黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

新しい父との心の交流

2011-02-27 23:55:11 | 思索系
大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」。
このたびの題材は、浅井三姉妹と彼女らの新しい父
柴田勝家との心の交流のようであった。
年号はまだ「本能寺の変」より改まっていない
ということで、江の年齢は10歳ということになる。

柴田殿を父とするということで、
江たちの身元も越前・北庄城に移ることとなった。
柴田勝家が北庄城を築き始めたのは1575年のこと。
私の元カレはたしか城が完成して一ヵ月後に
落城したと言っていたが、『江史跡紀行』
(監修:小和田哲男 新人物往来社 2010)には
「城は完成をみないまま8年後に落城している」と
あり、情報が一致しない。
いずれにしても、現時点(1582年の秋)では
北庄城はまだ完成していないということにはなる。
『国際理解シリーズ③ 日本の地域と生活文化』
(著:別技篤彦 帝国書院 平成3年)によると
そもそも中世都市の多くは「多くの農地を含む
郷村の連合から」なっていたそうで、
「一方で繁華街的なものをもちつつ、他方では
村落的性格も兼ね備えていた」という。
中世の都市が郷・庄・荘となどと呼ばれるのも
このためで、北の庄は「北の庄三か村」と
呼ばれていた――ということである。


このたびの話題は江たちに新しく父ができるという
話であった。幸か不幸か私自身にはそのような
経験はないものの、新しく姉ができるといった
経験なら成人してからようやくできた。
しかしながら――私は(人に頼まれたのではなく
自発的に)新しい姉さんを「姉さん」と呼ぼうと
思いつつも、なかなか呼ぶことができなかった。
私は別に新しい姉という存在を受け入れられないと
思ったことはないし、新しい姉さんのタイプ自体も
決して苦手なタイプではなかった。
しかし、なんといっても「姉さん」不在の時代が
20年以上続いたため、「この人は姉さんなんだ」
という頭の切り替えがすぐには出来ない。
おそらくはドラマの江もお市の方も、
なにより「この人が父(あるいは夫)なのだ」と
頭を切り替えることが出来なかったのだろうと
感じる。

これはたしかNHKの「タイムスクープハンター」
なる番組で昔知りえたことだろうか、
戦国時代の巷には女性を誘拐してどこぞに
売り飛ばす輩が存在した――という記憶がある。
それは日本が多少国際化していた時代のことなのか
誘拐された女性は、国内ならまだしも最悪の場合
東南アジアあたりまで連れていかれたらしい。
(私の父の指摘を信じるとして)
仮に馬に「帰巣本能」があるのだとしても、
女の子が良質の服を着て馬に乗って一人で夜道を
さまよっていればそれは「いいカモ」になるので、
女の子の周囲は心配するはずである。

新しい父を受け入れられない気持ち、
「父上」と呼ぼうとして呼べなかった心の葛藤、
それがどんな感情にしろ、思いがあまりにも
強すぎると、周囲が見えなくなることがある
(だから「自分の行為に対して周囲がどのような
気持ちになるか」ということにまで
注意が行き届かなくなる)。
しかし、ドラマの勝家が諭したように
人の上に立つ者には周囲への気配りがどんな時も
求められる。かく言うドラマの勝家も家臣の話を
うわの空で聞いたりしていたけれど――
江に遠慮なく(そして父親らしく)叱ったことにより
勝家とお市の方たちとの心の壁が消えたという
印象である。ふつう、先に述べたような
「頭の切り替え」は時間を要するものではないかと
思うところだが――江の行方不明という
共通の非常事態が、結果的には勝家とお市たちの
絆を深めたといったところだろうか。


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羽柴秀吉と柴田勝家

2011-02-20 23:57:06 | 思索系
大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」。
このたびの話題は、「清洲会議」と
主人公の母・お市の方の再婚――
やはり本能寺の変が起こった1582年より
年が改まっていないので、このたびの江の年齢は
およそ9歳ということになる・・・と
今まで私は計算していたところだったが、
新人物往来社が去年の末に発行したばかりの
『江史跡紀行』(監修:小和田哲男)の年表では
1582年の時点で10歳というふうにカウントしている
ので、私もこのたびよりこの本にならって
年齢をカウントしていきたい。


「清洲会議」とは、織田家の後継者を決めるための
会議である。果たして後継者は信長の次男・信雄か
それとも三男の信孝か――ドラマによると、
この点が清洲会議のさしあたっての焦点であった。
ドラマではお市の方が信孝に「そなたと信雄が
いがみ合っているからサルめにスキを
つかれたのじゃ」――というふうに言っている
シーンがあった。同じNHKでいつか放送された
「歴史秘話ヒストリア」によると、
たしかこの三男・信孝は本当は信雄よりも
ちょっとだけ早く産まれたのであるが、
信孝の母親の身分が信雄の母親の身分よりも低いから
という理由で三男ということにされ、長じてからも
次男・三男の違いによる信長公の差別があったりして、
信孝は実績を積むことで父・信長に認めてもらおうと
努力していた――と説明していただろうか。
ただし、ウィキペディアの信孝の項では
信孝の母の家柄は決して信雄の母の家柄に劣らないと
しているし、信孝のほうが本当は兄だとする説を
疑うような見解も記されている。
なお、ウィキペディアの「清洲会議」の項によると
信孝は「清洲会議」に欠席していたという。
「清洲会議」は信孝の人生にとってその命運を
左右する非常に重要な会議だったはずなので、
「ここはどんな無理をしてでも必ず出席するぞ」と
意気込んで不思議はないところである。
どうして欠席したのかは私の知る由もないが――
もし信孝にそんな意気込みすら無かったとしたら
信孝の育ちの良さゆえということになるかもしれない。
いずれにしても、この「清洲会議」によって
信長の後継者は「三法師」なる幼児に決まり、
重臣筆頭の座も柴田勝家から秀吉に取って代わった
(ウィキペディアの「清洲会議」の項による)。

それまで重臣の筆頭であったという柴田勝家は、
実に信長の父・信秀の代から織田家に仕えてきた
古株のようである。
このたびこの柴田勝家を演じるのは、よく見ると
とても優しい目をしておられる大地康雄さん。
大地さんの演じるキュートな「鬼柴田」が
これからどのように描かれていくのか、
今のところ「真面目な人なんだろうな」という
印象しかないけれど、仮にも「浅井三姉妹」の父に
なる人ならおおむね好ましいように描かれるだろう。
なお、ドラマの勝家は従来から言われているように
信孝の仲介でお市の方との結婚が決まったが、
興味深いことにウィキペディアの勝家の項によると
最近は秀吉の仲介で結婚した説が有力になっている
という。一体、勝家から重臣筆頭の座を奪う事が
秀吉の「ムチ」なら、お市の方との結婚の仲介は
秀吉の「アメ」という解釈になるのだろうか??

勝家が秀吉の仲介で結婚した説が真実だとするなら
「賤ヶ岳の戦い」での「お市の方をめぐる恋の鞘当」
といった色彩が薄くなってしまうけれど、
そんな色彩が無ければ無いで、私には真実らしく
思える。というのも、信長公亡き後の秀吉と勝家は
いずれも有力な織田家重臣だったので
たとえお市の方を一切権力争いに巻き込まずとも
必ずや雌雄を決さないわけにはいかない運命だったの
ではないかと思うからである。
また、勝家が秀吉の仲介で結婚した説が真実であれば
お市の方は愛する夫を直接死に追いやった男に従って
勝家と結婚したことになる。
そうなると、お市の方が信孝の仲介で結婚したと
想定するよりも一層お市の方の立場の弱さを
感じずにはいられないが、一方で悪いけどやはり
「さもありなん」と感じずにいられない――
このドラマで「男の言いなりにはならないお市」を
描こうと思えば、従来の「信孝仲介説」を
採用するのが妥当だということなのだろう。


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最近のアルゼンチン経済

2011-02-17 00:23:36 | スペイン・中南米系
NHKhiビジョン「世界は歌う 世界は踊る」という
番組の再放送(アルゼンチン・タンゴの回)を観た。
この番組は初めて観たわけではないし、
初めて観た時の感想も既にこのブログで記した。
(こちら)
とはいえ、このたび再放送を観終えたときには
思わずテレビにむかって拍手してしまったが――
このたびは、前回とは視点を変えてこの番組を
少し題材にしたい。


番組でも少し言及されていたように、
アルゼンチンは10年前は経済危機に見舞われていた。
ウィキペディアのアルゼンチンの項によると、
アルゼンチンでは第二次大戦後の「ペロン政権以来、
一貫した経済政策が採られなかったツケが回り、
2002年(アルゼンチン通貨危機)には経済が破綻して
しまった」という。
そして、番組が初回放送されたのは2003年のこと。
これはたしかな記憶ではないが、番組では
「アルゼンチン経済は落ち着きを取り戻しつつあるが
なお予断を許さない状況だ」と解説していたかと思う。
だが、ウィキペディアのアルゼンチンの項には
「(アルゼンチン経済は)2003年から2007年まで
平均約8%の高成長を続け、2002年の経済崩壊以来の
遅れから立ち直りつつある。とはいえ、(中略)課題は
山積している」・・・ともある。

外務省のHPによると、アルゼンチンという国は
農牧業(油糧種子、穀物、牛肉)や工業
(食品加工、自動車)が主要産業だそうであるが、
今年の1月17日にNHKBS1で放送された
「きょうの世界」によると、最近のアルゼンチンでは
「世界有数の埋蔵量を誇る『金』や『リチウム』を
目当てに海外からの投資が急増し」ているという。
以下は私の記憶による未確認の情報であるが、
「きょうの世界」の番組取材に応じた
カナダ人開発者は現地の豊かな天然資源が
まだ手付かずで眠っている状態に驚きを示し、
かつて経済危機ゆえにスペインに移住していた
アルゼンチン人女性はアルゼンチンの経済回復を
見て取ってアルゼンチンに舞い戻っていた。
そういえば、さる2008年の9月には
「リーマンショック」なるアメリカ発の
世界的経済危機があったかと思うが――
「高校講座 世界史」(38回)で指摘されたごとく、
そもそもアルゼンチンも最近はアメリカとは距離を
置き、アメリカ抜きで「地域共同体」づくりを
めざしている国の一つである。
あるいは「リーマンショック」の影響も、
アメリカとのつながりが深い国よりは
相対的に少なかったのかもしれない。


先述のタンゴの番組によると、「ミロンガ」という
タンゴのダンスホールはたしかワンドリンク付きで
200円という安さで入場できるため、
「ミロンガ」は経済不況であってもむしろ
盛っている――というふうに解説していたかと思う。
何事も、「習い事」にはお金がかかる。
なにも全てのアルゼンチン人がタンゴの本場の
恩恵を受けられるわけではないだろうが、
一部のアルゼンチン人のように子供の時分から
タンゴのおおかたを親から教わることができて
なおかつ気軽に踊れる場所があるというのは
うらやましく思えた。
(う~ん、同番組を初めて観たときも
似たような感想を持った気が・・・)


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複雑な光秀の心

2011-02-13 23:56:16 | 思索系
大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」。
このたびは、明智光秀が絶命したところで
ドラマの幕が閉じた。「本能寺の変」から
年が改まったわけではないので、
江の年齢もおよそ9歳のままということになる。
「琵琶湖(=江)を制する者は天下を制す」では
ないが、このたび江はちょっとの間だけ
光秀のところに姿をあらわし、彼女が姿を消すと
同時に明智光秀の天下も終わってしまった。
まぁ現実には、江が光秀に姿をあらわした理由は
(あたかも現代の犯罪被害者の遺族のように)
真実を知りたいと思ったからに違いないが。


史実にはそんなに詳しくはない私であるが、
このたびはドラマを見ていて一つ気になった
ところがあった。
このたびのドラマでは最後のほうに
光秀が竹やりで刺されるシーンがあったのだが、
このとき光秀の横にいた家来が斎藤利三という
武将であれば、そこに史実との相違があると言える。
というのも斎藤利三はさる「山崎の合戦」の最中に
光秀に先んじて絶命したはずだからである。
別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』によると、
「山崎の合戦」では斎藤利三が戦死したことにより
まず明智軍の斎藤隊が崩れ、それが引き金となって
明智軍全体も総崩れになったということである。

それと、これは問題にしても仕方のないこと
かもしれないが、秀吉を演じている俳優さんは
はっきり言って秀吉役は似合わないように感じている。
今のところ理由を聞かれてもうまく答えられない
ところではあるのだが――こう、なんというか、
秀吉役はどんなに打算的でずる賢い言動を見せても
どこか憎めないタイプの人が向いているように思う。
今このドラマで秀吉を演じている俳優さんも
懸命に演じているに違いないので
こんなことを申しては悪い気がするけれど、
あの俳優さんの秀吉が野心的で計算高い面を見せると
演技とはいえ本当に憎たらしく感じられてしまう――
それとも、このドラマの秀吉は「悪役」ということに
なっているのだろうか??


果たしてドラマの光秀は天下をとりたかったから
信長を討ったのか――ドラマの江のこの問いに、
光秀は「自分でも分からない」と答えていた。
まぁ本人が分からないことなど、
私にはなおさら分かりかねるところではある。
ただ少なくともドラマの光秀は、共に世の中の
平和を実現させようとした偉大な同志を
裏切って殺し、せっかく平和になりかけていた
世の中を再び乱すようなことをしてしまった。
世の中を乱すという、光秀が本来志していた事とは
逆の状況を自分でつくってしまった自責の念は
ドラマの光秀の心に起こるかもしれないし、
敬愛してもいた偉大な同志・信長を殺してしまった
苦しみだって起こるかもしれない。
彼が仮に自力で再び平和を築いていこうと
努力するにしても、これらの思いが完全に消える日は
一生来ないかもしれない。

戦争の勝敗すら存在しえないような平和な時代の
構築こそ、光秀の本来の志ではなかったか。
また同志を裏切り殺して、いったい自分一人だけが
栄達できようか。――むろんこれも確信はないけれど、
敗走するドラマの光秀の「もはや勝ちたいとは思わぬ」
という言葉の裏に、私は光秀のこんな声が聞こえてくる
ようであった。


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上流階級者達の幕末維新

2011-02-08 23:52:31 | 思索系
1998年の大河ドラマ「徳川慶喜」。
上流階級を中心に描いたこのドラマの再放送も、
先週ついに終わってしまった。
やはり一抹の寂しさを感じるものの
少なくとも1998年に初回放送を観たころよりは
彼らのことを勉強したつもりだったし、
初回放送の時よりも深く観れたと感じている。
それにしても、幕末の時代劇というのは
誰が主人公であるかによって
ずいぶん時代の見え方が変わるものらしい――
まずは、気になる親藩・譜代や有志大名たちの
「その後」を追ってみたい。


まず川越人の私としては、幕末の武州・川越藩主
松平康英公が少ない出番ではあっても
長いセリフつきでドラマに登場し、嬉しく思った。
歴代の川越藩主のなかには松平信綱
(彼は「島原の乱」を鎮圧したのちに入封した)、
5代将軍の側用人として有名な柳沢吉保などが
いたが、この松平康英という人物は
ドラマに登場する以前には外国奉行を務めたり
渡欧して外交交渉などをしていたらしい。
そんな経歴の彼がドラマに登場し始めたのは
果たしてどのような時勢のころだったのか、
実はハッキリとは覚えていないのであるが――^^;
おおよそ彼が老中になった時から川越藩主になる
までのあいだの頃のことだったかと記憶している。
ウィキペディアによると、彼が最初に老中に
なったのは1865年4月12日のこと、
川越藩主になったのは1866年10月27日とのことだ。
しかしながら『続・埼玉の城址30選』(平成21年
埼玉新聞社)によると、こうして川越藩主になった
彼が初めて川越に入城したのは
実に年号が明治になった1868年8月5日のこと。
彼はこの期間中、幕府のあるうちは老中として
幕府を支え、そうかと思うと明治維新の頃には
薩長に頭を下げて恭順の意を示しつつ
彰義隊の一部を飯能でたたくなどしていたという。
彼が薩長に頭を下げたのは、ひとえに川越という
土地を戦禍から守るため――その後、彼には
新政府から外務参議になってほしいなどの要請も
あったというが、彼は「三河武士の意地を通し」、
決して新政府には参加しようとしなかったそうな
(ただし2004年に光文社が発行した
『ビジュアル版 最後の藩主』によると、
彼は後に貴族院議員になったという)。

また、康英公と共に慶喜を支えた老中のうち、
ドラマによく登場していた老中首座・板倉勝静や
小笠原長行は、いずれも箱館の五稜郭まで行って
新政府軍に抗戦し、その後、新政府に仕えることは
一切なかったようである。
思えばドラマの板倉勝静は、鳥羽・伏見の戦いの
直前こそ血気にはやる徳川家臣団の火消し役を
務めていたものの、慶喜の執政の大方針
(大政奉還と幕府のソフトランディング)を聞き入れた
時には慶喜の御前で紅涙しながら悔しがっていたし、
ドラマの小笠原長行にしても、第2次長州征伐の
経験上、幕軍が薩長の軍の実力に及ばないと
肌で知りつつ、それでもなお抗戦を主張していた。
これは私の想像にすぎないが、彼らが新政府軍に
抗戦した理由はおそらく理屈によるものではなく、
「ともかく実力で一矢報いなければ徳川譜代の意地が
許さぬ」といった感情によるものだったのでは
ないかと思う。彼らもまた、本当は血気にはやる
徳川家臣団と気持ちは同じだったと想像できるのだ。

しかしながら、理屈抜きで武門の意地を貫いた
親藩・譜代のうち、最もよく語り継がれているのは
松平容保率いる会津藩のそれであろう。
彼は自分の領地を焦土にしてまで薩長に抗戦し、
実力で薩長にかなわないと思い知ったのちも
日光東照宮の宮司として徳川家にご奉公した。
会津戦争自体は比較的よく語り継がれているし
詳細は割愛させていただくが、
会津戦争を起こさしめた容保の無念の訳を
後で少し考えてみたい。

一方、いちおう自分ひとりは徳川家への義理を
果たし続けた土佐の有志大名・山内容堂は、
維新後も「内国事務総裁」なる役職について
新政府に参画したようだが、「かつて家臣や
領民であったような身分の者と馴染む事ができず、
明治2年(1869年)に辞職」し、その後は
酒と女と作詩に明け暮れたという。
このドラマは登場人物の描写の仕方に品があって
さすがの容堂公もほとんどシラフで登場していたが、
史実の彼は長年の酒の飲みすぎがたたって
1872年に数えの46歳でこの世を去った。
46歳という若さは惜しまれるが、
最後まで後先考えず派手に遊びまくって
余生をすごしたあたり私は気に入っている。

また、家茂将軍時代から新しい国のあり方や
新時代での徳川家存続の道を模索し、
ドラマにおいても幕府の滅亡と徳川宗家の滅亡が
イコールにならないことを早くから知っていた
松平春嶽は、新政府内でも徳川家救済に奔走しつつ
官職を歴任した。1870年に政務を退いたようだが、
『ビジュアル版 最後の藩主』によると、その後も
帝国憲法への私見を著すなどしていたという。
たとえ幕府という「国家」は滅亡しても、
決して日本という「社会」が消えるわけではない。
彼は「賢侯」と呼ばれた一人でもあるし、
このことに気づいていても不思議はないと思うが
やはりどうせならもっと新政府内で
社会のために活躍してほしかったと感じる。
なぜ彼は明治3年にして政務を退いたのか――
果たして容堂と同じく、かつて家臣や領民であった
ような身分の者と馴染む事ができないと感じて
引退したものか、それとも徳川一門ゆえの
仕事のやりづらさがあったのか、
真相は私には知る由もない。


さて、時代は将軍・家茂が死去した時期から
話を簡単にまとめておきたいと思う。
結局長州一藩をも屈服させられなかったという
戦争結果により幕府の権威は著しく低下し、
将軍の座ももはや形骸化しつつあった。
もとい慶喜に徳川宗家相続と将軍就任を
望む声は高かったが、慶喜は将軍の座の価値の
低下に気づいていたため、諸侯や幕閣の要望を
引き出したうえで宗家を相続し、
将軍職も朝廷や諸侯の公式的な強い要望を
引き出したうえで就任した。
そして、就任してみるとそこには兵庫開港問題と
長州処分問題という喫緊の政治課題があったため
「四侯会議」をひらいて松平春嶽・山内容堂・
島津久光・伊達宗城に意見を求めた。
このとき慶喜は2つの課題の優先順位をめぐって
薩摩の島津久光と特に鋭く対立したものの
(久光は長州の全面復権を先に決定すべしとした)、
結局は久光の要請をしりぞけて兵庫開港のみを
強引に承認させた。
薩摩としては列侯会議で幕府(および慶喜)を
牽制する狙いがあって四侯会議に出席していた
わけだが、四侯会議では結局慶喜に押し切られて
しまったため、これを機に薩摩は武力倒幕に
方向転換するようになった。
慶喜はこの薩摩などの動きに対して
手をこまねいていたわけではないが、結局は
大政奉還して武力倒幕の大義名分を奪う以外に
万策つき、ついに大政奉還するに至ったという。

前段落で要約した期間に起こった出来事のうち、
慶喜にとって最も大きな痛手だった出来事は
慶喜が将軍に就任した二十日後に孝明天皇が
崩御したことであろう
(慶喜の味方だったはずの薩摩が裏で薩長同盟を
組んだのは、まだ前将軍・家茂が生きていた
1866年1月のこと)。
孝明天皇は少なくとも討幕は望まなかったため
討幕派と闘う慶喜たち幕府にとっては
大きな後ろ盾になっていたのである。
孝明天皇の享年は満35歳。その崩御については
病死説だけでなく毒殺説も広まっていて
どちらが真相なのか決着はついていないそうだが
現在はどちらかというと病死説の方が優勢のようだ
(ウィキペディアの孝明天皇の項による)。
なお、ドラマでは一応病死説が採用されている
ようだったが、孝明天皇の病気の進行の速さに
慶喜がいぶかしむ場面も描かれていた。

しかし考えようによっては、幕府側の人間のうち
最も孝明天皇の崩御を痛手としたのは
松平容保だったかもしれない。
容保にとって孝明天皇はただ単に政治的に
無くてはならない存在だっただけでなく、
多数の幕府関係者のなかでも特に容保への信任を
厚くしてくれていたからである。
そんな孝明天皇を容保は突然うしなった挙句、
大政奉還後になると今度は策略によって
あべこべに朝敵の汚名を着せられてしまった。
このことだけが理由で会津戦争を起こした訳では
ないだろうが、彼の無念の要因の一つには
違いないと想像する次第である。

ではここで、今度は大政奉還後の慶喜の立場が
どうなったのかについて、話をまとめてみたい。
まず、慶喜自身は大政奉還をしたために
もはや表立った行動はとれなくなった。
また有志大名に対して慶喜は相変わらず
期待していたが、有志大名のほうは
もはや慶喜に多くを期待しなくなっていて
なおかつその政治力を低下させていた
(そんな有志大名に代わって政治力を持つように
なったのが薩長討幕派であった)。
有志大名は慶喜の新政府参加を要望し
工作してくれてはいたが、それも結局は
実を結ばなかった。
そして慶喜は、徳川家のために戦い殉じることすら
厭わないような徳川家臣団に対する
充分な統率力も持ちあわせていなかった。
そんな慶喜は「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍に
負けると逃げるように江戸へ帰り、
「有志大名への期待はたちきれず、徳川家臣団を
率いて朝廷軍に敵対し軍事的優勢を獲得する
自信はなく、敗北を予測しつつも徳川家に殉ずる
覚悟も」なかったため、「朝廷軍との交渉を
勝海舟にゆだね、主戦派家臣に関しては彼らが」
「敗北するにまかせ、慶喜自らは謝罪の意を表して
謹慎した」ということである(1997年に発行された
中公文庫『徳川慶喜と賢侯の時代』より)。

一方、大政奉還後のドラマの慶喜は、
自分自身も含めた幕府関係者の生命が一人でも
損なわれぬことを常に望み、その望みを実現させる
ために無抵抗を心がけているふうだった
(ドラマでは、「鳥羽・伏見の戦い」は慶喜が
主戦派家臣の沸騰を抑えきれずにしぶしぶ起こした
戦いだったということになっている)。
思うに、かつて幕老と有志大名が共に慶喜を
必要とした理由が内乱を避けるためだというのなら、
慶喜が大政奉還後になるべく無抵抗を心がけた
理由もまた、内乱を避けるためだという解釈になる
(『徳川慶喜と賢侯の時代』によると、
幕末の政治家たちがともかく内乱を避けようと
していた背景には、外国の脅威があったという)。
しかし実際のところ、慶喜のように駆逐された者が
その恨みをぶつけずに無抵抗ですごす事の難しさは
松平容保や板倉勝静、小笠原長行、
ひいては新撰組などの背中が物語っている。
それだけに、駆逐された悔しさを最後までこらえた
ドラマの慶喜もそれはそれで立派に思えたものの、
例えば別のドラマで新撰組が薩長に駆逐された
悔しさをぶつけつつ滅亡していくプロセスを
見届ける時よりも強いわだかまりを、
この慶喜のドラマで感じずには居られなかった。


――最後に、「さくら」という架空の女性について
取りあげたい。
彼女は慶喜の幼馴染で、慶喜が一橋家の養子になると
彼女も侍女として共に江戸へ行った。
しかし彼女はその後まもなく失踪し、
かと思うと京で芸者になって慶喜と再会した。
ところが「禁門の変」によって京の街が焼かれると
彼女も再び姿をくらまし、今度は伏見に現れて、
幕府を重んじていた孝明天皇が崩御する直前に
伏見を去った。慶喜は度々複数の人間から
彼女の行方を耳にしていたが、たしか彼らによると
彼女は伏見を去った後は大坂に行き、その後は
彰義隊に加わった男と運命を共にしたかと思う。

「幕末」以前の日本の美しさそのものであった
彼女は、「幕末」以前の日本の秩序がある場所に
現れ、そして新たな秩序の出現と同時に滅びゆく
古い秩序(=幕府)と運命を共にした。
慶喜も容保も有志大名たちも、
ひいては新撰組や長州の志士・桂小五郎に至るまで
かつてドラマに登場する男たちの多くが
「幕末」以前の日本の美しさに魅了されたもの
だったが、ドラマでの討幕の象徴たる西郷隆盛は
その美しさを認めつつも心奪われることなく、
「幕末」以前の日本の美を追い払ったのだった。
――「さくら」という女性の一生に、
私は以上のような歴史を見る思いがした。


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ドラマの光秀の意識下で

2011-02-06 23:53:31 | 思索系
大河ドラマ「江」。このたびの題材は、
江にとっても人生の転機になった「本能寺の変」。
西暦にして1582年なので、このたびの江は
だいたい9歳ということになる。
ドラマの最後のほうでは信長の霊のエスコートで
江が馬を駆るシーンがあったのだが、
なぜか信長と江が「2人だけの世界」にひたる
恋人どうしに見えてしまって――
熱さを感じる程に恥ずかしくなってしまったのは
果たして私だけだろうか^^;

それと、今のところ個人的に一番感動しているのが
ドラマの家康の、絶妙なタイミングで
かゆいところに手を伸ばす気配りのうまさである。
前回、光秀が信長にお世辞を言ってかえって
信長に責められていたときにも感じたことだが、
ドラマの家康はこのたびも江の手紙で江の心情を
察したものか、またも絶妙なタイミングで
江に信長と会うチャンスを提供したのだった。
ただ、史実の江がドラマのように家康と
「伊賀越え」したという話は聞いたことがないので
ドラマの江の「伊賀越え」はフィクションだろうと
今のところ思っている。
また、本能寺の変の際の史実の家康については
ウィキペディアにも「一時は狼狽して信長の後を
追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に
説得されて翻意し」伊賀越えした、という一文が
あり、史実の家康の信長に対する忠実さを
垣間見ることができる。

一方、史実の明智光秀が本能寺の変を起こした
理由は日本史上の大きな謎の一つになっており、
ウィキペディアの「本能寺の変」の項を見てみても
変の要因として考えられている説が
膨大な数にのぼっていることがうかがわれる。
私はこれに気づいただけで反吐が出てしまったため、
とりあえず史実は別としてドラマの光秀の心情に
思いを馳せてみたい。


このたびドラマの光秀の心情に思いを馳せるとき、
私が気になったのは冒頭での光秀と信長の会話・
それに光秀と千宗易との会話であった。
すなわち、光秀が信長に対して「京に滞在する
お屋形さまが無防備になってしまいますね」と言い、
一方で宗易の「『天下取りをしてみせたる』
ぐらいの気持ちで仕事に励めばよい」という
言葉には強い口調で「天下取りなど
とんでもない!」などと否定したところである。
まず、光秀自身はたぶん悪気のないつもりで
「お屋形さまが無防備になる」と言ったのだろうが
その言葉は光秀が信長の敵になったつもりで
考えなければ出てこないような言葉である。
また「天下取りなどとんでもない!」と否定した
口調の強さや、そもそも光秀が「天下取り」という
言葉尻しかとらえていない点も、
光秀が実は天下取りというものを強く意識している
ことの裏返しだと思う(もしそうでなければ、
光秀とて決して宗易が謀反をけしかけている訳では
ない事もちゃんと聞き取っていたはずだからである)。
そして、「お屋形さまが無防備になる」という
光秀の言葉によっておそらく信長は
光秀の心に謀反の芽が芽生えているのを見抜き、
それゆえに「謀反でも起こしてみるか?」などと
ジャブしたのだろう。
また宗易も、やはり光秀の反応から同じ事を見抜き、
信長の天下が成るかどうかを江の前で
心配してみせたのだろうと思う。

私も初めて気づいたことであるが、
ドラマの信長は本当は光秀の潜在能力を
高く評価している様子であった。
光秀の心に謀反の芽が芽生えているのを見抜いた
信長としては、「光秀は潜在能力の高い男だから
天下を望んでも不思議はないな」というふうに
感じたのかもしれない。
「光秀、お前も天下が欲しかったか」――
本能寺で信長が光秀の謀反を確信したときに発した
この言葉に、信長のそんな思いを見るようだ。
いずれにしても江たちは本能寺の変によって
その立場が著しく不安定になる事が予想されるが、
江は信長の霊のエスコートを得たことによって
勇気付けられ、(江の言葉通り)前にのみ進みながら
今現在を生きていくであろう・・・!?


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葵・徳川三代を回想

2011-02-02 21:51:25 | 美術・音楽系
先月発売されたばかりのアルバム
「決定版 大河ドラマ全曲集」を借りた。
大河ドラマのサウンドトラック集は以前にも
借りていたが、以前借りたものが
戦国時代と幕末・維新のドラマのオープニングに
限定されていたのに対し、このたび借りてきた
アルバムは最初の大河ドラマ「花の生涯」から
去年の大河ドラマ「龍馬伝」に至る
全てのオープニングを網羅したものである。

戦国時代や幕末・維新もの以外の大河ドラマのうち、
私の最も気に入っているオープニングは
2000年の大河ドラマ「葵 ~徳川三代~」である。
家康以下、徳川三代がうねりの波の戦乱から
太平の世をもたらすまでのプロセスが
うまく表現されていて、良い曲だと感じていた。
私はこの曲を聴くと、まず、
戦乱の世に散り急ぐ「又兵衛桜」の美しさに感動し
日光東照宮の真上にある北極星と
その周りを回る星たちに世の太平を見出して
感慨深くなったものである。


ところで「徳川三代」といえば、
津川雅彦さんの演じた徳川家康が斬新だったこと。
家康といえばどんな時もどっしりとかまえていて
決して人前では生の感情を見せないという
政治家然としたイメージが強かったのだが、
あの津川さんの家康は決然として元気よく声が通り
相手かまわず派手に感情表現する家康であったと
記憶している。
例えば関ヶ原の戦いで小早川秀秋がなかなか
自分に寝返ってくれないと思うと
「あの、こわっぱー!」などと叫んでみたり
イライラ感を持て余して太刀を振りまわしてみたり、
また関ヶ原の戦いとは別の場面で
息子・秀忠と取っ組み合いのケンカをしたり――
多少記憶の詳細は曖昧になっているかもしれないが
あの家康は印象的であった・・・!

それと先月、細川俊之さんがお亡くなりになった。
細川さんは若い頃からたくさんの役を演じてこられた
ようだが、時代劇以外の演劇はほとんど観ない
私にとって一番印象に残っている細川さんの演技が、
この「徳川三代」での大谷吉継の役であった。
大谷吉継とは石田三成の友人でもある
敦賀5万石の大名で、最初は三成に
「家康と戦うのはよしとけ」と説得したものの、
結局説得できないと悟ると自分の方針まで曲げて
石田三成と共に家康と戦う決意をし、
関ヶ原の戦いで戦死したことで知られる。
そのため「徳川三代」における吉継の出番は
少なかったが、細川さんの大谷吉継は
少々不気味でもなぜか主役級の存在感を放ち、
家康と戦う道を選んだ自分を清々しそうに
あざ笑えば観る者の言葉を奪い、
輿の上から無言で突撃の采配をふるえば
その威厳を感じさせ、切腹せざるをえない無念を
つぶやけば一抹の寂しさを感じさせたものだった。


――謹んで、細川さんのご冥福をお祈りします・・・


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