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黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

義経の性格を考え直す

2022-04-22 14:18:22 | 歴史系(ローカル)
日々、スマホからこのブログを見ていて感じたが、
義経の性格についてむかし考えた記事が比較的よく閲覧されているようである。
(こちら)
今年の「鎌倉殿の13人」の義経には、河越家の婿殿でもあるから
もうちょっとマトモになってほしい――というわけではないのだけれども、
当時に関する新しい本や資料を最近また読んでいくうちに
義経の事績を私も少し見直した方がよさそうに思う時がいくらかあった。

そういうポイントは、今の時点で二つ挙げられる。
まず、これは『北条義時 ――これ運命の縮まるべき端か――』
(著:岡田清一 ミネルヴァ書房 2021年)を読んで知ったことである。
通説によると、義経は頼朝の許可なく「左衛門少尉」や「検非違使」
といった官位を後白河法皇からもらったことなどが
頼朝の逆鱗にふれて対立し、頼朝に滅ぼされることになったとされる。
同書によると、このように複数の主人に仕える行為を「兼参(げんさん)」と
言うらしいが、この時代の武士が「兼参」することは実は
「日常的な選択肢」、つまり「フツーのこと」だったのだという。
考えてもみると、義経よりずっと後の時代の戦国武将・明智光秀でさえ、
一時期は足利義昭と織田信長の二君に仕えていたぐらいであるから
義経の時代の武士が二君に仕えて何ら恥じることがなかったとしても
全く不思議な感じはしない。
しかしながら、間違いなく頼朝は御家人が自分の許可なく
朝廷から自由に官職を授かることを厳禁している。
思うに、たとえドラマの義経より性格の良い武士であっても、
頼朝が「兼参」を禁じているのを知る機会がなければ
同じように頼朝の逆鱗に触れ、滅ぼされてしまうところなのではないか。
義経の不幸は、頼朝が「兼参」を禁じている事を知りえなかった
ところにある――ということになるだろう。
それにしても、このように話をまとめてみて疑問に思ったが、
例えば義経が全く予期せぬかたちで後白河法皇から任官を持ちかけられ、
畏れ多くてこれを拒むのも難しかった、という可能性はないのだろうか??
ちなみに、以前紹介した論文「河越重頼の娘――源義経の室――」(PDF形式)や
ウィキペディアの義経の項の注釈17によると、近年の研究では
義経の無断任官によって義経と頼朝が対立するようになったとする
この通説をそもそも否定しており、留意すべきところかもしれない。

そして、もう一つのポイントは、義経に嫁いだ京姫(河越重頼の娘)の
動向からの推察によるものである。先述の彼女に関する論文によると、
京姫の夫・義経は、頼朝の逆鱗にふれたあげくに謀反人となって
京から追放され、頼朝の追っ手からの逃避行を余儀なくされる。
このとき京姫は(どの時点からかは分からないものの)
義経の逃避行に同行するのであるが、論文では
ここに「彼女自身の意志を見て取ることができる」という。
そのころ、彼女の実家の河越家では、彼女の父・河越重頼が
義経に縁坐して殺されたものの、その本領である河越荘は
没収されることなく重頼の後家尼に相続された。
この時代、夫の縁坐は妻(女性)には及ばなかったのである。
――つまり、義経が謀反人となって都落ちしても
京姫には実家の河越家という「帰るところ」があるので、
義経と離縁して河越家に身を寄せて生きていくことも可能であった。
にもかかわらず、京姫はまだ22歳なのに、全てを失った義経に
ついていく道を選び、義経と共に死んでいった。
義経とのあいだにもうけた幼い娘までも道連れにして――
思うに、これだけのことを、全く愛情を持てない相手に対して
できるとは考えにくいということではないだろうか。
これは全く私の想像にすぎないけれど、
この義経と京姫とのあいだには何か他人のうかがい知れない
特別な絆があったのかもしれない。
戦国時代の武田勝頼とはだいぶ事情が違うだろうが、
義経は義経で、何か心に孤独をかかえていそうな感じはする。
いずれにしても、源義経という人物は、兄・頼朝の怒りは買った
反面、一人の女性にそこまでしてもらえるくらいの人物でもあったと
考えることもできるのではないだろうか。

追記:【深読み「鎌倉殿の13人」】によると、
八田知家、小山朝政という武士も
頼朝に無断で官位をもらい、頼朝の怒りを買ったようだ。


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