせたのだという。一方、伊地知に上手く使われた
板垣は本当はあまり戦上手ではなかったようで、敵情
視察をせずに突っこんだあげく、八重の奮闘の前に多くの
将兵を死なせて惨敗。そういうわけで、ドラマの板垣は
「次の作戦で行くぞ」と陣中で遠吠えしたのであった。
なお、このたびのドラマにおいて、死にきれずにいた
西郷頼母の親族の止めを刺してやったのはこの板垣で
あったが、ウィキペディアの中島信行の項を見る限り、
板垣が止めを刺したとされる説は無さそうである。
ただ、ウィキペディアの板垣の項には板垣が「維新後
すぐから、賊軍となった会津藩の心情をおもんばかって
名誉恢復に努めるなど」していた、とあるので、
もし本当に板垣がその場に居合わせていたならば、
同じように対応した可能性は充分あっただろう。
それにしても、『八重と会津落城』にあるように、
西郷頼母の親族は必要性もないのに何でみんなして
自決したのか。『時代を駆ける 新島八重』によると、
「食糧をいたずらに消費しないよう」という配慮による
そうであるが、そんなことを言い出したら、会津城下の
女子供は一人残らず自決しなければならなくなるし、
もしそうした場合、一体誰が食事を用意し、ケガ人の
手当をするのか。殿さまの一族の女性とその女中だけで
手が足りるとは思えない。――そう思うにつけても、
頼母の親族の自決もミステリーの一つだと感じている。

ところで、これまでの一連の戦いを振り返ってみると、
白河城が薩長軍に占領されたのは5月1日であった。
これは『八重と会津落城』で指摘されていることだが、
この日から、薩長軍が(このたびのドラマのように)会津
盆地へ攻め込んでくるまでには3か月以上の時間が
あったことになる。そして、3か月以上時間が経過した、
このたびのような会津城下の戦いでは、会津藩という
組織は、八重がせっかく板垣を撤退させても無為無策で
あった。ここからは私の解釈がふくまれるのであるが、
3か月以上も時間があれば、会津藩は落とし穴等、
敵兵を死傷させるための仕掛けを城下につくる時間も
あったはずだし(それこそ全ての女子供を総動員して)、
たとえそれが無くても、戦国武将の真田昌幸のように
敵を懐深くまでおびき寄せて一気にたたくとか、
真田幸村のように複数の指揮官の連携プレーによって
敵の総大将の首一つを狙い、敵軍の総崩れを目論むとか、
何らかの策を弄することは可能である。にもかかわらず、
会津藩という組織は以上のような工夫を一切しなかった
ことになるのだ。前回述べたように、なんといっても
もはや会津の資源を消耗する一方の籠城戦であるから、
たとえどれほど工夫したり頑張ったりしたところで、
他藩からの更なる支援なくして明るい展望はのぞめない。
しかし、たとえそれほど不利な状況であったとしても、
「ダメもと」で何らかの策は講じておくのが普通だろう。
これも同書を読んだうえでの感想にすぎないけれど、
思うに会津藩は、八重のような士族の女性とか、実際に
戦場で働いている(それほど身分の高くない)武士が
スゴく頑張っていたのに対して、彼らの上に立っている
高禄の重臣たちがちょっとだらしなかった。
会津藩という組織が無為無策だった理由も、思うに
そのへんにあるような気がしているのである。
つまり、私が想像するに、重臣たちが相対的にだらし
なかったのはあまりにも絶望的な状況ゆえに思考停止に
陥っていたからで、ゆえに、(個人のレベルでは頑張って
いても)組織としては無為無策となってしまったのでは
ないかと思うのである。


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準備不足と危機意識の甘さ

2013-06-23 23:52:36 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびは、猪苗代湖に
かかる十六橋まで薩長軍におさえられたので、
いよいよ八重が男装して出陣、佐久やうらも城に入る
支度をした、というところで話が終わった。
『八重と会津落城』によれば、十六橋をおさえられたのが
1868年8月22日、山本八重23歳、山本覚馬40歳、
日向ユキ20歳、高木時尾22歳であった。同書によれば、
十六橋をおさえられた22日の翌朝には若松城内で警鐘が
けたたましく乱打されたのだが、前日のうちに避難命令が
出されていなかったために、城下は大混乱に陥ったという。
この点も、前日のうちに松平容保が避難命令を出していた
ドラマとは異なる部分である。同書によると、避難命令が
出されなかったのは、「(会津の)軍事局が『猪苗代湖畔で
持ちこたえる』と甘く見ていた」ためであったという。
また、ウィキペディアの母成峠の戦いの項によれば、
城下の住民もまた「砲声を耳にしながらも城の軍事局を
信じ、敵進攻を告げる早鐘が乱打されるまで避難行動を
とらなかった」という。

前回二本松をおとした薩長軍は、どこかの街道を通って
会津領へ侵攻してくると予想された。ドラマの会津藩
首脳は中山峠と予測し、『八重と会津落城』によれば
白河口に主力部隊を張り付けて警戒していたそうだが、
いずれにしても、薩長軍の主力が母成峠を突いてきた
ことは会津藩にとって予想外のことであった。
母成峠が破られる前、母成峠を守っていた旧幕臣の
大鳥圭介だけが「薩長は母成峠に向かう」と確信して
いたのであるが、なぜか彼の意見は採用されなかったうえ、
ただでさえ少ない彼の手勢が会津側のたっての要請に
よって削られたので、これによって母成峠の守備が
より一層手薄になっていた。――そうした状況下で
大鳥たちは薩長軍に応戦し、たった一日でいとも簡単に
破られてしまったわけであるが、実はこうなった原因の
一つに、薩長に買収された地元の農民の存在があった。
薩長軍は、買収した地元の農民を使って会津軍の戦力や
間道を事前に調べたり、また地元の農民の手引きを得て
会津軍の背後に回ることができたので、素早く会津軍を
破ることができたのだという。地元・会津の農民が薩長に
加勢した背景については、『八重と会津落城』では、
買収されたのは会津藩が事前に焼き討ちをしていた
石筵村の農民で、彼らは自分の村落を焼かれたことを
恨むがゆえに買収に応じ、利敵行為に走ったのだと
分析している。ようは、会津藩は「農民対策がまったく
駄目だった」わけである。――しかし、そうして母成峠
突破を許してもなお、その薩長軍を内藤介右衛門(中地口の
部将)あたりが追撃すればもう少し時間をかせげたはずで
あったが、内藤はおそらく「ぎりぎりの判断を迫られた」
末に追撃を諦め、若松に戻ることを優先したという。
この時も、薩長軍は大勢の農民を動員して食糧・弾薬を
運搬していたのに対し、会津の砲兵隊は人手が足りなくて
「虎の子」の大砲、弾薬を放棄せざるをえなかった
(『八重と会津落城』)。――かくて、会津藩は早くも
城下での戦いを強いられることになったということだ。

こうした会津藩の準備不足は、白虎隊を見ていても
気になる。なんで、出陣する彼らの腰におむすび一つ
無く、野営する場所も与えられず、食糧弾薬も届け
られず、夜中に食糧調達に行かねばならないような
有様なのか。しかも彼らの場合、夜中に原っぱの
真ん中に残されたので、食糧調達しようにも近くに
農家はなく、近くに布陣していた隊からも、食糧を
分けてもらえなかったという(食糧を分け与える余裕が
ないという理由で)。それでも雨は彼らに容赦なく
降りそそぎ、彼らの体力を極度に消耗させていく。
そうした悪条件の末に、彼らは朝っぱらから敵の
銃撃にさらされたということである。


『八重と会津落城』では、母成峠の戦いに関する
記述のなかで、「騎兵で陣地間の連絡を取り合う」
という仕組みが会津藩に無かったことも惜しんでいる。
これは同書を読んだうえでの私の解釈にすぎないが、
「たとえ母成峠を突破され、内藤が追撃を諦めても、
もし内藤が中地口から猪苗代へ馬を走らせたならば、
別の部隊が何らかの方法で薩長軍に対応できたかも
しれない」ということであろう。同書によれば、
こんなふうに陣地間の連携がほとんどなってないのは
軍制改革が遅かったからであり、薩長軍と渡り合える
ぐらいの性能の武器が足りないのも改革が遅かった
からであり、また、改革が遅かったがために兵の
養成も充分に出来なかった。京都守護職時代の
財政難も改革の障害の一つになっていたとはいえ、
武勇を誇った会津藩なのに、残念なことだと感じる。
八重の個人プレーはこれから光るかもしれないが、
個人の働きだけで形勢が逆転するものでもあるまい。
形勢を逆転させるには、他藩からの更なる援軍が
欠かせないであろう。


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上杉家ゆかりの史跡

2013-06-21 23:33:26 | 歴史系
先月、私は松代と上越の史跡を訪れた。これらのうち、
先月末に当ブログでとりあげたのは、松代の史跡のみで
あったので、このたびは上越のほうの史跡をとりあげる
ことにする。上越は上杉謙信のお膝元、私にはやはり
上杉一族に関連する史跡をめぐるだけで手一杯であった。

まず、上杉謙信の居城・春日山城の史跡の様子をとりあげる。
この城は石垣の無い(少なくとも見当たらなかった)戦国
時代の山城、私には(全ての地点を回りきらずに)登って
降りるだけで2時間もかかったほどの巨大さで、本丸に
登りきると、ついぞ足が痙攣してしまった。
習慣にしている訳ではなかったが、のぼる前に準備運動が
必要だったのかもしれない。

――ともあれ、私は春日山城にのぼった。大手道入口で
手に入れた親切なガイドマップをちゃんと読まないまま
帰り際に迷子になった(そしてそのぶん、時間をロスした)
せいもあって、ふもとの様子も撮ることを怠っていたようだ。
そんな私が最初に撮ったのが、上杉家重臣・柿崎和泉守の
屋敷跡であった(下の画像)。



画像に写っている掲示によれば、ここは柿崎景家の屋敷跡と
伝わる場所である。柿崎景家については以前にこちらの
記事で
とりあげたが、彼について重ねて述べるとすれば、
彼は第四次川中島の戦いで武田方の山本勘助を討ち取るなど、
猛将として華々しいキャリアを重ねたにもかかわらず、
謙信に忠義を疑われて斬罪に処されてしまった武将であった。
――これが、以前に引用した別冊歴史読本『越後の龍 謙信と
上杉一族』が伝えるところの柿崎だったのであるが、ウィキ
ペディアの柿崎景家の項では、彼のこの哀れな最期を、
(半ば通説と化してはいるが)信憑性の薄い俗説であるとして、
同項では彼の死因を病死としている。なお、同項によれば、
柿崎の家も、御館の乱後も(景家の孫の)憲家を当主として
存続していたそうである。画像上の掲示によれば、ここは
城内で最も大きな郭の一つで、往時には池(=庭園)か水堀も
存在した可能性があるという。ウィキペディアの景家の項に
あるように、家柄も良けりゃキャリアも華やかだった景家の
栄光を偲ばせる場所ということかもしれない。

次に、下の画像は上杉景勝の屋敷跡の様子である。



それから、下の画像は今なお水をたたえる大井戸跡。
・・・どうだろう、ヤマ勘で言えば、一度に20人は水を
くむことができるだろうか??結構、本丸(つまり山頂)に
近い場所にあるわけだが、掲示によれば、「地質学的には、
西方の山々の礫層とつながっていて、サイフォンの原理が
働いて、水が湧く」ということである。



そして、こちらが本丸の様子。遠方の景色は、日本海側
ではなく、関東側である。



また、下の画像は本丸から少し下った場所にある
「諏訪堂跡」。左端に写っている石碑にはたしかに
「諏訪堂跡」と彫られているわけだが、たしか、
中央の木のそばに立つ石碑にはなぜか「毘沙門堂」と
彫られており、さらに、ここより少し下った場所に
毘沙門堂が復元されている。あまり確かな記憶ではないが、
偶然居合わせたガイドさんの話によれば、毘沙門堂は
本来こちらにあったということである。謙信公も、
本当はこの場所で祈ったということになるのだろうか。



ちなみに、護摩堂跡にある掲示によると、上杉謙信は
出陣前には毘沙門堂に籠り、戦勝や息災の祈祷は
護摩堂でおこなったという。時代劇における謙信の
祈り方がどこまで実際に近いのかという問題は残るが、
とにかく謙信がたびたびお堂に籠って何か祈っていた
という事それ自体は、どうやら信じてよさそうだ。
個人的に、上杉謙信という大名にはどこかミステリアスな
イメージがあるのだが、私のなかでそうしたイメージが
ある理由の一つも、こうした謙信の習慣にあるのかも
しれない。その他に、ウィキペディアの謙信の項にもある
ように、しばしば「(ひらめき型の)戦の天才」みたいに
言われたり、あるいは謙信の戦国大名らしからぬ側面
(「義」ゆえにそれほど利益を期待できない戦いに
いそしんだり、女を近づけなかったりしたところ)も、
私にとってミステリアスな要素のなのかもしれないが。

閑話休題。下の画像は直江屋敷跡の様子。



また、下の画像は千貫門跡である。



――私が春日山城で撮れた画像は、おおむね以上である。
本当は、あと数か所撮っておきたかったが、先述のように
迷子になってしまい、やっとの思いで、ふもとの林泉寺に
たどりついたのだった。この林泉寺には、先月も言及した
川中島戦死者の供養塔(下の画像)の他に――、



上杉謙信公の墓がその隣に建てられている(下の画像)。



その他にも、堀氏や榊原氏といった、後世の上越を治めた
殿さまたちのお墓も見られたのであるが、私は謙信の父・
長尾為景と、謙信の祖父・能景の墓を訪ねた(下の画像)。
能景についてはよく知らなかったが、為景のほうは、
埼玉の鉢形城主だった上杉顕定を敗死させた武将として
認識はしていた。上杉顕定は晩年、自分の弟の仇を討つ
という大義のもとに越後へ攻め入って長尾為景&上杉
定実と戦い、一時的に彼らを越中へ追放したものの、
越後での統治が強硬なものだったために現地の国人の
反発を受け、挙句、1510年に為景らに返り討ちにされて
自刃に追いこまれたのだった(ウィキペディアの上杉顕定の
項を参照)。



一方、ウィキペディアの為景の項によれば、彼は息子の
謙信とは対照的な人物だったそうで、「越後国を我が物に
するためであれば、主家打倒も奸計も辞さず、戦うこと
百戦に及ぶと言われている」。そして、謙信の項によれば、
為景は謙信を疎んじて、幼少期の謙信は「為景から
避けられる形で寺に入れられたとされている」という。
この為景・能景の墓は謙信の墓とは少し離れていたし、
謙信は父親とは対照的に義理堅さで知られた武将のようだし、
果たして謙信は為景をあまり快く思っていなかったの
だろうか??

ちなみに、この林泉寺には春日山城の搦手門を移築した
ものと伝わる惣門があって、下の画像がその様子であるが、
逆光になってしまい上手くとることができなかった。



――私は立ち寄ることはできなかったが、春日山城跡の
三の丸には、上杉三郎景虎の屋敷跡があったという。
上杉三郎景虎とは、謙信の没後、上杉景勝と家督争いを
繰り広げた謙信の養子で、北条氏康の七男でもあった。

ウィキペディアや『越後の龍 謙信と上杉一族』によると、
上杉謙信は、自分の後継者を景勝と三郎景虎のどちらに
するのか、明確に表明する間もなく急死してしまった。
時は1578年3月13日のことであった。景勝と三郎景虎は
両者とも年齢がほぼ同じで、謙信の寵愛の度合いも
甲乙つけがたかったようで、謙信が亡くなると、両者の
間でたちまち家督争いの暗闘が始まったという。
このとき、三郎景虎にも上杉家臣の一部や前関東管領・
上杉憲政、さらに実家の小田原北条氏やその同盟国の
甲斐武田氏等といった後ろ盾がいたものの、対する上杉
景勝方はいち早く春日山城本丸や金蔵、さらに謙信時代の
文書発給機構をもおさえていた。そして、同年5月には
春日山城内でも景勝方の本丸から景虎方の三の丸への
攻撃が始まり、同月13日、景虎は妻子らを連れて
春日山城を脱出せざるをえなくなる。そんな景虎が
身を寄せ、立て籠もったのが、当時上杉憲政の居館と
なっていた「御館」で、下の画像が現在「御館公園」と
なっている跡地の様子である。



その後、三郎景虎は一体どうなったのだろうか。
当初は一進一退の攻防を続けていた景虎であったが、
実家の小田原北条氏はあまりアテにできず、やがて
甲斐武田氏も金によって景勝方に封じこめられ、
景虎方は日に日に苦境に陥り、翌1579年になると
駆け落ちする兵も続出するようになっていったという。
そして、景勝方は「北条が雪に阻まれて景虎へ加勢
できないでいるうちに」と、景虎の立て籠もる御館へ
総攻撃を開始。同年3月17日、ついに御館は落城して
しまう。景虎の正室は景勝の姉妹でもあったものの
景勝への降伏を拒否して自害、また景虎の息子・
道満丸も、上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かうが
その途中で憲政ともども何者かに殺害される。
そして景虎自身も、実兄の北条氏政を頼って小田原に
逃れようとしたものの、その途中、家来の謀反にあって
自害を余儀なくされたということである。
この、いわゆる「御館の乱」によって、謙信時代に
培われた上杉家の勢力と威信は大きく後退していった。
謙信時代の栄光を私なりに想像してみれば、やはり
寂しいものだと感じる。当時の上杉家中でも同様に
感じた人はいたかもしれないが、そうした人とて
如何ともしがたい事だったのではないのだろうか。
いずれにせよ、一族同士が内部抗争を始めると
ロクなことがない。


最後に、春日山城の大手道入口には謙信公ゆかりと
思しき「御前清水」があって、これが今なお地元住民の
のどを潤しているらしい。子供たちが友達と飲みに
来たかと思えば、大量のタンクをかかえてやってくる
人、「汲ませていただきます」と恭しく挨拶をして
汲み始めるお年寄りもいた。その他、地元の小学生と
思しき子供が保護者と謙信の話をしているのを見かける
などしたため、私が今回上越を訪れた限り、上杉謙信は
今なお地元の人たちに親しまれているという印象を
受けた。『越後の龍 謙信と上杉一族』によると、
上杉景勝が越後から会津へ国替えした際、後任として
越後に入った堀秀治という武将は謙信の廟の移転を
(廟を守る寺に対して)しきりに促したそうだが、
そうしたエピソードも、上越における謙信の威光が
死してなお強かったことの証のように思えるのである。


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会津の才人たちの命題

2013-06-16 23:50:50 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびの話題は、薩長軍による
会津包囲網が迫りくるなか、二本松藩の少年たちも戦をする
羽目になって犠牲も出、城も陥落したという話。
時代は1868年7月、山本八重23歳、山本覚馬40歳、山川
大蔵23歳であった。前回のドラマでは白河口での戦いが
とりあげられていたが、その白河口へ二本松藩兵の多くが
出払っていたので、このたび犠牲になったような少年兵も
戦力に加えて二本松城を守らざるをえなかったということ
らしい。また、ドラマでの二本松の少年兵には上役の
指揮官から何らかの指示を受けて動いた様子が無かったが、
それは「この時、城内と城外が新政府軍によって隔てられ、
城外にあった二本松少年隊に指示を送ることができなかった」
からであり、いわば「二本松少年隊40名は最前線に放置される
事態に陥っていた」。少年兵は、そうした条件下で「戦場を
さ迷ううちに一人ずつ離れ離れになり、ついに新政府軍との
戦闘に巻き込まれて一人一人命を落として」いったのだという
(ウィキペディアの二本松の戦いの項による)。

ところで、先の白河口での戦いの敗因は一体どこにあったのか、
私がたびたび参考にしている『八重と会津落城』が、少し
そのへんを分析している。それによれば、まず圧倒的な武器の
差を指摘する声が現場の人間からあがったということなので、
この点が敗因の一つと考えていいだろう。また同書では、
「夜の間に敵兵が白河城下に潜入し、それを知らずにいた
こと」とか「指揮官が派手な陣羽織を着ていたので格好の
標的になったこと」を稚拙な失敗だったと評してもいる。
そして、人選のマズさである。白河口という「奥州の咽喉」を
守る総督に選ばれた西郷頼母に戦闘経験がゼロだったことは
前回も述べたが、そんな彼は、新撰組や第一線の兵士たちが
敵陣に夜襲を仕掛けようとした際、「会津は姑息な戦法は
取らぬ」と言って制したのだという。これは私の考えに
過ぎないけれど、戦はそれ自体が所詮は暴力、戦に姑息さを
排除して一体どうするのか。実際、大河ドラマ「翔ぶが如く」
でも登場していた「百戦錬磨の」伊地知正治は、農民を
買収して道を聞き出し、事前に間道から白河城下に送り
こんでいたという。西郷頼母は敵がそんな姑息な手段を
使ってくるとは思いもよらず、自分たちと同じように正面から
向かってくるものと思いこんでいたのかもしれないが、
そういう頼母を補佐するべき参謀も一体何をしていたのか
という問題も存在する。ドラマで板垣退助に恐れられていた
山川大蔵を何も日光に配置する必要はない。西郷頼母よりも
むしろこの山川大蔵を白河口の総督に配置するべきだった。
――『八重と会津落城』による分析は、概ねこんなところの
ようだ。この八重のドラマに登場する頼母はこのたび
総督の座をクビになっていたけれど、同書では、頼母は
「お咎めなし」として白河口の総督を続け、責任の所在は
曖昧なまま、上層部を一新して戦略の大転換をはかることも
なされなかったと伝えている。この、ドラマと本が伝える
頼母の処遇の違いをどう解釈するべきなのか、そこまでは
分からないが、もし本当に本の伝える通りであったとする
なら、会津藩にも組織として問題があったと言えるだろう。

――いずれにせよ、これは以前にも述べた私の考えだが、
会津藩にはたしかに個人のレベルでは優れた人材があっても
これを活用するのが下手で、そういうところが江戸幕府と
共通していると感じられる。私はどうかすると、武州・
川越人の端くれとして佐幕派が薩長に負けていくのを見て
悔しくなることもあるし、政治とは直接関係のなかった
女性や少年まで死なねばならないことは痛ましくもある。
しかし、それでもやっぱり「負けに不思議の負け無し」――。
もはやこういうことはあまり書きたくないのだが、
「少年隊の悲劇」といった、感情に訴えてくるような部分が
どうしてもクローズアップされるような気がしているので、
敢えて指摘してみたくなるのである。
まあ、個人の力では如何ともしがたい悪条件のなかで
いかにベストを尽くすのかというのが、八重や覚馬などに
幕末・維新を通じて課され続けた命題なのかもしれない。


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残念な人たち

2013-06-09 23:53:00 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびは、ついに戦いと
なり、白河口で会津藩が負けたところで話が終わった。
時代は1868年5月、山本八重23歳、山本覚馬40歳、山川
大蔵23歳、日向ユキ20歳、高木時尾22歳であった。


今年三月号の『歴史読本』によると、「鳥羽・伏見の戦い」
後、諸大名には、徳川家との主従関係を断ち切り、薩長軍に
参加して具体的に貢献することが求められ、「新政府」への
絶対恭順が諸藩にとっての生き残りの最低条件となっていた。
私の地元・川越藩もそうした流れのなかにあって、苦心の末、
1868年3月に薩長に味方として認められ、5月には上野
戦争の残党を追討するというかたちで薩長に貢献した
(『続・埼玉の城址30選』による)。川越藩の殿さま・松平
康英は元・老中、川越藩は何度も薩長軍に通いつめては
門前払いされ、あるとき「川越の殿さまの先祖の奥方が
島津家ゆかりの者である」という縁故によってようやく
許され、その上でさらに金三千両と米三千俵も薩長に献納
したのだった。――こんな調子だったぐらいだから、
おそらく当時の川越に会津を救う勇気なんて無かっただろう。
川越も残念な感じであるが、勝海舟も、内戦を契機とする
欧米の介入をあれほど危惧していたにもかかわらず
会津戦争を回避しようとした形跡が見当たらず、その意味で
残念な感じがする。
一方、『八重の会津落城』によると、奥羽の人々は新政府の
存在そのものを認めてはおらず、天皇の名を勝手に語る
「官賊」と見ていた。思うに、おそらくこれが、東北諸藩が
会津を同情して何とか救おうと奔走した背景だったのだろう。

このドラマで「地獄の使者」と呼ばれた世良修蔵であるが、
彼に木戸孝允の代弁者としての立場もあったことは前回
記した通りであるし、今年三月号の『歴史読本』によれば
世良はまた西郷吉之助の代弁者でもあった。たとえ世良が
どういう人間性の男だったとしても、木戸や西郷が
会津に対する強硬論を捨てない限り、会津を救うことは
難しかったに違いない。――しかしながら、このことを
差し引いて考えたとしても、世良がもう少し智恵のまわる
人間だったならば、奥羽では「官軍」の権威が関東ほど
通用しないということを見極めて自らの言動にも気をつける
ようになり、そのぶん仙台藩士の反感も弱くなって、
仙台藩士に惨殺されることもなく、双方にとってより良い
結果を見いだすこともできたかもしれない。だが実際の
世良は、奥羽人の認識を理解せずに「一体奥羽のヤツらは
ヤル気あんのか」と苛立って、その苛立ちを女で紛らわし、
その一方であくまで仙台藩に会津討伐を求め、これによって
仙台藩士の反感を買って惨殺という末路を迎え、
日本は東北全体をまきこんだ大戦争になってしまう。
仙台藩も仙台藩で、世良のこのような個性ゆえか、
会津救済に奔走中であるにもかかわらず、世良という
使者を怒りにまかせて殺してしまったように思われる。
仙台出身である『八重の会津落城』の著者は、
同書のなかで当時の仙台藩の戦略の無さを指摘している。

ちなみに、この世良修蔵という人物、今年三月号の『歴史
読本』や『八重の会津落城』を読んで想像するに、かわい
そうな側面を持っているようだ。元々は生真面目な人間で、
江戸にあった三計塾という塾では塾頭を務めるほどの成績を
とったが、そうしたキャリアを活かした政治活動の形跡は
見当たらず、奇兵隊幹部としての戦歴が彼の主な功績だった。
ここからが私の想像にすぎないところだが、毛利藩内では
萩の生まれと周防生まれとで見えない差別があって、
世良のような周防の生まれは毛利の(直臣ではなく)「陪臣」
として差別される側にあったというから、世良の主な功績が
奇兵隊幹部としての戦歴となったのにも、そうした差別による
影響があったからではないのだろうか。差別さえなければ
世良も政治的な活躍の場をもっと与えられ、もっと名のある
尊王の志士として後世に知られたはずだったのではないか。
『八重の会津落城』では、世良には差別される側だったが
ゆえの「ひがみ」があって、木戸はこの「ひがみ」を利用する
かたちで、世良に会津を徹底的に叩くよう命じたのでは
ないか、と分析している。


それにしても、当時の会津藩の対応も果たしてどうだったの
だろう。思うに、恭順も、武装しながらでは、それだけで
薩長から「会津は本当に恭順する気があるのか」と疑われ
かねない(たとえ西郷や木戸がそれほど強硬派でなくても)。
また、これは『八重の会津落城』で指摘されている点だが、
白河口という重要な場所の総督がなんであの西郷頼母なのか。
彼はつい最近までずっと会津で謹慎していた男で、しかも
戦闘経験が皆無なのである。なんでそんな男をいきなり
総督にするのか。鉄砲や大砲の武器の質が薩長より古い
という点は、まあ、ある程度致し方ないとしても(会津は
京都守護職の負担が重すぎて、経済的に最新式の武器を手に
入れるのか難しかったのかもしれないから)――、
会津藩側にも、もう少しうまいやりようがあったように
思える。


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信頼あっての取引

2013-06-02 23:51:58 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびの話題は、江戸城は
無血開城がかなったものの、果たして薩長はこのままで
済ますだろうか――といったところで話が終わった。
時代は1868年3月、山本八重23歳、山本覚馬40歳、山川
大蔵23歳、日向ユキ20歳、高木時尾22歳、梶原二葉24歳
(あるいは25歳)であった。京都守護職の経済的負担に
苦しんだ会津藩も、このたび鳥羽・伏見の戦いに負けた
ことでようやく軍制改革に着手した。以前、山本覚馬が
上洛する直前に話していた反射炉の建設は実現のハードルが
高いとしても、川崎庄之助を江戸へ勉強に行かせて重用する
程度のこととか、このたび佐川官兵衛らがおこなった走る
訓練程度のことなら、京都守護職時代の財政難であっても
できるはずだった。そう思うと、やはり遅きに失した感は
ある。――それにしても、今でこそ官軍と称して意気揚々の
薩摩藩であるが、もし生麦事件によって悪化した対英関係の
修復に追われる事もなく、会津とともに京都守護職を担って
いたならば、果たしてあのように「官軍」の先頭をきる
ことができたかどうか、個人的には疑問が残る。
なお、ドラマの八重がずいぶん心配していた山本覚馬の
安否であるが、八重にもこれが分かるのは実はだいぶ先の
ことで、会津戦争もとっくに過ぎた明治4年の10月ごろ
だったという(『明治の兄妹』による)。同書によれば、
北越戦争で越後の長岡を陥落させて来た薩摩兵が、山本家に
奉公していた譜代の農夫に話した。この薩摩兵は明治4年
よりも数年前に農夫に話したことになるのだが、それから
山本家に伝わるまでになぜ数年もかかったのかは謎だという。

このたびのドラマではどんな組織名で紹介されたか忘れたが、
このたび新たに登場した薩摩藩士の大山格之助と、長州藩士
世良修蔵は、「奥羽鎮撫総督府」なる組織の権限を実質的に
握った「下参謀」で、いわば未来の会津の敵のボスである。
『八重と会津落城』によると、この「下参謀」の任には元々
薩摩藩士の黒田清隆と長州藩士の品川弥二郎が就くはず
だった。しかし、品川弥二郎は自藩の最高指導者たる木戸
孝允と意見が合わなかったこともあり、黒田と相談のうえ、
「下参謀」の任を降りたのだという。品川と黒田が、
「徳川宗家でさえ家の存続が許され、駿府に領地が与えられ
たのだから、幕府のパシリをやらされただけの会津もそれに
準じて穏便にはかればいい」と思っていたのに対し、木戸が
「会津討伐」を強く主張していたためだった。同書は世良
修蔵のことを、傲慢で強硬な、レベルの低い男として伝えて
いるようだし、ドラマの彼もいかにも悪役っぽい感じがするが、
この彼に「会津を徹底的に叩け」と指示したのが木戸孝允で
あった事も同書は伝えている。「下参謀」世良修蔵という
人事に、木戸孝允の強硬論が反映されていたことも
見落としてはなるまい。なんらかのかたちで品川らの考えが
採用されていれば、会津藩も有志の者だけが戦場に出て死傷
する程度の犠牲で済み、それだけで、その後の会津人の
薩長に対する認識もだいぶ違っていたのではないのだろうか。

ところで、このたびの話題の一つに江戸城無血開城があった。
ふくろうの本の『図説 西郷隆盛と大久保利通』では、
この実現に関しては「西郷と勝の個人的信頼関係が(無血
開城という)難しい話をまとめた」と総括している。
しかし、山本覚馬に関しては、捕まる以前から西郷吉之助と
知遇を得ていたかどうかも私には分からないし、『八重と
会津落城』によれば、覚馬はドラマと違って本当は西郷
吉之助と面会できなかったという。ただし、吉之助が
覚馬の「管見」なる意見書を読んで敬服し、覚馬を厚遇した
という点は『八重と会津落城』も『明治の兄妹』も伝えて
いる。いずれにせよ、世良修蔵のことも念頭に置くにつけ、
信頼関係なくして交渉の成果は得られない、ということでは
あるのだろうか。


ドラマでの勝海舟が西郷吉之助を説得する際に用いた理屈の
一つは、「恭順している者をさらに叩くなど、万国公法に
反する」といったものだった。そしてこれに即して述べれば、
会津藩も現在恭順の意を示している以上、これを叩いては
万国公法に背くことになるはずである。しかし、実際は
会津藩に関してはこの理屈が採用されず、会津藩は全面
戦争を強いられることになる。――これは、政治が正義
だけで通らない世界であることを物語るようにも思える。
ドラマでは言及されなかったが、江戸城無血開城が実現した
理由の一つが、西郷吉之助がパークスの圧力に屈したため
という説もある(ウィキペディアの江戸開城の項を参照)。
会津藩に関しては、「会津を叩くと損をする」とか、
「会津も叩かない方が得策である」と、薩長に思わせる
何かが、果たしてあったのだろうか??


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