黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

お気に入り発掘

2009-09-30 17:06:27 | 美術・音楽系
今月「世界は踊る 世界は歌う」という番組で観た
アルゼンチンタンゴの踊りに感動して以来、
アルゼンチンタンゴが再びマイブームになっている。
中学時代でもマイブームになったことが無いではなかったが
当時は動いているダンサーを見た事がなかったので
動いているダンサーを観ることができた最近になって
またマイブームになっているという次第である。
今日は、そんななかで新たに発掘した
(いや、アルゼンチンタンゴファンの間では昔から有名なのだが、
私は最近になってその存在を知った)名曲の一つ、
「El Lloron(泣き虫)」について少し語りたい。

いつも引用している
『世界の名曲とレコード ラテン・フォルクローレ・タンゴ』
(著:永田文夫 誠文堂新光社 昭和52年)によると、
この曲はアンブロシオ・ラドリサーニという俳優が作曲し
のちエンリケ・カディカモという人がその曲に歌詞をつけた。
そして、1936年になってからロベルト・フィルポが採譜し
これによってようやく世に出た――ということらしい。
他のタンゴと同様、この曲も様々な楽団が演奏しており
聴き比べてみたが、個人的はやはり
最初に聴いたフランシス・カナロ楽団の演奏が
小粋で小気味よい感じがして気に入っている。

また歌詞によれば、この歌の主人公は
口先三寸から紡ぎだされる甘いシロップのような話術と
時々見せる男の涙であらゆる女性を虜にしてしまう
いわばプレイボーイで、
人はそんな彼を「泣き虫」と呼ぶのだそうである
(歌のサビの部分のかけ声も、
おそらくは「ジョローン(泣き虫)!」である)。
だが彼はそんな世間の評判など気にせず、
歌のなかで「おれにとっちゃ、どんな男も同じこと。
結局おれが一番なのだから」などと
ものすごい自信を見せている。
こういうタイプは実際のところ苦手なのだが、
まぁ歌の世界の人間の話だから――
当初はそう思って歌を聴いてるうちに、
この歌の主人公も魅力的に感じてくるから不思議である。


ともあれ、お気に入りが新たに見つかって嬉しく思う。

c.f.「泣き虫」のより詳細な訳詞


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誤解はとけても

2009-09-28 09:10:42 | 思索系
大河ドラマ「天地人」。
今回の放送は石田三成の処刑であった。
三成に死なれた初音ちゃんは
ついに自分自身の気持ちを語ることはなかったが、
ただ「涙が出るほど悲しい」ではなく、具体的に
どんな思いを抱いて三成の死を受けとめたのであろうか。

私にとってはイヤな思い出なので今まで忘れていたが、
私は中学3年のとき、誤解が原因で或る男子たちに嫌われ、
その仕打ちが辛くて泣かされることも度々あった。
(私の推測ではあるが)彼らはあるとき自分たちの掃除の
不行き届きを先生に注意されでもしたのだろうか、
「アイツ(=私)が先生に告げ口をしたせいだ」と勘違いし
以来私を恨むようになったのである
(当時、私は班長として班員である彼らの掃除ぶりを
チェックせねばならなかった)。
私は「まぁ掃除は完璧とは思えないけど、あの人たちだって
全く掃除をしてないわけではないんだから」と思い
チェック表の評価の欄には先生の目に止まるような
記述は載せなかったし口でも特に何も言わなかったのだが
(内心、自分は良くないことをしていると思いつつ)。
どうしてなのかこの誤解は後で解けたようだったが
(少なくとも私は誤解を解く努力も「するだけ逆効果だ」と
初めから諦めていた)、誤解が解けて
彼らが私にしてきた仕打ちを自ら悔い改めたとて
ちっとも嬉しいとは思えなかった。
誤解が解けたのがもはや「辛いけどもうどうしようもない」
という諦めの境地に至ってからのことだったからだとか、
彼らとはまた別の理由で私を露骨に嫌っていた人間が
まだまだ大勢いたためだという理由も無いではないが、
なにより、誤解されている期間にこうむった被害の爪あとは
それがどんなものであれ容易に消すことはできないから
である。

同様に、「天地人」の三成が誤解されている期間に
こうむった現実的・内面的被害の爪あとも
決して死ぬまで消えることはなかったであろうから、
福島正則らが誤解に気づいて自らの態度を悔い改めてみても
三成は決して嬉しいなどとは思えないであろう。
それでも「豊臣家を思う気持ちが同じなら、かまわん。
正則どのの酒を飲んでみよう」と言えるのは、
自分とは異質な考えの持ち主を一切よせつけなかった
若かりし頃よりも器が大きくなった証拠の一つと考えるべき
なのだろうか(「いつか兼続のように自分も踊ってみたい」
という言葉もまた一つの証拠かもしれないが)。

それでも三成は敗者なので、家康が三成を負かして
なおも三成におのれの正義を訴える場を与えてくれるとは
思えない。さらに言えば、三成に対する福島殿の誤解が
あれほど早い段階で解けるとも思えない
(家康への不信感だけでは、三成に対する誤解の解消には
必ずしもつながらないからである)。
そして、先月の衆議院選挙の際のコメンテーターではないが
「勝利に偶然はあるが、敗北に偶然は無い」。
(つまりドラマの三成が言うように「時の運」で
負けたとは思えない)。それも、敗因は決して
ドラマの三成の性格だけではないと思われる。
やはり「熱中時間」とか漫画『風雲児たち』でも
指摘していたように、120万石を誇る毛利一族の影響力を
充分に活かしきれなかったところや、
秀頼君を大坂から西軍の陣まで連れてきて
「錦の御旗」にすることができなかったところに原因があると
考えるべきだろう。

小早川秀秋と兼続のことは話題にする気にもなれないので、
今回はこのへんで記事を終わらせたい。


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ラテン音楽な今月

2009-09-26 23:24:20 | 日常
世界の音楽の情報番組「music tide」で、
ラテンアメリカが題材になる時期は終わった。
来週からはアイルランドの音楽が始まるようである。
個人的には、これからはスペイン、ポルトガル、
キューバ、アルゼンチン、ペルー、それとイタリアと
ギリシャ、トルコなども題材にしてほしいと思う。
そして、できたら曲名とアーティスト名は
演奏中ずっと表示しててもらいたいと思う――
(それも日本語だけでなく原語も併記して)
なぜなら、メモしてる途中で表示が消えてしまったり
たとえメモしきれても日本語しか記録できなかったりすると
後日のネット検索に支障をきたすからである。

あぁ、それにしても今月は
ラテン音楽を題材にした番組が多くて楽しかったなぁ
今月19日に話題にした「世界は歌う 世界は踊る」て
番組じゃあ、アルゼンチンタンゴだけでなく
キューバのサルサも題材になっていたし。


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江戸城には天守が無い

2009-09-24 22:41:52 | 歴史系
今日は、「貴殿に相応しい城診断」で遊んだ。
結果はなんと、「江戸城」。
江戸時代では最も権威のある城だったので一瞬うれしくなったが、
漫画『風雲児たち』(第4巻)を思い出してみれば
江戸城は近代城郭の華といえる天守閣が
1657年以降存在してなかったことに気づかされる。
というのは、江戸城の天守閣は
その年に起こった「明暦の大火」で焼失して以来、
再建されていないからである(現在も復元されていない)。

再建されなかった事情も思い出すために
再び『風雲児たち』第4巻をひも解いてみれば、なんでも、
江戸城天守閣よりも民衆の生活を優先すべしと考えた
保科正之(当時、甥の4代将軍・家綱を補佐していた)の裁量で
江戸城天守閣は再建されなかったのだとか
(江戸城天守閣を再建しなければ、
そのぶんお金を多く民衆にまわすことができる)。
ウィキペディアによると、そもそも天守というものは
江戸時代になるとその機能が単なる物置と化していたらしいし、
やはり建てる必要がないという理由で
創建や再建が見送られるケースもあったりしたらしいのだが。
まぁこうした経費節減という意味においては、
「ぜんまいざむらい」が暮らす「からくり大江戸」の
見栄城天守閣がハリボテになっているというのも
あながち突飛な話ではないように思えてくるのである(笑)

漫画の保科正之は、「(目下の人間や負け組たちの)怨念を
力(=近代の天守閣が象徴するもの)で押さえつけようとする時代を
終わらせるのが自分の使命なのだ」と言っていた。
(このような考え方は、実際のところ誰からどのようにして発生し
そしてどういうプロセスで浸透していったのか、
そこまでは分からないのであるが、ともかくそれ以前の、
初代の家康から3代将軍・家光までの時代では
武力を背景にして行われる専制的な「武断政治」が行われたらしい)
う~ん、江戸城に天守閣が無くても、まぁいいか^^;


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二つの裏切り

2009-09-21 10:47:34 | 思索系
大河ドラマ「天地人」。
今日の題材は、日本の戦国史のハイライト関ヶ原の戦いと
上杉家・最上家・伊達家が中心となって繰り広げた
いわば「北の関ヶ原」であった。
関ヶ原の戦いといえば、NHKはこのタイミングに
BSでも「熱中夜話」という番組で関ヶ原の戦いを
2回にわたって題材にしていた。その番組の内容はというと
まぁ「しょうゆ味がうまいかトンコツ味がうまいか」
などという話とあまり次元が変わらないと思ったけど、
関ヶ原の戦いについて熱く語っていた関ヶ原好きの一般人は
みんな舌をまくほど歴史に詳しかったし、
考え方の視野も広がるので観ていてとても勉強になった。

その「熱中夜話」の後編でもナレーションされていたように
関ヶ原の戦いの舞台裏には実に様々な人間模様があって、
私もまさにそこに惹かれるのである。
「天地人」の関ヶ原の戦いでは主に石田三成と直江兼続の
友情にスポットが当てられていたのだが、
もちろんあの戦いは彼らのためだけにあるのではない。
例えば、人望がないと自覚している三成のもとに
なぜ多くの大将が馳せ参じ、そして見捨てていったのか
そのへんの西軍の各将の心理描写は描いてほしいと思う。
また、友(三成)の敗北を悟りながら死ねばならない
大谷吉継の、三成に対する思いの強さというのは
果たしてドラマで描かれている程度でしかなかったのか
(つまり大谷吉継の最期ももう少し丁寧に描いてほしかった)。
そして、ドラマの小早川秀秋はなぜ「家康に弓引くことは
できない」というようなことを言ったのか
(「家康寄りの態度をとっていた北政所さまのほうに
彼の心がむいていたからだ」という説なら
私も聞いたことがあるが、この真相をうかがわせるような
描写も、このドラマには無いのである)。

関ヶ原の戦い当日における各武将のなかで、
その言動が心理学的に最も興味深い武将は
小早川秀秋なのではないかと思う。
ドラマの小早川秀秋は「西軍に味方したら
そなたを関白にしよう」という三成の言葉に警戒し
(つまり、ドラマの小早川秀秋はこのとき
「でもどうせ関白の位をもらったって、
秀頼さまが成人したら僕は関白の座を剥奪されて
用済みになって、秀次殿と同じ末路をたどるのではないか」
というふうに警戒し)、三成を信じられなくなったようだが、
小早川秀秋にこうした心理が働いたのではないかと
考えた人は、実際に「熱中夜話」の番組でも存在していた。

そもそも小早川秀秋という人は
関ヶ原の戦い前から裏切りを疑われていたらしいので
少なくとも史実の三成がドラマの三成ほど小早川秀秋を
信用していたとは思えないし、したがって史実の三成が
小早川秀秋に「西軍の要」としての役割を期待していたとも
思えないが、ただそれでも西軍諸将が決戦当日に
小早川秀秋に裏切られ、それによって戦術的ダメージを
こうむり、精神的ショックも多少なりとも受けたであろう
ことに変わりはない。
この時代の武将が生き残るために裏切り行為をすること
それ自体はたしかに悪いことではないけれど、
小早川秀秋の場合は態度を一貫性のあるものに統一する時期が
あまりに遅すぎたところに問題があったのではなかろうか。
そしてやはりその遅すぎる統一のタイミングは
当時の武士のみならず現代人にも「優柔不断」と見なされて
仕方のないことだった気がするのである。
よしんば小早川秀秋が若かった分だけ
割り引いて考えてあげたいと思うことはあっても、
少なくとも自分の生き死にがかかっていた当時の武士は
とてもそんな気になどなれなかったであろう・・・!

たとえ戦い前の態度がどうであっても裏切りは裏切りである
として小早川秀秋の裏切りを強調するのであれば、
「2人で家康を挟み撃ちにしよう」と約束しておきながら
その絶好の機会を逃し、結局三成の手助けを一切しなかった
兼続の動きを、なぜ誰も(三成さえも)非難しないのだろう
(「三成は兼続と示し合わせてなかった」とする説を
ドラマが採用していれば、話はまた別なのだが)。
もし小早川秀秋に対してドラマが展開した論理を兼続にも
当てはめるとすれば、たとえそのときの兼続に
どんな事情があろうとも、またたとえ上杉家がみんなして
「後で三成の応援に行こう」と考えていたのだとしても、
約束破りは約束破りなのだという話になってくるはずである。
これはドラマでは隠されていた事実の一つであるが、
家康が西に引き返したことによって上杉包囲網が解かれ
伊達政宗も家康の西上を機に一旦動きを止めたことも思えば、
上杉家が三成を助けることができなかったという結果も
小早川秀秋が土壇場で三成を裏切ったのと同じくらい
実に気まずいことのように思えてくるのである。


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恋する女はキレイさ

2009-09-19 10:50:36 | 美術・音楽系
それが好きな人は観たかもしれないが、
今週の月曜日の深夜、NHKhiビジョンの
「世界は歌う 世界は踊る」という番組で
アルゼンチン・タンゴを取りあげていた。
月曜の番組について今さら感想を記してもしょうがない
かもしれないと思い、ためらっていたが、
なぜか未だに心に残っているので
一言吐きだしておこうと思う。

なにが心に残っているって、
番組で踊っていた女性ダンサーたちのキレイだったこと・・・!
(決してそれだけではないけれど、これが最も印象的だった)
いや、「キレイ」では言語表現が乏しいので言い換えれば、
容姿に関わらず醸しだされる艶にあふれ
パートナーの男性に深く抱かれてウットリしていたのが
まさに恋する女性そのものに観えたのである
(彼女らが恋人同士でないのを疑いたくなる瞬間すらある)。
ドキュメンタリーを観て、これほど無心に感動できたのは
一体何年ぶりなのだろう。
あの番組をまさに観ていたときはかなり眠かったし
「プロの踊りのキレのよさに目が覚める」としか
感じなかったのだが、朝起きたあとに思い返してみると
ダンサーの表現する情感と、それにつられて伴うドキドキ感が
放送直後以上に鮮やかに蘇ってくるのである。
それは、自分が日本人に生まれたことへの
数少ない後悔の機会でもあった。
意識なんかしなくても日常的にタンゴにふれあうことができる
環境を持っている庶民すらも、うらやましくなったのだ。

必ずしもああいうかたちでなくていいから
自分の感情表現がうまくなれたらなぁ・・・


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名君・田沼意次

2009-09-16 09:02:53 | 『風雲児たち』
『風雲児たち』第12巻。この巻の主な話題は、
老中・田沼意次の失脚と松平定信の老中首座就任である。
以前もココで何度か指摘したが、義務教育時代には
賄賂漬けの悪徳政治家として教わった人が多いであろう
田沼意次は最近では日本における重商主義の先覚者として
再評価されてきている。『風雲児たち』のなかでも
第一級のヒーローとして取りあげられている彼を、
ここにきてようやく話題にすることができるのだ。
現在の中学・高校が実際生徒に対して田沼意次を
どのように教えているのか、そこまでは分からないのだが
子供向けの『学習まんが 少年少女日本の歴史』
(第14巻 幕府の改革 1998年 小学館)のなかでは
彼の賄賂疑惑はちゃんと否定され、
たしか、彼の政敵による噂の可能性を示唆していたと思う。
田沼意次がなぜつい最近まで悪徳政治家として
語られるようになってしまったのか――
それについては次回に記す予定である。

田沼意次は第6巻あたりから活躍していたのだが、
その時彼はまず身分制度の厳しい江戸時代きっての
シンデレラおやじとして紹介されている。
これは足軽の子であった彼が実力で正規の老中の座まで
のぼりつめたためであるが、
時代とかそれを反映した幕府の権力構造が違うとはいえ、
家格の低い人間が正規の老中の座を射止めるというのは
彼以前のシンデレラおやじ柳沢吉保や間部詮房らも
成しえなかった快挙だった。
しかしながら、そんなシンデレラにありがちなのが
周囲の妬みにまつわる苦労である。
田沼意次の場合は譜代門閥層の妬みに苦労し、
頼りになる味方といえば公方さま(10代将軍・徳川家治)程度
といった状況のなかで、
譜代門閥層との権力闘争も繰り広げねばならなかった。

意次が側用人だけでなく老中の座も手中に収め
実質的に日本の政治を取り仕切るようになると、
彼をとりまく環境はますます悪くなっていく。
まず、彼の政策は当時の武士から見れば型破りなものが多く
(例えば、農業よりも商工業を発展させて民衆を豊かに
しようという重商主義的な発想のみならず、ロシアとの貿易、
蘭学の保護、士農工商の別にとらわれない
実力主義に基づく人材登用も該当すると思われる)
またもはや型破りな政策でもしなければ改善できないほどの
社会情勢だったので、それを理解せずに
彼のやり方に反感を覚えた武士も多かったし、
人間の手には負えないような大きな天災
(印旛沼干拓工事の失敗、明和の大火、浅間山の大噴火、
天明の飢饉)やその二次被害も
彼の政治的な環境を悪くしていった。

自分の政策が型破りで抵抗にあうことも必至だろう
ということぐらい意次とて容易に想像がついたはずだが、
それでも彼は改革を推し進めていった。
まだ35歳だった後継者・意知の暗殺に泣かされ、
意知暗殺の影に反田沼派の存在がちらつこうとも――
意次は改革の手を緩めたりはしなかったようである。
(反田沼派による意次おろしのクーデターが始まるのは
意知の死から2年あまり後のことであるが、
意次は少なくとも意知の死の2ヵ月後には
調査団の蝦夷地派遣計画に着手しており、
またその5ヶ月後には派遣を実行に移すのみという
段階にまで持ってきていることが
『田沼意次の時代』でも確認することができる。
実行に移すのみという段階をむかえた時期とは、
蝦夷地調査が可能になる季節が到来する
実に5ヶ月も前のことであった。)
そしてそんななかで、意次は幕府の財政を改善させ、
景気を上向きにさせるというかたちで
結果もある程度出していったのである・・・!
これは、よほどの強い意志と行動力と先見の明がなければ
到底真似できないことではないのだろうか――
こう思うと、意次が『風雲児たち』のなかで
行動力のある逆境に強い名君として描かれる理由が
分かってくる。そして、そんな第一級の人間の周囲には
自然と第一級の人間が集まってくる
(あるいは周囲の人間が第一級に変わっていく)
というのが人間社会の法則らしいのだが――
そうして意次のもとに集まった第一級の人たちも、
意次の失脚を機に反田沼派によって一掃されてしまった。

政敵が多く、いつ寿命がきてもおかしくなかった意次は、
自分の志を唯一継いでくれそうな意知にどんどん高位を与え、
意知を失う前年には意知に若年寄の地位を与えていた。
そしてその果てに狂刃に斃れた意知を、意次は
無理に開いて冷たい風に散らされた早咲きの桜になぞらえた。
しかし、ハーバード大学のジョン・ホイットニー・ホールが
意次のことを「近代日本の先駆者」と評していたのを思えば、
結果的には意次もまた無理に開いて冷たい風に散らされた
早咲きの桜だったと言えそうである。


――「桜よ急いで咲いてはならぬ!!
   無理に開けば冷たい風に散らされてしまうぞ!!」
(第10巻の、田沼意次のセリフ)


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目的と手段の混同

2009-09-14 11:02:49 | 思索系
大河ドラマ「天地人」。
今回は、いわゆる「直江状」の送付と関ヶ原前夜であった。
前回まで一度たりとも顔を出さなかった大谷吉継殿が
この期におよんでひょっこり現われて
石田三成と親しげに接していたので、何とも驚いた。
この「天地人」では兼続が三成にその態度の横柄さを
諫言していたが、一般には兼続ではなくて
大谷吉継殿が諫言していたのだと知られている。
もしこの話を信じてみれば、吉継どのこそは
三成と仲が良い間柄だったのだと解釈することができる。
そんな吉継どのが自論をひっこめて
三成の味方として家康と戦う決意をした動機こそ
友情のためだったのではないかと信じる人も多いようだが、
ドラマではそこまで三成と吉継どのの友情を描くこともなく
早々に話題が切り替わってしまった。

半年以上前のことだが、私は恋人と別れた。
自分の気持ちを理解してもらえない、そして
うまく理解してもらう術が分からない苛立ちから、
当時はかなりヒステリックに別れたものだった。
今になって後悔するのは、そのヒステリーを
元カレに対してのみぶちまければよかったものを
ネットを通じて不特定多数の人間にまでぶちまけてしまった
ことである。私にはこんな過去があるので
兼続のことを言えた義理ではないのだが、
上杉の潔白と家康の不正を大胆に訴えた「直江状」を
お船とか三成から伊達政宗くんに至るまで
ありとあらゆる人間にバラまくという行為は、
どこかあの頃の私のヒステリーに似ているようで
何だかドラマを観ていて恥ずかしくなってしまった。
私のような社会性のない小娘ならまだしも、
兼続ほどの年齢とキャリアを積み重ねてきた武士が、
果たしてそんなみっともないことをするのだろうか??
「直江状」については兼続が書いたことそれ自体を
疑問視する考えもあるようだが、
「直江状」の信憑性を信じてドラマで描くにしても、
やはり「直江状」の送り先は
家康一人に留めておくほうが現実的だと思うし、
はっきり言ってそのように描かないと
実在した兼続に対して失礼ではないだろうか。

今回、現実的ではないなと思った部分は他にもある。
時は今後の日本の行く末が決する大戦の前夜のこと、
三成も家康も、全国の諸将を味方につけるために
水面下で激しい駆け引きをしたり
(例えば「自分に味方してくれたら損はさせない」という
旨の手紙を直接的あるいは間接的に送ってみたり)
特に家康の場合はたとえどんなに汚い手を使ってでも
勝とうとしたであろうと想像できる。これはもしかすると
今回の放送に始まったことではないかもしれないが、
この「天地人」ではこのようなドロドロとした場面が
可能な限り意図的に隠されているように思える。
今回の家康は三成挙兵後になって策を練っていたようだが
実際の家康は三成の挙兵すらも自分の思惑どおりだったり
小山評定前の福島正則への根回しも
黒田長政を通じて事前にできていたりするわけで、
もっと先の展開を読んだ周到な準備をしていた
はずなのである。戦国時代の三傑の一人に名を連ねた
家康のこのような凄味は、なぜか今年は描かれない。
また、上杉家ほどの大所帯が混乱の時代をむかえた
にもかかわらず「家康に従うべきだ」と論じるような
家臣が一人たりとも登場してこなかったことや、
三成の人質作戦の不完全さや細川ガラシャの自害の話が
出てこないこと、そして兼続の妄想のシーン
(袋のタヌキになった家康が兼続に惨敗するシーン)に
長い時間が割かれたことが影響して、
「リアリティがない」という印象を抱いてしまった。

私もたぶんしたことのある過ちの一つであろうが、
人間は往々にして手段と目的を混同してしまう。
例えばギリシャ神話のイカロスという少年は、
迷宮脱出の手段に過ぎなかったはずの「空を飛ぶ」という
行為を、楽しさのあまり目的と混同してしまった。
「義」を貫くという行為も、景勝にとっては
「清き国」をつくるための手段に過ぎなかったはずなのだが、
今回の放送での景勝は「義」を貫くという行為に
尊さを感じるあまり、「義」を貫くことそのものを
目的にしてしまったような気がするのである。
まあ、家康の背後を襲って挟み撃ちにするやり方を
景勝が許さなかった理由は他にも考えられるのであるが
(つまり、前々回の放送で景勝が兼続に対して
「あまり三成に深く関わるな」と言った事から分かるように
景勝と兼続との間に三成への温度差があったことが
もう一つの理由として考えられる)。
このように、景勝たちのみならず謙信公も
「清き国」をつくることに困難を感じた理由の一つとしては、
手段と目的の混同という問題もあったのではなかろうか。


追記:
「直江状」をありとあらゆる武将にバラまく行為は、
むしろ家康との決戦にむけた
情報戦略の一環だったのかもしれない。
現代に置き換えれば、選挙を前にひかえた政治家が
互いにみんなの前で「自分こそが当選にふさわしい」と
主張するのと同じ行為だったと考えられる。


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世界の音楽の情報番組

2009-09-11 09:55:19 | 美術・音楽系
BS-TBSでは、毎週土曜の22:30から30分、
music tide」という音楽情報番組を放送している。
毎回、ある一つの国で人気を博したアーティストたちと
彼らの歌を紹介する番組である。
テーマになる国は英語圏に限ることなく、
非常に多岐にわたるのが特徴である。

私は時々ここでスペインや中南米の音楽を紹介してきたが、
その音楽の情報を集めるのに困難を感じるときが多い。
「お金を払った後で曲を実際に聴いてみたものの
気に入らなかった」という事態になるのはくやしいし、
ラテン音楽に関する手持ちの書籍は情報量が多すぎるので
youtube内をサーフィンする際に
その本を手がかりにしようとしまいと
結局お気に入りを見つけるには時間がかかるからである
(要するに、気に入った曲だけを効率よく集めようと思うと
アーティストと曲名さえ分かればいいという
単純な話にはならなくなるからである)。
そのため、私にとってはこういう情報番組がありがたく思う。

もちろん毎週ラテン系の音楽が紹介されるわけではなく、
例えば過去にはイギリスやフランスの音楽が紹介され、
今後はアイルランドの音楽も紹介されるようである。
しかし先週の土曜と明日はブラジルの音楽、
来週と再来週はメキシコの音楽が紹介されるので
メモの用意をして番組を見たいと思う次第である。


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私を魅了したお城たち

2009-09-10 18:00:43 | 思索系
昨日、「歴史秘話ヒストリア」という番組で
姫路城が取り上げられていた。
番組を観てみたものの、
思えば城そのものに関する知識はほとんどなく
たまに観光で城を見に行くときも
いつも漫然と景観を眺めて一喜一憂するだけなので
(しかも世界遺産の姫路城にはまだ足を運んだことがない)、
この機会に今まで足を運んだ城たちのことを
思い返してみたい。
ちなみに、番組でも言及していたように
姫路城は今年の秋から改修工事が行われるようである。
姫路城の情報サイトによれば
2010年の3月までは外観や大天守がそのままになっていて
通常どおり見学できるそうなので、
まだ足を運んだことがないのであれば
それまでに一度見に行ってみるべきところだろう。
姫路城の情報サイトによる関連記事

今まで実際に敷地内に足を運んだお城のうち、
「日本100名城」に選ばれているものは
川越城(埼玉県)、小田原城(神奈川県)、掛川城(静岡県)、
丸岡城、一乗谷城(福井県)、二条城(京都府)、
大坂城(大阪府)、平戸城(長崎県)で、
さらにこれらのなかで天守(支配者の権威を見せつける
意図が感じられるもの)も建っているのは
小田原城、掛川城、丸岡城、大坂城、平戸城であったと
記憶している。この5つの城の記憶をたどっていくと、、、

小田原城・大坂城は、規模は大きいと感じたが
なにぶん私自身が幼かったのでやや印象がうすい。

丸岡城は天守が現存最古(安土城と同時期)で、
たまたま足を運んだ時期には雪が残っていて
風情があったので一見の価値があると思った
(雪が積もる季節に行ったら苦労するかもしれないが)。
長い時を刻み歴史をつみ重ねてきた建物だけが醸しだせる
底の深さもさることながら
丸岡城の天守は全体的に黒っぽいので、福井の雪の白や
空の白と良いコントラストを成していたのである。

平戸城は今まで行ったお城のなかで最も印象に残っている。
もっとも、天守そのもののインパクトだけでなく
海とか地形とか、他の歴史的建造物とかキリシタン文化の
インパクトもたぶん影響しているだろう。
天守のたたずまいをどう例えたらいいのか分からないので
生意気で分かったような表現を使ってしまうが、その天守は
海との格闘に明け暮れる人たち特有の雄々しさ
(陰陽でいえば「陽」のイメージだが、そこには
「自然を自分の思い通りにしてみせる」といった
傲慢さも無ければ「自然に苦しめられることはあっても
何とかなるだろう」といった楽天性も無い――)
に似た雰囲気をたたえているのである。



ちなみに、上の写真は「ジャガタラ文」が展示されている
平戸観光資料館から見た平戸城下である。
(2008年10月27日に撮影)
ここのお殿さまの一人、平戸藩第9代藩主・松浦静山が
『甲子夜話』という随筆を残していて、
そこに載っていた3つの川柳が
戦国時代の三傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)の性格を
鳴かないホトトギスへの対応の仕方で表現した川柳の
原型になったらしいのである
(松浦静山がこれらの川柳を作ったわけではない)。

最後に、地元の川越城についてふれておきたい。
ここの歴代藩主のなかには
松平信綱(島原の乱を鎮圧した功績で川越藩主になる)や
柳沢吉保(たまに、忠臣蔵や「水戸黄門」などで悪役として
登場する)がいたのだが、城そのものは大したことはなく
いま建っている建造物も移築されたものを除けば
本丸御殿の一部分だけである。
せめて富士見櫓だけでも復元されれば
多少見ごたえが出てくると思うのだが、
写真や江戸時代までの設計図などの情報が足りないらしく
復元はなかなか難しいようである。
ちなみにこの松平信綱という人は徳川家光の政治を
補佐した一人なので、徳川家光の生母が主人公の
再来年の大河ドラマには登場する可能性も出てくる。


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