黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

黄金の中庸

2016-02-28 23:58:29 | 思索系
大河ドラマ「真田丸」。このたびの話題は、上杉・北条・
徳川といった信濃近辺の大名たちがこぞって信濃を切り
取ろうと迫りくるなか、真田昌幸が策略によってこれら
三つの大名家の脅威をすべて退けるウルトラCをやって
のけたという話。時代は、川中島で対峙していた上杉
景勝と北条氏直が講和を結んだ時点で1582年7月。幸村
16歳、信之17歳である。

このころの歴史があまりに複雑で変動目まぐるしいので、
まずは、『真田昌幸』(著:黒田基樹 小学館 2015)を
参考に、史実として確からしい部分のみを追っていきたい。
この本によれば、滝川一益は6月19日の「神流川の戦い」で
北条軍に大敗、関東を追われた一益は6月21日に小諸城に
入城した。だが、やがて一益はそこにも居れなくなって、
6月26日に小諸城を出立。その出立後から、遅くとも6月
29日までの間に、真田昌幸が上杉氏に臣従した。そして、
その翌7月9日までには、真田昌幸は北条氏に乗り換えた
という。確からしいのは、思うにここまでといえる。
――で、昌幸が6月29日までの間に上杉氏に臣従した理由は
よく分からないらしいが、その後北条氏に乗り換えたのは、
北条氏が真田以外の小県郡・佐久郡国衆(室賀正武等)をも
味方につけながら真田領に進軍してくるので、真田自身も
北条の旗下に入らなければ滅亡しかねないという判断が
働き、その危機を回避するために真田も北条の旗下に
ついたのだろう――ということである。北条氏が真田領に
侵攻してくる場合、上杉氏からの援軍が期待できれば話は
別だが、当時の上杉氏は木曽義昌とも抗争していたから、
上杉の援軍も期待できなかったであろうということである。
ドラマでは、昌幸が大大名三家も手玉に取って漁夫の利を
得るようなマネをしていたが、例えばそういう昌幸の策略の
犠牲になっていた春日信達の史実に関しては、ウィキペ
ディアの彼の項に「真田昌幸や北条氏直らと内通したことが
発覚して、景勝によって誅殺された」とあるのみで、そこに
昌幸の策略との関連性の有無やその程度を確かめることは
できない。また、北条氏が川中島まで出張っているあいだに
その背後を徳川家が脅かすようになったので北条氏は徳川の
方に向かった――という話についても、「信濃の国衆から
支援の要請があったのだろう」とあるのみで(『真田昌幸』)、
真田昌幸の策略と関連付けて考察しているようなものは
見つからない。そんなことを考慮すると、よくここまで
「面白いゲーム」のようなストーリーに仕立てたものだと
感じられる。果たして昌幸はそこまでスゴい策略家だったの
だろうか??他の戦国武将と比べればスゴい部類としても、
実像はドラマよりは若干、場当たり的な対応をとっていたの
ではないかと想像される。

ところで、気になったのが春日信達の過去である。先述の
ウィキペディアによると、彼は武田家滅亡後は森長可という
織田家臣の旗下に入っていたのだが、本能寺の変後、窮地に
立たされた森長可が美濃へ逃亡しようとした際、信達は
「信濃国人衆を母体とした一揆勢を率いてその撤退を
阻止した」のだそうである。思えば、たしか森はこのドラマ
「真田丸」でも逃亡する際「感謝されこそすれ、恨まれる
ような覚えはない」といったことをこぼしていた気がするが、
史実の彼も妨害にあったことを相当恨んだものだろう、
長可が当時手にしていた人質(春日信達の息子・庄助)を自ら
殺したばかりか(人質は解放するという約束であったがこれを
反故にしたかたちである)、その18年後に長可の弟・忠政が
初代川中島藩主として北信濃に入ると、その弟がまた現地に
残っていた春日信達の一族を残らず探し出し、18年前の罪で
一族全員磔刑に処しているのである。想像するに、森家から
すれば春日信達の妨害行為は、いきさつや期間はどうあれ
仮にも主君であった自分に対する礼儀を欠くというか、
人の道に反する行為のように思えたのではないか。
このドラマでも、滝川一益の立場が危うくなるや「待って
ました」とばかりに真田昌幸が沼田城と岩櫃城を乗っ取って
一益を激怒させていたが、「やりすぎはよくない」ということ
かもしれない。


このドラマの世界観からすれば、策を弄することも、裏切る
ことも、環境がそうさせてしまう部分があるのであって、
人の心そのものは本来それほど醜いものでもない。
しかし、ついやりすぎて、実はそれほど必要でもないのに
ヒドいことをすると、情状酌量の余地が無くなっていく。
どこまでが必要悪でどこからが「やりすぎ」になるのかが
また難しい問題であるだけに、しばしばやりすぎた本人にも
悲劇がおよぶのだろう。しかし、このたびのドラマの昌幸の
ウルトラCに関しては、春日信達の悲劇はむろん重かろうが、
彼の策略によって救われた兵士の命の数を考えると、まだ
情状酌量の余地が(彼の同時代人の多くのなかでは)残されて
いると考えるべきかもしれない。


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生き残る家とは

2016-02-15 00:04:57 | 思索系
大河ドラマ「真田丸」。このたびの話題は、織田家の
重臣として関東を支配していた滝川一益などもいよいよ
(北条などの)火事場泥棒によって立場が危うくなるが、
真田家はむしろその状況を逆手にとって大大名からの
自立を模索し始めるといった内容。
時代は、北条軍が滝川領の上野(倉賀野)に侵攻し始めた
時点で1582年6月16日、幸村16歳、信之17歳である。
なお、ドラマではとりあげられなかったがこのとき
北条軍の先陣を務めたのが(現・埼玉県大里郡寄居町の)
鉢形城主で北条氏政の弟・氏邦。昌幸と同じく安房守を
名乗っていた彼は、それこそ「めぐりあわせ」ゆえに
今後も沼田の支配をめぐって昌幸と鎬を削り続けることに
なる。そんな北条氏邦のお膝元であった鉢形城の歴史館で
この大河ドラマに関係のありそうな企画展が――
約7年前に催されたのみである。

ところで、この「真田丸」で北条氏政を演じるのが高嶋
政伸さん。「戦国の梟雄」っぽい役を彼が演じるのは最初
意外な気もしたが、思えば1991年の大河ドラマ「太平記」
では足利尊氏の右腕から反逆者へと変貌する弟・直義を
演じて私にインパクトを与えたものだった。今回はまた
小日向文世さんの秀吉が初登場したが、小日向秀吉とは
果たしてどんな感じになるのだろうか。

――そんなふうに思うのは、歴代大河ドラマの徳川家康が
(私が覚えてるだけでも)実に多彩であるように感じるから
である。あいにく滝田栄さんの家康は観たことはないが、
「デキる大先輩」の家康(「独眼竜政宗」)、ヒヨコだけど
見どころもある男(「武田信玄」)、腹に一物あるタヌキ親父
(「秀吉」など)、さらには血の気の多い家康(「葵・徳川
三代」)、ゴッドファーザー家康(「江」)、そして、
今年の家康はまた違って「単なる小度胸な凡人」。内容は
すっかり忘れてしまったが、私はかつて何かの番組で
家康を「凡人」として取り上げているのを記憶しているし、
歴史本ではないが家康を「臆病者」と評しているものも
知っているから、まぁ今年の家康像も一理あるものかも
しれない。だが私としては、これだけ多彩に描かれる
ぐらいだから、家康はむしろ凡庸だったというより
性質が多面的であったと考えるべきであるように思える。
そして想像するに、(家康ほどではないにしろ)秀吉も
天下人になれるくらいであるから実際は一般的なイメージ
よりも多面的な人物であったかもしれない。


昔話が続くが、山本勘助を主人公にした大河ドラマ「風林
火山」では、真田昌幸の父・幸隆夫妻が一家の危機を
脱した後、珍しく勘助の目の前でノロケてみせて勘助を
たじろがせるシーンがあったかと思う。――このように、
「大きくないにもかかわらず乱世を生き残った家」から
想像される一族のあり方として考えられるのは、ただ単に
クレヴァーで、ピンチをチャンスととらえられるポジ
ティヴさがあるというだけではなく、一族が協力的で仲は
悪くないということであろう。一族が協力し合えばそのぶん
生き残りやすくなるが、そのためには少なくとも仲が
悪くては拙かろう。この「真田丸」では、図らずも昌幸を
迷いから救った幸村の「才」もさることながら、実は
一見時代錯誤の信之の誠実さも、必ずしも一族にとって
ムダとは限らない。その理由は、忍者の師匠の出浦がシブく
語ったように「油断も隙もならぬ乱世の時代だからこそ
信用が大事になってくる」からである。
かつて、小山田信茂が織田家によってすぐに誅されたのは
その裏切り方ゆえに信じるに足る男ではないと判断された
からである。ドラマの昌幸も、おそらくそれを知るがゆえ、
一応、信之の話にも耳を傾けるのであろう。

ちなみに、ドラマでは幸村の姉・松が安土から脱出して
九死に一生を得ていたが、実は彼女についても、史実では
安土に送られていなかった可能性が指摘されている。
『真田昌幸』(著:黒田基樹 小学館 2015)によると、
かつて番組の最後で紹介された紀行にあるように、たしかに
『加沢記』なる書物には安土に送られたと記されているが
「国衆からの人質が安土城に送られた例はないので、誤伝
とみられる」という。――このように異論を述べているのが
この「真田丸」の時代考証担当者の一人なのだと思うと、
何とも言えない気持ちになるのである。


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謀反は難しい

2016-02-07 23:54:57 | 思索系
大河ドラマ「真田丸」。このたびの話題は、真田家、
徳川家などが「本能寺の変」にふりまわされるといった
話。時代は1582年、幸村16歳、信之17歳である。
ウィキペディアの滝川一益の項によると、一益が事変を
知るのは5日後の6月7日、このたびの段階ではまだ
知りえていないことになる。一方、ドラマを見て察するに
ドラマでは上杉氏は事変を二、三日で知ったことになるが、
同氏は実際そんなに早く事変を知ったのであろうか??
同氏と戦っていた柴田勝家が事変を知って北ノ庄城へ撤退
するのが「6日の夜から」となっているだけに、疑問が残る
(ウィキペディアの勝家の項を参照)。いずれにしても、
このたびの「本能寺の変」により旧武田領は空白地帯と
なり、無事逃げ帰った徳川家康や上杉、北条といった
大大名から真田などの武田遺臣、地元の国人衆に至るまで、
少しでも多くの土地を得ようという奪い合いになるのである。
これを「天正壬午の乱」というそうであるが、ウィキペ
ディアの昌幸の項を見ると、実際の当時の昌幸が最初にした
ことは上杉氏に接近することではなくて、近隣の武将を
少しずつ自分の家来にしていく事だったように見受けられる。
そして、同項によると昌幸がそうした動きを見せるのは
遅くとも6月10日、忍者と縁が深いとされる真田家とはいえ、
やはりドラマほど事変を早く知りえたのか、まだ疑問は残る。
まあ、「鶏口となるも牛後となるなかれ」ではないが、
ドラマのように次なる主君を選んでいるよりは(道は遠くても)
大名としての独立を目指しているほうが面白かろう。

しかしながら、ドラマで父・昌幸に織田家へ忠義を貫くよう
説く信之の「律儀さ」には違和感を覚える。『決定版 
真田幸村と真田一族のすべて』の著者もむしろ私の想像に
近いであろうが、想像するに、当時の信之もまだ乱世に生き、
父親の背中を見ているだけのもので、後世の信之の徳川に
対する「律儀さ」はむしろ、そのころの信之が唯一の
処世術として後天的に身につけた性質であるように思える。

ちなみに、ドラマのなかで滝川一益が奥州についてちょっと
言及していたのでちょっと述べるが、実は伊達政宗は真田
幸村と同い年。晩年の政宗がこれに気づいていた可能性は
低いかもしれないが、幸村の娘が片倉という政宗の重臣に
生け捕られ、その縁で他の子女も世話になったりしたのも
何かの縁であろうか。伊達政宗は、現代人からはしばしば
「もう少し早く生まれていれば天下取りに名乗りをあげ
られていた」みたいに言われたりするようだが、真田家に
関しては(やはり結果論ではあるが)まず天下を狙うには
身上が小さすぎるし、まして父親の昌幸ならいざしらず、
幸村などは結局自らが真田家当主として領国経営をする
経験を得られぬまま死なねばならなかったので、幸村の
天下取りなど夢のまた夢であったように思えてならない。
やはりいくら頭が良くても、実務が無いとなるとそれは
大きなハンディであったような気がしている。

一方、かつて某歴史番組で「芸能界のナンバー2」を
自称していた西村雅彦さんが演じる室賀正武についてで
あるが、『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』によると
室賀氏は真田と所領を接していて仲が悪かった家の一つと
される。かつて、昌幸の父・幸隆の時代の真田家はたしか
当時所領を接していた村上義清と仲が悪かったと記憶して
いるが、この義清の子の国清は1584年ごろ、彼の主君と
なっていた上杉景勝によって海津城代を辞めさせられる
こととなり、これによって村上氏は事実上滅亡すること
となる。


「裏切りが良いことではない」という点では私も同感で
あるが、理由は「倫理的にヒドいと思うから」ではなく、
むしろハッピーエンドに導くことが難しいからである。
裏切ろうと思うなら、裏切ることによって失うもの、または
新たなリスクの大きさを事前によく考え、裏切った後は
これに対処せねばならない。思うにこれは、裏切りの
スケールが大きければ大きいほど困難な作業である。
まず、消極的な動機のみでの裏切りではハッピーエンドなど
不可能に近いだろうし、明智光秀のように目算が甘くても
結局はうまくいかない。しかし、晩年の徳川家康のように
よほど慎重にすすめていけばハッピーエンドも夢ではなく、
その倫理面もいくらでも正当化できる。したがって、
穴山信君の横死に「裏切り」への因果を求めることには
必ずしも共感できない。彼の横死はただ単に運が悪かった
だけかもしれないのである。


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