黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

島津斉彬とその教え子たち

2013-01-31 23:23:06 | 思索系
NHKでは今年新たに幕末の会津を描いた
大河ドラマが始まっているが、CSの
「チャンネル銀河」では西郷隆盛(吉之助)と
大久保利通(正助)を描いた1990年の大河ドラマ
「翔ぶが如く」が再放送されていて、
私はこちらも並行して観ている。CSの再放送を
観るのは初めてではないが、以前の他局の
再放送ではあまり頻繁に観られなかったので、
このたびはなるべく欠かさず観るように
している次第である。そしてこのたび、
「翔ぶが如く」の内容が薩英戦争になる前に、
一度感想を記しておきたい。

薩英戦争以前の時代に活躍した人物に、
島津斉彬という薩摩藩主がいた。
『徳川慶喜と賢侯の時代』によれば、彼は
「開明君主の先駆け」で、「当時の日本で
第一級の国際的視野をもっていた」という。
そんな彼は、日本と世界(特に西洋)を
比べたうえで自国の遅れを自覚すると、
欧米列強の外圧に対抗するためにまず日本の
国力充実を急務と考え、後の公武合体運動の
見取り図というべき幕政改革(それは挙国
一致をめざすもの)を意図した。
また一方、「薩摩領内では西洋文明による
近代化を計画し、科学技術を応用して
多方面な産業をおこし」、また「身分に
こだわらず人材の登用をこころがけ、
多数の後継者をつくりあげた」という。
――以上が、『徳川慶喜と賢侯の時代』に
よる斉彬の簡潔な紹介内容である。
私などは斉彬没後の動乱の時代のドラマに
ばかり夢中になって勉強が足りてない
せいなのか、斉彬の偉大さがなかなかピンと
こないのであるが、後輩の松平春嶽をして
「大名第一番の御方であり、自分はもちろんの
こと、水戸烈侯、山内容堂、鍋島直正公
なども及ばない」と言わしめている点
(ウィキペディアの斉彬の項による)、
また松平春嶽や山内容堂、徳川斉昭などと
違ってブレーンを持たず、自らの判断と
行動によって「賢君」たりえた点を考慮する
だけでも、斉彬が他に例示した殿さまより
優れていたことが何となく察せられる
ところではある(斉彬や、他の「賢君」の
こともよく知れば、「何となく」ではなく
もっと具体的に斉彬の偉大さが分かるように
なるかもしれないが)。

ただし、そんなブレーン要らずの斉彬も、
少年期には曽祖父の島津重豪を自らの師と
していた。『徳川慶喜と賢侯の時代』に
よると、西洋文明に対する興味が強かった
重豪は、藩財政を破綻させるほどに西洋の
美術品や装飾品を買い集め、オランダ語や
中国語を学び、さらには学校や研究施設を
次々建てる一方、藩士達の身なりを都会風に
変えさせ、芝居や遊郭などの遊興をさかんに
した。また、自分の娘の亭主が11代将軍・
家斉になった関係で、ある程度の中央政界
進出を果たした。だが、同書によると、
斉彬はそんな曽祖父・重豪の影響を受け、
性格も受け継ぎつつも、興味の対象や性格に
ついては微妙に重豪と異なる部分もあった
という。例えば、重豪の興味の対象が
美術品や装飾品それ自体であったのに対し、
斉彬の興味の対象は主に実用品で、しかも
その製造過程なり科学の基礎的原理に大きな
興味を示してそれを習得しようとした。
また、重豪が自分の趣味を強引なやり方で
藩政に持ち込んだのに対し、斉彬は「慎重」
だったという。具体的にどんなところを
指して「慎重」と述べているのか、未だに
量りかねてはいるが、例えば人事のやり方を
指して「慎重」と述べているのだろうか
(ドラマでもそうだったように、斉彬は抵抗
勢力だった人たちを留任させる代わりに
自分への協力を約束させ、新人も少し起用し、
西郷吉之助のような下級武士を抜擢する際には
門閥層の反感を招かぬよう、西郷の起用を
わざわざ江戸でおこない、仕事内容も藩外で
秘密裏におこなうようなものにしていた)。
さらに、重豪が薩摩と江戸をくらべ、薩摩の
「遅れ」をなくそうとしていたのに対し、
斉彬は先述のように日本と世界(特に西洋)を
比べたうえで自国の遅れをなくそうとした。

なお、以上のような斉彬と西郷の関係性に
ついて、『徳川慶喜と賢侯の時代』の(斉彬の
記事の)投稿者は面白い見解を述べている。
すなわち、斉彬と西郷吉之助には感情的には
かたい信頼の絆ができていたものの、
思想や性格については、西郷吉之助には
「斉彬の影響を絶対うけつけない部分が
あったようだ」、というのである。
その両者の具体的な思想的・性格的違いに
ついては、まず、西郷吉之助は藤田東湖の
水戸学的な攘夷思想の影響も受けたが、
そうした攘夷思想は島津斉彬の本意ではない。
また、西郷が生涯をつうじて「薩摩」に
執着し続けたという点も、斉彬の感化からは
考えにくいものだったようである。
斉彬の志は西洋科学の基礎理論を応用して
国内産業を盛んにするところにあったので、
斉彬の思想を真に忠実に受け継いだのは
むしろ、藩内で洋学を研究して科学産業を
起こすことに尽力し、西洋文明のものすごさを
実例で知るがゆえに斉彬没後も攘夷思想に
染まらなかった五代友厚や寺島宗則あたりでは
ないかということである。なお、吉之助の
人脈につながっている下級若手武士――例えば
大久保利通、西郷慎吾(従道)、大山格之助
(綱良)、有村俊斎(海江田信義)、大山弥助(巌)
などは必ずしも斉彬の方針をそのまま引き
継いだとは言えず、彼らの思想のなかには
吉之助を通じて、さらには大久保利通により、
(斉彬の思想とは)かなり異質なものが
入りこんでいたという。彼らには攘夷思想も
浸透していたが、これも斉彬の本意でないのは
先述のとおりである。

ドラマでの西郷吉之助は、藤田東湖の攘夷
思想に感化され、斉彬の「蘭癖」思想に異議を
唱えたことがある。このときの吉之助は斉彬に
理路整然と(しかし強い口調で)攘夷思想の
無謀を諭され、ただただ涙を流しながら
「はい!!」と受け答えるばかりであって、
諭された後の吉之助が東湖の攘夷思想について
どう考えていたのかを示すシーンは無かった
ように思える。しかしながら、一方で例えば
島津久光が兵を率いて上洛するのに乗じて
挙兵計画をたてた有馬新七や西郷慎吾、
大山弥助、あるいは生麦事件直後に英国人の
屋敷を襲撃しようとした有村俊斎などは、
少なくとも斉彬の思想を忠実に継いでいる訳
ではないことが私の素人目にも明らかである。

同時代人からも、また現代の概説書著者からも
高い評価を得ている島津斉彬であったが、
そんな彼も1858年7月に事業半ばで急死して
しまう。『【決定版】図説・薩摩の群像』
(学研 2008)によると、侍医は原因をコレラ
であるとしたが、長崎養生所のオランダ人医師
ポンペなどは毒殺を疑っていたという。
いずれにしてもその後、やはり斉彬の教育を
受けていた斉彬の実弟・久光が、斉彬没後の
薩摩藩を統率する者として斉彬の遺志を受け
継ぐことになった。ところが、『徳川慶喜と
賢侯の時代』によると、久光は斉彬と違って
「新たな政局担当の設計を」つくる独創性に
欠け、「また自分の意志に反する状況に、
歯をくいしばってもいったん妥協するという
寛容さを欠いた」という。ドラマでは、
久光が兵を率いて上洛する計画をたてた際、
奄美帰りの吉之助に上洛の準備の不足を
指摘され、またその以前にも全く別の家臣に
不足を指摘されたのであるが、久光は
そのつど激昂し、その機嫌を損ねていた。
斉彬が、吉之助の「村で夜逃げが多いのは
役人どもが腐っているからだ」というキツい
訴えにも真摯に対応し、その後も吉之助を
かわいがったのとは対照的であった。

しかしながら、同書では久光の人生について
こうも述べている。「偉大な前任者のあとを
つぐ二代目は、つねにつらい立場にたたされる。
前任者の事業をのりこえることで、劣等感を
解消しようとする。そして無理な背のびをし、
つまずくことになりがちである」――と。
前任の斉彬は、井伊直弼に対する抗議の意味で
兵を連れての上洛を計画し、その計画途中で
亡くなった。この上洛計画を実現させ、
成功に導くことは、後任の久光にとって
偉大な前任者・斉彬を乗り越える事でもあった。
「このワシでは、上洛に不足と申すかッ!!」
――という、ドラマの久光の激昂には、
斉彬に対する久光のコンプレックスも見える
ということだろう。そんな久光も、1862年、
薩摩兵を率いて中央政界に進出を果たし、
かつて斉彬の同志だった大名たちを糾合し
雄藩連合・公武合体による政治改革も
実行をとげた。ただ、このドラマは西郷
吉之助と大久保利通が主人公であるだけに、
準備不足のまま上洛を強行した久光の尻拭いに
追われる利通の姿と、久光の成功のために
「同士討ち」というかたちで犠牲を払った
吉之助の仲間たちの苦悩が強調されている。
また、ドラマの久光はずいぶん吉之助を
憎んでいたが、私が想像するに、
斉彬に見出された吉之助は、久光にとって
おのれのコンプレックスを意識させられる
存在であったのかもしれない。


島津久光は、西洋嫌いながらも故・斉彬から
教わっていたので、「薩英戦争」で実際に
イギリスと戦う前から攘夷の無謀を知っていた。
また、故・斉彬の思想を必ずしも忠実に受け
継がなかった薩摩の攘夷論者たちも、さすがに
実際に戦ってみれば攘夷の無謀を悟る。
かくして、薩摩藩内で西欧、特にイギリスの
技術・文化を学ぶ気運が高まっていくとき、
攘夷思想に染まってこなかった五代友厚や
寺島宗則の出番がくるということである。


←ランキングにも参加しています

アポロンとアルテミス

2013-01-27 23:37:09 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびは、
山本覚馬のもとに「吉田寅次郎つかまる」
という知らせが届いたところで終わった。
寅次郎が長州藩によって再び投獄されたのは
1858年、山本八重13歳、山本覚馬30歳、
高木時尾12歳である。このたびの番組の
最後の紀行によれば、松平容保と井伊直弼は
親戚ということであった。私は初めて知った
話なのでYahoo!知恵袋等で調べてみたところ、
容保とその養父・容敬が甥・叔父の関係で
さらにその容敬と井伊直弼が従兄弟同士で
あったという。一方、これは紀行では
説明されなかったかもしれないが、
このたび「不時登城」して処罰された
尾張藩主・徳川慶恕はもっと容保に近く、
実の兄弟という間柄であった。

このたびのドラマの冒頭では、西郷頼母の
進言によって山本覚馬の禁足が解かれ、
そればかりか「軍事取調方兼大砲頭取」なる
重役に抜擢されるというシーンがあったが、
前回も参照した『明治の兄妹』が語る
禁足解除&抜擢の経緯は、ドラマのそれとは
少し異なるようである。これを要約するに、
「禁足」という処分は外部からの訪問は
大目に見てもらえるものだったので、
禁足の身の覚馬は来訪者に講義ができた。
その講義を聴いて魅了された上下の身分の
者たちが、林権助とともに口をそろえて
覚馬の赦免に奔走し、これによって覚馬の
禁足解除&抜擢が成ったのだそうである。
覚馬が自身の芸によって身を助けられた
最初の経験と言えるかもしれない。
なお、ドラマで覚馬を赦免に導いた頼母は
現時点でまだ家老にもなっておらず、また
実際には父親がまだ健在なので家督すらも
継いでなかったようだ(ウィキペディアの
西郷頼母の項)。

それにしても、『明治の兄妹』は八重と
覚馬の関係について(どこまで信じていいか
分からないが)気になることを述べている。
すなわち、八重は兄・覚馬のことが好きで、
「父はまだ存命だったから、父親のようには
思わないが、普通の兄妹の感情とは違う。」
物心ついた時から兄は偉大であり、(中略)
「八重子の男性観はこの優れた兄への尊敬と
信頼が基本になったために、そこらの
同年輩の男性は、もの足りなく思うことが、
いつしか婚期を遅れさせることになったの
かもしれなかった」――と。しかしながら、
八重という女性は元々が男勝りだったよう
なので、結婚によって窮屈な思いをさせられ
たくないと思ってて婚期が遅れたという
側面もありうるだろう。いずれにしても、
こうした話を読んでみると、この文武両道の
兄・覚馬がアポロン神に、「裁縫より鉄砲」の
八重がアルテミスのように感じられる。


思いこみによって重箱の隅をつつくような
話かもしれないが、私はドラマの八重が
兄の妻のことを黒船に例え、「ほとんど口が
きけないからどんな人なのか全然分からない」
と言っていたのも気になっている。
兄嫁を黒船に例えるだなんて、果たして
ドラマの八重は兄嫁のことを(自覚はして
なくても潜在的に)「来てほしくなかった
ヨソ者」とでも思っているのだろうか??
ドラマの八重が黒船をどう思っているのかは
分からないが、少なくとも私が同時代の一般
庶民であれば、黒船のことを「せっかくの
日本の平和を乱した招かれざる客」と思う
だろうし、黒船を我が友のように大歓迎した
日本人がいたという話も聞いたことがない。
ドラマの八重は兄嫁を歓迎し、少しも邪険に
したり敵視したりしていないが、それだけに
潜在的には兄嫁のことを「兄との間を邪魔する
ヨソ者」とでも思っていないか、というふうに
「黒船」の一言が気になってしまうのである
(考えすぎかもしれないけれど)。


←ランキングにも参加しています

退けられた背景を考察

2013-01-20 23:56:17 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびは、
番組の最後にハリスが将軍・徳川家定に
謁見するシーンがあった。時代は1857年10月、
山本八重12歳、山本覚馬29歳、山川大蔵12歳、
高木時尾11歳である。――今年も、このように
主な登場人物の年齢をイチイチ確認するに
あたり、公式HPとウィキペディアの両方で
各人物の生年を調べたのであるが、早くも
山川二葉の生年に食い違いを見つけてしまった。
公式HPでは、二葉は大蔵よりも2歳年上
ということになっているので、これに従えば
二葉は14歳ということになる。ところが、
ウィキペディアの二葉の項では彼女の生年が
1844年ということになっており、これに従えば
二葉は13歳ということになるのである。
果たして、どちらが二葉の本当の年齢なのか。

最近、新たに『明治の兄妹』(著:早乙女貢
新人物往来社 2012)を読みはじめたが、
それによると、山本覚馬という人はかつて
温泉場で自分に無礼を働いた無頼者を
一刀のもとに切り伏せたことがあったという。
当時の覚馬は素浪人か凶状持ちのように
見えるみっともない格好をしていて、
無頼者たちがそれをしつこくからかったので
無頼者の一人を斬ったのだそうである。
なお、その後覚馬は城下を離れて江戸に
行ったが、その江戸に行った真相が
「人にからかわれて斬ったというのは名誉な
ことではないので、この際しばらく会津を
出ることにしよう」というものだったらしい。
この江戸行きが1度目のものだったか2度目の
ものだったか、それも明確には分からないが、
どうも同書の文脈からすると2度目のものの
ように思える。いずれにしても、このたびの
覚馬が、往来でのいさかいの決着を「その場の
無礼討ち」ではなく稽古場での勝負に求めた
シーンを観て、私はこの逸話を想起した。
「ドラマじゃ無礼討ちの場面はなかったはず
だけど、まるでドラマの覚馬も会津を出る
羽目になった経験に懲りて稽古場での勝負を
選んだかのようだ」――と。


このたび「禁足」を命じられた覚馬は後日
一転して重役に重用されるようになるのだが、
このたび覚馬の進言がなぜ退けられたのか、
この点を今日は少し私なりに考えてみた。
(『徳川慶喜と賢侯の時代』を参照したうえで)
まず、会津藩が水戸藩や肥前藩や薩摩藩等と
違って内陸であるために、外圧の脅威を
肌で感じづらく、そのぶん藩重役の
危機感が薄かったという地政学的事情も
あるかもしれない。また、この時の覚馬に
お殿様の後ろ盾がなかったことも、大きな
ポイントであるかもしれない。もしこの時に
後ろ盾があれば、覚馬の立場は多少なりとも
殿さまの威光に守られ、進言ももう少しは
重役に通ったはずだからである。
私の認識の限りでは、お殿様の松平容保は
このときは特に誰かの才能を見抜いて
特別に抜擢し、その人の後ろ盾となって
改革を実行させるといった活動は
おこなっていないようであるが、
なぜだろうと私なりに考えるには、先述の
ような地政学的事情が容保にも影響して
いた可能性があるのと、その他に、容保が
藩主になる(あるいは藩主になった)時点で
対抗勢力(例えば前藩主やそれを担ごうと
する勢力)が存在しなかったというのも、
容保が人材抜擢&改革をしなかった理由の
一つかもしれない。もし容保に対抗勢力が
存在すれば、彼も自分が藩を掌握するために
有能な右腕を探す必要に迫られただろうし、
そこでもし覚馬の才能が容保の目に止まれば
容保は自分自身のためにもたちまち覚馬を
重用し、覚馬の後ろ盾になると思われるから
である。またその他にも、『明治の兄妹』には
会津藩には藩を二分するような内訌が
無かっただけに異見は目立った、とあるので、
このたびの覚馬の進言も目立ってしまい、
槍玉にあげられやすくなっていたという
事情も考えられるであろう。
「軽い役」の人間が分不相応なことをすれば
藩上層部が反感をいだく――こんなことは、
当時のどこの藩にもありうることのように
私は思うのであるが、それでも強いて
(覚馬の進言が退けられ、「禁足」に処せ
られた理由を)考えるとすれば、おおかた
こんなところだろうか。


←ランキングにも参加しています

やむにやまれぬ心

2013-01-13 23:49:40 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびは、
八重の兄・山本覚馬が江戸遊学から帰国し、
日新館教授になった1856年で話が終わった
だろうか。この時点で八重は綾瀬はるかさんが
演じていたが、生まれ年から逆算すると
この時点の八重は11歳にすぎず、まだまだ
子役を使ってほしいものだと感じた。

一方、このたびは薩摩藩士の西郷吉之助が
登場した。演じているのは、吉川晃司さん。
私が今まで大河ドラマを見てきた限りでは、
吉川さんの吉之助は似てない(あるいは
似せてない)部類だと感じている。
かといって、吉之助役が似合いそうな
俳優さんはと問われても答えに窮するところ
ではあるのだが――、少なくとも吉之助の
あだ名の一つに「うどめ(巨目)」という
言い方があって、ウィキペディアの彼の項に
よると「その眼光と黒目がちの巨目でジロッと
見られると、桐野のような剛の者でも舌が
張り付いて物も言えなかったという」から、
せめて吉之助役の俳優さんはこのような
ルックスに近づけるべきところだと思うのだ。
西郷吉之助は、武力討幕派の重鎮である一方、
山本覚馬の優秀さを惜しんで覚馬を牢から
救った人物でもある。このドラマは、
吉之助をどのように描いていくのであろうか。

一方、このたび初めて登場する人物のなかに
松平容保の義姉・照姫と義妹の敏姫が登場
するが、この容保・照姫・敏姫の人間関係には
どうも複雑な事情があるらしい。
別冊歴史読本『将軍家・大名家 お姫さまの
幕末維新』(新人物往来社 2007)によると――
容保の養父・容敬は子宝に恵まれなかったので、
養子と養女をもらって彼らに会津藩を継がせる
ことにした。容敬はまず、1842年に照姫を
養女に迎え、その翌年の3月、男の子を養子に
ほしいという申し入れが美濃高須藩主・松平
義建(容敬の実兄)によって受諾された。
ところが、この同年の閏9月に容敬の側室の
岡崎須賀という女性が容敬の娘を産み、
その娘は敏姫と名づけられた。ここで容敬は
実の娘である敏姫を容保の妻にさせたくなり、
照姫のほうは1849年に奥平家に嫁がせた――。
こうした経緯を経た後の1854年に、照姫は
ドラマのとおり出戻ってきたということである。
同書では、こうした三人の事情をふまえた上で、
照姫にとって容保はいわば「初恋の人」
だったのではないかと推察している。
そしてドラマの照姫も、容保からもらった
何の変哲のない紅葉葉を大事そうにしまって
いるあたり、容保に対して淡い恋心を持って
いるかのように今のところは感じられる。

また、これは同書を読んだ私の解釈にすぎ
ないが、敏姫は遅くとも1852年には天然痘
ゆえに顔にアバタをつくっていたと思われる
(ドラマの照姫が出戻った1854年の敏姫の
顔の状態はキレイであったが)。同書によれば、
家老・山川(兵衛)重英が蘭法医の話を信じて
敏姫に種痘を受けさせようとしたものの
漢法医が反対して実行できず、そうこう
しているうちに敏姫が重い疱瘡にかかって
その美貌が失われてしまったのだそうだ
(いつか、手塚治虫のマンガをもとにした
時代劇「陽だまりの樹」でも蘭法医と
漢法医の攻防が繰り広げられていたが)。
投稿者の想像と思われる同書の記述によれば、
1852年という年は容敬が亡くなった年でも
あり、天然痘で美貌も失ったこの頃の敏姫は
「鬱病のような症状を発し」ていて、心細い
日々を送っていた。そして、これに気づいた
照姫が会津藩の奥向きを束ねる使命を感じて
出戻ってきたのではないか、という事である。
私はこの照姫の使命感にも、「やむに
やまれぬ心」を感じてはいるが、このたびの
ドラマの照姫に(また同時期の史実の照姫に)
同様の「やむにやまれぬ心」があったと
考えるのは早計に思われる。

最後に、このたび豚を追い掛け回していた
新島七五三太という少年は、後の新島襄である。
このたびのドラマでは吉田寅次郎が黒船に
密航しようとして失敗し、牢屋行きになったが、
のちにこの新島七五三太はアメリカ密航を
計画し、これを成功させてアメリカ留学を
実現させている。このときの新島七五三太も、
「やむにやまれぬ心で密航した」という話に
つながってくるのかもしれない。


←ランキングにも参加しています

愛しき日々

2013-01-06 23:46:51 | 思索系
新年、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくおねがいします――。

今年もまた大河ドラマが新しく始まった。
今年の主人公は、幕末から明治時代にかけて
生きた会津出身の女性・山本八重である。
話はまだまだ第一回、番組の後半になって
ようやく黒船が来たといったところである。
この頃はまだ、藩やイデオロギーの違う
日本人同士でいがみあうこともなく
(あるいはあったとしても動乱期ほど激しい
ものでもなく)、そのぶんまだ平和な時代
だったように感じた。別冊宝島『よみがえる
幕末伝説』によると、幕府は時系列的に
4つの段階を経て滅びていったという。
まずその最初の段階が「予兆の時代」という
べきもので、一部の先覚者だけが行動を
起こして失敗し、だけどその行動が人々に
それまでの秩序に対する違和感を持たせる
結果となった。次の段階が「思想の時代」で、
それまでの体制秩序が奨励していた思想では
ないイデオロギーが流布され始め、知識人達を
中心にして旧体制の終焉と新体制への渇望が
叫ばれ始めた。そして、ちょうどこの時代に
活躍した人物が徳川斉昭や島津斉彬、
藤田東湖、吉田松陰であったというから、
このたびのドラマが描いた時代はまさに
「思想の時代」といったところで、上述の
4名のフォロワーによって平和が乱される
「活動の時代」はまだまだ先ということに
なるのである。

ちなみに、幕末会津史のキーマンの一人と
思しき西郷頼母という人物であるが、
ウィキペディアの彼の項(補注)によれば、
彼は会津藩祖・保科正之の養父・正光の
叔父の血筋であった。これはおそらく、
頼母の家紋が正之のそれと同じである
理由の一つであろう。これは私の想像に
すぎないが、美濃・高須藩から会津藩主の
婿養子となって会津藩主となった松平容保は
頼母と違って土着性が低く、そのことも後に
京都守護職になるかどうかを決める際に
容保に影響を与えたものかもしれない。


ドラマの冒頭では、会津戦争の様子と
アメリカの南北戦争との様子が入り乱れて
映っていた。南北戦争とは、奴隷制や貿易の
あり方をめぐって北部と利害対立していた
南部の人間が、南部の独立をかけて戦った
ものである。一方、会津戦争当時の会津藩と
仙台藩には、輪王寺宮(孝明天皇の弟)を
「東武皇帝」として即位させ、仙台藩主・
伊達慶邦が征夷大将軍に、松平容保は征夷
副将軍になるという構想があった。
(ウィキペディアの南北戦争の項と、
戊辰戦争の項による)。
「朝敵」よばわりされないために両藩が
考えた構想だとしても、彼らが独立まで
考えていたかどうかは私には分からない。
が、だとしても、会津戦争時の会津藩と
南北戦争時の南部軍とでは、中央政府の
方針を受け入れがたいので戦う、という
コンセプトで共通していたと思われる。
「ならぬものはならぬ」――
いくら大義名分や錦の御旗をくっつけても、
やり方がマトモでないことに変わりはないと
冒頭の八重は言いたかったのかもしれない。
いずれにせよ、冒頭のような動乱の時代を
想起すれば、八重の少女時代の平和が
幸福そうに思えてくるのであった。


←ランキングにも参加しています