NHKでは今年新たに幕末の会津を描いた
大河ドラマが始まっているが、CSの
「チャンネル銀河」では西郷隆盛(吉之助)と
大久保利通(正助)を描いた1990年の大河ドラマ
「翔ぶが如く」が再放送されていて、
私はこちらも並行して観ている。CSの再放送を
観るのは初めてではないが、以前の他局の
再放送ではあまり頻繁に観られなかったので、
このたびはなるべく欠かさず観るように
している次第である。そしてこのたび、
「翔ぶが如く」の内容が薩英戦争になる前に、
一度感想を記しておきたい。
薩英戦争以前の時代に活躍した人物に、
島津斉彬という薩摩藩主がいた。
『徳川慶喜と賢侯の時代』によれば、彼は
「開明君主の先駆け」で、「当時の日本で
第一級の国際的視野をもっていた」という。
そんな彼は、日本と世界(特に西洋)を
比べたうえで自国の遅れを自覚すると、
欧米列強の外圧に対抗するためにまず日本の
国力充実を急務と考え、後の公武合体運動の
見取り図というべき幕政改革(それは挙国
一致をめざすもの)を意図した。
また一方、「薩摩領内では西洋文明による
近代化を計画し、科学技術を応用して
多方面な産業をおこし」、また「身分に
こだわらず人材の登用をこころがけ、
多数の後継者をつくりあげた」という。
――以上が、『徳川慶喜と賢侯の時代』に
よる斉彬の簡潔な紹介内容である。
私などは斉彬没後の動乱の時代のドラマに
ばかり夢中になって勉強が足りてない
せいなのか、斉彬の偉大さがなかなかピンと
こないのであるが、後輩の松平春嶽をして
「大名第一番の御方であり、自分はもちろんの
こと、水戸烈侯、山内容堂、鍋島直正公
なども及ばない」と言わしめている点
(ウィキペディアの斉彬の項による)、
また松平春嶽や山内容堂、徳川斉昭などと
違ってブレーンを持たず、自らの判断と
行動によって「賢君」たりえた点を考慮する
だけでも、斉彬が他に例示した殿さまより
優れていたことが何となく察せられる
ところではある(斉彬や、他の「賢君」の
こともよく知れば、「何となく」ではなく
もっと具体的に斉彬の偉大さが分かるように
なるかもしれないが)。
ただし、そんなブレーン要らずの斉彬も、
少年期には曽祖父の島津重豪を自らの師と
していた。『徳川慶喜と賢侯の時代』に
よると、西洋文明に対する興味が強かった
重豪は、藩財政を破綻させるほどに西洋の
美術品や装飾品を買い集め、オランダ語や
中国語を学び、さらには学校や研究施設を
次々建てる一方、藩士達の身なりを都会風に
変えさせ、芝居や遊郭などの遊興をさかんに
した。また、自分の娘の亭主が11代将軍・
家斉になった関係で、ある程度の中央政界
進出を果たした。だが、同書によると、
斉彬はそんな曽祖父・重豪の影響を受け、
性格も受け継ぎつつも、興味の対象や性格に
ついては微妙に重豪と異なる部分もあった
という。例えば、重豪の興味の対象が
美術品や装飾品それ自体であったのに対し、
斉彬の興味の対象は主に実用品で、しかも
その製造過程なり科学の基礎的原理に大きな
興味を示してそれを習得しようとした。
また、重豪が自分の趣味を強引なやり方で
藩政に持ち込んだのに対し、斉彬は「慎重」
だったという。具体的にどんなところを
指して「慎重」と述べているのか、未だに
量りかねてはいるが、例えば人事のやり方を
指して「慎重」と述べているのだろうか
(ドラマでもそうだったように、斉彬は抵抗
勢力だった人たちを留任させる代わりに
自分への協力を約束させ、新人も少し起用し、
西郷吉之助のような下級武士を抜擢する際には
門閥層の反感を招かぬよう、西郷の起用を
わざわざ江戸でおこない、仕事内容も藩外で
秘密裏におこなうようなものにしていた)。
さらに、重豪が薩摩と江戸をくらべ、薩摩の
「遅れ」をなくそうとしていたのに対し、
斉彬は先述のように日本と世界(特に西洋)を
比べたうえで自国の遅れをなくそうとした。
なお、以上のような斉彬と西郷の関係性に
ついて、『徳川慶喜と賢侯の時代』の(斉彬の
記事の)投稿者は面白い見解を述べている。
すなわち、斉彬と西郷吉之助には感情的には
かたい信頼の絆ができていたものの、
思想や性格については、西郷吉之助には
「斉彬の影響を絶対うけつけない部分が
あったようだ」、というのである。
その両者の具体的な思想的・性格的違いに
ついては、まず、西郷吉之助は藤田東湖の
水戸学的な攘夷思想の影響も受けたが、
そうした攘夷思想は島津斉彬の本意ではない。
また、西郷が生涯をつうじて「薩摩」に
執着し続けたという点も、斉彬の感化からは
考えにくいものだったようである。
斉彬の志は西洋科学の基礎理論を応用して
国内産業を盛んにするところにあったので、
斉彬の思想を真に忠実に受け継いだのは
むしろ、藩内で洋学を研究して科学産業を
起こすことに尽力し、西洋文明のものすごさを
実例で知るがゆえに斉彬没後も攘夷思想に
染まらなかった五代友厚や寺島宗則あたりでは
ないかということである。なお、吉之助の
人脈につながっている下級若手武士――例えば
大久保利通、西郷慎吾(従道)、大山格之助
(綱良)、有村俊斎(海江田信義)、大山弥助(巌)
などは必ずしも斉彬の方針をそのまま引き
継いだとは言えず、彼らの思想のなかには
吉之助を通じて、さらには大久保利通により、
(斉彬の思想とは)かなり異質なものが
入りこんでいたという。彼らには攘夷思想も
浸透していたが、これも斉彬の本意でないのは
先述のとおりである。
ドラマでの西郷吉之助は、藤田東湖の攘夷
思想に感化され、斉彬の「蘭癖」思想に異議を
唱えたことがある。このときの吉之助は斉彬に
理路整然と(しかし強い口調で)攘夷思想の
無謀を諭され、ただただ涙を流しながら
「はい!!」と受け答えるばかりであって、
諭された後の吉之助が東湖の攘夷思想について
どう考えていたのかを示すシーンは無かった
ように思える。しかしながら、一方で例えば
島津久光が兵を率いて上洛するのに乗じて
挙兵計画をたてた有馬新七や西郷慎吾、
大山弥助、あるいは生麦事件直後に英国人の
屋敷を襲撃しようとした有村俊斎などは、
少なくとも斉彬の思想を忠実に継いでいる訳
ではないことが私の素人目にも明らかである。
同時代人からも、また現代の概説書著者からも
高い評価を得ている島津斉彬であったが、
そんな彼も1858年7月に事業半ばで急死して
しまう。『【決定版】図説・薩摩の群像』
(学研 2008)によると、侍医は原因をコレラ
であるとしたが、長崎養生所のオランダ人医師
ポンペなどは毒殺を疑っていたという。
いずれにしてもその後、やはり斉彬の教育を
受けていた斉彬の実弟・久光が、斉彬没後の
薩摩藩を統率する者として斉彬の遺志を受け
継ぐことになった。ところが、『徳川慶喜と
賢侯の時代』によると、久光は斉彬と違って
「新たな政局担当の設計を」つくる独創性に
欠け、「また自分の意志に反する状況に、
歯をくいしばってもいったん妥協するという
寛容さを欠いた」という。ドラマでは、
久光が兵を率いて上洛する計画をたてた際、
奄美帰りの吉之助に上洛の準備の不足を
指摘され、またその以前にも全く別の家臣に
不足を指摘されたのであるが、久光は
そのつど激昂し、その機嫌を損ねていた。
斉彬が、吉之助の「村で夜逃げが多いのは
役人どもが腐っているからだ」というキツい
訴えにも真摯に対応し、その後も吉之助を
かわいがったのとは対照的であった。
しかしながら、同書では久光の人生について
こうも述べている。「偉大な前任者のあとを
つぐ二代目は、つねにつらい立場にたたされる。
前任者の事業をのりこえることで、劣等感を
解消しようとする。そして無理な背のびをし、
つまずくことになりがちである」――と。
前任の斉彬は、井伊直弼に対する抗議の意味で
兵を連れての上洛を計画し、その計画途中で
亡くなった。この上洛計画を実現させ、
成功に導くことは、後任の久光にとって
偉大な前任者・斉彬を乗り越える事でもあった。
「このワシでは、上洛に不足と申すかッ!!」
――という、ドラマの久光の激昂には、
斉彬に対する久光のコンプレックスも見える
ということだろう。そんな久光も、1862年、
薩摩兵を率いて中央政界に進出を果たし、
かつて斉彬の同志だった大名たちを糾合し
雄藩連合・公武合体による政治改革も
実行をとげた。ただ、このドラマは西郷
吉之助と大久保利通が主人公であるだけに、
準備不足のまま上洛を強行した久光の尻拭いに
追われる利通の姿と、久光の成功のために
「同士討ち」というかたちで犠牲を払った
吉之助の仲間たちの苦悩が強調されている。
また、ドラマの久光はずいぶん吉之助を
憎んでいたが、私が想像するに、
斉彬に見出された吉之助は、久光にとって
おのれのコンプレックスを意識させられる
存在であったのかもしれない。
島津久光は、西洋嫌いながらも故・斉彬から
教わっていたので、「薩英戦争」で実際に
イギリスと戦う前から攘夷の無謀を知っていた。
また、故・斉彬の思想を必ずしも忠実に受け
継がなかった薩摩の攘夷論者たちも、さすがに
実際に戦ってみれば攘夷の無謀を悟る。
かくして、薩摩藩内で西欧、特にイギリスの
技術・文化を学ぶ気運が高まっていくとき、
攘夷思想に染まってこなかった五代友厚や
寺島宗則の出番がくるということである。
←ランキングにも参加しています
大河ドラマが始まっているが、CSの
「チャンネル銀河」では西郷隆盛(吉之助)と
大久保利通(正助)を描いた1990年の大河ドラマ
「翔ぶが如く」が再放送されていて、
私はこちらも並行して観ている。CSの再放送を
観るのは初めてではないが、以前の他局の
再放送ではあまり頻繁に観られなかったので、
このたびはなるべく欠かさず観るように
している次第である。そしてこのたび、
「翔ぶが如く」の内容が薩英戦争になる前に、
一度感想を記しておきたい。
薩英戦争以前の時代に活躍した人物に、
島津斉彬という薩摩藩主がいた。
『徳川慶喜と賢侯の時代』によれば、彼は
「開明君主の先駆け」で、「当時の日本で
第一級の国際的視野をもっていた」という。
そんな彼は、日本と世界(特に西洋)を
比べたうえで自国の遅れを自覚すると、
欧米列強の外圧に対抗するためにまず日本の
国力充実を急務と考え、後の公武合体運動の
見取り図というべき幕政改革(それは挙国
一致をめざすもの)を意図した。
また一方、「薩摩領内では西洋文明による
近代化を計画し、科学技術を応用して
多方面な産業をおこし」、また「身分に
こだわらず人材の登用をこころがけ、
多数の後継者をつくりあげた」という。
――以上が、『徳川慶喜と賢侯の時代』に
よる斉彬の簡潔な紹介内容である。
私などは斉彬没後の動乱の時代のドラマに
ばかり夢中になって勉強が足りてない
せいなのか、斉彬の偉大さがなかなかピンと
こないのであるが、後輩の松平春嶽をして
「大名第一番の御方であり、自分はもちろんの
こと、水戸烈侯、山内容堂、鍋島直正公
なども及ばない」と言わしめている点
(ウィキペディアの斉彬の項による)、
また松平春嶽や山内容堂、徳川斉昭などと
違ってブレーンを持たず、自らの判断と
行動によって「賢君」たりえた点を考慮する
だけでも、斉彬が他に例示した殿さまより
優れていたことが何となく察せられる
ところではある(斉彬や、他の「賢君」の
こともよく知れば、「何となく」ではなく
もっと具体的に斉彬の偉大さが分かるように
なるかもしれないが)。
ただし、そんなブレーン要らずの斉彬も、
少年期には曽祖父の島津重豪を自らの師と
していた。『徳川慶喜と賢侯の時代』に
よると、西洋文明に対する興味が強かった
重豪は、藩財政を破綻させるほどに西洋の
美術品や装飾品を買い集め、オランダ語や
中国語を学び、さらには学校や研究施設を
次々建てる一方、藩士達の身なりを都会風に
変えさせ、芝居や遊郭などの遊興をさかんに
した。また、自分の娘の亭主が11代将軍・
家斉になった関係で、ある程度の中央政界
進出を果たした。だが、同書によると、
斉彬はそんな曽祖父・重豪の影響を受け、
性格も受け継ぎつつも、興味の対象や性格に
ついては微妙に重豪と異なる部分もあった
という。例えば、重豪の興味の対象が
美術品や装飾品それ自体であったのに対し、
斉彬の興味の対象は主に実用品で、しかも
その製造過程なり科学の基礎的原理に大きな
興味を示してそれを習得しようとした。
また、重豪が自分の趣味を強引なやり方で
藩政に持ち込んだのに対し、斉彬は「慎重」
だったという。具体的にどんなところを
指して「慎重」と述べているのか、未だに
量りかねてはいるが、例えば人事のやり方を
指して「慎重」と述べているのだろうか
(ドラマでもそうだったように、斉彬は抵抗
勢力だった人たちを留任させる代わりに
自分への協力を約束させ、新人も少し起用し、
西郷吉之助のような下級武士を抜擢する際には
門閥層の反感を招かぬよう、西郷の起用を
わざわざ江戸でおこない、仕事内容も藩外で
秘密裏におこなうようなものにしていた)。
さらに、重豪が薩摩と江戸をくらべ、薩摩の
「遅れ」をなくそうとしていたのに対し、
斉彬は先述のように日本と世界(特に西洋)を
比べたうえで自国の遅れをなくそうとした。
なお、以上のような斉彬と西郷の関係性に
ついて、『徳川慶喜と賢侯の時代』の(斉彬の
記事の)投稿者は面白い見解を述べている。
すなわち、斉彬と西郷吉之助には感情的には
かたい信頼の絆ができていたものの、
思想や性格については、西郷吉之助には
「斉彬の影響を絶対うけつけない部分が
あったようだ」、というのである。
その両者の具体的な思想的・性格的違いに
ついては、まず、西郷吉之助は藤田東湖の
水戸学的な攘夷思想の影響も受けたが、
そうした攘夷思想は島津斉彬の本意ではない。
また、西郷が生涯をつうじて「薩摩」に
執着し続けたという点も、斉彬の感化からは
考えにくいものだったようである。
斉彬の志は西洋科学の基礎理論を応用して
国内産業を盛んにするところにあったので、
斉彬の思想を真に忠実に受け継いだのは
むしろ、藩内で洋学を研究して科学産業を
起こすことに尽力し、西洋文明のものすごさを
実例で知るがゆえに斉彬没後も攘夷思想に
染まらなかった五代友厚や寺島宗則あたりでは
ないかということである。なお、吉之助の
人脈につながっている下級若手武士――例えば
大久保利通、西郷慎吾(従道)、大山格之助
(綱良)、有村俊斎(海江田信義)、大山弥助(巌)
などは必ずしも斉彬の方針をそのまま引き
継いだとは言えず、彼らの思想のなかには
吉之助を通じて、さらには大久保利通により、
(斉彬の思想とは)かなり異質なものが
入りこんでいたという。彼らには攘夷思想も
浸透していたが、これも斉彬の本意でないのは
先述のとおりである。
ドラマでの西郷吉之助は、藤田東湖の攘夷
思想に感化され、斉彬の「蘭癖」思想に異議を
唱えたことがある。このときの吉之助は斉彬に
理路整然と(しかし強い口調で)攘夷思想の
無謀を諭され、ただただ涙を流しながら
「はい!!」と受け答えるばかりであって、
諭された後の吉之助が東湖の攘夷思想について
どう考えていたのかを示すシーンは無かった
ように思える。しかしながら、一方で例えば
島津久光が兵を率いて上洛するのに乗じて
挙兵計画をたてた有馬新七や西郷慎吾、
大山弥助、あるいは生麦事件直後に英国人の
屋敷を襲撃しようとした有村俊斎などは、
少なくとも斉彬の思想を忠実に継いでいる訳
ではないことが私の素人目にも明らかである。
同時代人からも、また現代の概説書著者からも
高い評価を得ている島津斉彬であったが、
そんな彼も1858年7月に事業半ばで急死して
しまう。『【決定版】図説・薩摩の群像』
(学研 2008)によると、侍医は原因をコレラ
であるとしたが、長崎養生所のオランダ人医師
ポンペなどは毒殺を疑っていたという。
いずれにしてもその後、やはり斉彬の教育を
受けていた斉彬の実弟・久光が、斉彬没後の
薩摩藩を統率する者として斉彬の遺志を受け
継ぐことになった。ところが、『徳川慶喜と
賢侯の時代』によると、久光は斉彬と違って
「新たな政局担当の設計を」つくる独創性に
欠け、「また自分の意志に反する状況に、
歯をくいしばってもいったん妥協するという
寛容さを欠いた」という。ドラマでは、
久光が兵を率いて上洛する計画をたてた際、
奄美帰りの吉之助に上洛の準備の不足を
指摘され、またその以前にも全く別の家臣に
不足を指摘されたのであるが、久光は
そのつど激昂し、その機嫌を損ねていた。
斉彬が、吉之助の「村で夜逃げが多いのは
役人どもが腐っているからだ」というキツい
訴えにも真摯に対応し、その後も吉之助を
かわいがったのとは対照的であった。
しかしながら、同書では久光の人生について
こうも述べている。「偉大な前任者のあとを
つぐ二代目は、つねにつらい立場にたたされる。
前任者の事業をのりこえることで、劣等感を
解消しようとする。そして無理な背のびをし、
つまずくことになりがちである」――と。
前任の斉彬は、井伊直弼に対する抗議の意味で
兵を連れての上洛を計画し、その計画途中で
亡くなった。この上洛計画を実現させ、
成功に導くことは、後任の久光にとって
偉大な前任者・斉彬を乗り越える事でもあった。
「このワシでは、上洛に不足と申すかッ!!」
――という、ドラマの久光の激昂には、
斉彬に対する久光のコンプレックスも見える
ということだろう。そんな久光も、1862年、
薩摩兵を率いて中央政界に進出を果たし、
かつて斉彬の同志だった大名たちを糾合し
雄藩連合・公武合体による政治改革も
実行をとげた。ただ、このドラマは西郷
吉之助と大久保利通が主人公であるだけに、
準備不足のまま上洛を強行した久光の尻拭いに
追われる利通の姿と、久光の成功のために
「同士討ち」というかたちで犠牲を払った
吉之助の仲間たちの苦悩が強調されている。
また、ドラマの久光はずいぶん吉之助を
憎んでいたが、私が想像するに、
斉彬に見出された吉之助は、久光にとって
おのれのコンプレックスを意識させられる
存在であったのかもしれない。
島津久光は、西洋嫌いながらも故・斉彬から
教わっていたので、「薩英戦争」で実際に
イギリスと戦う前から攘夷の無謀を知っていた。
また、故・斉彬の思想を必ずしも忠実に受け
継がなかった薩摩の攘夷論者たちも、さすがに
実際に戦ってみれば攘夷の無謀を悟る。
かくして、薩摩藩内で西欧、特にイギリスの
技術・文化を学ぶ気運が高まっていくとき、
攘夷思想に染まってこなかった五代友厚や
寺島宗則の出番がくるということである。
←ランキングにも参加しています